2020年02月16日

奮闘記・第1095回 見聞録/群馬県

●2020年● 群馬県前橋市・高崎市・安中市・富岡市・甘楽郡下仁田町


新ルートで行く、群馬の神々様巡拝記

ZZZZZZZZZ 神々様が大歓迎の巻 ZZZZZZ寝るぞ!ZZZZ



立春を迎えたというのに寒すぎる日々が続いておりましたが、皆様お元気でしょうか? 

佐藤は、群馬県での研修会を終え、再び東京都の第三者評価の仕事で相変わらず右往左往しております。施設や事業所に出向き、働いている人々と話すことによって元気を頂いている次第であります(笑)。

毎度の口上ではありますが、佐藤は、あちこちの研修に出向くときには、その地域を巡り散策しつつ、それぞれの地域の神社を参拝し、その時々の様子をブログで伝えています。さて、以下は、その群馬県の神社や名所のホヤホヤの見聞録です。


今回も、群馬県でのお仕事の前日から群馬入りし、上野国(群馬県)の神々様に新年のご挨拶を試みた。今までのルートは、貫前神社(富岡市)→ 鷺宮咲前神社(安中市)→ 榛名山榛名神社(高崎市)→ 大洞赤城神社(前橋市)という具合に「至便性」を優先してまわっていた。

これは群馬県内をけっこう広範囲なためにこういうまわり方であった。しかしここのところ終盤で赤城神社が閉まってしまうことが多かったのだ。

そこで今回は、思い切って参拝順序を変更してみた。大洞赤城神社 → 榛名山榛名神社 → 鷺宮咲前神社 → 貫前神社 → 妙義山中之嶽神社・甲子大国神社という順番でまわってみたw。

佐藤は例のごとくまだお日様が出てもいない早朝から、研究所の公用車・カナメイシ君(藍色のデミオ)に飛び乗った。途中、研究所の重鎮・ひゃ〜参謀を拾い、群馬を目指した。

朝の凛とした空気の中、街道(関越自動車道)をゆく。後方から朝日が差しこみ、まぶしいったらありゃしない。やがて前方に群馬県の山並みが見えてくる。左には、雪をまとった浅間山が白く輝いていた・・・。「おれの浅間」とは、ひゃ〜参謀(笑)。

う〜ん、しかしである。赤城山もそうだが、榛名山にしても、山は白くない(雪がない)んだなーこれが(笑)。

やがて、ナビ様が「前橋インターから降りなさい!」と合図をくださりw、佐藤はそれに従って、前橋で高速から降りた。そこはそれ、例の国道17号である。国道は朝のラッシュ時間を迎えており、ここは激混み(笑)。

そうでした、そうでした。この時間は混むんでしたねぇぇぇと、ぼやきつつ、渋滞の中をゆるゆると進んでいく。やがて左手に「群馬県庁」が見えて来る。我々は、県庁に手を振りwww、その場を時の過ぎゆくままに過ぎてゆく。

少し行くと、ナビ様から左に曲がるようにとの指示が出る。その後は一気に斜面を掛け上り赤城山へ向かって行く。

さすがに、赤城山周辺は雪があったが、群馬はそこんとこが格段と素晴らしい対応で除雪が行き届いており、スリップしてコワイなぁということはなかった。もちろん、タイヤはスタッドレスタイヤではあるのだが。


【大洞赤城神社】
ここも通いなれた場所である。群馬県は、「本場」であるからにして、他にいろいろな赤城神社はあるゆえに名称も多彩である。この大沼、読みは「おの」(小沼のほうを「この」と読む。ハハハ)には、色とりどりのワカサギ釣りのテントが氷の上にあった。

ここの赤城神社には、大沼にかかる緋色の橋がある。その手前に駐車場があり、いつもは車をその場に置くのであるが、なんと今はその橋の補強工事をするとかで橋が封鎖されていた、まさに「このハシ渡るべからず」だ。

「いや、真ん中を渡れば・・・」という、ひゃ〜参謀を制し、我々はさらに先にある、本殿後方の駐車場に車を置いた。


●このハシ渡るべからず●.jpg

●このハシ渡るべからず●



駐車場に着いたのが、9時くらい。車は1台しか停まっていなかった。陽光と暖房でぬくぬくとなった車内から外へ出たとたん、「ひゃ〜!寒いじゃないか」と大騒ぎ。

風に雪の結晶が飛ばされ、ダイヤモンドダストが朝日にきらきらと輝いていた。我々は、転ばないように、滑らないようにとお互いに声かけを行い、注意喚起をしつつ、拝殿前に向かった。

そうそう、佐藤は、今回の群馬には前橋市のマスコット“ころとん”を連れて来ている。そこで、拝殿前にて、ころとんと記念写真を撮っていると、巫女さんが社務所のシャッターを開けた。どうやら、開店時間のようであるw。

まず、拝殿で再び来ることができたお礼を伝え、今年の無事をお願い後、再度、転ばないように滑らないように注意しつつ、巫女さんがいる社務所に到着。

社務所の入口には、おみくじBOXが置かれている。もちろん、参拝後にはおみくじがつきものである(笑)。さっそく、おみくじを引いたが、! ・・・まぁいいかぁw。

その後、社務所内のお守りグッズを見て廻り、佐藤は誤嚥ならぬご縁お守り(仕事にご縁がありますように)と、交通安全のステッカーをゲットしてみた。

再度出口(別名、入口ともいう。出入口が同じだからw!)にあったおみくじBOXにスルスルと100円を入れて、おみくじを引き直した。

すると、なんと、2人ともが“大吉”であった。

「あらたまの、年の初日のさしのぼる 大き御光を 仰ぎまつらむ」

(初日にも尊さが感じられ日夜心をこめて御祈りし、神様のお陰を戴いて、今旭日昇天の大幸運に向かっていますが、危険なことを避け、信念をもってお祈りしつつ生活しなさい。)

とありました。やった〜!今年も良いことがありそうwww。


★★大洞赤城神社こぼれ話★★★
佐藤は、ころとんを胸に抱きながら社務所を闊歩し、お守りをゲットした。ところが、おみくじを引いて出ようとしたときに、「おみくじの結果に気をとられ」ていたところ、ころとんがころころと床に落ちてしまった(まさにこぼれ話w)。

すると、それまで冷静だった巫女さんが「あっ〜!ころとんが、ころとんが・・・」と心配してカウンターの向こうから出て来てくれたのだ。

やぁ〜いいねぇ。お気遣いもそうだが、ころとんをご存じで(当たり前だ)。以前ここの拝殿前でTVの撮影中の動くころとん(等身大)と記念写真を撮ったことがあるしw。

さてさて、次は榛名山榛名神社をめざす。

榛名神社も、ご当地群馬県ではたくさんある。したがって、住所を群馬県くらいしか確認していないと、うっかり沼田榛名神社に行ってしまうことがある(実際行ったw)。沼田榛名神社の前から遠くに見える榛名山塊は、また格別であったなw。

その後、我々はナビ様に導かれるままに、渋川・伊香保を通り越す温泉街ルートで、榛名山をめざした。


【榛名山榛名神社】
伊香保の温泉街を駆け抜け、山道をうねうね登り、榛名湖が見えてくるあたりに、メロディーライン(メロディーロード)がある。

それは道路に溝を作り、その上を一定の速度で走ると走行音がメロデイを奏でるようにした道路のことをいう。国内に30箇所以上ある(外国にもいくつかあるようだ)もので、ここで流れてくる曲は“静かな湖畔”であった。

そのメロディーを聴くのも楽しみのひとつであるから、その場所が近づくと速度を50キロに定め、しずしずと音楽を奏でてみたい。やがて、ぐんまちゃんがついた看板がはじまりを伝えてくれる。

我々はキターzzzzzzzって感じで、その上を走行。タイヤが溝に沿って音を奏でる。

「しずか〜な〜こ〜は〜ん〜の〜も〜り……」と(笑)。

佐藤は音楽に遭わせて歌詞を口ずさむのだが、どうやら歌詞を間違えているらしく毎回ひゃ〜参謀から訂正が入る。これもお決まりのこと。

ハハハ。何か問題でも?ハハハ。

やがて榛名湖がすぐそこに見えて来る。先ほどの大沼よりも標高が低いようで、この日は全面氷結ではなかった。道路も凍結注意とあったが、除雪がされているようで、こちらも難なくクリアできた。

こうして我々は無事にいつもの榛名神社の入口にある、榛名歴史民俗資料館下にある駐車スペース(いつもこちらを利用)に車を停める。

ここから先が榛名神社の参道の始まりで、やや急斜面なのだ。もちろん、車を進めて先にある鳥居近所まで車で行き、そこらの駐車場に停めることも可能であるが、最近はここから歩いて登っている(年をとると融通が利かないのだ💛)。

参道の周囲にはおみやげ屋さんや、ちょっとした食堂やカフェなどが並んでおり、ところ所にPのマークもある(我々は職業がら、「ポータブルトイレ」のマークと呼ぶ)。

参道を登って行くと、ひゃ〜参謀が、のどが渇いたんでアイスクリームを食べたいという。そこで、鳥居のすぐそばにある、み●もとドライブインに入る。ここのソフトクリームの絵が気持ちを掻き立てたからだ。

店に入ると、年輩の男性が「いらっしゃいませぇ」と迎えてくれた。手前は土産コーナーとなっており、地域限定の漬物やこんにゃくなどが置かれている。

我々は「おはようございます!」とあいさつして奥へ進む。すると、これまた、年輩の女性が2人、ストーブに背を向けて我々を迎い入れてくれた。

「いらっしゃいませぇぇ」

佐藤は奥に向かって歩きながら、

「あの〜、ソフトクリームは食べられますか?」と尋ねた。

すると、2人の女性が同時に

「食べられません(笑)」という返事。

「・・・・・・・」


佐藤はひゃ〜参謀を見る。するともうすでに気分はしおしおののようで

「どう・・・いや、甘酒でもいい。のどが渇いたから」とのこと。

「では、甘酒はありますか?」と尋ねると

「はい、ありますよ。あったかいのと冷たいのが。どちらにしますか?」

再び、ひゃ〜参謀に聞く。

「どうする?」

「・・・・あったかいのにしますかね」とひゃ〜参謀。

「ではあったかいのを2つお願いします」と佐藤。

こうしてオーダーが通ったところで、やっと我々は席に着くことができた(笑)。やがて、白い陶器の器の中に、甘い香りを漂わせて白濁色の甘酒が運ばれて来た。

ひと口すすると、口の中に麹の香りと共に甘さが広がって行く。ううう、ホッとする。

コクコクコクコクと頂いていると、団体客が入って来た。先ほどの男性や女性の品物を勧める声が聞こえて来て、急に店内は賑やかになった。

我々は、甘酒を飲み終え、食堂を出て、お客さんの間をぬいながら会計を済ませ、いよいよ榛名神社の境内へ入る。


●榛名神社のハシは渡れますぞ(笑)●.jpg

●榛名神社のハシは渡れますぞ(笑)●



鳥居をくぐり、随神門を通り抜けると、もうご神気が漂っている。山肌には、石楠花の花がまだまだ寒いぜといわんばかりに葉を丸めて立っており、遠くでクマも手を振っている(ウソ)。

とは言え、中央にはまだ固いツボミがついていた。現在、榛名神社は数年越しで国指定需要文化財建物の改修工事で、境内の双龍門から、国祖社・額殿は、幕に覆われて中から工事中なのだ。幸い拝殿は見ることができた。

佐藤は、拝殿で再び来れたことについて御礼を伝え、さらに今年の目標を伝えてうまく行くように祈念した。その後、しばしその場にとどまり写真を撮る。

恒例のおみくじタイム! 我々は双龍門下にある社務所まで降りた。佐藤が引き当てたおみくじは第35番「考」と書かれていた。おや?


「望みを掲げ威勢よく馬を走らせるも目的地までの準備が疎かではたどりつかない。勢いも大事だが、計画的に物事を考える冷静さも持ち合わせよ。例え時間がかかっても良い結果に繋がる。」

運勢 大吉


ですって。おいおいおいおいw。さっそく、佐藤の考えが神様に通じているみたいだな💛 ひゃ〜参謀と顔を見合わせた。すると、

「大将、ここはほら、絵馬を奉納せんといけませんぜ」ということで絵馬を奉納した。

こうして、榛名神社の参拝はめでたく終了。


●榛名神社の七福神・大黒様に絵馬を祈念●.jpg

●榛名神社の七福神・大黒様に絵馬を祈念●



●拝殿と御姿岩はまさに絶景である●.jpg

●拝殿と御姿岩はまさに絶景である●



次は、咲前神社貫前神社だ。その前に腹ごしらえをせんとな。

途中、国道沿いにある、とんかつ 扇亭 (安中店)さんを発見し、中に入った。そしてヒレカツ丼とサラダを注文した。

あいにくサラダは1人分しかなく、「キャベツの千切りでよろしければありますが」ということで佐藤はキャベツの千切りを付けて頂いた(写真参照)。

ヒレカツは外側がカリカリ、中はしっとり甘辛のたれがかかったカツを卵が覆っている。新鮮な千切りキャベツは、しゃきしゃきで噛みごたえがあり、美味しかった。佐藤も丼を完食した。とても感じの良い対応のお店であった。ごちそうさま!


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●ファストフード王国・群馬の扇亭●



【鷺宮咲前神社】
次は、安中市にある鷺宮咲前神社と、富岡市にある貫前神社である。すでに、こちらの神社も佐藤の群馬での見聞録のブログには毎回登場している、お馴染みの神社である。

鷺宮咲前神社は、訪問時に神職さんがいたのだが、参拝している途中で車でお出かけになってしまい、しばしベンチでお茶を頂きながらお待ちしたのが、帰って来られず、お守りをゲットできなかった。

ここはまさに藤原氏と物部氏、大和政権が派遣を争った痕跡が多く残る場所であるが、そんなことを微塵も感じさせない、穏やかな時間が流れる憩いの神社となっている。

厳格で古式ゆかしい後宮の貫前神社とは対照的だ。フレキシブルで、庶民的であり、しかしちょっぴり古代の謎が見え隠れする神社でもある。

まぁ残念だが仕方ない。ここは多くの兼任社をお持ちなのだ。ちなみにおみくじは末吉であった。また、あの若い、気持ちの良い神職さんたちにお会いしたいな💛


図07●咲前神社は地域密着型の神社です●.jpg



【上野国一の宮・貫前神社】
気を取り直して、貫前神社へ移動する。ここはサクサクと本殿への下がり参道を降り、脇の門から中へ入った。ここは安定の平常運転である。おみくじを引くと2人とも大吉であった。

何年か前に修復した本殿は、色の具合も馴染んで逸品であった。

ここの様式は、 『論語』で、孔子先生(B.C.552〜B.C.479)の弟子の有子先生が語ったところの、


「有子曰、礼之用和為貴」(部分)の「礼の用は和を貴しと為す」和(わ)の精神(日本では聖徳太子が「十七条憲法」に引用)である。

和(わ)とは、意見が違うものの話でも聞いてみる、配慮してみるというような感じか。「和」を「やわらぎ」と読ませたい方々がいるが、「わ」のほうがスッキリする。もともと、漢文(和製中国語)からの引用であり、聖徳太子自体が漢文を使用しているんだから、「やわらぎ」は変だろう。

この時代、まだまだ和語は整備されていない。『古事記』(712年)の序をみてもまだまだ整備ができておらず、その気分がわかろうというもの。推古12(604)年の十七条憲法の文面に和語はおかしい。

それはさておき、貫前神社は、経津主神(物部&忌部系大和政権)・姫神(渡来系の赤城神)・雷神(地主神)が、その「和」をもって融合された稀有な形式の本殿を持っている。ぜひぜひ多くの方々に見て頂きたいな💛 また本殿の横に位置する抜鉾神社と、階段途中にある月読神社へのお参りもお勧めである。


●黒と金の対比がすばらしい貫前神社●.jpg

●黒と金の対比がすばらしい貫前神社●



次は、妙義山中にある中之嶽大国神社(前宮)・中之嶽神社(奥宮)に向かった。どちらも初めての神社である。

「上毛三山パノラマ街道」のひとつで、群馬県道196号上小坂四ツ家妙義線を使い、富岡市妙義町から下仁田町方面へ向かった。

群馬県の道路ではしばしばあるのだが、危険運転防止でカーブの所々が凸凹し、カーブがかなり多いのでけっこう危ない。困ったことにふつうの運転者にも危ないのだ。

さらに、けっこう高いところを走り、妙義山を通る道路であり、頂上に中之嶽神社、麓に妙義神社、大砲岩などの名所があるので、交通量が意外と多い。

この区間はかつては有料道路(妙義有料道路)であったが1986年4月1日で無料開放されたそうな。


【新スポット・中之嶽大国神社・中之嶽神社】
神社付近着くと、ほど近いところ(徒歩1分くらい)に大駐車場があり、そこから歩いていく。車がビュンビュン通る時間帯は、地下の通路を使わないと危ない。


●妙義山の峻険さは圧巻である(そりゃあ滑落しまくりだわね)●.jpg

●妙義山の峻険さは圧巻である(そりゃあ滑落しまくりだわね)●



鳥居をくぐると、まずは、中之嶽大国神社(なかのたけおおくにじんじゃ)がある。もう1つの中之嶽神社(なかのたけじんじゃ)との関わりはなかなかわかりにくい。

中之嶽神社のほうが年代は古いがたぶんに「伝説」の域は出ないし、そちらがメインならば、近くにある妙義神社の方が正当性が高くなり、わざわざここに作る意義は薄くなるのだ。

祭神はもちろん、大国様(大黒様と習合)である。大黒様の縁日が甲子(きのえね)の日ということで、甲子大国神社(きのえねおおくにじんじゃ)ともいい、数百年に渡り甲子祭を斎行しているという。

大国様の大きさは、20メートルで、マジンガーZやガンダムのモビルスーツ(それぞれ18メートル)よりも高いのだw。しかも打ち出の小槌ではなく、剣を持っている。

この大国様自体は、平成17年の作られたものだが、妙義山山麓の穴に、倭建尊(日本武尊)が関東御巡行の際「草薙剣」を隠しておいた伝説もあり、大黒様+お不動様の習合で剣を持っているなどの話や、大国様と剣との関わりを想像するだけでも楽しくなってくる💛

そして、ここからも荒船山もはっきり見えるほどの絶景。まさに金運の神様にもふさわしい(どこが?)。ちなみに火山で形成されたのは荒船山と妙義山は同時期である。

大国神社は、嵯峨天皇の御代(819年創建)、藤原冬嗣(北家)卿と空海大師により開かれている。

藤原冬嗣は、文武の才を兼ね備え、温和でゆったりとした性格で、藤原氏にしては民衆からも支持された稀有な藤原氏の長(おさ)といえる。このブログでも良く出てくる「延喜(格)式」のベースとなる「弘仁格式」等の編纂したり、『後撰和歌集』にも和歌作品が採録されるなどの多才な方であった。

妙義山は、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせた総称であり、南側が表妙義、北側が裏妙義とされる。中之嶽とは、金洞山(1,094m)の別名なのである。

中之嶽神社は、現在、倭建尊(ヤマトタケルノミコト)ゆかりの聖地ではあるが、欽明天皇(539-571年)の御代に建立されたものである。

しかし、元は、山の神で地主神の波胡曽神(はこそのかみ)を祭られていた。

伝説では、山賊wに制圧されていた妙義山を倭建尊が退治してうんぬんとあるが、ヤマト政権に逆らうものを「山賊扱い」し、彼らを制圧後も波胡曽神ではなく、倭建尊を祭っているのをみれば想像はつくだろう。

また、渡来神(大黒様・お不動様)や出雲系の大国主神を「波胡曽神の抑え」に祭り、それらを藤原冬嗣卿と空海大師が創建したというのも生々しい。藤原冬嗣はもちろん、空海さんも藤原氏の下っ端の一族(佐伯氏)の出なのだから。

まぁそういう「いわく」、いや「ゆかり」があるほうが興味深い。群馬県(毛国・上毛国・上野国)というのは、まさにヤマト政権と東国勢力、出雲勢力が近接する地帯なのだ。

そういいながら、中之嶽(甲子)大国神社で運気向上を祈願し、おみくじを引くと2人とも大吉である! 

奥宮の中之嶽神社はすんげぇ階段を登るので、ひゃ〜参謀は訳あって、体育をさぼる中学生よろしく、下から見学した(笑)。見ていると、男性はたいがい登らない。女性はなんども戻りながら登って行くのだ。ほんとうに危ないよ、ここ。

最後に、ここから碓氷峠に向かい、いつか見よう、見ようで先延ばしになっていためがね橋を見るのだ。そこらへんは森村誠一氏の『人間の証明』に出て来る「霧積」の近くである。


【めがね橋】
「めがね橋」とは、安中市松井田町坂本にある鉄道橋で、碓氷第三橋梁(うすいだいさんきょうりょう)を指している。

橋からほど近い(2〜3分)のめがね橋駐車場にカナメイシ君を置き、遊歩道をつたって、めがね橋を18号線から眺めた。切り返し切り返しで山道をアプト式で列車が登った、かつての歴史を垣間見る思いだ。

碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、国鉄時代の信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の橋梁の一つでアプト式鉄道時代のもの。設計者は、1882年(明治15年)イギリスから日本に招聘された英国人技師のパウナル 氏と古川晴一氏である。

横川駅からこの橋までの旧線跡が遊歩道「アプトの道」として整備され、ユネスコの世界遺産への登録を目指し、2007年(平成19年)に暫定リスト入りをしたが、大ばか者による落書きがレンガの橋脚に彫り込まれる犯罪(いたずらというレベルではない)が多発しているらしい。

文化のない国の外国の嫉妬か、スマホ世代のていたらくかはわからないが、日本にはいてほしくない人罪(人材ではない)である。


●めがね橋を下からみる。あ、ここもハシを渡れますよ●.jpg

●めがね橋を下からみる。あ、ここもハシを渡れますよ●



古来より、群馬の地は、海外の文明を積極的に導入しながらも、自国の文化を失わせずに「融合」に努めて来た。文明は文化を駆逐すると昔から言われている。

しかしながら文化無きもの(国)は、長続きはしないのだ。だから「そういう国」は、長続きさせるために似たような隣国の文化を真似たり盗んだりする。まぁアメリカがイギリスと、なかなか離れないのもそうかもしれない。

アメリカの政治家やビジネスマンの必読書は、いまも昔も、ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の作品群なのだ。

まぁ真似るのは文化の事初めだからしかたがない。しかし、盗んで自国の文化と主張するのはいただけないね。

わが国の明治期の文明(科学)は、確かの現在の技術よりも劣っているだろう。しかし、国民生活は「文化」が根差した豊かなものであっただろう。

ではいまはどうだ? スマホを観ながら駅のホームを歩き、落ちて轢かれて亡くなるかたが、東京だけでも何百人も亡くなっている。ほんとうにそんなことで命を落としても悔いはなかったのかなぁ?

直近の新型コロナウイルスの騒ぎでの政府や野党のよりとりをみると、政府も拙劣だが野党もほんとうに意味のない質問ばかりである。

しみじみと文化の欠如した文明は、未来がないなと感じてしまうのだ。失敗も成功も、先人の歴史から学ばないといけないだろう。


●「どうやって注意するのか」をポンタと思案する●.jpg

●「どうやって注意するのか」をポンタと思案する●



群馬に多く残っている文化の香りを堪能して、我々は本日宿泊するホテルへと向かった。

その後、高崎駅前の高崎OPA(オーパ)のミートハンターさんで夕飯を頂き、翌日からの研修会に備えて眠りについた(研修会も無事終了)。

ここ数年の高崎駅前は、文明も文化も共存し、どんどん進化もしていますよ。皆さまもぜひぜひお出かけください。

さて、皆様もまだまだ寒きゆえ自愛ください。ではまた!



●高崎OPAで賑わう駅前●.jpg

●高崎OPAで賑わう駅前●



●高崎OPAの1Fはなぜかイオンスタイルという複合施設●.jpg

●高崎OPAの1Fはなぜかイオンスタイルという複合施設●


(To Be Continued!)
posted by さとうはあまい at 18:16| 東京 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月13日

奮闘記・第1092回 見聞録/茨城県

●2019年● 茨城県常陸太田市&日立市


常陸国の超絶パワースポット💛

交通安全のお札を交換に行くぜ、御岩神社!


前回、我々は下総国香取神宮で無事に今年の穢れをたっぷり祓って頂いた。そして次なる目的は、常陸国(茨城県日立市)で幸運を頂くべく、御岩神社を目指すのだった。

研究所の愛車・カナメイシ君のナビ様に「おいわじんじゃ」と入れ、ルートを検索。佐藤は一般道を選択すると、なんとその移動距離140キロであったw。

先ほど亀甲堂さんで、釜めし定食を頂いたのでエネルギーは満タンだ(車には関係ない💛)。

佐藤はルンルン気分でアクセルを踏み込んだ。


「・・・大将、くれぐれも安全運転でお願いしますよ」


とは、ひゃ〜参謀の言。

はいはい、遵法速度(佐藤基準だが)で行くからご安心をw、と軽やかに香取神宮の駐車場を後にした。

なんせ、御岩神社の交通安全守をカナメイシ君の内にぶら下げてからはまったくヒヤリハットすらないのだ。でもでも油断は禁物、「制服を着た〇ルメットの2人組」にはゆめゆめ注意しなければならないのだw。


●さて、常陸国へと参りますか●.jpg

●さて、常陸国へと参りますか●



その後、文字通り国道を走りに走り走りに走り続けた。車内には、ひゃ〜参謀が持参したCDが懐かしの曲を奏でている。佐藤はそのリズムに合わせ、知っている曲は歌詞を口ずさみ、知らない曲は勝手に作詞して、ノリノリで移動した。

近所の山奥で〜、修行をしてぇぇぇ


なになに、歌詞が間違っているからおちおち寝るに寝れないってとは、ひゃ〜参謀
まぁまぁ、そう言わずに静かに寝ておれ(笑)。

こちら、茨城県内の国道である。周囲には田園風景が広がり、畑には大根の葉や、にんじんの葉が風に揺れている。

また、周囲の小山の木々は最後の力を振り絞り、紅葉した葉をしっかりつなぎ留め、我々の目を楽しませてくれた。

茨城の一般道はフリーウェイに近いせいか、信号機が少ないのと、周りの車が速やかに移動してくださることが重なり、思ったよりスピーディに移動できた。

一般道を移動していて頼りになるのが道の駅である。ちなみにひゃ〜参謀は道の駅のマグネットを集めており、事前にあちこち調べているのだ。

道中「道の駅・ひたちおおた」の文字を発見した。「あそこで一休みしませんか?」と聞くと、「よっても良いけどマグネットはないですぞ」とのこと。

まぁ、そうはいってもここら辺で休まないと、この先トイレ休憩ができないかも〜、ということで一休み。


【道の駅・ひたちおおた】
この道の駅は、2016年7月に茨城県内13番目に誕生したそうな。なんと水戸黄門さんの故郷だとか。

また、国土交通省より重点道の駅にも選定されており、地域の情報発信・交流拠点となっているらしい。


●道の駅・ひたちおおたで御岩神社のどら焼きを発見!●.jpg

●道の駅・ひたちおおたで御岩神社のどら焼きを発見!●



確かに、店内には、新鮮な野菜や加工品が並んでおり、この地域で取れた野菜が勢ぞろい。このまま帰宅できるのであればそれら新鮮野菜を購入したいところではあるが、我々がここで購入したのはおやつである。

ひゃ〜参謀は、魅惑的な餡が入った揚げパンを、佐藤はお豆がぎっしり詰まった豆大福をゲットした。すると、その店になんと御岩神社の神饌・どら焼きが売られていたのだ。

なんですと? 御岩神社ですと、それはぜひ手に入れねばなりますまいということで、


「御岩神社のどら焼きも2つ追加で!」


とこちらもめでたくゲットである。


●これが御岩神社の「神饌」のどら焼きだ●.jpg

●これが御岩神社の「神饌」のどら焼きだ●



こうして、お互いに食物プラスどら焼きを手に、再び車に乗り込んだ。やがて車は、市街地より山間部へ入っていく。

緩やかなカーブを曲がると、ナビ様が目的地は右に曲がり、後方に戻ります。お疲れ様でしたと案内を終了した。

そうそう、ここよ、ここよと佐藤は周囲を確認し、ハンドルを大きく右回転して、参道へ入り、めでたく車を駐車場へ入れた。気づけば、最初の到着予定より40分くらい短縮できた。


【御岩(おいわ)神社】
駐車場から、参道にもどるとそこに社務所がある。すでに陽は傾いており、参拝後にお札を購入できるか不安を覚えた。

佐藤は、「先にお札を交換しましょう」と提案し、ひゃ〜参謀を誘って社務所に向かい、社務所では目的の交通安全のお札をゲットした。


●御岩神社の本殿へ向かう●.jpg

●御岩神社の本殿へ向かう●


●こちらの神社にも立派な大杉が!●.jpg

●こちらの神社にも立派な大杉が!●


●だいぶまわりも暗くなってきた●.jpg

●だいぶまわりも暗くなってきた●



その後、鳥居をくぐり、左側にある祓戸社を参拝した。1年頑張って護ってくださったお札は、参道の途中にある納め場所に御礼を告げて納めた。

ここは何度も来ているが、知る人ぞ知る「日本一のパワースポット」(2019年12月現在)と評される神社である。まぁ寺社の好き嫌いは個人差があってもいいだろうが、戸隠神社(奥社)、榛名神社と並んで魅惑的な神社なのは確かであろう。


御岩神社のホームページに寄れば、創建の時期は不明だが、縄文晩期の祭祀遺跡の発掘や、日本最古の書の1つ『常陸國風土記』(721年)に


「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」


と記されていることから、古代より信仰の聖地であったことが窺える。

御祭神は、国常立神・大国主神・伊邪那岐神・伊邪那美神。その他、大山祗神ほか20柱が御岩山総祭神188柱として祀られていた。みんななじみの神様ばかりだ。

中世には山岳信仰とともに神仏混淆の霊場となり、江戸時代に至っては水戸藩初代・徳川頼房公により出羽三山を勧請し、水戸藩の国峰と位置づけ、徳川光圀公(水戸黄門様)など藩主代々参拝を常例とする祈願所であったという。

まだ行ったことはないが、近くには水戸藩2代藩主・徳川光圀公の隠居所の西山荘もある。


●見えて来た本殿●.jpg

●見えて来た本殿●



ふむふむ。黄門様はともかく、佐藤が移動するところに国之常立神(国常立尊)の神様有りであるな。これはこの神様に呼ばれているとしか思えないw(ご都合主義💛)。

いやいや、高級神がいる神社は、呼ばれていない人はなかなか足を運べないという話もあるのだ。


さて、境内には小川が流れ、杉の木々が天に向かい枝を伸ばし、大地は緑色に苔むしておりその上に赤色のもみじが落ち日本庭園の風情を醸し出している。我々は玉砂利を踏みしめ、本殿を目指した。

御岩神社では、現在令和の大改修として、大日堂御造営と大日如来坐像の修復工事をしていた。我々は、途中工事の方々が、奏でる様々な音の中を案内板に沿って移動しながら、本殿に無事に着いた。

森に抱かれながら本殿まで行くと空気が凛と澄みわたり、周囲はおごそかな雰囲気に包まれる。我々は背筋を伸ばし、拝殿にて手を合わせた。

「おかげさまで、今年1年、大きな災いもなく無事に過ごすことができました。来年も無事に過ごせますように・・・・」


と深々と頭をたれ、祈念した。その後、途中で阿弥陀如来像を参拝。こちらでは無病息災をお願いした。なんせ、加齢に伴う体の痛みは少なからずあるのだ(泣)。


●たどり着いた本殿●.jpg

●たどり着いた本殿●




こうして、念願の御岩神社の参拝を無事に終え、佐藤は車に戻りさっそく新たな御札を駐車場で着けたのはいうまでもない。

さてさて、今回はここまで・・・・であるが、帰りにちょいと足を延ばして、竜神大吊橋も眺めて、渡ってみたw。いや〜、落ちたら死にますよこれ。


●竜神大吊橋の「龍神様」●.jpg

●竜神大吊橋の「龍神様」●


●いやいや凄い。死にますよ、落ちたらこれw●.jpg

●いやいや凄い。死にますよ、落ちたらこれw●


●バンジージャンプができるって・・・するかい!●.jpg

●バンジージャンプができるって・・・するかい!●


●竜神大吊橋は渡り切ったら戻ってくるのだ。ハハハ。橋じゃないんだ!●.jpg

●竜神大吊橋は渡り切ったら戻ってくるのだ。ハハハ。橋じゃないんだ!●



さてさて、皆様。気づけば、今年も残すところ後わずか。1日1日をお元気でお過ごしくださいませ!

(To Be Continued?)
posted by さとうはあまい at 14:55| 東京 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奮闘記・第1091回 見聞録/千葉県

●2019年● 千葉県成田市&香取市

久しぶりの聖地来訪

東関東自動車道で下総へゆくのだ!



さてさて、気づけば今年も残り少なくなりましたが皆様いかがお過ごしでしょうか?
佐藤は、相変わらず日々の出来事に負われる日々を過ごしております。

さて、そんな中で今回は千葉県に出向くこともあり、このチャンスを見過ごすわけにはいかないので、久しぶりにブログを更新することにした(笑)。

この日は、例によって研究所・ひゃ〜参謀を車に押し込んで、いざ東関自動車道にて目指すは、千葉県の神社である。

最初に向かったのは台方麻賀多(まかた)神社である。

研究所の迷車・カナメイシ君に「まがたじんじゃ」と入れると、佐倉と台方が出てきた。もちろん佐藤が選択したのは台方のほうである。


本日の天気予報は晴れであるが、高速道路から眺める景色は、雲が垂れ込め、どんよりとし、今にも雨が降りそうな気配であった。

「あれ〜! 晴れるんじゃなかったの?」

とつぶやくと、

「大丈夫晴れますよ」

とは、ひゃ〜参謀。このかた、無類の晴れ男なのだ。

そして、車が東関自動車道に入るころには、まさしく「太陽さん、聞き耳立ててたでしょう?」と突っ込みたくなるくらいに、なんと、雲間から真ん丸な太陽が「お待たせしました!」と言わんばかりに顔を出した。

そうなると、冬の陽射しは真上でではなく前から襲ってくる。もう、まぶしくてまぶしくて仕方がない。佐藤はおもむろにサングラスをかけた(893?)。

東関東自動車道は、成田を越えると3車線が2車線になる。佐藤はナビ様に導かれるままに富里で降りる。ゆるゆると市内を走り、やがて車は田園風景が続く道を走って行った。

そして、着いたのは、なんと船形麻賀多神社(のちに判明)であった。実は、台方の麻賀多神社は初めてではないのだが・・・。


=

●船形麻賀多神社(奥宮)●



ちょっと記憶にはない風景であった(ひゃ〜参謀は、ここは目的の神社と違うのでは?と言っていた)。

でも、ナビ様はここだといったから!といいつつ、駐車場を探した。近くには幼稚園があって、その駐車場有るが、神社の駐車場がわからん。

そこで、鳥居前の空き地へ置くことに。その後、幼稚園の第1駐車場が神社のものだと判明した。まぁ神社やお寺はやはり幼稚園を・・・ハハハ。

鳥居をくぐり中に入ると、右側に何やら小山のようなものがあった。それは伝 伊都許利命(イツコリノミコト)の墳墓であったのだ。

その時は、挨拶はあとでとスルーして奥へ向かった。

すると・・・・、なんと緋色の鳥居が傾いているではないか! 良く見れば、ロープが、鳥居に播かれ、それを近くの木に結びそれ以上倒れないように補強してあった。

もしかして、これは今年千葉を襲ったいくつかの台風の被害かもしれないなぁ。我々は、その鳥居をくぐり、拝殿にて参拝を無事に済ませましたが残念ながらおみくじはなかった。

その後、奥にあるはずの大杉を探した。実は台方の麻賀多神社にはパワースポットとされる大杉があり、周囲を一周できるようになっていたはずであったのだが。

すると、なんと、ここにも大杉はあるにはあったが・・・しかし、そこは枝木が放置されており整備されていない状態であった。

この時点で佐藤は、まだ場所を間違えているという気はない(笑)。

これまた、台風のせいでこうなったんだと思い、そのまま杉の木を1周した。それにしては境内がボロボロになった感があったのだ。もちろん、目的の台方麻賀多神社と比べてではあるが。

「あんなに整備されていた境内がこんなにボロボロになってしまうのか・・・(あくまでも台方と比べてである。ハイ)」

まさに台風の脅威に対し、驚愕した。しかし、だんだん目指していた麻賀多神社ではないかもという思いも強くなってきた(遅い)。

なにしろ、この近辺だけ、麻賀多神社は、印旛郡市の台方、成田市1社、佐倉市11社、酒々井町2社、富里市2社、八千代市1社と、印旛沼の東側から南にかけてにだけ存在する神社であるが18社くらいあるのだ。

もしかしたら、麻賀多神社でも、違う麻賀多神社かも知れないということになった(早く気づけよ)。

そしてさきほどの小山の側にあった案内板をみると、そこが伊都許利命の墳墓(つまり船形奥宮)であることが判明した(笑)。

●奥宮の伊都許利命の墳墓●.jpg

●奥宮の伊都許利命の墳墓●



案内板によれば、この墳墓は「先代旧事本記」の中の「国造本記」に見える“伝 印波国造伊都許利命の墳墓”となっている。

伝と付くのは、応神天皇(当時は大王)が実在するとしても、4世紀後半の大王であるが、この墳墓(公津原39号墳)は、7世紀になってからの築造と考えられ、伊都許利命の墳墓としては年代が合わないからだ。ゆえに「伝」と称されている。

まぁ厳密に在位年代を出すのは不可能であろう。それにそこを深く考える必要はあまり感じないし。「考古学」とはまた別のものなのだ。でなければ、他の宗教も、例えば聖書なども語ることが難しくなるだろう。恐竜の存在はイエス様より前なんだからさ・・・。

伊都許利命とは、神武天皇の皇子・神八井命(多氏の祖)の8代目の御孫で、応神天皇の命を受けて、印旛国造としてこの地方を平定され、産業の指導などに多くの功績を残したとあった。「麻」とは「房」(ふさ)であり、麻(あさ)や大麻(たいま)である。房総半島は麻の一大名産地であったのだ。

なるほど! ということで、我々は、墳墓の中に祭られている場所で手を合わせた。まぁ、もともと伊都許利命の墳墓にも挨拶する予定ではあったのだが、まさか別の神社の境内にあるとは思わなんだ。

「伊都許利命が“先に寄っていけ”って言われたんだよ。“起きたことに偶然なし”だからね」

とは、ひゃ〜参謀

●麻賀多神社船形奥宮の境内●.jpg

●麻賀多神社船形奥宮の境内●



車に戻り、再度台方の麻賀多神社を再検索。有りましたよ、有りました(当たり前である)。ここから1キロちょっとのところに目指す台方麻賀多神社があった。さてさて、不思議な気分をのまま、本来最初に目指し、麻賀多神社に着いた。こちらは神社脇にも駐車場がある。


先ほど通った道を反対から眺めると、なんと、その山自体がまさしく墳墓の形をしているではありませんか。やはり、神様がこちらにもいるか
ご祭神は船形奥宮が稚日女尊(ワカヒルメノミコト)で、天岩戸伝説の発端となる事件の被害神(?)である。

こちらの神社が本宮が稚産霊尊(ワカムスビノミコト)で、伊勢の外宮の祭神・豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)の母神であり、鹿島神宮・香取神宮の姉神でもある。ここが両神宮を結んでいるとも言われている。

●こちらが台方麻賀多神社●.jpg

●こちらが台方麻賀多神社●



さっそく鳥居をくぐり中に入る。そして手水舎で清め。拝殿へ。こちらは落ち葉が掃き清められてすでに朝の掃除が済んでいた。

拝殿では、今年1年が無事に過ごせたことのお礼をお伝えし、来年も元気で過ごせるようにお願いした。その後、後方にある大杉へ。

●台方麻賀多神社の本殿●.jpg

●台方麻賀多神社の本殿●


●台方麻賀多神社の東日本一の大杉●.jpg

●台方麻賀多神社の東日本一の大杉●



こちらの大杉は、周囲をまわれるように足場もしっかりしていた。佐藤は無病息災を願い、大杉さんからパワーを頂いた。

もちろん、「日月神示」(ひつきしんじ)が降ろされた場所として知られる天日津久神社も参拝。ここはご神名は不明とされるが、われわれになじみの深い、マニアの中では国常立尊(クニトコタチノミコト)と呼ばれる高級神霊とされている。

その後は恒例のおみくじタイム。うっ! 結果は末吉。まだまだ時期尚早らしい、ハイ。ちなみにひゃ〜参謀大吉であった。どうやら良きことがあるようですな、ハハハ。

●境内社の天日津久神社、何か降りてくるかも●.jpg

●境内社の天日津久神社、何か降りてくるかも●



ささ、次を目指そう。次は香取神宮にて、1年の厄を払う大祓いの茅の輪をくぐらんとな! 

どーんと香取神宮に着いた。ここは本来「鏡」、鹿島神宮が「剣」、麻賀多神社が「勾玉」。そう、東国の「三種の神器」を象徴になっているものとも言われている。

主祭神の経津主大神(フツヌシオオカミ)は、真経津鏡(まふつのかがみ)に由来する。八咫鏡(やたのかがみ)の別名とも言われ、上代の長さ・大きさの尺度の1つで、親指と中指とを広げた長さの八倍の長さ、非常に大きいことを表している言葉だ。

また、韴靈(ふつのみたま)の剣とひっかけ、フツは剣を振ると出る音のことで、何かを切る音とも。「フツ」は刀剣の神の名前というが、そもそもそれがおかしい。

熱田神宮にしろ、石上神宮にしろ、誰かの持ち物を神格化するのがおかしいのだ。ふつう、その場合は持ち主の名前で祭るだろう。だから神様の名前で祭らないのはその名前を「書きたくない」のだ。

太古の経津主大神の神格を下げたい勢力の仕業であろうな。古代、房(ふさ)の国では、畿内とは関係なく、関東では香取神宮の神様が中心であったが、畿内勢力に随分とぼやかされてしまった感がある。

さて、天気は神社にいる時は晴れ、外にいる時は曇りという、変わった天気のままである。駐車場に車を置き、境内から坂道を登り、奥宮からまわった。

奥宮の入り口にも手水舎なるものができて居たが、どうも使いにくい(流水じゃないとね・・・)。

さらに鳥居の前に奥宮対策の御朱印所もできかけていた。とうとう御朱印ブームもここまできたかという感がある。

香取神宮奥宮をまわり、押手社要石にも挨拶。その他の摂末社に挨拶して、本殿にゆく、楼門をくぐると大祓の茅の輪くぐりがたけなわであった。

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●香取神宮境内社もまわる●



●香取神宮の要石、こちらは凸型である●.jpg

●香取神宮の要石、こちらは凸型である●



●香取神宮に設置された茅の輪くぐり●.jpg

●香取神宮に設置された茅の輪くぐり●



まず社務所で初穂料500円を納め、形代(かたしろ)茅の輪守りを分けて頂く。その形代に名前と住所を書き、息を吹きかけるのだ。それを奉納してから、左にまわって、右にまわり、また左にまわって・・・・と恒例の人気イベントである。


ひとしきりガンガン陽の照る久しぶりの香取神宮を満喫した。さぁおみくじは・・・まぁ・・・何でしたね(笑)。お昼には門前の亀甲堂で釜めしセットを頂いた。ここも錆びれがちの門前通りであるが、ここは元気に頑張って居るお店1つである。店内ではおなじみの店のマスコット・九官鳥のキューちゃんも元気であった。

店員さんたちは、なんとその「キューちゃんTシャツ」を着て、動き廻って居たのだ。いや〜メニューに増えた釜めしも絶品であった。味噌汁もいい。

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●香取神宮門前の亀甲堂さん●



このお店もだんだんとバージョンアップしている。負けずに佐藤もバージョンアップしていかないとなぁw。

さてさて、さらに常陸国の奥座敷の位置にある某神社も目的としている。次回は・・・かもしれませんw。またお会いしましょう。ではまた!



●お店のマスコット・キューちゃん●.jpg

●お店のマスコット・キューちゃん●



(To Be Continued?)
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2019年08月16日

奮闘記・第1089回 見聞録/長野県

●2019年● 長野県長野市

戸隠神社の奥社を再参拝!

〜到着時には、後頭部が「那智の滝」状態であった〜

【If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(「Playback」Philip Marlowe)】



【プロローグ】
佐藤は、例のごとく、早朝に愛車・カナメイシ君(マツダのデミオ💛)をするすると駐車場から発進した。途中、ひゃ〜参謀を跳ね、車に押し込み(足を2回ほど、引いたことあり💛)、首都高速に滑り込んだ。

めざすは、長野県の戸隠神社?であるが、最終目的地は言わずもがな新潟市内である(笑)。新潟県の道中は、途中にある神社(群馬県や長野県)をできるだけ参拝しながら向かうことにしているわけ、ふふふ。

今回は、当初から戸隠神社三社(宝光社・中社・奥社ほか)の参拝を決めていた。

奥社に続く参道は、駐車場から約2キロほど続いている。緩やかな坂道の長い参道を歩き、途中から、まぁ緩やかには違いないが、完全な山道を登らないと辿り着けない所に鎮座しているのだ。

奥社にはかつて一度行ったことがある。

当時の戸隠神社の道案内の地図は、いかにも「(奥社なんて)ホイホイ行けちゃいますよ!」的なデフォルメされたイラストマップであった。

しかし、某スピリチュアルなんたらの先生もここを歩いたが、グロッキー。彼の書籍では(自分が行きにくい奥社よりも)中社(車で行けるからね💛)をより凄い聖地に認定したくらいだ(まぁそれはそれで間違いではないのだが・・・)。

当然、我々も当時、その道中は思いの外遠く感じたものだ。

その帰り道に、おそらくは地図に騙された(笑)であろう、スーツで登るヤケクソ気味のサラリーマンとすれ違った。そう、奥社は思いつきで行けるような場所にはなかったのだ。

そのため、以後、中社参拝どまりとなっていた(こちらの方が凄いって話だったし)。また、奥社への参道は、クマさんの出没(生息)地でもあり、食べ物の少ない時期に行ったら、クマさんとご対面となっても困る。ここは長野県のゆるキャラ「アルクマ」君(リアル・アルクマ)のホンモノに逢える可能性が高い場所なのだ。

といってもですな、今回は山に食べ物が豊富にある時期でもあるし、しかも生きた食・・・いや参拝客も多い時期。もし、クマさんに遭遇してもまぁ・・・他に美味そうなのはたくさんいるし、何とかなるであろうと考えた(笑)。

ということで、奥社再参拝を決めたのだ(それに体力が衰え、もう登れんかも知れんこともある)。


佐藤は、関越道を通り、高崎から上信越道へ入る。するとここらあたりから、カナメイシ君に異変が!!!!!

なんと、見慣れないマークの警告灯が点灯した。何が起きたかわからない(ただでさえ、機械音痴)。佐藤は、助手席の参謀にダッシュボードから取扱説明書を取り出してマークの正体を調べてもらった。

すると、ひゃ〜参謀「大将!それ、《エンジンマーク》でっせ!!何かエンジンに異変があるらしいですよ」とのこと。簡単に言うないw!

とは言え、心当たりがあった。

さる6月後半から、カナメイシ君には「要点検」?のマークらしきものが着くのだ。こわ〜っ。

なかなか時間が取れず放置していたが、ディ−ラーからの車検便りが届いたため、少し早めに車検予約を入れ、相談すると月に入ってからで良いのでは?ということでそのままの状況であった。

そちらのマークだけならば、オイル交換ぐらいだなとのんきに構えていたが、エンジンの警告灯となると尋常ではない。そこで、近くのパーキングを探すと某・横川サービスエリアにENEOSウイングがあった。そこで、警告灯を意識しつつ、ゆるゆると進み(ひゃ〜参謀からスピードは控えましょうとの警告)、めざすスタンドに車を入れた。

早速、係の方が近づいて来られたので、相談して見た。すると横の空きスペースに移動。状況を説明すると、早速カナメイシ君のボンネットを開けると、そのとたん、エンジンルームから白い煙がモア〜っと立ち上った。万事窮すか!

我々は思わず「わあ〜」「うひゃ〜」と叫んでしまった。

佐藤は慌てて車外へ出て状況を話を聞いた。


オイルが真っ黒で速やかに交換が必要とのこと。ただし、この車は軽油車だから、このSAで対応オイルがあるかどうかわからないらしい。そして倉庫にはいり、なにやらガイドブックを取り出して調べてくれたのだ。何という親切であろう?

「軽油車だから難しい」といって、放り出されても仕方が無い状況であったのだが(さすがにそれはやらないだろうが)。調べると、すぐ交換できること、料金はこのぐらいと提示してくださった。料金も通常と変わりはなし。もちろんお願いした。

通常、街中のお店でオイル交換をお願いすると、1時間くらいは時間を要する(まぁ混んでるし)。そこで我々が乗車したままで構わないかと尋ねると、すぐに済むからお待ち下さいとのこと。

この時は、今のような猛暑では無かったが、車の中にとどまり、オイル交換の様子を見守っていた。

係の方が大型の吸引器をカナメイシ君の腹部に差し込むと、そのチューブの中に真っ黒の液体が吸い込まれていく、同時に吸引器の中には、どろどろの黒い液体で満たされてしまった。なるほどねぇ・・・・、オイル交換はこのようになされるのか。佐藤はオイル交換を初めて見たのですごいぜ(そこまでほっとくほうがすごい)と感激していた(笑)。

十分に吸い取ると、今度はオイル色に輝く美しい液体をするするするするとカナメイシ君の腹部に注入し、エンジン部分にカバーを掛け、エンジンをかけてファンをまわして空ぶかしをし、作業は終了。丁寧にお礼を伝えたのは言うまでも無い。

カーメンテナンスのお客様控えには、作業担当者Tさん、ダブルチェック担当者Hさんとお2人のサインがあった(責任の所在がはっきりしている)。

Hさんは、「車は丁寧に見てあげれば長く乗れますからね💛」と笑顔で話してくれた。

お2人はたまたま担当日だったのかも知れないが、お2人からはベテランらしい車愛💛を感じることができた。とにかく自分の仕事に誇りを持っている方は輝いているのだ。素晴らしい! 本当に感謝である。さすがは群馬?である。


我々は、再び高速に乗り、戸隠を目指した。オイル交換をしたカナメイシ君はご機嫌でアメリカ並みの遵法速度でぐんぐんと我々を長野市内に誘ってくれた。もはや戸隠神社までの道のりは通いなれた道と行って良い。

途中七曲がりという急な坂も、対向車に注意しながらくねくねと登っていく。今回は、奥社参拝が目的である。奥社に行く前には、宝光社から参拝するしきたりがあるらしい。そこでまずは宝光社の駐車場に車を停めた。


ここで、戸隠神社のホームページを参考にご案内したい。

戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社である。

その起こりは、遠い神世の昔の出来事である。天照大神素戔嗚尊の横暴ぶりに手を焼き、「天の岩戸」に隠れてしまった。そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、天照大神を岩戸より出てきていただくための対応を相談した。そして、思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。

そして、天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。天宇受賣命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命布刀玉命天照大神に鏡を差し出した。

鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。

そして、天手力男神はその岩戸を隠した場所が、この戸隠なのである。もちろん、戸隠神社の祭神は、この「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々が祭られているのだ。


とはいえ、戸隠は平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えていたのだ。

江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めたのである。

戸隠は明治になって神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至っている。奥宮の参道随神門から約500メートル続く樹齢400年を数えるクマスギの並木、ここの木の勢いは現在も衰えることなく参道の神性を保っている。 立冬と立春には太陽が参道に沿って真っ直ぐに昇っていくという。この参道杉並木を含む戸隠神社奥社社叢は長野県の史跡・天然記念物に指定されているのである。

いろいろとうるさい、ひゃ〜参謀も、

「まぁ言いたいことはいろいろあるけど、とりあえずそれ(由緒)はそれでいいですよ、別に」ですと(笑)。


【戸隠神社宝光社】
まずここ宝光社(ほうこうしゃ)。ご祭神は、天表春命(アメノウワハルノミコト)。武蔵国一の宮の1社、小野神社のご祭神だ。

ちなみに当時、武蔵国は国府(東京都府中市)に近い順に、一の宮、二の宮、三の宮・・・としていたと思われ、国府により近い小野神社が一の宮となり、距離がある大宮の氷川神社は三の宮であった。しかし、神社の規模も大きい氷川神社の方が力を持っていた。

さて、現在地への鎮座は康平元年(1058年)、天暦3年(949年)に奥社の相殿として創建されたもの。

祭神である天表春命は、中社の祭神である天八意思兼命(思兼命)の子どもである。ここは、参拝登山する前に山の神々様に失礼なきよう、「魔物祓い」を行い、ここまで着いて来た「モノ」を落としてから入ることになっている。


●宝光社の270段余りの階段を登る●.jpg

●宝光社の270段余りの階段を登る●



もともと修験の山には、必ずしも毎月、神様がいるわけではないらしく、いない時に登り、「変なもの」を拾って帰ってこないように、ある種のバリア(のようなもの)を張れってくれるという俗信がある。ご神徳には、学問や技芸・裁縫・安産など、婦女子の守り神とも言われている。


余談だが、その昔、戸隠も女人禁制の地であった(というか女人OKの仏教は本来あり得ない)。今も女人堂跡がある。当時の女性はこの女人堂より先には行けず、奥社は、遙拝所から拝礼するしかできなかった。

差別と言えなくもないが、良くも悪くも男のための宗教(当時仏教)だったんだから、必要なら「女性用の宗教」を確立すれば良かったのではなかったろうか。今ならそうなるだろう。まぁいいけど。

そもそも宗教の女人禁制は、古来、お寺や神社の近くには風俗店のようなものがあってですな、そこには男が・・・・(強制終了)

それはともかく、女人禁制を破り禁足地に足を踏み入れたものは石になったという。今でも掟を破り中に入った比丘尼が石になったとされる「比丘尼石」がある。ね? そう言われれば、男しかこれんでしょう(笑)。


必要があって奥社の相殿として創建されたのであるから、分離しても奥社参りの前に立ち寄るのは当然のこと(例外多数w)。駐車場から参道に入り、何と270段余り続く階段を登り、境内に入った。

ここが俗にいう、パワースポットである。いわゆる見えない力(神仏など)は、極端な人間の行動がお好き。完璧にまじめな聖職者か、(ここでも)良くも悪くも熱くなる人間の行為にこそ、神仏は宿るという。だからこその悪人正機説も存在するのだ。

宗教団体や霊能者と称する方々がいうのは、あくまで自分たちができない理想の形。神々様の好む自然は「あるがまま」の姿。場合によっては人間が見たら「汚い」光景だってある。

「山は荒れ・・・」などとよく言うが、山々に手を入れるのは「自然の法則に反する」ことだ。そういう形できれいになって嬉しいのは「人間」であることを忘れてはいけない。寺がきれいになれば坊さんたちが喜ぶが、仏様はそんなことで喜ばんし、第一、仏様は寺になど存在しないのだ。

しかしながら、人工物(ゴミ)を作るのも人間だけ。そんなものをバラまかず、片づけるのは当たり前のことである。

それはさておき、我々は、これから奥社をめざすことをお伝えし、無事に参拝ができるようにお願いしたw。おみくじは・・・www。さて、先へ進もう。

我々は駐車場へ戻り、車に乗って次の参拝所中社の駐車場へ移動したのである。


【戸隠神社中社】
ここは先ほど述べたように、すでに馴染みの場所。駐車場から、鳥居をくぐり手水舎にて体を清める。さすがに水は冷たく身が引き締まる思いだ。

外国人の参拝客も多く、異国の言葉が飛び交う。当然聞き慣れた外国の言葉ならばどこぞの国と言うことはわかるのだが、耳慣れない言葉を聞くと、そのたびのどこの国の言葉なんだろうか?とも考えるが、とりあえず日本文化が他国の方々に興味を持たれるのは良いことであろう。

さて、ここで、ひゃ〜参謀は以前頂いたお札をお返しする。中社には、拝殿横に、古いお札の回収ボックスが置かれているからだ。ひゃ〜参謀は、お返しするお札に、お守り頂いたお礼を伝え感謝を込めて丁寧に箱に収めていた。


●おなじみの中社も参拝●JPG.jpg

●おなじみの中社も参拝●



こちらは中社(ちゅうしゃ)という。いわゆる音読み(おそらく「呉音」)で、仏教用語に使われる漢字の読みである(伯耆大山の大山も「だいせん」と呉音読むのと同じ)。

ご祭神は、天八意思兼命(アメノヤゴコロオモイカネノミコト)である。いわゆる、日本三大知恵の神様である。ちなみに、1.思兼命、2.高木神、3.少彦名命の三神とされる(こちらは兄・父・弟の関係)。

我々の中では、思兼命は大策士として認識されている。なんせ、素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作られた神様だからねぇ。

ひゃ〜参謀はこの神楽に参加した神々様は「高天原クーデター」に参加した神で有り、思兼命はその首謀者。結果、クーデター失敗し、参加した神々様地上へ追い払われたとふんでいる。父親(高木神)越えはなかなか難しいのは当然であろう。


しかし、日常で二進も三進もいかない時には、かなり頼りにできる神様だ。なんせ発想が違う。神界でも「ナンバー1」とされる神様であるが、それでも全知全能とは言えないのだ。ご神徳はもちろん、学業成就・商売繁盛・開運・厄除・家内安全である。

こちらの社殿の天井には平成15年に復元された狩野派の天才絵師・河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)によって描かれた「龍の天井絵」がある。一度上がらせて頂いたが見上げるとその大きさに圧倒された。

我々は拝殿で手を合わせ、佐藤は、事業の繁栄継続をお願いした。その後社務所に立ち寄りおみくじを依頼する。そう、戸隠神社では、神職に自分の数え年を告げ。すると神職が奥へ入り祝詞を唱え、


「こんな生年月日の奴が何かがどうなるか伺いたいそうですが、その首尾はどんなもんでしょうか?」


ってな感じで尋ね、数え年と性別を神様にお伝えし、シャカシャカとおみくじをひいて頂くのである。そして、にぎにぎしく戸隠神社と書かれた封筒におみくじを入れて渡して下さるのだ。そう、おみくじはあちこちに結ぶのではなくお持ち帰りするのだ。結果は・・・www。


境内には樹齢700年を超えるご神木、樹齢800年を超える三本杉があり、参拝客が思い思いの場所にたたずみ、おみくじ結果を眺めたり、写真を撮って過ごしているのを見守ってくれている。

さて! いよいよお目当ての奥社である。ただねぇ、早朝飛び出してきており、奥社へのぼるとなると腹ごしらえが必要である(いつもそれだ!)。

そこで我々は、昼食を摂ることにした。車を八十二森のまなびや付近の駐車スペースに置いて、徒歩にて、戸隠神社入り口へ移動。


●まずは奥社の入り口をめざす●JPG.jpg

●まずは奥社の入り口をめざす●



【そば処 奥社の茶屋】
そこで、そば処 奥社の茶屋に入った。こちらは店内は木調で整えられ、自然の中にいる雰囲気が漂っておりなんとも気持ちの良い空間であった。

我々は天ぷらそばを注文。天ぷらは、エビやなすカボチャの他にふきのとうが添えられており、山の香りを楽しむことができました。おそばはのどごしが良く、甘味のあるつゆとからまりそれはそれは美味しかった〜。値段もリーズナブルで大満足であった。


●奥社前のそば処に入る●.jpg

●奥社前のそば処に入る●


●天ぷらそばが逸品!●JPG.jpg

●天ぷらそばが逸品!●



準備万端。ここからいよいよ奥社をめざす。スタート地点には、杖が入ったボックスがあるが、これはかなり役立つので1本借りていったほうが良いかも知れない。おお、「クマ(熊)出没注意」と書かれたチラシもあった。

そう、ここからはクマの生息地、すでにもう、我々が来たことを察知しているに違いない。よほどなことがない限り、「利口なクマ」は人里には降りてこないという。問題はクマでも人間でもそうでない種類なのだ。

我々は、バックの中から鈴を外へ出して、ちりちりとならしながら進んだ(自己満足だが)。参道の両脇には、小さな川が流れており、周辺には高山植物が小さな蕾を付けていた。


●入り口に置かれたクマ出没注意のチラシ●.jpg

●入り口に置かれたクマ出没注意のチラシ●



我々は、お互いを励まし、ののしり合い(笑)ながら、登っていく。途中にある随神門をくぐったあたりから杉林が奥まで続く。

ここからが神仏の領域に入るのだから、ことさら失礼があってはいけない。だんだん、足場も石や砂利が多くなってきた頃、道は段々が付けられた道へと変化していく。





階段では無いのだが、なだらかな勾配をのぼりやすく工夫して有るようだ。このあたりにまでくると、様相を気にするゆとりはなくなり、徐々に汗も多くなってくる。でも以前のような時間の長さを感じない。一度来たことが心理的な影響が大きいのであろう。いよいよ、奥社の拝殿が見えてきた。


●まさに比丘尼?の様相になってくる●.jpg

●まさに比丘尼?の様相になってくる●


●奥社参道半ばの随神門は異空間への入り口だ●.jpg

●奥社参道半ばの随神門は異空間への入り口だ●



先ほどまでとは違い、他者とすれ違うために道の譲り合いが必要な狭さ。そうなるとお互いに、「こんにちは。お疲れ様です」などの励まし合うようになるから不思議である。

ようやく奥社にたどり着いたときには、頭から顔から汗がぼたぼたと流れ落ちる始末。ひゃ〜参謀いわく、


「大将、那智の滝のような汗ですよ!」


ですと(笑)。

神様に、無事に来られたことに感謝を伝え、再度、来るチャンスがありますようにお願いをした次第である。佐藤は、その後髪の毛を後方に束ねた。ホント、冗談無く汗の量がすごかったぁ〜。


【戸隠神社奥社】
ここ奥社(おくしゃ)のご祭神は、あの天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)である。

由緒は、日本神話にある、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力をもって、天の岩戸を開き、天照大神をお導きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎したことに始まるとある。

ひゃ〜参謀によるとこの神様は、猿田彦大神でもあるらしいが、さて・・・。)

戸隠神社の御本社として、開運・心願成就・五穀豊熟・スポーツ必勝などのご神徳が全国に広宣され、多くの崇敬者が登拝されているという。


●ようやく奥社にたどり着きました●.jpg

●ようやく奥社にたどり着きました●



全参道は約2キロ、中程には先ほどの萱葺きの赤い随神門があり、その先は天然記念物にも指定されている樹齢約400年を超える杉並木が続いているという。その近くには、九頭龍社(くずりゅうしゃ)がある。ご祭神の九頭龍大神(クズリュウノオオカミ)である。

ご鎮座の年月は不詳であるが、天手力雄命が奉斎される以前に地主神として奉斎され、心願成就のご神徳が高く、特別なる信仰を集め、また古来より水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結びの神として尊信されているという。ここはまさに聖地・戸隠の地主神であり、この地を治めている神様としてふさわしい。


●こちらは地主神・九頭竜神社●.jpg

●こちらは地主神・九頭竜神社●



この奥社九頭龍社から、今登って来た方向を振り返ると、眼下には長野市までが眺望できる。佐藤は社務所横にたたずみ、汗のひくのを待った。そこには心地よい風がふき、我々の労をねぎらってくれていた。

さて、元気になったところで、おりますかね。2キロを登って来たと言うことは2キロ降りると言うことですからねぇ(笑)。でも、我々はお互い体重が以前より軽くなったせいか、以前参拝したときほど、苦痛は感じなかった。

それでも歳は歳。足腰に気遣いながら、ゆるゆると参道を降りた。我々の旅はまだまだ続く。足取り通り、ゆるゆるなので今回はここまで。次回は新潟の見聞録の予定です。

まだまだ暑きゆえ、皆さま、くれぐれもご注意ください。



●この道は、森の学舎の裏手まで続くのだ●.jpg

●この道は、森の学舎の裏手まで続くのだ●


(To Be Continued!)

posted by さとうはあまい at 20:22| 東京 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月04日

奮闘記・第1079回 見聞録/東京都

●2019年● 東京都北区&府中市


「天壌無窮」(てんじょうむきゅう)を楽しむ

〜「平成」から「令和」へ!終わりがはじまり〜


皆さまお久しぶりです。

元号が変わり、あれよあれよと日が進み気づけば連休も終わりに近い。
皆さんはどのようにして連休を過ごされたのでしょうか。

佐藤は、出かける予定などは全く無し(笑)。研究所にこもり(家だからね)、もっぱら資料づくりと家事をしておりました。

そんな中、唯一、1日は外出して過ごしました。そう、もちろん『令和元年5月1日』ですもの。

佐藤は、新たな年号を迎えたお祝いと、新たな月を迎えられたことから、 「ひゃ〜参謀」を誘い出し、近所の王子神社を参拝した。

「平成」から「令和」に変わったその日は、あいにくの雨で朝を迎えた。しかし、その雨も8時くらいには止み、雲間から太陽が顔を見せてくれた。そして9時過ぎには眩しいくらいに輝きを発していたのだ。

まぁいろいろ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)や三種の神器にまつわるものを結びつける古代史ファンや神道フリークもいるが、それはそれ、儀式と神話をまぜてもいけない。そもそも、天叢雲剣(のちの草薙剣)の初代(?)は、壇ノ浦に沈んでいるわけだし・・・。


さて、佐藤は、その陽光の下で「令和」の時代は、この太陽のように暖かく、災いの少ない時代を願うばかりである。

(「無理だな」と「ひゃ〜参謀」)


【近所の王子神社】
実は、我々は可能な限り、毎月初めには王子神社を参拝しているのだ。
とは言え、この日は元号が変わった特別な日。境内には、いつもより多くの参拝客がおり、入り口の鳥居から外れて列ができていた。
まるでお正月のようである。


●御朱印で並ぶ列が王子神社でも●.jpg

●御朱印で並ぶ列が王子神社でも●



もしかして、この列に並ぶのかしら?と覚悟を決めて良く見たら、なんと、その列は御朱印を頂くために並んでいる列であった。

佐藤は、御朱印を否定するわけでも、非難するわけでもないが、それを頂きに来ている方が、肝心の神社を参拝せずに、御朱印だけを求めているとししたなら、なんだか残念に思う。せっかくなんだから、拝殿に手を併せても良いだろうに。

もちろん、多くの方は参拝後に並んでいるとは思うのであるが・・・。我々は、御朱印を求めて並ぶ列から離れ、参拝を待つ列に並んだ。

この日は、やはり参拝客も多くて中には赤ちゃんを連れお宮参りに来ている家族や新たな年号に改めて、ご祈祷をする人々や、我々のように月参りに来ている方などでおおいに賑わいを見せていた。

やがて順番が来て、我々は、拝殿にて手を合せる。佐藤は、


「新たな天皇の時代、平和で災害の少ないことを願い、また、新たな月に入ったことで、今月も無事にすごせますように」


とお願いをした(さて?)。

本来で有れば、ここでおみくじと行きたい所ではあるが、そこはほら、御朱印を頂く方々が社務所に列をなしていたので、断念した。

そうそう、神社本庁では、毎月「生命の言葉」という、デイサービスしおりのような紙を出している。王子神社では拝殿横に、箱を置きその中に紙をいれて、参拝客が自由に持って帰れるようになっている。

我々も、毎月この言葉を楽しみにしているのだ。ここ数か月はどことなく、がっかりさせられていたが、今回は大物中の大物!

今月の言葉は、


「天井無窮(てんじょうむきゅう)」


という言葉で、天照大御神(アマテラスオオミカミ)様の言葉であったw。その紙の裏に書いてある「口語訳」を転記する。


『天照大御神が、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に勅して申しされるには、「豊かで瑞々しいあの国は、我が子孫が君主として治める国土です。我が孫よ、行って治めなさい。さあ出発しなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません』


とあった。

まさに元号が変わった初日にふさわしい言葉であった。


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●「天壌無窮」のしおりがあった●



「体よく、高天原から追い出されただけですよ。だって、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は自ら光れないから跡は継げないから」

ですと。さて、我々は、こうしてて無事に王子神社を参拝し、次を目指した。

「ん? 何か問題でも」(笑)


そう、本日は元号が平成から令和になった記念すべき日ですからねぇ。どこぞの神社へ行きたいものだなぁ・・・ということで、

急遽我らの聖地・大國魂神社を目指すことになった。

ちなみにここから大國魂神社へ行くには首都高速を使うのがベスト。しかし、連休真っ最中ですからね。「渋滞は勘弁」と思いつつも首都高に入ったのでありました。

この日、その首都高速は思いのほか空いており、我々はスムーズに調布インターまで移動したのであった。いや〜空いてる空いてる。


ひゃ〜参謀:「調布飛行場から飛行機が来ても大丈夫だぜ!)

佐藤   :「」



さて、参拝前に腹ごしらえ。食事はマンマパスタ(Mamma Pasta)府中店でと決めていた。

こちらはイタリアレストランで、平日のランチはセット料金でコスパであり、すでに馴染みの店である。

しかしこの日は祭日(笑)で、昼時ということもあり、店内は結構混んでいた。また、予約された方もいて、後から後から人が入ってくる。もちろん食事を終えて出ていかれる方もいる。

我々はしばしエントランス横の椅子に座り順番を待つ。やがて名前を呼ばれ、お店の方の後ろについて案内された席に着いた。

すると、店員さんが定番メニューをテーブルに置き、さらに、その後黒板メニューを持参して


「こちらは、この季節限定のメニューです💛


とその黒板を椅子において去って行った。へへんだ。


我々は、あれこれ迷ったすえに、季節限定のピザと、定番メニューからパスタを選択して注文した。もちろん、飲み物はジンジャエール(ウィルキンソン)の辛口である。大人は辛口だよねwww。

まずは、飲み物が運ばれ、続けてパスタ。次にピザが到着した。テーブルの上は一瞬にして美味しそうな香りに包まれていった。


●マンマパスタ府中店のパスタはうまい●.jpg

●マンマパスタ府中店のパスタはうまい●



我々はそれらの料理をシェアして頂いた。

こちらのピザは石焼きで、耳がふっくらしていてもちもち感がある。具材は春の野菜。たけのこ、アスパラガス、トマト、極め付けはモッツァレアチーズの燻製である。ほほう。

佐藤はそれに辛味のある油をかけてほうばる。パスタは、シャケとほうれん草のクリームパスタだ。


●これも美味しいピザ(笑)●.jpg

●これも美味しいピザ(笑)●



2人にとってはこのくらいの量で十分である。特にピザは1人では食べきれないのだ・・・。

食後に軽く仕事の打ち合わせをして店を出た。


店を出るときにもまだ多くの方がエントランスでの内外に並んでいて驚いた。うまいし安いし当たり前といえば当たり前だけど素晴らしい混雑ぶりであった。

さて、先を急ごう。


旧甲州街道を走り、いつものように神社の駐車場に入れよう左折したら、なんと、お祭準備で駐車場は閉鎖されていた。

そこで、閉鎖している所に係りの方がいたので他の駐車場の場所を尋ねて見たが、「自分にはわからない」という。まぁ、素直で良いが、これでは参拝客は困るであろうに。仕方がないのでナビ様にパーキングマークを表記させ、周辺の駐車場を探すことにした。


もちろんあちこちパーキングマークはあるがいずれも「満」という文字が、赤く光っている。
やがて、遠方に「空」という青い文字を見つけ、そこへ移動し、ようやく車を置くことができた。

なんと、大國魂神社近辺はすっかり、かの有名な「くらやみ祭」(4/30からすでに前夜祭)モードに突入していたのだ!


我々は、徒歩にて数百メートル移動し、入口の鳥居をくぐり神社境内に入った。すると、境内のここかしこでお祭の準備が行われていた。

見ればお化け屋敷まである(笑)。ここは神社の境内ですぞ! また、境内には参拝客も多く、子供を連れた家族も多く来ていた。


●武蔵国総社・大國魂神社の参道●.jpg

●武蔵国総社・大國魂神社の参道●


●昼間のお化け屋敷ほどコワイものは・・・●.jpg

●昼間のお化け屋敷ほどコワイものは・・・●



さらに、こちらにも御朱印を目当てに多くの方がきており、すでに神門より手前の手水舎あたりまで並んでいた。我々は、その列を横目に、手水舎にて体を清め、境内に入った。そして参拝客の列に並びその時を待った。

やがて列が進み、やがて我々の順番となった。そこで、改めて元号が変わったこと。月が変わったことに関連し、良い年になるように。今月も無事に過ごせるようにお願いをしたのであった。


さてようやくおみくじタイムである。

佐藤は、拝殿横にあるおみくじコーナーにてシャカシャカと棒の入った箱を振る。そして、そばにあるみくじの箱から棒に書かれた番号の引き出しを開く。

まずはわたし。うーん、残念!小吉
次に「ひゃ〜参謀」。彼はなんと大吉であった。令和はじめの大吉ですよってさ。ハハハ。そりゃぁようございましたね!

佐藤は、踵を返して摂社・住吉神社大鷲神社を参拝商売繁昌を願う。


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●おみくじは・・・・府中ならぬ不調なり●


●「ならぬものはならぬのです」●JPG.jpg

●「ならぬものはならぬのです」●



さて、こちらのおみくじはいかに。じゃーん、中吉だってさ!まぁ良い。

その後である。なんと我々は御朱印の列に並んだのである(笑)。

それこそ我々は、あちこちの神社に出没しているが、今まで御朱印を頂いたことがない。なぜならば、参拝をすることに意味があって、御朱印を集めることに興味がなかったからだ。なんせ時間がかかるし、神職がいなかったり、食事中だったりでそんなことまで気をつかうことはあまりしたくない。

だが今回は年号が変わった記念すべき日である。しかも先程から、境内には「御朱印を前もって作成したものを他の列で配布しています」という、巫女さんの涼やかな声が響いているのだ。

さすれば、それを大吉の代わりに頂こうということで、生まれて初めて御朱印を入手したのであった。これで令和は安泰間違いなしw。


●東京都の守り神・令和の時代も健在である●JPG.jpg

●東京都の守り神・令和の時代も健在である●


●ひとりわが道をゆく(笑)●.jpg

●ひとりわが道をゆく(笑)●



こうして参拝を済ませた我々は、先ほどの駐車場まで戻り、車に乗って渋滞に巻き込まれることなく無事に帰ってきたのであった。


さて、大國魂神社の「くらやみ祭」は、東京都指定無形民俗文化財に指定されているお祭りである。祭りの期間は5月3日〜5月6日に渡って行われるお祭りで、日々それぞれの神事が行われている。

まぁ、くらやみというだけあって、夜半にお神輿や山車が出るようだ。詳しくは大國魂神社のホームページでご確認くださいませ。

https://www.ookunitamajinja.or.jp/wp/info/279.html


佐藤は、そのお祭を舞台にした映画「くらやみ祭の小川さん」を楽しみにしている。
先ほど、公開はいつかと調べたら、なんと劇場公開は、当初4月の予定であったが、10月公開に変更になったというのだ。

その理由は、「くらやみ祭の小川さん制作実行委員会のホームページ」によれば、本作品はとても良質な作品に仕上げることができたので、急いで公開するよりもじっくり宣伝して、きちんと育ててから公開することが作品のため、ひいては府中のためになると判断したのだという。

なんでも海外の映画祭にもエントリーするらしいですよ。

そして、日本人の心と祭という日本文化を世界に伝えて行くとしています。

素晴らしい取り組みじゃあないですか!ということで、佐藤も10月公開の映画を楽しみにしたいと思います。


余談だが、令和初日、明治神宮のご朱印待ちは10時間を超えたらしい。ディズニーランドに匹敵する混み具合だな、こちらもすごいぜ。でもなんであそこがそんな人気があるのかわ・・・(強制終了!)。

皆さま、令和の御世もご自愛ください!



●はじめての御朱印●.jpg

●はじめての御朱印●


●「ひゃ〜参謀」紫蘭ちゃん(笑)●JPG.jpg

●「ひゃ〜参謀」紫蘭ちゃん(笑)●



(K朝鮮、飛翔体発射、日本海上に到達。まったくあのデ○はすぐひがむんだから!The end is the beginning!!)
posted by さとうはあまい at 17:27| 東京 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月05日

奮闘記・第1078回 見聞録/千葉県

●2019年● 千葉県館山市&安房郡鋸南町

サクラの花に誘われて、房総半島へ!

〜安房神社を始め、南房総は見どころがたくさん〜



さてさて皆さま、4月になりました。《平成》の世もあと1か月弱で《令和》の世を迎えますねぇ、元気ならば(笑)。

そして、新年度を迎えて、新入社員が入ったり、入社された方はもちろん、先輩達も緊張する時間を過ごしているのでは無いでしょうかね。

東京はサクラの開花は平年より早かったようですが、その後に寒の戻りがあり、4月に入っても、関東周辺でも雪が降った場所があったとか。いやしんどい!

そのためサクラの木にブレーキがかかり、平年よりも長持ちをしているとのこと。良いのだか悪いのだか。

新入社員の方々をサクラもお祝いしているかのようですねぇ。

一方、佐藤は・・・・、本来は昨年度中に終わっていなければならない仕事があったのですが、終了するまでの間に、いろいろなアクシデントがあり、ようやく先日終了した次第です(やれやれ)。

ということで、まぁ、そのう、ようやく時間にゆとりができたというか(笑)。

さようであるならば、どこか「良い神社」(ここがポイント)へ行きたいというもの。佐藤は、参道にサクラの木が植えられている安房神社へ行くことにした。ハハハ。全くの思いつき!!

そこで佐藤は例のごとく研究所の「ひゃ〜参謀」

「明日、千葉の例の場所へサクラを見に行きたい。同行を依頼したいが、いかが?」

とメールを打った! すると「はいはい。良いですよ」との2つ返事でメールを返してくれた。

と言っておきながら、その日は午前に私用があったので、いつものように早朝から飛び出すことはできないず、10時過ぎににチーバ君たちをバックに押し込み、研究所をあとにした。今回は、その見聞録である。

佐藤は、ナビ様のおっしゃる通りに車を走らせていく。羽田空港を通り過ぎ、東京と千葉を結ぶ、東京アクアラインをめざしている。

ただ、車中で「ひゃ〜参謀」との話に夢中になっていたら、なんと木更津方面へ左折しそびれてしまった。困ったなぁ〜。このまま何処まで行くのであろうか?

すると、ナビ様が10キロ先の大黒パーキング(PA)に入ることを指示している。大黒PAから外へ出て再度高速に乗るのだなと思いそのまま海上を走る高速道路を駆け抜けて大黒PAへ入った。そう、ここのパーキングはUターンが、できたのであーる。やはり困ったときのダイコクさまだなw。

よっしゃ! 今度こそアクアラインへ乗るぜいということで、《覆面なんとか》に捕まった車をしり目に、無事にアクアラインに乗ることができた。

ここ、東京アクアラインは、神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市へ至る高速道路である。東京湾アクアラインの、道路全体の総延長は15.1kmである。

川崎側の約9.5 km区間に東京湾を横断する東京湾アクアトンネルがあり、途中《海ほたるPA》から、先の木更津側の約4.4 km区間にアクアブリッジと呼ばれる橋があるのだ。ふう、もう少しネーミングがね・・・。

そうそう、この海ほたるPAは「木更津市」だそうで、つまりここはもう千葉県だったのだ。

佐藤は、前の車に続いてトンネル内を爆走していく。トンネルと行っても日本一標高が低い海面下60mと言う場所を通っているんだから、このトンネル上は海なんだよなぁ。


【海ほたるPA】
我々は、途中で海ほたるPAへ立ち寄った。なんと、この日は通常のパーキングエリアがすでに満車で、臨時駐車場へ案内された。もう、何回も来ているが臨時パーキングエリアは初めてである。

この海ほたるPAは先ほど書いたように千葉県木更津市の人工島なのだ。臨時パーキングから徒歩にて、はじめて1階の正面玄関から《海ほたる》に入った。「ひゃ〜参謀」は、以前、ここでマスコットの海ほたる君を手に入れている。今回は、その海ほたる君の里帰りでもある。


「ここで津波が来たら死ぬな・・・」


海の見える道を歩きながら、「ひゃ〜参謀」。我々は5階の展望デッキに出て、いつものごとく写真を撮った。久しぶりの里帰りに海ほたる君チーバ君と語り合い、ご機嫌である。ハハハ。


●正面玄関から入る●.jpg

●正面玄関から入る●


●海ほたる君の里帰りです●.jpg

●海ほたる君の里帰りです●



ちと、ゲームセンターに立ち寄り。「こうていぺんぎんくん」をクレーンゲームでつり上げようとしたが残念!だめであった。まぁ、良い。また来ましょうぜ。

我々は車に戻り、先を急ぐ。東京アクアラインから館山道に入った。高速道は渋滞までは行かないが、それなりに混んでいた。途中、ここでも覆面パ○カーにゲットされた車があった。我々は法定速度でぐんぐん加速していく。もちろん、法定速度を厳守!(笑)先を急ぐのだ。

そして、昼食はここでとろうと決めていた、ハイウェイオアシス富楽里に立ち寄った。ここは「道の駅・富楽里とみやま」でもあるが、マグネットはなし。


●青空がまぶしい館山道●.jpg

●青空がまぶしい館山道●



【ハイウェイオアシス富楽里(ふらり)】
ここには、海の幸をふんだんに使った食事処があるのよ。その名も食事処 網納屋(あみなや)さんである。

「ひゃ〜参謀」は、マグロ丼。佐藤はあみなや丼(小)とコーラを注文。暫し待っていると、小丼にマグロやタイやいくらなど数種類の魚が乗っていた。みそ汁と小鉢が付く。

確かに小丼で、見た目は「えええ?」と思う大きさであるが、いやいやお刺身の一切れが大きく、さらにその下のご飯がボリュームがあるから、私には十分な量であった。我々は、お腹も満たして幸せな気分のまま、安房神社に着いたのであった。


●網納屋さんで頂くあみなや丼(小)●.jpg

●網納屋さんで頂くあみなや丼(小)●



【安房国一の宮・安房神社】
ナビ様に導かれるまま、国道410号線を左折すると、そこはもう安房神社へ向かう道となる。その道を進むと、ほどなく参道に咲き誇るサクラの花が見えてくるのだ。

おお、良かった。今が満開じゃあーりませんか。内心散りサクラだったらどうしようと思っていたのだが・・・。

そこはほら、天太玉命(アメノフトダマノミコト)が、我々が来るという話を聞きつけ、意地でも散らせなかったのだろうな(笑)。


●これこれ!安房神社の参道である●.jpg

●これこれ!安房神社の参道である●


●満開のサクラの下チーバ君たちも大はしゃぎ●.jpg

●満開のサクラの下チーバ君たちも大はしゃぎ●


●まだまだ持ちそうである●.jpg

●まだまだ持ちそうである●



我々は鳥居前の駐車スペースに車を置いた。

安房神社には、参道に沿っても駐車スペースがある。そちらにはデイサービスや特養の名前が入った車が駐車しており、皆さんお花見にいらしているようだ。いいねぇ。

我々は、鳥居の前にて一礼し、参道に入った。そこは、ピンクのカーテンが揺れるがごとくピンク色に染まっていた。これよこれ!ここのサクラは背が低く、見上げることなく花を楽しむことができる。たまに枝でラリアットを頂くこともあり、今回も頂いた(泣)。

近づくと花蜂が「じっくり行きなさいね」と羽音を鳴らしていた。近くの木で鶯が鳴く。おお、これぞ、正しき日本の春! ピンクのトンネルを抜けると、第2の鳥居がある。そこを抜けると境内となるのだ。

こちらは先ほどまでの賑やかな花の香りとは違い、凛としたすがすがしさが漂っている。

我々は手水舎で手を清め、拝殿へ向かう。前方の階段上には、神明造りのふっくらとした社殿が現れる。我々は、まず上の宮の拝殿にて参拝する。


●こちらが神明造のお社・上の宮●.jpg

●こちらが神明造のお社・上の宮●



主祭神は、天太玉命(アメノフトダマノミコト)である。ご神名は『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命である。式内社(名神大社)安房国一の宮旧社格・官幣大社別表神社である。

忌部氏(斎部氏)祖神であり、細かいことは語り尽くした感があるから省くが、まぁ高木神の子にして、香取神宮経津主大神のモデル(天日鷲命:忌部五部神)の父神様と考えられる。

また、相殿には、

后神天比理刀当ス(アメノヒリトメノミコト)
忌部五部神
 出雲忌部の祖・櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)
 阿波忌部の祖・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)
 紀伊忌部の祖・彦狭知命(ヒコサシリノミコト)
 讃岐忌部の祖・手置帆負命(タオキホオイノミコト)
 筑紫忌部&伊勢忌部の祖・天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)

とまぁなじみの顔ぶれである。阿波忌部が東遷して来たとされ、地名も「阿波」(あわ)と「安房」(あわ)であり、深く考えなくとも良いかな、と(笑)。

千葉を含む、「房総半島」はもともと総国(ふさのくに)で、麻の栽培がさかんであったそうな。だからこそ、産業振興商売繁盛の神様で有り、《日本三大金運神社》の1社とされる。

ん? あと2社は、新屋山神社(山梨県富士吉田市)と金剱宮(石川県白山市)らしいが、この2社は現在それほどでもないという噂もある。後者は、伺ったこといはあるが、そうだろうなぁ・・・そんなもんだろうなぁという気がしたw。でも、それはそれ。ご利益だけじゃ、いくらなんでもここまでなかなかこれませんて。やはり神社自体が良くないとね。


「天太玉命様、サクラに誘われてやってきました。今年も1年良き年でありますように!・・・ムニャムニャムニャ」


さて、ここでおみくじタイムだ。佐藤は小吉であった(例のかたは)。残念。ふふふ、まだあるもんね。

次に琴平社を参拝こちらには大物主神(オオモノヌシノカミ)が祭られている。こちらでは、もちろん、商売繁盛をお願いした。

続いて、下の宮を参拝する。こちらには、天富命(アメノトミノミコト)が祭られている。こちらでは、再度参拝に来られますようにとお願いした。


●こちらは下の宮の拝殿●.jpg

●こちらは下の宮の拝殿●



その後、再度おみくじにチャレンジ ほらね、大吉でしたよ(笑)。「ひゃ〜参謀」ですか? さぁ(笑)。

帰りに社務所に立ち寄り、久しぶりに、桃色の錦織りの「交通安全守」をゲットした。このお守りは、すぐに研究所の愛車・カナメイシ君の窓に張り付き、効力を発揮しております。そもそも、御岩神社だけでも「鉄板」に近いのにさらにこれだ!


●新緑に萌える境内の紅葉●.jpg

●新緑に萌える境内の紅葉●


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●お社(上の宮)上の千木が美しい●



参道は、さらにお年寄りが増えまして、広場では宴会も始まっているようで、天岩戸前のごときである。このような非日常的なふれあいが、利用者さんや、職員さんの心を癒してくれているようで、ほっこりした空気が漂っていた。

さて、実は寄り道したい場所が2箇所ほどある。それはズバリ「道の駅」だ。めざすはマグネット(笑)。


【道の駅・南房パラダイス】
まずは、道の駅・南房パラダイスである。道の駅の後方には、アロハ・ガーデンたてやまがあり、熱帯・亜熱帯植物を展示しており千葉県下一の植物園らしい。そこから流れてくる。ハワイアンが南国情緒を醸し出しているのだ。まぁどこかの神社の近くの野鳥園が、その、なんだから(笑)、過剰な期待は・・・ね。

こちらマグネットは3種類あったが、佐藤はハワイの神様の象徴、ティキ像が描かれていたものを選択し、「ひゃ〜参謀」にプレゼントした。実は前回来たときには売り切れで無かったのだ。まぁ、こんな可愛い神様が付いていたら売り切れますわなぁw。

ちなみに、ティキ像は、地球上の最初の人間を表しているという。彫られるときは、特定の神とされ、その力(マナという)によって具体化されるそうだ。

《ティキ》はハワイ語だと「T」が読まれるが、本来ポリネシアの神様なので《キイ》と発音するらしい。ハワイ4大神(出雲みたい💛)とは、

「クゥ」様(戦いの神・山海の神)
「ロノ」様(農耕の神・平和の神)
「カネ」様(万物の神・生命の神)
「カナロア」様(海の神・死者世界の神)


らしい。うーん、ハワイには行ったがそれほど詳しくはないが、南房パラダイスのティキ像はどの神様なのかなぁ? ハワイ4大神の中に商売繁盛の神様は、万物の神の《カネ》様かなぁ(それじゃ実もふたもない「そのもの」って感じではあるが・・・)。

きっと日本では商売繁盛の神様も始めた・・・いや、「ハワイ」は繁盛しているから、もともと本業なのかも知れん。品ぞろえもいいから、近くに来られたらのぞいてみてくだされ。

もう1箇所はこちらのあとに寄るとして、来るときに気になっていた「ピーナッツソフトクリーム」屋さんに立ち寄った。


【木村ピーナッツ / ピネキ】
こちらは、木村ピーナッツ / ピネキさんである。栽培から製造までの工程、販売をすべてを自分たちでなさっているお店だとか。

お店の前には、駐車スペースがあり、お店の前にはテーブル席が設けられていた。中に入ると、ご婦人達が「いらっしゃいませ!」と出迎えてくれる。

この落花生の直売所「ピネキ」さんの濃厚ピーナッツソフトクリームは、あの「とんねるず」のお2人も食べて大絶賛したらしい。壁に「直で」ノリさんのサインがあったwww。

お店は観光地のお土産屋さんふうで、ピーナッツ製品が所狭しと並んでいた。ここもまたいいのよ、すごく(笑)。千葉県ってお土産屋さんが充実してるんだよなぁ。

レジそばの案内にはパフェなども見えたのだが、我々は迷うことなく、「ピーナッツソフトクリーム」のコーンを選択し、店内の椅子に座って頂いた。

すると、あとからあとからお客様が入って来る。中には子どもさんを連れたカップルも。気軽に挨拶をされているから、おなじみさんかも知れん。

ちなみ、このソフト、尋常じゃありませんぜ。一口ほおばると、口の中が落花生の香りが広がります。二口食べると、ピーナッツの濃厚な甘味が広がるのだ。

ピーナッツだからねぇ。もう少しべたべたしていると思いきや、食べ終わると、さっぱりとした後味なんだよなぁ。とにかくうまいよ! これはまた来ちゃいますよねぇ、参謀!

さて、いよいよ最後、道の駅・保田小学校だ。


●ピーナッツソフトクリームは逸品ですぞ●.jpg

●ピーナッツソフトクリームは逸品ですぞ●



【道の駅・保田小学校】
えええ、小学校?と思うでしょ(笑)。こちらは館山道の鋸南保田インターから200mの距離にある道の駅である。保田小学校は2014年に126年間の学校としての役割を終え、2015年12月道の駅として生まれ変わったという。改築にあたり、学校の雰囲気を残して、地元で取れた野菜などの直売所、食堂、レストラン、宿泊、温浴施設などがある複合施設らしい。

高速を降りて、案内に従って中に入ると、そこはまさしく学校であった(笑)。いや〜そのもの。でも、いや、ほんと小学校を流用しているのだ。

今回の目的は、道の駅マグネットであるから、我々は一目散に売店へ行って中を散策。無事にマグネットを手に入れたのであるが、ここも道の駅。佐原や常陸大宮、潮来なみの品ぞろえ。房総半島の道の駅は恐ろしいレベルだ。

どうも、あちこち後ろ髪が引かれる所ばかりであった。次回は、やはり、早朝に飛び出して来んとな。夕方までのんびりしたい。そんな欲求が残る、思いつきの旅であった。

いやいや、千葉県、恐るべしですよ。ここで紹介したところは、絶対ススメですよ!


●保田小学校の顔出しパネル(背後霊ではない)●.jpg

●保田小学校の顔出しパネル(背後霊ではない)●



《余談》
佐藤が住む、東京都北区も何かとテレビで取り上げられることが多くなった。ええ、犯罪ではありませんよ(笑)。何でも東京の中でも物価が安く、住みやすい場所だとか・・・。住んでいる身には全くわかりませんが、確かに住みにくくもない。ひゃ〜参謀も小さいころはここらへんに住んでたらしい。

東京オリンピックがあるから、北区の広報も力を入れはじめたのでしょうねぇ。変わった人も多いが、やはり電車の便が良いからね。

ぜひぜひ、サクラのころには、JR王子駅前の飛鳥山公園王子神社や、厚焼き玉子の扇屋さん、その他いろいろお店もあるから、お越しください。そうそう、都営南北線・王子神谷駅近くにはニュージュン・タラもありますから、よろしかったらお越しください。今日は営業ばかりだったな(笑)。

皆さま、ご自愛ください。

★特選のお店データ★
「木村ピーナッツ ピネキ」
 〒294-0048 千葉県館山市下真倉 236-3
 (有)木村ピーナッツ
 http://kimura-honpo.com/shop.html


(「子育て」とは大変。両親や配偶者などの協力度もあるだろう。でもそういうのもひっくるめて、昔は《家族計画》があった。子供は1人ではできないし、勝手にできるものではない。平成人がよく「昭和的」とバカにするが、それなら自分らでやるべきことはちゃんとやってから言わないと、そうそう昭和人もお人好しではないからな!To Be Continued!!!)
posted by さとうはあまい at 22:58| 島根 | Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月11日

奮闘記・第1077回 見聞録/和歌山県

●2019年● 和歌山県田辺市

熊野の神々様の導きで熊野本宮大社に初詣!

〜熊野詣でのにぎわいを感じつつ、ご神気を頂くのだ〜



今回は今年1月に行った和歌山県でまわった熊野の見聞録です。

いよいよ、熊野本宮大社を参拝する日が来た。ふふふ。これまで、佐藤は、いろいろな素晴らしい神社や神々様との出会いがあった。

しかし、和歌山県に出向く機会はあったし、日前神宮・國懸神宮和歌山城の素晴らしい場所には足を運ぶことはできたが、ここ熊野本宮大社・速玉大社・那智大社の熊野三山を参拝するには至らなかった。


伊勢へ参らば熊野に参れ どちらかけても片参り

伊勢へ七度 熊野へ三度 愛宕様へは月参り


とはよくぞ言った。しかし、このペースで人生であと2回は難しいかな(笑)。今回は、研究所の「ひゃ〜参謀」とともに熊野詣でとなったのである。

例のごとく、早朝に東京を抜け出し、南紀白浜空港に着いた。空港からたいそう離れた空港店に着きレンタカーを借りた。現時点の使った空港でレンタカーの店舗が1番離れていた長崎空港を抜いてしまった(笑)。


●迫りくる熊野!(ってこちらが近づいてるんだって)●.jpg

●迫りくる熊野!(ってこちらが近づいてるんだって)●


●無事、南紀白浜空港に到着●.jpg

●無事、南紀白浜空港に到着●



今回も、車はトヨタのヴィッツ君である。ナビ様に「熊野本宮大社」と入力すると、ゆるゆると国道311号線を走るコースを示した。そこから一気に全開で熊野本宮大社を目指した・・・といいたいが道路工事やらなんやらで、なかなか進まない。

しかも、この日はあいにくの天気で雨が降ったり止んだりしていた。道路も勝手がわからず、ベストな選択ができずに、熊野古道の中辺路に近いルートを通る山あいの道で進んだ(結構カーブが多く、ブレーキ操作が大変!)。

なんせ和歌山県は、山々が総面積の約81%を占めている県なのだ。神武天皇でなくとも、迂回に迂回を重ねて行かねばならぬ。冬は規制も多いらしいし、確かに日程を立てるのも難しい行軍で有る。

やがて、道しるべにあちこちに「本宮」の文字が見え始め、我々はなんとか本宮大社の近くに付いたようだ。いったん前を通り過ぎ(失礼します!)、情報収集を考えて道の駅を目指した。


●今回も和歌山のヴィッツ君との出会いがあった●.jpg

●今回も和歌山のヴィッツ君との出会いがあった●



そして、まず道の駅・奥熊野古道ほんぐうに寄った。なかなか品ぞろえも良く、マグネットもあるので入手。さて、ただ今11:00前、本来は神社から行きたいところだが、神社内でどれくらい、たたずむかはわからない。できれば長くいたいのだ。先に昼ご飯を済ませた方がゆっくりできると判断した。ということで車をUターンさせて、昼ご飯を先に食べに行くことにした。


●道の駅・奥熊野古道ほんぐうに立ち寄る●.jpg

●道の駅・奥熊野古道ほんぐうに立ち寄る●



昼食は、杜の郷 みるりいなを選んだ。こちらは「ひゃ〜参謀」が事前に調べていたお店である。イメージでは小さいお店であったが意外と大きく、きれいなお店である。

国道と熊野川沿いにある洋食屋レストランで、木のぬくもりがあるログハウスである。店内に入るとそこにはおもちゃや絵本などがおかれた子どもの遊び場があった。

席に着いて、メニューを観ていると、店の方が来て「本日のランチは○○ですw」とさわやかに説明してくれた。佐藤は、そのランチを「ひゃ〜参謀」はハンバーグランチを注文する。

この稿を書くためにみるりいなさんのfacebookを参照してみた。すると、佐藤が食べたメニューを発見したので載せておこう。

チキンと採れたてレモンのハニーマスタード煮込み・マッシュポテトとベーコンのチース焼き、卵の天ぷら 甘酢あんかけ・豆腐ステーキ 味噌マヨソース添え・かぶらのピリ辛昆布漬け、採れたてお野菜自家製玉ねぎドレッシング・お野菜とたまごの手作りスープ・コシヒカリ白ご飯。

1日10食限定・ワンプレート(800円)である。お料理もさることながら、新鮮野菜のサラダがしゃきしゃきしていて美味しかったこと!


●みるりいなの外観●.jpg

●みるりいなの外観●


●みるりいなの店内●.jpg

●みるりいなの店内●


●「ひゃ〜参謀」はハンバーグランチ●.jpg

●「ひゃ〜参謀」はハンバーグランチ●



ちなみにこの店は、家族経営のお店で、店の名前は2人の子供さんの名前を付けているとか。もちろん、お子さん達もお手伝いをしているようで、facebookには、様々な情報が盛り込まれていた。子供は親の背中を見て育つからねぇ。

さてさて、美味しいランチを頂いたところで、ゆっくりと熊野本宮大社に詣るとしょう。


熊野本宮大社には公式参拝ルートがあるが、これがまたチトうるさいw。まずは熊野本宮大社(この中もたくさんお社が!)、次に産田社(うぶたしゃ)大斎原(おおゆのはら)である。晴れていれば、熊野古道から大斎原を見るのがたまらんのだが・・・今回は雨で無理。熊野の神様が「無理するな」とのたまったようだ。


●とうとう熊野本宮大社へ!●JPG.jpg

●とうとう熊野本宮大社へ!●


●本宮の参道●.jpg

●本宮の参道●


●これぞ八咫烏ポスト!●.jpg

●これぞ八咫烏ポスト!●



熊野速玉大社熊野那智大社には、アウトライン(こう廻ってほしい)こそあるが、ここまでの公式参拝ルートはない。詳しくは、当ホームぺージの「強運・開運神社」の熊野本宮大社で述べているが、そもそもの神社の成立過程や性格からして、なぜ祓戸大神があるのがわからない。


When in Rome, do as the Romans do.(郷に入れば郷に従え。)


である。そもそも神社のルールの大半が、明治以降、あるいは昭和になってから作った○社本庁のこしらえたルールなのだ(たぶん)。もし神様が「自然のままを愛する」というのなら、今の山々を愛するはずがないだろう。

なぜなら、きれいに山が整備されているのは、人間が手入れをしているからである。つまり「不自然」なのだ。自然のままであれば、山は荒れ放題、生命力のある強い木々だけが生き残るはずだ。きれいな花など、生き残るすべはないだろう。

和歌山県出身の某作家が以前、荒れた山が自然の山であり、きれいに整備されているのは人工的な山で、それを知らない奴はほんとうの自然を知らないだけということを書いていた。その通りだと思う。

また、別なケースではあるが、「自然」に関する疑問を大久保利通が勝海舟に尋ねている。

「先だって、(明治維新後)京都の嵐山に行ったらすっかり荒れていましたが、どうしたんでしょう?」

と大久保利通。

「それよ」

ポン!と煙管で膝を叩いて勝海舟がいう。

「(嵐山が)今までできれいになっていたのは、人の手が入って居たからよ。そう幕府が費用を出していたのさ。幕府は金を出していたが、あんたらは(明治政府は)出していないだろ? だから荒れているのさ」

それから政府は口だけではなく、そういった経費も金を出すようになったという。

神社の自然はその逆のパターンだ。

もし神様がほんとうの自然を何万年も愛し続けて来たならば、人工的にきれいにされた風景を愛する理由がないであろう。じゃあ誰が喜ぶのか? 神社に関わる人間だと思われる。

以前、修験者が、山中で誰も参ることのないようなボロボロのお社を通り過ぎたとき、お社の中で楽しそうな話し声がしたという。中をのぞいてみると、清らかそうな神々様が、皆楽しそうにお話されていたという。

「人工的な汚さ」は論外にしろ、「人工的な美しさ」も神々様は好まないはずなのだ。むかしの教育勅語や主教団体の訓話のような厳しさが、神々様のこころの中にはたしてあるのかどうか(笑)。

適度な厳しさは人間にも必要である。しかし、神様が怒るよ云々などは頂けない。

電車内で我が子が騒いでいるのを「あんまりうるさいとあそこの恐いおじさんに怒られるよ!」というのと同じ。自分が不愉快なだけなのに、他者に責任転嫁して叱るなど、だらしない親の言い訳であり、とても躾とは言えるシロモノではない。

さて、話を本宮に戻すそう。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)とは、熊野三山の1つで、家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)を主祭神とする神社である。

素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別名とされるが特段の根拠はない。たぶん人気があるから併記したのだろう。明治政府が「記紀」を重視し過ぎたため、政府から予算を取るためにしばしばこういう事態が発生している。ご祭神かどうかは別に、五十猛神(イソタケルノカミ)のほうがこの社(本宮)に限って言えば縁が濃い気がするのだ。

延喜式式内社(名神大社)で、旧官幣大社にして別表神社であるが、紀伊国一の宮ではない。創建は崇神天皇65年とされ、平安後期にほぼ成立した信仰形態である。熊野にいらっしゃるから、熊野坐大神(クマヌニマスオオカミ)の他、いろいろなご神名がある。

また、唐(中国)の天台山から飛来したとも書かれてもいる(「熊野権現垂迹縁起」)

このころの中国は日本、いや世界の憧れの的であった。また、末法思想が流行っていたため、神様だけではなく、地獄行きの要素が多い貴族たちの中で一層「あの世」への不安が高まり、仏様の力も借りたい時代であった。詳しくは述べないがお釈迦様の広めたお法(教え)の賞味期限が来て、大変な世の中になるという思想とでもいうのだろうか(いい加減)。

ちなみに天台山とは、天台宗発祥の地であるが、道教の歴史も長い場所で、那智の滝のような大瀧があり、道教の神仙が住む景勝地の1つである。結局は道教などのおまじないが好きなんだよね、当時の貴族は。

【熊野本宮大社】(くまのほんぐうたいしゃ)
「八咫烏」の舞い降りし甦りの聖地である。といっても、他の2社との共通点である、「神武天皇」も「八咫烏」もここの境内ではご祭神とあまり関連性が見られないのが不思議であった。とにかく好き勝手もなんであるから、先に述べた通り、作法に従ってみた。

大鳥居の前で、お邪魔しますと一礼して、参道に入る。ちなみに、参道の中央「正中」は神様が通る道なのであるから中央は避け、右端を登り、左端を下るのが作法なのだ。まぁ・・・神様を封印しておいて何が「作法」だよと思わないでもないが(ご神名に「坐」(〜にます)とあれば、だいたいそれ)。

しずしずと、石段を登り、左手にある祓戸大神にごあいさつ。

「これから本宮大社に参拝に詣ります。日常の穢れをぬぐい去り清らかにしてくださいませ!」(作法だからね・・・)

その後もゆるゆると杉木立の中、158段の石段を登り、やがてご神域へと入って行くのである。やがて、開かれた空間が現れる。左手の手水舎にて清める(これも現代の風習なんだよなぁ。だいたい江戸時代まで爪楊枝で歯を・・・・強制終了)。

ちなみに、これらは文句ではない。古式ゆかしきと言うのに、明治以降のやり方を示しているのがおかしいと思うのだ。熊野・出雲・伊勢にそういうのは似合わないな。特に熊野には・・・・。

神門から先はご神域の地であるため、撮影禁止区域であった。許可をもらえば撮れるらしいが、まぁいきなりはね・・・。こちらには、神様のお社が複数あり、参拝にも順序がある。

@から番号通り参拝する。たくさんいらしゃるには、良くも悪くも妥協と相談の産物であろう。

ここのホームページがきれいにできている。おそらくWEBのプロに頼んでいるのだろうが、神社の方が作ったのではないと思う。であれば、ご祭神名が混乱して、わからなくても当然である。

もし、神社の人間が作ってこれならば洒落にならない。ゆえに外注だと思う。それくらいこれだけたくさん祭神がいても、合理的な集合体ではないから、混乱しているのだ。どうしてこういう相殿の仕方をしているのか自体不明である。

たとえば、熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神(『古事記』の表記)である。熊野本宮大社熊野速玉大神は『日本書紀』に出て来る速玉之男神は、伊弉諾尊が唾を吐かれ、このときに生まれた神であり、伊邪那岐神自身(『日本書紀』の表記)ではない。

しかし、ここのHP内では混同されている(ワザとかもしれないが)。まぁおおらかと言えば、おおらかであるが、本当は《熊野三山》の神々様はそれぞれ別物なんだよというサインではないかと考えられないでもない。熊野は初心者には難しい。


●熊野本宮大社の神々様とお会いできた●.jpg

●熊野本宮大社の神々様とお会いできた●



(上四社)
@証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊)
A中御前(結宮・第二殿) 速玉之男神
B西御前(結宮・第一殿) 熊野牟須美大神、事解之男神
C東御前(若宮・第四殿) 天照大神
D満山社         結ひの神(八百萬の神)



実際、ご神気が感じられるのは、証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神のお社である。ここだけが神門からもチラと見えて居るのが暗示的である。他はよくわからない(笑)。もちろんきれいなお社に違いはなく、神様も居るかもしれないし、そう考えて拝んでいるのだが・・・。

「ひゃ〜参謀」などは、

「証誠殿には神様いらっしゃるねぇ、他はわからんなぁ。だってここにいる理由がないんだもの。ほんと証誠殿はすごくいいね! でも素戔嗚尊かどうかはわかんないけどねぇ。ハハハ」

とのこと。参拝後はもちろん、おみくじタイム。結果は? まぁそれなりであった(笑)。
その後、佐藤はふつうの御守りをゲットした。

次は、参拝ルールに沿って、産田社を目指す。我々は今登ってきた山道をくだり、案内に従って産田社を参拝した。

【産田社】(うぶたしゃ)
こちらは新宮川の土手の側に鎮座していた。ご祭神は伊邪那美命(イザナミノミコト)の荒御魂である。こちらにも参拝し、参拝できたことに感謝を伝えた。

ここにはなぜか熊野らしい神気が漂う。これは本来の熊野のお社に近い位置にあるからだろう。本来伊邪那美命は本宮とは縁が薄い神様なのだが。


●ここが産田社●.jpg

●ここが産田社●



熊野坐大神とは、キリスト教的な神様である。いや、その教義の影響は少なからずミックスされているはずだ。キリスト教やユダヤ教がどうのこうのというと、トンデモ本的に聞こえるが、「記紀」が作られた時代にこれらの情報を「編著者」達は知っていた。なのにまるまるスルーするほうがおかしい。

この神様は、人間の原罪を背負って、代わる神様である。だからこそ、自ら水に流されることで清めているのであり、祓戸大神に待機して頂くことは不要なのだ。だから伊勢にもない。五十鈴川とそこから組む手水舎で清めているからだ。

出雲大社の場合は、少なくとも室町期にはしっかりした高く立派な社殿を作るようになっている。早い時期に流されることを拒む形に替わっている。再建の費用がかかるからだ。だから祓社で祓ってもらう略式になったのだろう。身体全部から手だけ洗うようになったのと同じ。まぁ低い土地だから江戸期になってもけっこう流されてはいるのだが・・・。

さて、熊野本宮大社の場合は、明治期になって大きく方針が変わった。木々が生い茂り、山に保水効果が高まっており、もはや「社殿を流されて人々の原罪を祓う」という性格の神社ではなくなっていたのだ。

じゃあ立派な社殿を作ろうかと、熊野の山々の木を切り、社殿の材料を集めたと思われる。それにより山の保水効果がなくなったのだろう。そのために大水で社殿が流されるという、皮肉な事態となったに違いない。明治政府ってやはり・・・。

産田社は、新たなものを生み出すというご神徳があるという。その神社と向かい合う形で大斎原の大鳥居が建っている。我々は、産田社に一礼をして、大斎原へ向かう。先ほどまでは、小雨程度だったが、ここに来て雨は大粒となった。

参道に沿って、両側には田んぼが広がっており、春が来るのを静かに待っているようであった。

【大斎原】(おおゆのはら)
こちらは、かつての熊野本宮大社があった場所である。それが先ほど書いた明治22年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみが祭られ、他八社は石祠として旧社地・大斎原に祭られている。

ここはまた凄いご神気である。現社地よりも重厚でビシビシくる。ちょっと比べるもにがない。現在の本宮は優しい、穏やかな気である。こちらはガンガンくる気なのだ。社地が静かであるだけによけい心に体に響いて来る。

この大斎原には二基の石祠が建てられ、左側に中四社下四社を、右側に境内摂末社の御神霊が祭られている。鳥居の中に入ると、こちらにも写真撮影禁止の立て札があった。いや〜ここは一見さん(いちげんさん)が撮ったらいかんでしょうw。

神聖な場所だからねぇ・・・と言いつつ、神社からすれば権威づけのためであろう。なぜならば、許可を取れば撮れるからだ。神聖な場所で許可を取れば写真を撮れる場所ってなんだか・・・、社殿内部じゃなんいだから。神職だって写真を撮ってるんだよ。自分たちはいいの?

そもそも、速玉大社や那智大社でも社殿の外部は写真を撮れるし、ここより古い成立の神倉神社でも撮れるのだ。大斎原はともかく、明治期にできた熊野本宮大社の社殿の外部の写真が撮れない理由は、他の神社と同じく、ただの権威づけに過ぎないだろう。


●これが旧社地・大斎原の全景●.jpg

●これが旧社地・大斎原の全景●


●熊野本宮大社旧社地・大斎原(写真は控えました💛)●.jpg

●熊野本宮大社旧社地・大斎原(写真は控えました💛)●



我々は雨に煙る大斎原をしずしずと進み、静かに参拝を済ませた(神々様に問題ない)。これにてルールに沿った参拝は終了! しかし我々には、まだまだせねばならぬことがある。それは、宝物殿を観ることであったw。

宝物殿は、先ほど行った本宮の神門前の授与所の側にある。我々は泣きながら再度158の石段を再度登った。そう、先ほどは昼休みで閉まっていたからだ。

その前に大斎原でエネルギーを再チャージし、あらためかえしておみくじを引いた(「大斎原」の分💛)。結果はどちらも「大吉」であった。さっきまで黄泉平坂を登る気分であったが、早々に再生した佐藤は、熊野牛王神符を頂いた。帰宅後、研究所の壁に貼りお護り頂いているのですよwww。

【宝物殿】
ホームページによると、ここには、室町・戦国時代の火災、明治時代の水害など幾度もの災害を免れ、国・県の重要文化財に指定された、貴重な宝物が収蔵されている。

江戸中期〜後期頃の製作と伝えられる「熊野本宮并諸末社圖潤vは、明治22年の大水害によって流失した大斎原の社殿が威風堂々と描かれ、往古を語る貴重な資料となっているという。

ここは絶対観た方がいいですぞ。

まぁ、この絵図を見れば、大水害があれば流れてしまうのは仕方が無いと思う(いや、そもそもそれが目的なのだ)。だからこそ、本宮は熊野川の中州に位置していたのだ。

自然環境の変化は、恐竜ですら鳥に変えるし、古墳に木々など、生えていなかったことが今誰が想像できるだろう?

その他、三角縁神獣鏡や、平清盛公が奉納したと伝えられる紺紙金泥経(水で膠にかわを溶き、金粉を混ぜた顔料を金泥と呼び、紺で染めた紙に金泥で経文を書いたもの)。

日本で東大寺についで2番目に古いとされる鉄湯釜(湯立神事に使用、入れてやりたい奴がいるw)や熊野本宮八葉曼荼羅(熊野比丘尼:熊野御師)が、熊野の霊威を広く衆生に知らしめるために用いた巻物)などなど、国や県の重要文化財に指定されている品物を観ることができる。

佐藤が1番心ひかれたのは、館内入口の側に置かれた本宮大社の「千木」であった。千木は、古代建築で屋根を組む際に、屋根の勾配を形成する垂木を交叉させて縄などで締結した形を踏襲したものだ。太古の形式の遺産と言ってもいい。

本来は建物の補強が目的だったが、時代が下るにつれて、装飾的な部材になり、古い伝統を踏襲した建物であることを示す物(良い意味での権威づけ)として、神様がお鎮まるになっている神社本殿に用いられているのだ。

こちらに展示されている物は、平成24年に行われた本殿修復工事のおりに、損傷が激しかったために交換された物である。実際に明治24(1891)年から120年以上にわたって第一殿、第二殿の屋根に載せられた物であると書かれていた。ふふふ、ここでも本物が見れたw。

ちなみに神社好きならわかると思うが、この千木の先端がとがっていると男神が、先端が平だと女神が鎮座されているとされ、社殿を観れば神様の性別がわかる・・・ことになっている。

しかし、これらの風習も権威づけであって、実際とは別。伊勢神宮だっておかしいでしょう? 両方女神様なのに違うし。とは言え、そういうことは公式には言わないのが大人である(笑)。

ともかく、神社検定参級を保持している佐藤とすれば、もう、この千木を間近に観られただけでも大満足!

思わずすりすりしたくなったが、そこは、ほら宝物殿の中ですから、「美しい」とため息をついて暫したたずんで観ていたのである。そして、宝物殿を出るとき、

「どうもありがとうございました!」

と係の神職さんにあいさつをして出ようとすると神職さんからも、

「ありがとうございました」

と笑みを浮かべて送り出してくださった。なんせ、昼過ぎの宝物殿は我々しかおらず、2人してうるさくない程度に、賑やかに観ていたからねぇ(笑)。どこの宝物殿でも自らの神社の宝に誇りを持って展示しているのだ。それを嬉しそうに観ている者を見れば、いやな気にはなりますまいて。

帰りは境内にあるカフェ・アロマで珈琲を頂きました。いやいや美味でした。次は熊野速玉大社を目指すぞ!(笑)


●本宮に戻ってカフェ・アロマでひとやすみ●.jpg

●本宮に戻ってカフェ・アロマでひとやすみ●



さてさて、花粉が飛び交う季節になりました。皆さまどーかご自愛ください。

●杜の郷 みるりいな・店データ
所在地:〒647-1702 和歌山県田辺市本宮町大津荷
営業時間:9:00〜18:00
電話:0735-42-0289
※2019年のデータです。ご確認の上、お出かけくだされ。



(行きつけのファミレスの小松さんが「卒業」しました。春から就職も決まり、新・社会人となるそうですが、おめでとう。平成最後の社会人として大いに活躍してくだされ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 17:16| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月02日

奮闘記・第1074回 見聞録/長崎県

●2019年● 長崎県五島市


日本の最西端、「みみらくのしま」・福江島をゆく!

〜 島中を電気自動車で、ゆらゆら南へ西へ(その2)〜



皆さま、新年あけましておめでとうごさいます!

昨年も新たな人々との交流もあり、充実した1年となりました。
今年も、昨年同様、対人援助スキルアップ研究所をよろしくお願いします。
昨年の漢字は“災”でした。今年は何としても“福”の年にしたいものですね。

今回のブログは、昨年(2018)の続き、長崎県五島列島、福江島での見聞録です。まぁ、2019年としながらも、昨年の話ですが笑納くださいませ。


この島は、長崎県五島列島の中では1番西南に位置し1番大きい島である。佐藤と研究所の「ひゃ〜参謀」と、“島の宿ごとう屋”での朝食後、電気自動車にて福江島を見聞して周るところから。


ちなみに、福江島や五島市の観光マップは長崎の本土でもなかなか手に入らない。時間があれば、福江港のターミナルに行くと充実していましたよ。


●ごとう屋の朝ごはん。丁度いいわ●.jpg

●ごとう屋の朝ごはん。丁度いいわ●



【鬼岳】
はじめに鬼岳をめざす。“鬼岳”は島の宿ごとう屋から6.5q・約17分にある。地元の人は「おんだけ」と呼ぶ。国土地理院での登録名は「おにだけ」である。まぁ日本語は標記が問題(最近それも怪しい)の国なので、読みなどはどうでもいいのだ(ホント)。

ここは、福江空港や福江港からもほど近い、標高315mの山である。全面が芝生に覆われ、その名とは裏腹に美しい流線形を描いている、堂々とした火山である。いまだに活動の兆候は微量だがあるらしい。島の方々定期的に野焼きをしているらしく、時期を誤ると火口を歩くと煤で真っ黒になるという噂。

我々が、鬼岳に着くと、そこには一足早く観光バスが到着していた。バスの中からは元気なバスガイドさんに続いて、元気とは必ずしも言えない、我々の「大先輩」が、「それなりに」ワイワイ、ガヤガヤと降りて来てガイドさんに続く。デイや特養の遠足かとも思える。

元気に歩く方、足腰をさすりさすり杖を突きつつ歩く方、それぞれがマイペースにバスガイドさんに続いて行く。

我々も息をひそめ(何で?)、一呼吸おいて後に続く、鬼岳には、展望台あたりまでは、なだらかな階段が備え付けられ、ルートに沿って登れる。その上には展望台があり、その隣りには鬼岳神社があった。我々はこちらの神々様にもごあいさつ。


●鬼岳神社にまず参拝●.jpg

●鬼岳神社にまず参拝●




そして、いよいよ鬼岳登山である(笑)。これが結構大変。なんせ、火山岩ですからねえ。あちこちごつごつしている溶岩がそこかしこにある。さらに芝生に映えている丈の長い草が足に絡みつくのよ。

“よいしょ、よいしょ”とかけ声をかけながら、遭難(笑)しないように互いに励まし合いながら登る。ここは火口の淵にあたる場所なのか、右手には、火口のような場所とカルデラのような盛り上がりがみえる。

とにかく、風が強く歩くのが大変。佐藤はぐるりと1周したい気持ちを諦め、下山(笑)した。


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●鬼岳に登山中●


●「わが大将は山だけは空海上人のごとく黙々と登るのだ!」(ひゃ〜参謀)●.jpg

●「わが大将は山だけは空海上人のごとく黙々と登るのだ!」(ひゃ〜参謀)●


●鬼岳山頂から見る福江港。映画「二百三高地」的心境である●.jpg

●鬼岳山頂から見る福江港。映画「二百三高地」的心境である●



【五社神社】
次ぎにめざすは、五社神社である。鬼岳から北に5q 約13分である。佐藤は、ナビに導かれるまま、今回の愛車・三菱車電気自動車のiMiEV(アイ・ミーブ)君を走らせる。しかし、音は静かで快適なんだが、エネルギー(電気)が微妙な距離で切れる。というか切れそうになる。ちょっとばかり、ウルトラマンの気持ちがわかったような気がするww。

神社の案内板には、下記のように記載されていた。

市指定有形文化財「五社神社の筥崎鳥居」この鳥居は、八幡鳥居と呼ばれる形式である。慶長19年(1614)それまでの居城であった江川城を焼失した藩主五頭盛利は、石田陣屋の構築、福江城下町の造成などを企画し、五島における中央集権体制を目指した。

盛利は、五社神社に参詣して工事の無事成就を祈願した。“千早ぶる 神の御前の石鳥居 くちはさせまじ 八百万代も”という歌とともにこの鳥居を奉納した。

この時期は「大浜主水事件」と言われるお家騒動が持ち上がった時でもあり、これらの難題を一気に乗り越えようとした盛利の内面が伺い知れる史料でもあるそうな。福岡の筥崎宮の鳥居(一の鳥居)に似ていることからこの名があると言う。


五社神社は、持統天皇の御世(695年)に天照大神(あまてらすおおみかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)の三柱を奉斎し、称徳天皇の御世(769年)に天児屋根神(あめのこやねのかみ)・姫神(ひめのかみ)を大和の春日大社から勧請して、合わせて「五柱の神」を祀ったらしい(単純明快)。他にも旧知の神様がたくさんいらっしゃった。


●五社神社の筥崎鳥居、本家も見たばっかり(笑)●.jpg

●五社神社の筥崎鳥居、本家も見たばっかり(笑)●



我々が付いた時は、神職さん達が境内を掃き清めているところであった。佐藤は、筥崎鳥居下で一礼をして中に入り、左にあった手水舎にて手を清めた。

すると、境内の側にある木々の間をメジロが黄緑色の体をくぐらせて飛んでいくのが見えた。ひゃ〜参謀にはカラス天狗が見えたとか(笑)。我々は参道をゆるゆると歩き、神門をくぐり境内に入る。

すると、そこにはご神気があふれ、凛とした空気が漂っていた。さすが、原・高天原(げん・たかあまがはら:実存のモデル)の候補地の1つとされるところでもある。

なんせ旧石器時代より、古墳に至るまでの貝塚・住居跡・甕棺埋葬群・祭祀遺跡が有ると言うのだ。なのに古墳がほとんどない。恐らく、何かの理由で集団で移動したとも考えられている。古墳は一族の移動と共に移動する。

応神天皇陵は元々福岡にあったと言われ、それが大阪まで移動して来たと言われる。だから、古墳や遺跡だけではなく、周りに同時代の遺構がどれくらいあるかが問題である。誰もいない所や、時期が合わない遺跡や古墳があったら怪しいでしょう?

宮崎でも福岡でも、中国はしばしば政権が変わり、その度に前政権とおなかよしだった国家は、安全な地へ移動する。いま穏やかな地方都市であっても、太古の昔からそうであったとは限らない。2500年前の江戸(東京)だってそう。何もない春を幾度迎えたかわからんし、いつから江戸と呼ばれたかすらわからないのだ。

右手には、焚き火ができる場所があり、そこで、女性が落ち葉焚きをしていた。「おはようございます」とあいさつを交し、拝殿前に立つ。参拝手順に沿って静かに手を合わせた。


神様、はじめてここに参拝します。佐藤と申します。

この島には昨日からあちこち見聞させて頂きました。

海岸線や、自然豊かで、景勝地にゴミひとつありません。

素敵な島ですね、来させてくださり有り難うございました。

また、参拝できますようにお導きください。

(ホホホ、長いなぁ〜。)


おみくじは、なんと“大吉”である。もちろん、絵馬を奉納したのは言うまでもない(笑)。そうそう、ちなみに佐藤の奉納する絵馬には、常にイラストが着いています。これは、「ひゃ〜参謀」からのメッセージなのだ(なんの?)。


●「大吉」なので絵馬●JPG.jpg

●「大吉」なので絵馬●



【大瀬崎灯台】
次は、大瀬崎灯台である。大瀬崎灯台は福江島の最西端に位置する灯台だ。五社神社からは西へ38q 約1時間の距離にある。

福江島を東西に横断する国道をゆるゆる行く。ナビ様に導かれ、行くと向こうに駐車場がみえてきた。そこには観光バスが駐まっていた。ナビはまだ先を案内している。ナビに示されるままに行くと、そこには空き地があった。

車から降りて周囲を見渡すと案内板が立っている。それを見ると、灯台まではここから徒歩で行くしかないようだ。しかもその距離が結構ありそうだ。そこで、灯台まで行くのを断念し、先ほどの駐車場に引き返した。

そして、遊歩道を歩いて行くと、眼下には断崖絶壁が広がった。ひゃ〜。遥か下方に真白い灯台を認めることができる。映画(「悪人」)で舞台になったらしい。


●遥か遠くに大瀬崎灯台が見える●.jpg

●遥か遠くに大瀬崎灯台が見える●



「あそこまで行けるのかな?」

「ホホホ。行けるらしいわよ。ほら、あそこに道があるでしょう?」

「あんなの道じゃない! おれは絶対行かないぞ。なんなら、大将ちょっと行ってきてくだされ。そんであそこ(灯台)から手を振ってくださいな」

「冗談じゃないわよ! あそこまで行ったら簡単に帰って来れないでしょう。往復4時間くらいかも!」



ということで断念。遙か彼方にある灯台を写真に納めて納得した。遠さは段違いだが、島根の隠岐の島町のローソク島に似ている。

ローソク島は船でしか行けないのだが、雨で行けなかった。いつかあそこは行きたいな。隠岐の村上さ〜ん、お元気ですか? 佐藤はまぁ元気です!

さて、今回我々が乗っている車は、電気自動車であるからにして、朝から福江島を右往左往して、合計80q程度走っている。そろそろ、充電が必要かな?

ということで、先ほど来る時に見つけて有った。玉之浦カントリーパーク前の充電所まで移動。この島には何か所か、島のどこからを起点にしても、短時間で行ける場所に充電所がバランスよく配置されている。この減り方だと充電所がまだまだ点在の本土ではなかなか心もとない。

とりあえず充電することにした。ただ、充電には30〜40分かかる。お腹も空いて来たから食堂でもあれば良いのだが・・・。ないのさ、これが。島にはまとまって施設があり、ここはない地域らしい。そんなこと言われてもな。

近くには、井持浦教会がある。かなり有名であるぞ。堂崎教会のようにもしかしたら、(近くに店があって)軽いお菓子でも手に入るかも!と言う甘い考えを思い浮かべつつ、教会に立ち寄った。


【井持浦教会(ルルド出現の聖母)】
もちろん、ここは教会であり、教会内にはむやみに入れる場所ではない。

「長崎の教会 五島」(http://www1.odn.ne.jp/tomas/gotou.htmによれば、明治28年(1895)全五島の司牧宣教を委ねられたフランス人宣教師・アルベルド・ペルー師の指導によって建立された聖堂で、島内における木造からレンガ造りへの移行のハシリとなった。

設立当初は両外側にアーケードを持つ、初のロマネスク風聖堂として名を馳せたが、大正13年(1924)室内拡張のためアーケードを堂内に取り組んだ。


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●井持浦教会の清楚な佇まい●



教会境内にあるルルドは、フランスのルルド(フランスで初めて聖母マリアが出現したといわれている地)を模倣して五島全域の信徒が島内の奇岩・珍岩を持ち寄り、明治32年(1899)に建設された。

聖母像は、本場ルルドの聖母像を求めて洞窟に収め、さらに本場の奇跡の泉から霊水を取り寄せ洞窟横の泉水に注ぎ入れた。日本最初のルルドで日本全国からの巡礼者は後を絶たないとある。そう、そのルルドを見学することはできる。


●「マリア様」にご挨拶●.jpg

●「マリア様」にご挨拶●



まぁ良し悪しというのでは全然ないが「聖なる場所のコピー」をいくら作っても、聖なる存在が降りて来てくれるかどうかは、また別問題のような気がしないでもない。

そう思いながら、教会の裏手に向かい、整備された場所に佇んだ。正面には泉があり、その泉を囲む洞窟には、マリア像が置かれている。「マリア様」は両手を合わせ、天を望んでいた。

こういうのをみると、キリスト教も仏教も、もちろん神道も、他の宗教も、神様に祈るという点では同じ、神聖な行為なのだなと思う。しかし、これを「人間を拝む」行為(たとえ聖人でも)に変えてしまうと急に胡散臭くなるね。

玉ノ浦は福江島の西の瑞に位置し、教会は波静かな入江の懐に抱かれるように小高い丘の上に建ち、出船・入船を見守っている。今でこそ、島内の道路網が完備し、不便を感じることもない・・・と言いつつ、いま大不便を感じているわけだが(笑)。

しかし、キリスト教迫害の嵐を逃れた時代、ここに住み着いた信徒はそれはそれは大変なことであり、相当なご苦労であったことであろう。キリシタンの迫害は、まさに「そこまでやるのか」というものだったからなぁ。我々は、「マリア様」に別れを告げ、車に戻った。まだフル充電とはなっていないが、その場を切り上げて次へ向かった。充電中も商売、商売(笑)。

なんせ、この日は夕方から仕事がある(第1073回にて報告済み)。充電後、再び福江島の中央へ戻った。


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●充電しながらも商談中である!●



【おっどん亭】
我々は、五島名物「五島うどん」を求めて、旅の宿ごとう屋のすぐ側にある「おっどん亭」に入った。

要するに、この界隈しか、飲み食い買う場所がまとまって存在しないのだ(笑)。先ほどいた、井持浦教会からここまでの移動距離は30q 約40分である。

ここ五島手延うどん・おっどん亭は、株式会社中本製麺の製麺所のすぐ隣に併設している食堂である。入り口には、お土産屋さんもある。われわれは食券を購入して席に着いた。佐藤はトリ天定食を注文。

できあがったら、カウンターまで取りに行く。すると、カウンター横には、「天かす」が置かれており、自由にうどんの上に載せることができる。ハハハ。「東京的自力天粕多目麺上散布謝謝」である。佐藤も天かすをたっぷりと入れて席に戻った。まぁふつう全然期待してないですよね、こういうタイプのお店(笑)。

しかし、「名物にうまいものなし」とは何処の言葉なのか? きっと、○△××県かな?(笑) ここのおうどんは細麺だがその分お出汁がからみ美味しい。

「いやこれ、ふつうにうまい。あふあふ」(「ひゃ〜参謀」

トリの天ぷらも美味である。ふう、満腹! ご馳走様でした。


●五島うどん、おっどん亭。これがまた・・・●.jpg

●五島うどん、おっどん亭。これがまた・・・●



【福江(石田)城】
「石田と名がつくモノにロクなモノはない」とは、「ひゃ〜参謀」の言葉であるが、その後、腹ごなしに、幕末、というか江戸期に幕府が作らせた最後のお城である(1年で役割を終えたが)。石田城こと、福江城まで行ってきた。

我々は再び福江港にある駐車場に車を置き、徒歩で城跡へ行ってきた。現在は、五島観光歴史資料館は福江城の二の丸跡に城の様相で復元されている。城壁はホンモノである。中には城山神社もある。

ここは、島内で一番安いおみくじ(ハハハ)で有名らしいが、本日はビニールでぐるぐる巻きに封印されて、おみくじBOXは使用できなかった。次回があれば、復旧をお願いしたいな。

五島観光歴史資料館は、秀逸で有る。まぁ、五島列島や倭寇、遣唐使などに関する情報は大変豊富であり、かなりいい出来で館内のVTRを見まくった。皆さまもお時間があれば、ぜひぜひご覧頂きたい。


●五島観光歴史資料館●.jpg

●五島観光歴史資料館●


●福江城の守護社・城山神社にて●.jpg

●福江城の守護社・城山神社にて●


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●福江城跡のお濠●



福江城は、幕末1863年に福江藩の最後の藩主・五島盛徳が完成させたお城である。いまでこそ、五島市の中心街であるが、当時は、三方を海に囲まれた海城であったという。幕府は「本気で」ペリーがこちらに来たら、砲撃させる気でいた。江戸から離れているから他人ごとなのだろう。そういう政府(といえるのかは疑問だが)だから滅びるのだろう。

幕末期の東シナ海の海上防衛や異国船の来訪に備えるため、城内にはフジテレビ近くの台場(これも同じ用途)よろしく、台場(砲台)が設けられていた。観たかったなぁ、その大砲。いまはこちらは敷地内に学校もできている。余談だが、関門海峡の下関側の川べりに硬貨を入れると「時間差で気の抜けた音が出る」大砲が思い出されるなぁ(笑)。

これにて、福江島の見聞は終了。佐藤は、その後、無事に仕事を終えた。次の日の朝、佐藤はホテルの送迎車で送って頂き、福江港から長崎に渡った。

おわりに、その福江港でのお話。

我々は例のしまとく通貨を2,000円位使えずに持っていた。お土産屋を散策して、朝食用のお弁当を買おうとすると、そこでもしまとく通貨が使えることがわかった。船は早い時間に出るのだが、お店はちゃんと早くからやっていたのだ。

そこで、佐藤はお土産に「五島 なんや餅」500円を2個購入した。このお餅、帰って家族と食べてみた。周りはしっとりとしたお餅で、中にはあんこがたっぷり。帰りがけにたまたま買ったお餅ではあったが、福江島の海を懐かしくなり、思い出して胸がキュンとなった瞬間であった。

福江島で関係して頂いた皆さま、有り難うございました。福江島は予想をはるかに凌ぐ、良いところでした。どうか皆さま本年もご自愛ください。


さて、今年も頑張ってブログを続けていきます。今年は、どんな出会いが待っている事やら楽しみです。ブログを見て頂いている皆さま、有り難うございます!ご自愛ください!

(「世界でもっとも美しい顔ベスト100」を批判し、某院長がのたまう。「美人かどうかは、コンピュータに任せるのが一番いいの。簡単だよ、コンピュータで顔認証して・・・」院長、全く正論ですが、それはそれでつまんないですよ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 18:20| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月10日

奮闘記・第1072回 見聞録/長崎県

●2018年● 長崎県五島市


日本の最西端、「みみらくのしま」・福江島をゆく!

〜 島中を電気自動車で、ゆらゆら東へ西へ 〜



さあてと。いよいよ長崎県福江島の見聞録である。

福江島は、日本で2番目にでかい島である(1番は佐渡)。長崎県の西南(東京からは西)にあり、東京・羽田空港から長崎空港に行くと、島には空路と航路がある。

佐藤は、島への移動方法を最後の最後まで迷ったあげく、ゆきは空路で、帰りは航路にすることにした。これまで天気でいろいろあったから、とにかく島に入っておかないと気が済まない。仕事に間に合わないと困るし。もちろん、例の研究所員も同行するのだ。

出発の日の早朝、いつものように「ひゃ〜参謀」を車に押し込み羽田空港へ向かう。なんせ、今回は出雲空港から隠岐空港と同じく、飛行機を乗り継ぐ移動である。ただし、今回は、航空会社が違うという問題もある(今のところ、JAL好き?)。

まず、羽田空港のJALの荷物預かりカウンターで、係の方に(必殺仕事人w)のお姉さんに、

「長崎空港で、ANAに乗り換えて、福江島に向かいますがうんぬん」と告げる。

すると「仕事人」は、ノート(マニュアル?)を引き出して、手続きを始めた。そうありそうで、なかなかない手続きなのかもしれない。

「うーんこういう姿がかっこいい」(佐藤)

多分手続きは、頭に入っていると思うのだが。それでも、こうして、ノートを開いて、自分の行為を指差し確認して行く。そこには無駄な行為はない。しかし、結構時間がかかっているし、同じことを何回もやり直したり、聞かれたりする(笑)。

「たぶん、(プレッシャーで)頭が真っ白になったのだろう」(「ひゃ〜参謀」)


我々は、十分余裕をもたせて来ているので、別段嫌な顔はしていない。それより手違いで荷物がどうかなる方がよっぽど困るからだ。

しかし、一般の客は、空港の手続きでもたつくと、「何しとんのや!」「さっさとやってくれ」的なプレッシャーが多いのだろう。

途中で何かの不具合というか、お姉さんのやりかた自体に不具合があったと思われる(「ひゃ〜参謀」)様子。

「少々お待ちください!」

と我々には、ややひきつった笑顔で断りを入れてからビューんと奥へ引っ込んだ。そしてしばし待つと奥から駆け足でカウンターに帰ってきた。


「お待たせしてすみません!」

と言いながら、最初からやり直して行く、しかし何度もやり直すw。

ところが、佐藤は「仕事人」に聞かれないので、

「あの〜、荷物は飛行機(JAL系)から飛行機(ANA系)へ移すことはできますか?」

と尋ねた。しかし、ここでまた「頭が真っ白」になった(と思われる)。


この方は、仕事はキチンとできるのだろう。しかし、まだまだ、見た目も若いし、経験不足かまじめで融通が利きにくいのだろう。一度やり始めると、修正や追加がまだ随時うまくはいかないようだ。

我々に応対しつつ、パソコンの手を休めることはなく、頑張っていた。そしてなんとか手続きを終えた。

「荷物は飛行機(JAL系)から飛行機(ANA系)へ移動するように手続きしました。・・・ただし、長崎空港では一度外へ出てANAさんへの搭乗手続きが必要なのでよろしくお願いします」とのこと。

すべての手続きが終了後、彼女は時間のかかってしまったことを詫び、我々を笑顔で見送ってくれた。トラブル自体は誰にでも起こり得ることだし、大したことではない。

「でも、これほんとうは初めにキチンと聞いて、確認してから打てばいいと思うんだけどなぁ。そうすれば何度もやり直さんで済むし。何か言われるたんびに全部やり直しじゃ、(頭が)真っ白になるよね。別に自分が大変なだけだからいいけどw」(「ひゃ〜参謀」)

そう。通常は先に乗り継ぎの有無と、荷物の移動を確認する。でも、彼女が「できる」と思ったのは、頭が真っ白になってからの「思考の立て直し」の方法と実践である。

適時のマニュアルの確認し、上司への相談、指さし確認を行いながら思考を戻し、きちんと手続きを終えたのだ。実際に恙なく、荷物も別会社間のリレーで、福江島で受け取ることができた。

ここが、JALの教育システムの凄みであろう。介護業界のことを思うと、やや暗澹たる気持ちになったが・・・。我々は、久しぶりにプロの仕事(危機管理)ぶりを見せて頂き、満足であった。

さて、長くなったが、こうして無事にJALは長崎空港へ着陸した。そして我々は言われた通りANAへのトランジットやらで約1時間くらい待った。


●長崎空港に到着●.jpg

●長崎空港に到着●



乗り継ぐ飛行機はプロペラ機である。やがて、搭乗案内が流れた。我々は前の方々に付いていくと、滑走路上に出る。そう、ここは徒歩にて飛行機まで移動する。地上整備員の方々が笑顔で道案内もしている。

我々が、機体をバックに記念写真を撮っていると、それを大変うれしそうな顔でみていた。自分たちが手塩にかけた飛行機に興味を持たれているのだ。仕事に誇りがあればこその笑顔であろう。


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●あれに乗るのですよ●



我々は飛行機から伸びる、タラップを登り中に入る。キャビンアテンダントは、こぼれんばかりの笑顔で乗客を迎えている。このようなおもてなしが旅行客をうきうきさせるのだ。


「まるで悪霊島に行く、金田一耕助の気分だな!」(「ひゃ〜参謀」)
「悪霊島?・・・・・」(佐藤)

やがて、すべての乗客が乗り込むと、彼女はタラップを収納し、飛行機はプロペラの音を轟かせて滑走路から飛び立った。


●機内はこんな感じ●.jpg

●機内はこんな感じ●



佐藤は窓側だったので眼下の景色を眺めて見て、かなり高いところを飛んで行いて驚いた。なんせ、隠岐に行った時は、海や島を観ることが出来たのだが、こちらは海もかなり遠くに見えた。ううん、長崎にある米軍との制空権の問題かもしれない。その後、約30分程度の空の旅を終え、無事に福江空港(五島つばき空港)に着いた。


●そろそろ着陸。けっこう高いところを飛んだ●.jpg

●そろそろ着陸。けっこう高いところを飛んだ●



空港では、今回お世話になる島の宿 ごとう屋さんのお迎えの方が、プラカードを広げ待っていてくれた。
レンタカーも 同じ場所で借りられたし、「しまとく通貨」も使えた。

ここでしまとく通貨にも少し触れておく。これは長崎県内の複数の島の市町で共通に使用できる「プレミアム付き商品券(電子地域通貨)」である。

旅行やビジネス・観光で使える6000円分のしまとく通貨を5000円で購入でき、3万円購入すれば、6000円のプレミアムが付くのだ(上限は1人3万円まで)。今回はホテルとレンタカー分を、3万円+プレミアムで支払うことができた。

ホテルは宿風で、家庭的な雰囲気のホテルである。宿は平屋で奥に浴室・反対側に食堂がある。冷蔵庫がかなりシンプルで小さいので沢山入らないのと、部屋に姿見(大鏡)が無かったぐらいで十分コスパは良かった。

レンタカーは、三菱車電気自動車の、iMiEV(アイ・ミーブ)君だ。三菱車も、電気自動車もおそらく初めてである。早速、我々は福江港へ向かったのであった。目的は、もちろんお昼ごはんである(笑)。

福江港近くの駐車場に車を入れ港に向かう。福江港ターミナル内には、チケット売り場や乗船待合場所、お土産やさんや五島市観光協会の窓口などがあり、ある意味、福江島の活動拠点と言える、賑やかな場所である。

福江島はコンビニ(ポプラ)も数店あるし、ショッピングモールもある。しかし、それぞれがかたまって存在しているのため、同じ通りを用事に合わせて、何度も通り抜けることになる。

佐藤は、自分のしまとく通貨を使い切ったので、所員の分で新たにしまとく通貨を入手した。

まぁ15000円で18000円の買い物ができるのだが、残っても払い戻しができないのがねぇ・・・。使えるお店も指定されているし、曜日によって休みだったり、早く終わったりで、以外と残ることになる。

福江港ターミナルのお店で、ご当地を代表するゆるキャラバラモン君をゲットした。このバラモン君は、あのばらもん凧をマスコットにしたものなのだ。ちなみに「ばらもん」とは、同地の方言のばらか(元気な、活発な)に由来するそうな。


●「もえる」ではなく、「もやす」という強固な意志を感じたw●JPG.jpg

●「もえる」ではなく、「もやす」という強固な意志を感じたw●



その後、福江港ターミナル2階にあるレストランの遊麺屋(ゆめや)さんに入った。ここは作先にチケットを券売機で購入するシステムだ。

佐藤は、「焼き魚定食」をゲット。運ばれてきたお膳には、ふっくらとした鯖が半身のっかっていた。

「おお、これぞ、島で食べるにふさわしいぜ!」

我々は大満足で車に戻った。駐車料金は0円! 1時間は無料なのだ。遅くなったがいよいよ見聞がスタートだ。


●福江港のレストランでお昼●.jpg

●福江港のレストランでお昼●



【堂崎協会(with 巡礼カフェ オラショ)】
福江港から北へ約10 km。時間で20分弱。電気自動車の操作にも慣れ(?)、快適に進む。やがて、右側に教会に似た建物を発見した。おしゃれだなぁと思ったら、なんとそれはトイレであったw(むかしPトイレをアンティックな家具のイスと間違えた介護職いたが笑えない)。

今回、福江島を見聞してみて、感じたのは、観光地であろう場所が「観光化されていない」こと(人があまりいないとも)。そのような場所でも、何処にもきちんとトイレがあり、きれいに整備されていた。

まぁ、中・・・などの外国人らしき方々が頻繁に来るところは、きれいさが維持できていないようだが、基本的に他はすごくきれいであった。

トイレは観光地なら重要である。あちこちらにないのならば、観光地を名乗ってはいけないと思う。トイレの前には駐車スペースが設けてあったのでそちらに車を置く。駐車場の前は海である。その海の透明度が素晴らしかった。


さて、ここ堂崎天主堂は、江戸時代からのキリスト教禁教令廃止以降、五島列島で最初に建てられた聖堂であり、現在は堂崎天主堂キリシタン資料館となっている。ちなみにいまだにその組織も続いているという。

教会の中央には、祭壇が設けられマリア像がおかれている。内部は木造で、ステンドグラスの模様は椿をモチーフとしている。外には、日本二十六聖人の1人で五島出身の聖ヨハネ五島の像も建てられていた。某H吉公は、日本の偉人(?)かも知れないが、トップに立ってからは国内外でろくなことをしていない。


●じゃ〜ん!ここが堂崎教会である●.jpg

●じゃ〜ん!ここが堂崎教会である●



駐車場から教会への向かう途中には巡礼カフェOratio(巡礼カフェ・オラショ)がある。店内は意外とひろく、普通にテイクアウトもできる上品なカフェである。

ちなみにオラショとは、ラテン語のOratio(祈祷文)が語源だそうで、日本のキリシタン用語として「祈り」「祈祷」と訳されている。

知らない言語を耳で聞き、カタカナで書いて(いわゆるディクテーション)いたこともあり、長いときを得て、日本独特のおまじないのようなものにもなっているが、おおむね内容は間違ってはいないらしい。さすがは外来文化の交流地点・長崎とでもいうべきか。

「ひゃ〜参謀」の調査によるとマドレーヌがうまいとのこと。本来であれば、店内で珈琲などと頂きたいのだが、先を急ぐ。我々は中マドレーヌを2個ゲットし車中で頂いた(マドレーヌには要飲み物、『失われたときを求めて』冒頭参照w)。 


【道の駅 遣唐使ふるさと館/白ヶ浜万葉公園】
今度は、進路を西へとり、島内唯一の道の駅、道の駅・遣唐使ふるさと館をめざす。移動距離約25qで、約40分。

 「ひゃ〜参謀」お目当ての品「道の駅のマグネット」がある(笑)。車の充電施設も完備されている。近くにある、白浜ヶ浜万葉公園に向かった。

そこには、遣唐使船を模した展望台がある。この船を観ることも目的のひとつだったが、行くと、なんとそこはアスレチックよろしく遊具もおかれていた。しかも他に誰もいない。


●遣唐船のレプリカ●JPG.jpg

●遣唐船のレプリカ●



佐藤は、緋色に輝く遣唐使船にのり、両手を広げ、白浜海岸を見下ろし、海風に吹かれた。その後は、約60mものローダースライダーに挑戦したw。置かれていたピンク色のシートを敷いて滑った。

「まさに《やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ》 (山本五十六大将の言葉)ですな。まぁやり過ぎの感も無きにしもあらずですが」


●「やって見せ・・・」(山本五十六大将・談)●.jpg

●「やって見せ・・・」(山本五十六大将・名言)●



とは「ひゃ〜参謀」 。再び車に戻るが、まだまだ充電するには早いかな・・・。このタイミングが難しい。


【高浜海水浴場】
道の駅から南下すること約6q、7分の距離にある。ここは天然の海水浴場としては、日本一の美しさを誇る白砂の海浜であり、遠浅で澄みきった海で知られる五島市を代表する海水浴場なのだ。
我々が行ったのは、日も西に傾きはじめた時間。まぁ、冬でシーズンではないが、それでも観光客はまばらだがいる。この島は人口(3万くらい?)に比してなかなか広い。


●日本屈指の高浜ビーチ!しかも人がいない●.jpg

●日本屈指の高浜ビーチ!しかも人がいない●



駐車場には、わナンバーのレンタカーが何台か駐まっていた。その方々と行き違いに海辺から去って行き、この東シナ海に広がる広大な海岸がわれわれ2人しかいないのだ。入れ違いでまた人が来るのだが(笑)。

そうなると、この浜は断然広い。行けども行けども砂が広がり、波打ち際に行くには時間がかかりそう。砂地が結構ぬかるんでいるので、波打ち際に行くのは断念した。

砂地には、白やピンクや真珠色に輝く貝のかけらがそこかしこに落ちていた。また、中には、ピース型の動物の足跡がある。どうやら鹿の足跡のようだ。まぁアルくまやイノシシだったら、こうもしてはいられないが。

我々は青い海、白い波、誰もいない浜辺を満喫し、再び車に戻った。


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●海岸に鹿が来ている●



【空海記念碑:辞本涯の碑】
高浜海岸から北へ11km、約24分。そこは東シナ海へ突き出た岬にある。ナビ様に導かれて行くのだが、どんどん道幅が狭くなり、対向車が来たらとうてい避けられない(意外と得意?)という場所を進む。

「某島根の安田の兄さんが、一本道で結婚式の列に合って、バックで1q戻らされたことがあったよなw」 (「ひゃ〜参謀」)

おいおい(笑)。佐藤は例のごとく車の中心で「対向車よこないでー!」と叫びながらも、何とかその場所へたどり着いた。ここは、岬の開けた場所に、空海上人像と辞本涯の石碑が立てられている。


●辞本涯の碑には悲壮感を感じない●.jpg

●辞本涯の碑には悲壮感を感じない●



遣唐使にゆかりのある三井楽町と第16次遣唐使船で唐に渡った空海さんが深く関わりのあることを広く紹介しており、その偉徳を顕彰するために、地元の有志によってこの地に建立されたらしい。

記念碑に刻まれた「辞本涯」の文字は高野山清涼院住職さんの書により、「日本の最果ての地を去る」という意味。航路に変更はあったが、遣唐船の最後の停泊地であったという歴史がある。

三井楽は、現在の地名では「みいらく」と読むが、歴史的には、三井楽は「みみらくのしま」と呼ばれていた。古くは、美禰良久(みねらく)の崎、美弥良久の埼(『続日本後紀』)などとも書かれていた。

いろいろな漢字の当て方は、わが国には、耳で聞いた人が「好きに当てて良い」という法則があり、実は江戸時代でも続いていた。現代人には、いい加減に見えるかもしれないが「漢字」の知識とは、その人の教養そのものを現している。

関係ないが、昭和50年代までは、免許の名前でさえ、実際とは違っていた。悪しき当用漢字や常用漢字の問題であるがここでは深追いしない。

みみらくのしまは、「亡くなった人を甦らせ、見ることのできる、西方浄土の地」の代名詞として信じられてきた。島の向こうは海であり、異国(中国)があるため、憧れや未知の不安が入り混じった感情で考えられたのだろうか。

特に『蜻蛉日記』藤原道綱母・著、975年ごろ成立)などの古典文学の文中でも、「亡き人に逢える島」(みみらくのしま)として語られ、歌枕としても定着していた(現在、当時の雰囲気が残る風光明媚な景観として、平成26年10月に国の名勝に指定)。

あの緋色に輝く遣唐使船で、東シナ海をゆくのだから、生きて帰ってくる保障はなかっただろうし、わざわざ正月に中国皇帝に拝謁するために困難な時期に渡っていったから被害も拡大した。

でも、佐藤はこの海、この景色を見て、なぜか「わくわく感」を感じていた。空海さんをはじめ、船に乗った人々は、船旅に不安を抱えながらも、新たな地を見聞する自分を想像し、高鳴る胸の気持ちを抑えられなかったに違いない。


●西の果てに陽は沈み、陽はまた昇る●.jpg

●西の果てに陽は沈み、陽はまた昇る●



そんな海を眺める私たちの近くを、孫と犬を連れた老人が軽く会釈をして遠ざかっていった。おや? ここは「みみらくのしま」。もしや以前に会ったことがある人たちかも知れない。


最後にも余談だが、佐藤の近所の○○山公園に昼間でも「幽霊が出る」という噂があったという。知人から聞いたある人がそれを確かめに昼間に出かけた。しかし、公園には犬を連れたおば様がいただけであった。空しく帰ったその人は知人に、


「どんなのが出るんだよ!」
「ああ、犬を連れたおばさんらしいよ」
「・・・・」



東京にも「みみらくのしま」があるのかも知れないなw。

さてさて、こちらにはお土産屋さんらしきものはないが、きっちりとトイレが完備されていた。ほんと素晴らしい。西の最果ての果てに来たが、まだまだ陽は沈みそうにない。宮崎や浜田以上に陽が長い感じだ。まぁ完全に陽が落ちると完全な暗闇になることにのちに気づくことになる。そろそろ、宿の方に戻るとしょう。

ここで気がかりなのは、電気を半分消費したと言うこと。まだまだ、夜の島も散策したいしねぇ・・・。

ということで、道の駅に戻って充電した。先ほどの柏崎から道の駅までは約7q、17分程度だ。道の駅はすでにカラオケ大会も終わり、先ほどの賑やかさとはうってかわって静かであった。


●ただいま充電中!●.jpg

●ただいま充電中!●



外の売店にて最後のソフトクリームを頂き、車の中にて充電を待つことに。この間にとうとう陽が沈み、あたりは暗くなってきたし、道の駅の方々もお帰りになった。

佐藤はまだフル充電ではないが、鵺(ぬえ)でも出るといかんので、途中で終了し、夕食場所へ移動した。

移動途中、五島シティモールに立ち寄り、中にあったダイソーにてお買い物(笑)。なぜか100均って、あちこち観ていると飽きないので時間が経つのが早いよねぇ。

外に出たらすでに真っ暗になっていた。


【レストラン・ミッキーハウス】
佐藤は対向車の明かりと、車の明かりを頼りにお店を探した。ほんとうに暗いぞ。道の駅から約18km、28分。そして偉大なる暗闇の中、その店の看板を見つけた。

お店で聞いたところに車を停め、中に入ると、カウンター席と、4人掛けの席が3つ。我々は4人掛けの席にすわりメニューを見た。そして、「ひゃ〜参謀」はハンバーグとエビフライ定食。私はハンバーグとミニグラタン定食を注文する。

店内は名前のとおり、ディズニー一色である(笑)。あちこちに年代もののミッキーやミニーオブジェが飾られていた。待っていると、小鉢に入ったサラダとあつあつのコーンスープが運ばれて来た。

その後、おのおのの注文したものがテーブルに運ばれて来た。うん。「ひゃ〜参謀」の選択に間違いなかった。グラタンもあつあつで、文句なし。我々は無口になって美味しく頂いた。近所の方々らしき方々も来ていた。


●夕食はミッキーハウス!うん?●.jpg

●夕食はミッキーハウス!うん?●



会計時に「しまとく通貨でお願いします」というと、女将さんがスマホを操作して無事に会計を済ませた。しまとく通貨を使用すると、お店の方が、画面にスタンプを押してくれる。そこには、しまうまのマークが現れるのですがこれがめちゃ可愛いのだ!! ふう、ご馳走様でした。

さてさて、今回の見聞録はここまで。さらに島はめぐりが続きます。おそらく見聞録も続きますので、続きましたらご覧ください。

皆さま、寒くなりましたね。くれぐれもご自愛ください!


●しまの宿 ごとう屋データ●
住所:長崎県五島市吉久木町699-3
連絡先:0959-88-9569
営業時間:チェックイン15:00/チェックアウト10:00
定休日:年中無休
駐車場:あり。また、福江港および五島福江空港からの無料送迎あり(要事前予約)。
HPhttp://gotoya.jp


※なお2018年12月現在のデータです。


(「推定無罪」という法治国家の原則はなく、国家公務員の給与は5年連続引き上げで民間平均より246万円も高い。こういう感覚を持った政府のトップに憲法改悪はして頂きたくないな!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 12:31| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月06日

奮闘記・第1069回 見聞録/長野県

●2018年● 長野県長野市


関越道から上信越自動車道をひた走るのだ!

〜戸隠神社を参拝し、鏡池にて青空を仰ぐの巻〜



さてさて、皆さまお元気でしょうか? 佐藤はドドーンと新潟県に入り、現在新潟市におります。そして本日から新潟県ホームヘルパー協議会さんの「訪問介護計画作成研修」(怒涛の後期)を行っています。

でも新潟市は、立冬を迎えるというのにコートもいらないくらい暖かいのですよ。さらに会場は、皆さんが持ち寄った訪問介護計画書の事例検討ということで、外気に負けないくらい熱いのですが・・・。研修会の模様は、後日「研修会のツボ」にて報告したいと思います。


そんで今回は新潟県に来るまでに立ち寄った名勝などの見聞録(前篇もあり?)をお伝えしましょう(笑)。

さて、佐藤は、例のごとく、「ひゃ〜参謀」を車のトランク(?)に押し込み、一路関越道を爆走した。今回は、雪国仕様(いわゆるスタッドレス)のタイヤをはいている。へへんだ。

なんせ、暖かいと言えど、天気予報は水もの。しかし、「いや〜外れましたねぇ、ハハハ」では済まないのだ。実際、新潟も初雪や初霜の便りを伝えていたのだ。

そこで、移動中の不測の事態に備えつつ、タイヤの負担を考慮し、左側車線優先で走行してきた。東京を出る時に降っていた雨も、関越道の上里パーキングエリアではすっかりあがり、徐々に雲が開けてきたのだ。

とうとう、埼玉と群馬の県境を流れる神流川を渡るころには、すっかり晴れ陽光がまぶしくなっていた。我々は進路を西に向け、「上信越自動車道」へ入る。めざすは久しぶりの戸隠神社だ。

移動ルートは、戸隠神社中社(なかしゃ)を経て、妙高高原経由で越後国一の宮居多神社を参拝したのち、新潟市へ入る予定となっている。その距離、たかだか450q余り。何か問題でも?(笑)

【戸隠神社中社】
我々を乗せた、研究所の藍色のデミオ・カナメイシ君は、上信越自動車道長野インターを降りて信州大学の前を右折し、そこから一気に山道を掛け登る。

途中対向車に、「降りて来ないで〜」と叫びつつ、難所「七曲りの坂」を何とか登り、無事に中社の駐車場に着いた。戸隠神社は、戸隠山の麓に位置し、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなっている。

戸隠神社のホームページに寄れば、その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々様である。ここらへんのアバウトさがいい。


●戸隠神社中社に参拝●.jpg

●戸隠神社中社に参拝●



奥社には、天照大神がお隠れになった岩戸を、放り投げたとされる天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)中社には、岩戸を開くきっかけ(岩戸神楽を創案)を提案した、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)が祀られている。これが神道でいうところの太々神楽になるわけだ。

天手力雄命は、長野県の冠着山(姨捨山)で、神代の昔に「天の岩戸」を背負って天翔けてきたが、この美しい峰にひかれ、ここで一休みして冠を着けなおしたという伝説もある。

余談だが、この神様(天手力雄命)は天岩戸事件後、須佐之男命(すさのおのみこと)を下界に「護送」する際に須佐之男命からスカウトされ、後の猿田彦命(さるたひこのみこと)になるという別伝説もあるのだ。

話を戻そう。


●御神籤は「吉」● .jpg

●御神籤は「吉」●



火之御子社には、岩戸の前で舞われた天鈿女命(あめのうずめのみこと)がお祀りされている。戸隠神社の太々神楽は、この神社に仕えていた社人によって古来より伝えられ、現在に至っているのだ。とは言え、すべての神々を参拝するためには、かなりの時間、戸隠に留まるしかないであろう。

そんで我々はその中でも中心を成している中社を参拝したのであった。奥社に行こうとしたら、信州名物・「リアル アルクマ」の目撃情報と警告があちこち貼られてたため、そちらへの参拝は断念した。

駐車場に車を置くと、そこには大阪県や兵庫県など、関西方面のナンバープレートを携えた車が多く停まっていた。早速、手水舎にて手を清める。その水は、戸隠山から湧き出るご神水であり、飲料可能とあった。我々はご神水を有り難く頂戴し、境内を歩いた。

境内には、子どもの成長を願う親子連れから、どんぐりの豊作を祈るクマの親子、登山客、外国人の姿もあった、って。ん?

佐藤は、今回の旅の無事とともに、再度こちらへ参拝に来ることができますようにとお願いをした。その後、恒例のおみくじタイムだ。

こちらは神職に寄るご祈祷みくじである。それは、神職に数え年(たいがいプラス1)を告げると、神職が社務所内に引きこもり、祭壇前らしきところにて、ムニャムニャムニャムニャムニャムニャ〜、祝詞祈念の後、PAN!PAN!PAN!と拍手を打ち、おみくじを引いて来て下さるのだ。

この「戸隠神社御神籤文」は、封筒におみくじが入っている。中には、その御神籤文が二つ折りにされ入っており、おみくじはお持ち帰りの上、日常の指標にしてくださいとあり。

開くと、御神籤番号と共に、天八意思兼命兆(あめのやごころおもいかねのみことのうらかたなり)と有り、結果は「吉」であった。

「是は万事思慮ふかく、人に用ひらるる幸い有るうらかたなり。されど、人の為に常々つかはるることありて見に苦労あるべし、随分こころをこめて、事を成す時には、必ず成就すべし、遠くおもひはかりて幸福を求むべし。」とあった。

佐藤にとっては、その通り!と腑に落ちるおみくじであった。お隣りの「ひゃ〜参謀」の結果は「平」らしいが、なんだかね。「ひゃ〜参謀」には、黄金の運気向上守を、自分ようには「芸能上達守」(赤)を所望したのだ。
その後、鏡池をズルズルとめざした。

【戸隠鏡池】
中社より、奥社に向かう道すがら、数分で、左側に「鏡池2q」の標識があった。佐藤は、標識に従い、左折し、山道を降りる。そこには紅葉を散策する人々姿が有った。ちなみに紅葉の時期の土日はマイカー規制がひかれ、車では入れないらしい。

ここは、映画「仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判」でも撮影に使われた。我々は平日だったので無事に鏡池の駐車場に車を置くことができた。

駐車場から鏡池に向かう道すがら「クマ出没注意」の札がかかっていた。そして鏡池の案内板の横にも、でかでかとクマ(リアル アルクマ)出没注意の立て看板が有った。

クマ出没というよりも、彼らの「生息場所」に、我々が出没しているのだ。であれば、そこは、ほら、くまさんには、登場して頂かないように願うしかないのだよ。我々は、鏡池の前の草原にたたずむ。ただ、佐藤は先ほどから、この草原(くさはら)に寝ころびたい衝動に駆られていた。


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●リアル・アルクマ情報が・・・●



●死んだふり(?)●.jpg

●死んだふり(?)●



なぜだかわからないが、とにかく地球が呼んでいるのだから仕方がない。佐藤は、ひゃ〜参謀に「寝ころびたい」と打ち明けるとともに、草原に勝手にあおむけに寝ころんだ。


「クマに寝たふりは通用しませんよ」



とあきれる「ひゃ〜参謀」を横目に、大地に手をひろげる佐藤。「う〜ん」この大地のみなぎる力、青く澄んだ空、戸隠の山々なんて心地良いのだろうか。


●鏡池に写る戸隠の山々●.jpg

●鏡池に写る戸隠の山々●



その後、池のそばにたたずむと、確かに池に山が映り込んでいた。「ひゃ〜参謀」に写真を撮ってもらい、その場から離れると、なんと池の表面に風が吹き小波がたち、先ほどまで凪いで映っていた山の姿が消えてしまったのだ。

その一瞬の出来事は、神々のなせる技としか思えなかった。その後、鏡池を一望できる、カフェレストランどんぐりハウスにて食事となった。ここで摂れるガレットとは、フランス・ブルターニュ地方の伝統料理である。我々はメニューの中から、ハムとチーズとタマゴとサラダのガレットを選択。佐藤は紅茶と共に頂いた。

ガレット(仏galette)とは、円形のお菓子を意味するフランス北西部の郷土料理である。こちらのガレットは、そば粉100%の生地でできており、注文を受けてから1枚ずつ手焼きしているのだ。

真白い四角いお皿に、蕎麦色の生地と、レタスをふんだんに盛り付けたサラダが添えられている。中を覗けば、中央に目玉焼きが顔(笑)を出しているのだ。もちろん「ひゃ〜参謀」の分はまだ来ない。手焼きだからねぇ〜。


●カフェレストラン・鏡池どんぐりハウス●.jpg

●カフェレストラン・鏡池どんぐりハウス●




佐藤は、お先に頂くことに・・・。ナイフとフォークを使って、端の方を切り取り頬張る。鼻に抜ける蕎麦の香りと共に、カリカリとした食感ののち、モチモチさが口の中に広がって行く。“美味しい”。

やがて、 「ひゃ〜参謀」にもアツアツのガレットが運ばれて来た。チーズとハムとガレットの食感がたまらない。時々、レタスのパリパリ感を楽しむ。

見た目は、「これじゃ夜まで腹にたまらんな」と思うシロモノなのだが、いえいえ、これが意外にボリュームがある(笑)。ちなみに、お店でクマの出没状況を伺ったところ、最近はほとんどないとのこと。まぁ、しかし、それはアルクマさんのご都合しだいですからねぇ。

さてさて、お腹が膨れたところで、上越市めざすことに。上越自動車道に入る手前には、道の駅・しなのがある。ここは、研究所の仲間ナウマン君の生まれ(?)故郷(笑)。道の駅の真ん前には黒姫山があり、隣りには妙高山が聳えている。

そこの自動販売機には、このような案内が書かれていた。いやぁ〜、このような案内は旅をわくわくさせる力がありますねぇ。まだまだ旅は続きます!


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●黒姫山をバックに(道の駅・しなの)●



●道の駅・しなのにて・・・・●JPG.jpg

●道の駅・しなのにて・・・・●



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●新潟へ向かうのだ!●



●新潟に到着し、朱鷺メッセにて、弥彦山と角田山を眺める●.jpg

●新潟市に到着し、朱鷺メッセにて、弥彦山と角田山を眺める●



■カフェレストラン 鏡池どんぐりハウスのデータ
長野県長野市戸隠2039-10
050-5595-5779 予約は不可
今シーズンは、11月23日頃~冬期休館。再OPENは4月下旬の予定毎月第3水曜日 
※5月、8月、10月は無休 (季節により時間変更 する場合あり)。詳しくはお出かけ前にネットなどでご確認ください。



(某区で「企業主導型保育所」で、保育士らの「一斉退職」が起こっていた。取材に対しトップは「給与の遅配はないが・・・」云々。でも辞めた側に取材すると「未払いあり」。これじゃ信用できんわな!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 15:53| 島根 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月13日

奮闘記・第1066回 見聞録/島根県

●2018年● 島根県松江市

新装!小泉八雲記念館を訪問するの巻

〜 館長が探求した曽祖父の面影 〜


皆さま、いかがお過ごしでしょう? 

すっかり寒くなってしまいましたねぇ。でもまぁあの暑さが懐かしくなることはまずありませんが・・・。

さてさて、前回紹介したハンザケ(オオサンショウウオ)君の子ども達であるが、ハンザケ自然館さんのブログによりますと、館内入り口に展示しているケージの中で、子ども達が、それぞれのたまごの中ですくすくと育ち、誕生間近とのこと。

もう、この館が近くにあったら毎日でもいきたいところですがね・・・。

近いどころか東京スカイツリーより高いビルをひっそり作っててもわからないくらい、のどかな良い場所ですから。それはまぁ羨ましいが。佐藤は自然館のブログを見ながら誕生を心待ちにしているのである。


今回まずは、そのころに立ち寄った小泉八雲記念館と小泉八雲旧居のお話。まあ、佐藤のブログでもおなじみの場所である。この記念館は2016年に改装している。であるからして、今回は改装してからは初めての訪問となる。

ここ、小泉八雲記念館は、昭和9(1934)年に、小泉八雲(ラフヵディオ・ハーン)先生とその妻・セツさんが、明治24年5月から11月までの6か月間新婚生活を過ごした小泉八雲旧居の西隣に新築された木造平屋建ての和風建築の館であり、松江市立の文学館なのだ。指定管理者制度により、今は、NPO法人松江ツーリズム研究会さんが管理・運営している。それはまぁいい。

それが2016年7月に、展示構成を拡充・一新し、ライブラリーやホール、ミュージアムショップを備えた小泉八雲記念館として、初代の小泉八雲記念館開館から82年、日本人・小泉八雲が誕生して120年の歳月を経て生まれ変わったのだ。もちろん、館長は島根県立大学教授の小泉 凡(こいずみ ぼん)先生である。先生は、小泉八雲(ハーン)先生のご曾孫である。

ちなみに

「私はその人を常に先生と呼んでいた・・・。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる・・・。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。」

これはまぁ某・夏目金之助先生の文章である。ハーン先生や司馬遼太郎先生など、文章が好きな作家の方々については、拙文のなどでも「先先」と付けてしまうので、そこんところはまぁスールーして頂きたい。

小泉八雲旧居に来るようになって数年の時。旧居に入る前に、「ひゃ〜参謀」のケータイに東京から電話があり、「今日、旧居に凡先生がいるら・・・」というところで切れた(笑)。

すると、たまたま旧居で、小泉 凡先生が、子供たちに、激しく「小泉八雲学」をレクチャーしている熱き凡先生を目の当たりにした。

全然違うのよ、ふだんは紳士なのにほんとうに熱く語ってたのよ。後に、凡先生にお話したら、「いや〜そうでしたか」と照れてましたが(笑)。

そう、佐藤は凡先生と、2013年に一度お会いしているのだ。そして、なんと彼が奏でるピアノを目の前で観たことがある(奮闘記・第901回)。

佐藤は、当時松江ツーリズム研究会さんが企画・運営していた伝説の「松江ゴーストツアー」に参加したことがあるのだ。もう、ほとんど追っかけ。

松江に通うようになってから松江駅前の松江テルサにあるチラシを手に取るようになり、その中の1枚にこの「松江ゴーストツアー」のチラシがあったのだ。それから、このツアーに参加したい、参加したいと思っていたのだが、なかなか日程が合わなかった。

それが、ある時、宿泊を前倒しにすれば参加できることがわかり、思い切って「ひゃ〜参謀」に同行を依頼。そしてそれがついに実現したのだ。

このツアーには、《カラコロコース》《へるんコース》があった。へるんコースでは、蓬莱吉日庵で、凡先生の講演を聴講し、そのまま蓬莱吉日庵で夕食を頂き、その後にカラコロコースの人々と合流し、『怪談』ゆかりの地を巡るというものであった(そのうち凡先生が多忙なのかへるんコースは無くなったようだ)。

なんと、この日の参加者は、我々ともうひと組のカップルのみ。チラシには参加人数が少ない場合は中止と書かれていたが、参加者が遠方からの場合は無碍にできないと案内をしてくれたかたが話してくれた。

ということで、我々は凡先生を独り占め状態(尋問に近い)にして、話を伺うことができたのだ(笑)。

いよいよスライドを交えた凡先生による講演が始まった。凡先生の講演は、ハーン先生の生い立ち、彼が歩んだ地域、その地域の方々(外国の方々)との細やかな出来事や関わりの報告が主な内容であった。

凡先生は、ハーン先生の足跡を現地に出向き、今でも恐らく丁寧に調査研究をしているという。曽祖父の軌跡が残る場所を踏みしめるように何度も訪問し、情報を更新しているのだ。いいよ、ほんと。

でも、昨今は、ヨーロッパもアメリカもテロが多過ぎて、凡先生が巻き込まれてないかが心配になるのだが。曽孫の凡先生が語るハーン先生の姿は、身内としての愛情がそこかしこにあふれていた。

凡先生は、自分が目にした風景を写真に撮り、それらを紹介しながら話を続けた。ハーン先生ゆかりの建物を訪れ、門前払いにされ、塩をまかれた話や、その同じ家で持ち主が変わると、家に入れて温かく迎え入れてくれてもらったりしたそうな。写真の日付がどんどん若返って行く。

ご存じのようにハーン先生は、アイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれている。出身地は、レフカダ島(リューカディア)である。凡先生は、レフカダ島の写真を解説する。その写真に描かれた風景は、紫煙る靄にしまなみが浮かび、眺めていると、松江の宍道湖の風景と重なった。

その後、ハーン先生2歳の時、アイルランドのダブリンに移り住む。まもなく父母は離婚し、同じダブリンに住む大叔母に引き取られることとなる。これでは宍道湖の夕日と重ねるようなゆとりはないかも知れない。恐らく、ほんとうに単純に宍道湖が好きだったのかも知れない。

凡先生は、ハーン先生の母・ローザさんについて、こう語る。

「ギリシャ生まれの彼女は、イングランドの気候に慣れなかったのも離婚の一因ではないかと」話してくれた。まぁ、しかしあの気候に慣れるのは、日照時間の短い秋田県に関東人が住みにくいのと似ているかも知れない(笑)。つまり難しい。

また、画家・安野光雅氏が、ハーン先生の母親の面影を求めて ギリシャへと渡り、その親戚であるという女性の家を訪ねた。そこで彼女が写った写真の存在について調べ、情報を収集して、アドバイスを受けながら、一枚の肖像画を描いたという。その安野さんが描いたローザさんの肖像画もスライドで見せて頂いた。

凡先生によれば、ハーン先生は、2歳の時に別れた母・ローザさんのことを慕っており、ずーと会いたかったという。母の肖像画が存在するならば、全財産をつぎ込んでも手に入れたい、と語っていたという。

その後も、ハーン先生には、阪神タイガースのK前監督や八戸学院大学の監督さんのような不幸が重なっていた。

イングランドの神学校に在学中、16歳の時に左眼を失明し、父が病死。翌年に大叔母が破産するなどで学校を退学する。その前後にはフランスでも教育を受けているのだ。19歳でアメリカへ渡り、24歳の時には、新聞記者となる。凡先生は、アメリカでハーン先生が暮らした場所も詳細に調査し、写真に収めている。

ニューオーリンズにも、同じようにゴーストツアーが存在し、そのツアーを大人たちも進んで参加し、楽しんでいるという話も伺った。

その後、ゴーストツアーにちなんだ、西洋社会でのゴーストや精霊たちにまつわる話をしてくれた。ハーン先生が生まれたギリシャにも精霊たちの話があり、こちらではゴーストツアーもあるという。そのツアーも大人が参加し、定番になっているという。キリスト教の世界観ではちょっと考えにくいものである。

まぁ最終的にハーン先生は、日本の阿弥陀信仰(仏教)とキリスト教の類似点を見出し、総合的にキリスト教に回帰していったのだろうと勝手に思っているのだが。さて・・・。これはイエス様やお釈迦様が云々という観点ではわかりにくいかも知れないが、宗教はあんまり得意ではないのでここまで。

こうして凡先生は、約小1時間、ハーン先生の遍歴を織り混ぜながら、世界で、小泉八雲の功績が高く評価されていること、小泉八雲が晩年を過ごした日本でも、このゴーストツアーを行うことにより、小泉八雲こと、ハーン先生が日本に残してくれたものを継承したいと考えているようであった。

そして最後になんと凡先生がピアノを弾いてくれたのだ。しかもその曲は、聞き覚えのある曲であった。なんとも胸の奥から哀愁があふれ、思わず胸が熱くなっていた。

凡先生はピアノで2曲披露してくださり、講演は終了となった。

「実は僕、楽譜は読めないんですよ(笑)」

と照れながら話してくれた。真偽はともかく、とても素晴らしい演奏であった。

「凡先生が譜面が読めない? まさかそんなぁ。だって世田谷区生まれのボ・・・(強制終了!)。恐らく読めるはず」

とは「ひゃ〜参謀」www。危ない!


あれから5年。佐藤は、今回、新装・小泉八雲記念館を訪問して、あの日に凡先生が語ってくれたことを思い出していた。


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●新装・小泉八雲記念館である!●



今でこそ、ハーン先生がセツさんとは、晩年あまりうまくいっていなかっただろうこともわかるし、松江から出て以降、海に行くのも、たいがいは太平洋側、そう海の向こうにアメリカが恋しかったに違いない。おそらく穏便に別れられれば、アメリカには一雄さん(長男)を連れて帰りたいという願望があったのだろう。

ハーン先生は、日本の食べ物は得意ではなかったし、日本語もあまり覚えていない。これも当初は帰国する気であったからだろう。

でも、これは批難しているのではない。よく故郷に帰りたい思いの中でその不満を漏らさず、死ぬまで日本で頑張ってくれたなぁと感謝の気持ちしかないのである。欧米から日本に来るなんて、東京から島根に住むどころではないのだ。

しかし、ハーン先生は、日本人は口にしなければ、そして文章にも残さなければ、それらの(アメリカに帰りたいという)気持ちを「なかったもの」として考える性質であることを知っていた。

日本人は明治時代から「文献主義」(文字に残って居ないものは、存在しないという共同幻想)なのだ。ハーン先生は、良き日本の喪失に対する不満以外は、日本や日本人を批判する著作がないのを見てもわかる。先生は、それが母国や欧米でできなかったからこそ、各国を転々としていたのだから・・・。


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●館内は相変わらず写真ではお見せできません●



さて、館内には、3つの展示室と、2階へあがる階段のスペースを活用した階段展示があり、2階は多目的スペースと書庫となっていた。

展示室1は、「その眼が見たもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」というコンセプトのもとに、ハーン先生の生涯を編年で紹介している。

壁には、ハーン先生の生涯が、年表で綴られており、その周囲には関係者の写真などが掲示されている。これこそ、凡生生が長年、ハーン先生の面影を求めて、諸外国をまわったときに、実際にみた物、聞いたもの、心に響いたものだったのではないだろうか。

佐藤はハーン生生の人生を振り返りつつ、この軌跡を追い求めた、凡先生の姿を追っていたようにも思う。

それはまさしく5年前のあの蓬莱吉日庵で凡生生から直接話を聞くことがなかったら、このような思いは持たなかったであろう。まさしく時はつながっているんだな〜とつくづく思うのだ。

そして、展示室2には、ハーン先生の事績や思考の特色を「再話」「クレオール」「いのち」など8つの切り口から描き出している。ここには、ハーン先生が利用していた机や椅子と共に、静岡県焼津の山口乙吉さん宅が再現されていたのだ。


もちろん、佐藤は静岡県の焼津市の記念室へも行ったし、愛知県の明治村でもこの乙吉宅の部屋と、だるまをみている。また、島根県の隠岐の島の所縁の品々も展示されていて、すべてが懐かしく走馬燈のように私の周りを回ってた。

そうそう、展示室1から展示室2に入って。すぐの左には大人が2人程度が入れる空間がある。それが「再話コーナー」である。そこでは、なんと、『怪談』の朗読を聞くことができる。

ナレーターは、もちろん島根県出身・佐野史郎氏。静かな空間の中にあの声が響く(笑)佐藤は「かきつばた」を聞いてしまった。いやぁ。佐野さんの声がおどろおどろしく、暗闇から追いかけて来そうであった(笑)。

外国人向けの英語の解説だけではなく、英語のネイティブの朗読による『KWAIDAN』も聞くことができたら喜びます。

もしや外国人向けの解説の中に一部あるかもしれない。いや、知らないだけですでにあったのかも知れないが、それなら次回のお楽しみである。

On the Akasaka Road, in Tokyo, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka・・・・.

これは、有名なハーン先生の原文の『KWAIDAN』MUJINA(むじな)の冒頭である。

かの作家の三島由紀夫氏や、大大ヒットした「広辞苑」(第二版)の編集委員長を務めた大野 晋先生がこの冒頭をよく口ずさみ、

「素晴らしい文章は外国語でも、日本語でも、いいリズムを持っている」

とベタ誉めであったそうな。ならば、ぜひネイティブでの音読も聞いてみたい気がする。だってハーン先生は、英語でセツさんに聞かせていただろうから。作品が翻訳されたのは戦後の話である。そもそも、ハーン先生の当時の読者は欧米人であり、英語で書かれていたのだ。

いや〜できれば、箱根の星の王子さまミュージアムのように、小さいスペースでもいいから、アメリカの新聞記者時代の「想定されるハーン先生の机まわり」も見てみたい(「ひゃ〜参謀」)。いろいろ興味は尽きないのであった。


また、新装記念館に話を戻す。

階段展示には、ハーン先生とその子ども達の写真も、多く展示されており、その表情は、写真を撮っているそばにいるであろう、ハーン先生やセツさんに向けてほほえみかけ全てに愛があふれているように見えた。そして、同時に凡先生の祖先を敬う気持ちがそこには現れていた。

このように、資料の研究など、ご子孫で一手に引き受けてくれるかたがいるのは、我々読者やファンには有り難いことである。

展示室3は企画展示コーナーとしてあり、現在は「八雲が愛した日本の美」として彫刻家荒川亀斎と小泉八雲と題して亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」が展示されている。

でも、申し訳ないが、「あの」人形は可愛くない感じがビンビンするんですけど(笑)。もし、家に置いてあったら、ちょっと怖い。昔のホラー映画のチャイルド・○レイを思い出しそう。でもハーン先生、布団に寝かせたりしてるんだよなぁ・・・、強メンタルとしか・・・。


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●記念館の催し物のご案内●



小泉八雲の記念館のホームページによれば、

荒川亀斎は、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生。幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家。

1890年8月に松江に赴任した小泉八雲が、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了され、その作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知り、さっそく亀斎の工房を訪ねます。小泉八雲はその腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし意気投合したという。

ここでは、八雲が見出した郷土の作家・荒川亀斎の作品およびその周辺を紹介するとともに、著作や西田日記などの中に登場する亀斎とのエピソードをたどることで、小泉八雲の審美眼・美術観を探り八雲の新たな側面を紹介している。

また、小泉八雲記念館が所蔵する荒川亀斎の作品をはじめ、最近発見された亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」(人形劇の図書館蔵)を初公開しているのだ。

いやはや、凡先生、相変わらず飛ばしてますねぇ(笑)。1日いても見切れませんよ。ホント。解説文などは外国人さん向けには英語の案内もあるので、外国人さんも満足されること間違いない。


その後、我々は聖地・小泉八雲旧居を訪問。玄関先では瑠璃柳が可憐な紫の花を付け出迎えてくれていた。また、南向きの百日紅はまだ赤い花を付け、庭には、秋の花である吾亦紅と桔梗が咲き誇り、その上を赤とんぼが飛んでいた。


●もちろん、こちらの聖地・小泉八雲旧居にも参拝(?)●.jpg

●もちろん、こちらの聖地・小泉八雲旧居にも参拝(?)●


●こちらは写真も大丈夫!●.jpg

●こちらは写真も大丈夫!●


●ここで暮らしていたんだよ!ハーン先生が●.jpg

●ここで暮らしていたんだよ!ハーン先生が●



西の庭には、大きな木瓜の実がたわわとなっていた。受付の方曰く。今年は木瓜の実が多くなりましたとのことであった。確かにたくさん実っていた。北の庭の池は鏡のように池の周りの松や椿の木々を写していた。ここはやがて雪に覆われ銀世界となる。

さてさて、ズーッといたいところではあるが、そろそろ出雲空港へ向かわないといけない。帰りがてら、道の駅・秋鹿なぎさ公園にある、レストラン・フォーシーズンへ寄ってランチを頂いた。


●松江のたんぼ・たんぼ・たんぼ!●.jpg

●松江のたんぼ・たんぼ・たんぼ!●


●宍道湖はいつでも素晴らしい●.jpg

●宍道湖はいつでも素晴らしい●


●道の駅・秋鹿なぎさ.公園に到着●JPG.jpg

●道の駅・秋鹿なぎさ.公園に到着●



でも、やはり客商売のプロフェッショナルってすごいなと思った。佐藤がそれはそれは久しぶりに、スルッと入店したのだが、厨房の方から、わいわい話しながらチラと見て、

「いらっしゃませ!」

という声のあと、

「あれ? 今の佐藤さんじゃないの?」

という声がしたのだ(笑)。何年振りかで店内をスーッと通ってもなかなかわからないよね、ふつう。

いや〜、気付いてくださりありがとう。久しぶりに宍道湖を眺めつつ、食事を頂きました。食後、会計時に店長と歓談。お互いに体のことを気にかけあいました。


●やはりフォーシーズンはいいなぁ●.jpg

●やはりフォーシーズンはいいなぁ●


●これが「ひゃ〜参謀」のお気に入りバーグ●.jpg

●これが「ひゃ〜参謀」のお気に入りバーグ●



【追記】

もちろん、松江に寄って、白潟天満宮売布神社佐太神社などにも廻りました。


●久しぶりの白潟天満宮だが、手水舎の龍さんが消えていた(泣)●.jpg

●久しぶりの白潟天満宮だが、手水舎の龍さんが消えていた(泣)●


●売布神社でお塩入りのお茶を頂きました●.jpg

●売布神社でお塩入りのお茶を頂きました●


●こちらも懐かしの佐太神社●.jpg

●こちらも懐かしの佐太神社●



湖陵町差海のイタリアンのクッチーナ・バッカーノ(Cucina baccano)にも行きましたよ。一時期お休みしていたみたいですが、再開しており、ピザもパスタも以前の味のまま、美味しかった。こういうお店が再開するとうれしいです。皆さんもどうぞお近くを通ったら寄ってみてね! また島根県の見聞録が続くやも知れませんよ。さて?

島根には、湖のそばにうまい店有りですから(笑)。皆さま、くれぐれもご自愛ください!



●吾輩は初めて出雲空港に凱旋できた。ハハハ●.jpg

●吾輩は初めて出雲空港に凱旋できた。ハハハ●



(巨人の某S選手が若いころ、ボール球を振って三振。ベンチのH監督が「ボールを振るからダメなんだ!」という小言に、背中を向け「自分は(ボール球を)振らなかったんかよ!」と小声で悪態をついたそうな。監督はともかく、周りにはしっかり聞こえていたという。H監督はボールを振るどころか、ストライクだって見逃したから!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 19:46| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月17日

奮闘記・第1065回 見聞録/島根県

●2018年● 島根県邑智郡邑南町

【緊急!】

特別天然記念物の宝庫
〜オオサンショウウオは、育menなのであった〜



お久しぶりです。皆さまお元気でしょうか。佐藤は書類仕事がもう、たまり過ぎて・・・です(笑)。

さてさて、今回はこちらもエラく久しぶりで島根県に行って来ました。ハハハ。今、最も旬な情報なんで、そちらの話をお伝えしたいので、その時の見聞録をご報告したい。


●まずは久しぶりの出雲大社石見分祠から!●.jpg

●まずは久しぶりの出雲大社石見分祠から!●



佐藤が同館を訪ねた日の夕方、瑞穂ハンザケ自然館で、調査研究のために飼育されているオオサンショウウオがめでたく出産(あえて産卵とはしない)した。

この瑞穂ハンザケ自然館は、島根県邑南町(おおなんちょう)にある。邑南町は、島根県の中部に位置しており、自然豊かな町で、島根和牛などでも有名な所である。

今回は、用事を済ませた後、邑南町に、なんとオオサンショウウオのいる自然館があると言うので、行って来たというわけですよ、ええ。

その邑南町では町をあげて、日本の特別天然記念物のオオサンショウウオが生活できる環境維持に取り組んでいるという。

このオオサンショウウオは両生類のため、水が綺麗な清流でなければ生きていけないのだ。そのため、町では生活排水を川に流さない取り組みを行って、オオサンショウウオが生息できる環境を作りあげた。

ひとくちに生活廃水を川に流さないと言っても、町民一人ひとりがこの取り組みに理解を示さないとまったく始まらないから、そう簡単なことではなかったはずだ。

その結果、その取り組みが身を結び、今では、町民が生活しているすぐそばでこのオオサンショウウオを観ることができるようになったという。これは凄すぎる!

ここの自然館のパンフレットによれば、邑南町の一帯ではオオサンショウウオのことを親しみを込めて「ハンザケ」と呼んでいるそうな。

その由来は、一説には、口が大きくて半分に裂けて見えるからだとか、半分に避けても生きているからなどと言われているが、定かではないそうな。ああ、そうですかい・・・。

このハンザケは世界最大級の両生類で、昔ながらの姿を変えないで生き続けていることから「生きている化石」と呼ばれている。ほほう、生きている化石がいるとな!それは是非観たいものである。


ということで、今回も東京から拉致(?)・同行している、「ひゃ〜参謀」(もう果てそうだが)を急かして定宿の浜田ワシントンホテルを飛び出した。

浜田道を爆走し、ハンザケ自然館を目指した。その自然観は浜田道大朝インターを降り、道の駅・瑞穂(みずほ)に行く手前にあった。看板が意外と小さいのでそれを目的に行かないと見落としてしまいそうだ。


●瑞穂ハンザケ自然館●.jpg

●瑞穂ハンザケ自然館●



入口を入ると、髪を腰くらいまで伸ばした細身の女性(おそらく、岡さん)が「いらっしゃいませ!」と迎い入れてくれた。

入館料を払い、キョロキョロ見回していると、「どちらから来られましたか?」と尋られた。そこで、東京から来ました。こちらでオオサンショウウオが観られると伺ったので!!」と返事を返す(「ひゃ〜参謀」がリサーチ済み)。

すると、岡さんは我々を入口横のケージに案内し、しばしオオサンショウウオと町の取り組みを熱く語ってくれたのだ。いや熱い! 動物や考古学、美術などの専門家は対象に愛情を持っているから妥協がない。

そこでの話が、先述の町をあげて環境整備を行ったという話なのであった。佐藤が「町をあげて取り組んでいるとはすごいとですね」と話すと、

岡さんは「そうなんですよ。この取り組みは本当にすごいことなんです。だけど、あまり他者には知られていなくて、私はこの町の人はその宣伝が下手だと思うのですよ。もっとアピールしても良いのではないかと思っているのです」とおっしゃる。

そうそう、その通り。私も沢山の人々を知っていますが、皆さんそれはそれは謙虚な方が多いですからねぇ。《島根は自然豊かで美味しいものが沢山あるから素晴らしい所ですよ》などと言っても、「そうですか? イノシシやテンやクマなんかが出るところなんだよなぁ」とかわされ、佐藤の言葉を素直に受け取ってくれませんからねぇ(笑)と佐藤。

でも宣伝しないからこそ、このままでいられると思うし、台風の被災地で火事場○○するような連中が集まって来ても困るしな・・・。そもそも価値もわからんだろうてwwとは「ひゃ〜参謀」

会話を交しつつ、ケージの中にいる4歳(?)くらいの、まだまだ、小さなオオサンショウウオ君たちを眺めてた。


●若きハンザケ君●.jpg

●若きハンザケ君●



まぁ、まだまだ体は小さいが、まん丸い顔に大きな口を蓄えてそれなり顔つきをしている。この口を開けたら、まさしく《ハンザケ》にふさわしい。

「オオサンショウウオは、ほとんど目が見えないのですよ。だから口の周りに来たものは何でも食べて(噛んで)しまうんです。だから、共食いになることもあるんですよ」と岡さん。

ケージの個体を指しながら、「こちら個体は、あちらの個体に指を食べられたんです。でも徐々に再生して指らしくなってきたんですよ」と説明してくれた。

うーん、なるほど! 見れば2匹のうち1匹は指が短いようにも見える。確かに危険だが、それでも可愛いものは可愛い! 私と、 「ひゃ〜参謀」(無類のサメ好き)が「可愛い、可愛い」を連呼していると、突然「実は今この館にいる個体が出産の時期を迎えているんですよ」と彼女は話し出した。

そして、「オオサンショウウオは、巣穴を掘って、毎年同じ場所で産卵をするんですね。産卵の時期になるとオスが巣穴に入り、巣穴の掃除をはじめ、メスを迎入れる準備をするんですよ」。そして、「館内にも巣穴を展示してありますが、そこのオスが掃除をして、メスを迎入れる準備をしているんですよ。それで、今朝からその巣穴の近くにメスが寄ってきているんです」と。

「観に行きますか?」と言いつつ、すでに足は展示室の方へ向っていた。我々は「お願いします」と言いながら、岡さんの後を追う。奥の方から「こちらです!」と、我々をケージの前に誘った。

そちらに行くと、なんと水槽の中にドカンを縦に埋めて、横をドーム型に切り開けて・・・、言うなれば雪のかまくらのような形のもの。そこから焦げ茶色の円盤型の顔らしききものが外に出ていたのだ!


●出た!大物のハンザケ君!!●.jpg

●出た!大物のハンザケ君!!●



●目が悪いから、なんでも噛んじゃうもんね!●.jpg

●目が悪いから、なんでも噛んじゃうもんね!●



そして、その横には、暗黒色の丸い棒のようなものが横たわっている。水槽の明るさに目が慣れてくると、それは紛れもなく、メスのオオサンショウウオちゃんであった。しかも、その2匹はいそいそと意思表示をしているのである。ハハハ。

彼女の説明によると、「巣穴の中にいるのでかいのがオスで、巣穴の掃除をしていたので顔の上に砂が乗っています」とのこと。

うん、確かに顔の表面に砂のジャリジャリ感がある。そして、「入口の横にいるのがメスでお腹が膨らんでいる」という。確かに見れば胴体のお腹がプックリと膨らみ今にもはじけそうである。でも、産卵すると、オスがメスを巣の外に出して、子育てをオスがするらしい。ハハハ。まさに育menだな。


●こちらがメスでなかなかのシャイ●.jpg

●こちらがメスでなかなかのシャイ●



我々は、もう夢中になって2匹を眺めていた。

その間、オスがしきりに巣穴から顔から肩くらいまでを出して、メスの方を覗き込んでいる。一方のメスは、オスの姿を捉えつつも、裏側へ姿を隠してしまったのだ。

メスは、我々を察知して隠れてしまったのかもしれない。そりゃ人生(一生?)の一大事ですからね。メスが過敏になるのは当たり前ですよね。

我々はメスが隠れたあとも、しばしその場に留まり、オスを観ていた。すると彼はするすると首を水面に伸ばし、水面に鼻だけを出してブクブクブクブクと呼吸を始めたのだ。


●でもかわいいな●.jpg

●でもかわいいな●



そりゃ両生類だもの! 爬虫類だもの! 呼吸は必要だよね。ただ、その呼吸は、今にも鼻の中に水が入りそうにみえていかにも苦しそうであった。かわいいww。

オスは息継ぎを2回すると、首を引っ込めた。そしてゲップをするが如く水中で口を開けた。ぷわっ!と。

すると、その口からまあるい泡ぶくがひとつ出た。私は、その姿があまりにも可愛くて、思わず「アクアスのバブリングより可愛い!」(あれはあれでかわいいが、教えられた「芸」ですから)と叫ぶと、隣で岡さんがウンウンと頷いていた(笑)。

我々は暫しオスの行動を見守っていたが、2匹の恋路を邪魔してはと思いその場を離れて、館内を見学して回った。岡さんはその間も関係機関に電話かけて現状を伝え、出産が近づいていることを告げていた。

さてさて、館内を巡っていたら、見つけましたよ。何をって。それは、ほらこれ、被り物ですよ(笑)。


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●さて♪なんだろう?茶ばねじゃないよ●



●チンあなごでもない●.jpg

●チンあなごでもない●



●まぁオオサンショウウオということで!(ひゃ〜参謀)●.jpg

●まぁオオサンショウウオということで!(ひゃ〜参謀)●



「ひゃ〜参謀」が笑いながらも「似合いますな」とのたまう。そしてかぶり物との記念写真を撮り、岡さんに挨拶をして帰ろうとあいさつをすると、岡さんは自然界でオオサンショウウオが見られる場所を地図を書いて教えてくれました。なんと親切な方なんでしょう(笑)。

我々はその地図を頼りにその場所へ行ってみた。ただ、その時は留守で見ることはできなかった。ただ、その川は水が澄んでいて、さも美味しそうな水に見えました。まさに瑞穂を名乗るのにふさわしい場所であった。


●きれいな川とオオサンショウウオが住める町・邑南町●.jpg

●きれいな川とオオサンショウウオが住める町・邑南町●



●きれいな町ってうらやましいな●.jpg

●きれいな町ってうらやましいな●




たまに、道路を横断して、交通事故に遭うらしい。見つけたら、車でひく前に、こちらの自然館まで連絡してほしいとのこと。ああ、けっこう危ないから触らないでください。天然記念物だし、とも。

さて、ここなら立派に生きていけるねぇ、ほんと良い場所だし。また来たら逢えるかも・・・。我々は川に手を振り、いつまでも元気でいるように祈念した。


さて、次の日、自然館のホームページを観てみると、なんと、訪問したその日の夜にめでたく出産したと書かれていたので、すかさず佐藤は、お祝いメールを出した。

すると、岡さんから返信があった(ここでお名前がわかったわけ)。まるで陣痛の波を越えるがごとく、メスが巣穴を出たり入ったりを繰り返したのちに、無事に出産したことが詳細に書き綴ってあったのだ。さらに、こちらに来た折には是非お寄りくださいとも書かれていた。もちろんですよ!

こうして、我々は偶然にもオオサンショウウオの出産日に訪問したことになったのだ。ハハハ。これも島根の神々様の粋なはからいだったのかもしれない。もちろん、道の駅・瑞穂のマグネットもゲットした。ハハハ。

さてさて、離れているとは言え、オオサンショウウオの様子は、瑞穂ハンザケ自然館が発信する、彼女のブログで現在の様子をうかがうことができる。今後の成長を楽しみにしておりますよ。皆さまもお近くにきたら立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

ではまた! 皆さまご自愛ください。



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●オオサンショウウオ君がお待ちしてます●



【瑞穂ハンザケ自然館】
所在地:〒696-0224島根県邑智郡邑南町上亀谷475
TEL:0855-83-0819
入館料:大人300円(税込)/小人150円(税込)
休館日:毎週月曜日、祝祭日の翌日、年末年始
開館時間:10:00〜17:00(5〜8月)/9:00〜16:00(9〜4月)
HPhttp://www.ohtv.ne.jp/mizuho-hanzake/


※2018年9月時点でのデータです。


(「議員になって33年で19人の総理をみてきたが、6年総理が務まるというのは、強靱な意志がないとできない」そりゃ国民なんて屁とも思わない強靭なそれがね!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 16:35| 島根 ☔| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月22日

奮闘記・第1060回 見聞録/長崎県&熊本県

●2018年● 長崎県大村市・長崎県島原市&熊本県天草市ほか


『道の駅』マグネット探訪の記

〜潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その2)〜


皆さま、おげんきでしょうか。なんとか続きができました。今回は1058回の第2弾です!

と言いつつ、良く考えると、あまり、潜伏キリシタン関連遺産は廻れてませんでしたねぇ・・・。外海や大浦天主堂くらいかな? もうこの時期は、長崎や天草も、世界遺産に登録されることは、規定路線だったんで、各施設がノリノリで補修していました。

走行ルートは、潜伏キリシタン関連のエリアを界隈を走っているのですが、全然遺構や施設が「潜伏」していなかったのです(笑)。むしろ、誇らしげでありました。

潜伏キリシタン関連の資料自体は、かなりあちこちで拝見しましたから、いろはを学ぶ旅が近いのかな(汗)。さてさて、以下、今回はいよいよ潜伏キリシタン・・・、いや道の駅・マグネット探しも終盤です。


本日、我々は、島原半島から熊本県天草へ渡り、長崎空港から東京へ戻るのであった。今回の九州での移動距離、おおむね約367キロときた。

我々の実績(?)からすれば、「並の距離」なのだが、ニコニコレンタカーへの返却時に「いやいや、お客さん、たくさん走りましたねぇ〜」と感心された。まぁ初日も結構乗ったしねぇ・・・。そこは、ハハハ。

ということで、我々は、道の駅・マグネット探しと、ついでに潜伏キリシタン関連遺産を巡るという、大きな使命のもと、早朝、もはや「常宿」となったホテルベルビュー長崎出島を後にした。

この日は、天気予報どおりのあいにくの雨。もともと、直前は「全部雨」予報であったが、今日以外晴れたんだから文句も言えまいて。長崎空港に着く頃は晴れたしね。

我々は、昨夜もどうやったら、快適かつ安く(←ここ重要)天草へ渡れるかと、様々なルートを模索していた。なんせ有明海を越えれば、どちらか周りで長崎空港へ行かなければならない。そうそう、遠回りはできないのだ。

出発前にパソコンでルート検索をして、「ひゃ〜参謀」にそのルートを告げた。


「・・・・大将(佐藤)、いったいフェリーはどちらから?」

「フェリー? 乗らないわよ。だって、ルート検索でふつうに渡っていったわよ。きっと橋がかかって・・・」

「昨年(2017年)の11月に出た地図で掛かってないのに?(笑) しかも、1年もしないうちに橋なんか掛けられますかいな。そんで長崎と熊本、どちらの自治体がその費用を?」

「・・・・」



私は、どうやら知らない間に、空想の中でフェリーに乗って天草への旅をしていたらしい。再検索の結果、佐藤が出した答えは、口之津港(くちのつこう)から対岸の鬼池港(おにいけこう)にわたるルートであった。

これは、司馬遼太郎先生がかって『街道をゆく 17 島原・天草の諸道』で渡ったルートである。まぁ、主目的があちら様は街道、こちらは道の駅のマグネットという違いはあるのだが。


【島鉄フェリー 口之津港】
ナビ様(たまに海上を車が走る)に導かれるままに、島原半島を周遊し、口之津港へ無事に着いた。佐藤が、読んでいる遠藤周作先生の『切支丹の里』にも、この口之津港が登場する。

ここは、1562年に肥前有馬氏・当主の有馬義直により貿易港として開港された。その翌年、イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダが来航して布教活動を開始。

1567年には南蛮船(ポルトガル船)が入港、1579年には、全国から日本で布教活動を行う宣教師が集合して第1回口之津会議が開催されている。

その後、布教の中心が長崎に移るまで、キリスト教布教と南蛮貿易の中心地として栄えた港なのだ。

いや、もう一度、栄えたことがある。明治の初め、現在の福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にあった、三池炭鉱の石炭の輸出港として活用されていた頃である。

炭鉱は江戸時代から操業されていた。やがて明治に三井会社(後の三井財閥)に払い下げられ、三井・三池炭鉱となるが、主な需要は、製塩業者(瀬戸内海が主)が製塩用の釜を沸騰させて、稼働する燃料にしたらしい。

大牟田市にも、研修会で呼んで頂いたことがあるし、その港や三池関連のレストランでも会食もした。その港から、ここまで石炭を底が浅い船を数珠つなぎにして、有明海を渡ったという。ここはその三池の有明海の対岸にある港なのだ。

むかし有明海は浅かったため、大型船が通れなかったのだ。やがて三井財閥の力で、明治42年に、三池に港を作って大型の船が着港できるようになると、口之津港は静かにその役割を終えた。

先の「ひゃ〜参謀」の話は、橋など云々の話は、何度も船による産業が衰退し、また立ち直るということを繰り返して来た、口之津(長崎県)が、フェリーの観光産業などが大幅衰退するような、明石大橋級の橋をわざわざ莫大な予算をかけて作るとは思えないということなのだ。

遠藤周作先生は、天草に春夏秋と訪れ、何の変哲もないこの港が好きだと書かれていた。その上で、町の人はおそらくほとんど、自分たちが今住んでいる場所に約400年前、教会が建てられ、唐人や南蛮人が往来し、切支丹の賛美歌(カトリックなら聖歌)が流れていたことにそれほど関心がないだろう、と。

しかし、車で走行していると、あちこちに墓地があり、明らかに日本の墓石と違う墓石が点在しているにが見えるのだ。全然「潜伏」などしてはいない。

たぶん、遠藤先生は、弾圧され、信仰に命をかけた「純粋な教徒」に想いを寄せ、隠れながら変質し、細々とした「キリスト教もどき」となってしまった教徒には厳しいのだろう。先生ご自身は、結構カトリックとプロテスタントを混同して使っていることが度々あるようだが・・・。

それくらい、現代の穏やかなキリスト教とは違う、命がけの信仰であったのだろう。まぁ現代でも、某・石油がウハウハ出る地域にて、キリシタンであることを宣言すれば、同じ状況を味わう可能性は高いかも知れない。現代でも、信仰の不自由さは、さして変わりがないのかもしれない。

うだうだと、港に向かって車を飛ばしていたが、その港は突然目の前に現れた。いや、正確には突然ではない、ナビ様も道路標識もちゃんと「口之津港」を案内していたのだから。

ところが、そのう、なんというか、うっかり東武東上線(知らんか)の踏切のように、なんとなくそこに存在していたのだ。ハハハ。

佐藤は、長崎の大波止港(おおはとこう)のような、もっと大きな港を想像していたので、口之津港と書かれた、隠れ居酒屋のような、看板を見つけても、それが本体とは認識できず、どうにも入りそびれてしまったのだ。


「ちょっと・・・。もしかして今のじゃない? 入りそびれちゃった。どうしょう?」


と話していると、なんと、カーブを曲がったところに我らが最強のデイリーヤマザキ(パンや惣菜なら、某セブンなんとかよりも確実に上)を発見した。

ここらで、チト確かめて見ようと言うことになり、早速中に入り買い物をしがてら、店員さんに尋ねてみた。


「あの〜、フェリーはどこから乗れますか?」

「この先の左手に入り口がありますから、そこから中に入るとあります」



とのこと。我々は、駐車場で反転し、先の方向へ引き換えした。すると、さっき通り過ぎたときには、人気(「ひとけ」である)が無かった場所に、数台の車が並んでいた。

係の方が聞く前に、さっさと我々を所定の場所へ導いてくれた。窓を開けてあいさつをすると、


「車検証を持って、あちらの案内所へ行ってチケットを購入してくだされ」


と教えてくれた。こうして無事に乗船し、天草に向かったのである。楽しみにした船旅は、たったの30分。何ということはない、あっという間に天草に着いてしまった。


●ここが口之津港であった●.jpg

●ここが口之津港であった●



●船内でいきなりおやつ●.jpg

●船内でいきなりおやつ●



これが隠岐の島後(どうご)などに渡ったときは、もう・・・・、まぁ海もきれいで楽しかったが、時間はかかった。長崎でも五島列島に渡れば、こちらもけっこう時間かかるだろうなぁ。でも、行ってみたいな他所(よそ)の国(日本だよ!)。

鬼池にも、ザ・ピーナッツも唄った島原地方の子守唄で「鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい」(恐いおじさんに連れて行かれるよ)という歌詞があるほど、対岸の島原などに遊女が連れて行かれた港であり、興味深いのだが、今回はテーマが違うので、そこから、一路天草キリシタン館をめざした。いよいよ、雨は本降り。ワイパーがご機嫌に躍動していた。


【天草キリシタン館】
佐藤は、天草宝島観光協会の天草ロードマップ兼天草ミュージアムマップを手に入れている。ミュージアムマップによれば天草には20の施設があるという。しかし、長崎や熊本の地図や案内、ガイドなどがこんなに充実しているのだろう。しかも、ほとんど無料である。薄目ではあるが、持ち運びに良く、市販にものより使い勝手が良い。

でも、やはり、天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を知るためには、通りすがりの見学では追いつきませんなぁ。入門知識くらいが得れれば喜びますわい。

車を駐車場に入れ、外へ出た。駐車場の前にはマリア像が雨に濡れ静かにたたずんでいた(動き回っていたら恐い)。館の入口には、天草四郎像があり、出迎えてくれている。

早速中に入り、パンフレットなど入手。こちらでは、天草・島原の乱を中心に、天草キリシタン史を4つのゾーンに分けて展示している。


●天草四郎は雨でも頑張る●.jpg

●天草四郎は雨でも頑張る●



[天草キリシタン史]
エントランスから入ると、いきなり、《天草四郎陣中旗》が目に飛び込んで来た。これによって「観光」という視点から、「歴史の検証」というような視点になり、大げさだが、思わず居住まいを正してしまった。この「展示スペース」が「歴史そのままの空間」に変わったとでも言えようか。

この旗は「歴史の証人」として扱われている。そりゃあ、日本キリシタン史の代表的な資料なのだから。もちろん、展示されている物はレプリカであるが、本物そっくりに作成されているらしい。

ちなみに、日本で展示されている国宝や重要文化財などは、建物以外はまずはレプリカである。文化財に指定を受けると、所轄の官庁から、精巧なレプリカの作成と、それを展示することが求められるという。

したがって、よほどのコネがない限り、建物以外、実物を観ることはないと言える。それが嫌な所有者は、初めから「レプリカ」と説明して、置いているのかも知れない。

さて、この《天草四郎陣中旗》には、中央にキリストの十字架が描かれ、その下にワイングラス。その両サイドには羽をつけた信者が跪き、手を合わせている(一般的に、十字架+キリストは、カトリックの象徴とされ、プロテスタントなら十字架だけである。だからこれはカトリックの絵であると判断できる)。

本物の旗には、戦いの最中に、槍で突かれ血糊がついた跡が残されていたらしく、こちらにも。その跡などが鮮明に写されていた。

佐藤は、その旗に釘付けになった。しばし、見入ってしまったのだ。おいおい、初っぱなからこれでは時間が足りなくなるぞ。しかし、これが天草・島原の乱で使用され、参加した人々の心のよりどころになっていたとすれば感無量である。

なんせ、天草のキリシタンと、島原のキリシタンwithキリシタンじゃない町の人の想いも考えも、実は、全然乖離していた。

正直、天草四郎を始め、天草のキリシタンたちは、こちらに合流するべきではなかったのだと思う。この乱の性質は、純粋な宗教戦争などではなかったからだ。

この時代の日本で言う、キリシタンとはおおむねカトリックを指している。本来は、プロテスタントも含んでいる表現なのだが、幕府はそうは考えなかった。だから、オランダは、プロテスタント国だから比較的フレキシブルであり、厳格とも言えなかったようで、「キリスト教徒」には見えず、拒否されなかったようだ。

[南蛮文化の伝来と天草]
ここでは、キリスト教の伝来から天草・島原の乱勃発までをキリスト教の隆盛と、禁教令によるキリシタン弾圧という激動の時代が紹介されている。

宣教師の人々は、その地域に住み、その地域の人々と共に暮らすことで信頼を得ることで、ようやく布教活動ができた。しかも、神の教えだけではなく、学問や農業・医療の知識などを持ち、その土地にあった耕作物の指導も行い、そしてその土地で骨を埋める覚悟で赴任する方々も多くいた。

苦労の末、ようやく布教ができ、信者が増えたころに、今度は禁止令によって身を隠す生活を余儀なくされるのだ。

それだけではなく、キリスト教弾圧ということで、幕府は絵踏みなどによって、キリスト教徒を発見し、追放あるいは拷問し、棄教を求めるなど、挙げ句の果てには見せしめのために処刑までしているのだ。このあたりは遠藤先生の本を読んでいると身震いするほどですよ、はい。

これらの仕打ちの恐ろしいことは、元々、農民や下級武士たちが、搾取され低待遇で使われていることへの不満を、より弱い立場の者に転嫁させる役割もあった。そう、ガス抜きのようなものである。

ここでは、たまたまキリシタン、そう、たまたまなのだ。幕府からするば、口実があり、弱ければ、なんでも良かったのだろう。

実際、江戸時代の新潟・佐渡送りにされた罪人は、重罪犯や凶悪犯というわけではなく、気の弱い犯罪者ばかりであった。そうでなければ、随時、佐渡に鎮圧部隊を置いておかなければならなくなる。ううん、幕府のえげつない一面とでも言えようか。

[天草・島原の乱]
ここでは、年表と資料や、武器などを展示して、戦いがどのように行われていったのかを案内している。

天草・島原の乱の発端は、松倉勝家が領する島原藩のある、肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮したことである。幕府軍125,800人、キリシタン軍37,000人であった。ちなみに関ヶ原の戦いは、東軍88,880人、西軍83,200人である。

佐藤は、例の遠藤先生本を読んでいる最中であったため、この資料に引き込まれてしまい、時の経つのも忘れ、しばし、その場に立ち止まって、その説明文を読みふけってしまった。

領民たちが起こした一揆も、原城にて終焉を迎えるのだが、それはそれは、たくさんの命が失われた。

まぁだから、原城址などは、いくら世界文化遺産に含められたとはいえ、場所が場所なだけに簡素化したままである。名古屋城や島原城のように再建なんかできない。なんせ、いまだに何万もの遺骨がそのままらしいのだ(ヒソヒソ)。

しかも、地元の方々からは、「あそこは〈あれ〉が出るから、夜は絶対行かないほうがいいよ」とマジで止めて頂けるという。これは司馬先生の行ったころから変わらない。

そもそも、正式なキリシタン(本来、仏教徒もだが)は、霊の存在を認めないのだ。だからこそ、遠藤先生が地元の彼らを「キリシタンの末裔」と認めないのかも知れない。まぁそれは別に双方、自由だとは思いますが・・・。長崎はホントに幽○話が多いらしい。

[乱後の天草復興とキリスト教信仰]
当時の幕府は、天草・島原の乱で多くの犠牲者が出たため、各地から島原への移住策を進めた。ここらへんは、幕府の有能なところだろう。天領から、たとえば、各場所、100人ごとに1人を選ぶなどで移住させ、年貢を数年減免するなどで対処したようだ。

そのせいで、長崎や佐賀などの近隣の農民がひそかに移住してしまうなどの問題も起きたらしい(笑)。まぁ期間限定ではあるが、タックス・ヘイヴン(tax haven/租税回避地)ではそりゃあねぇ。

いまでも、人口ランキングが当時の島原状態に近い、47都道府県での47位のT県や、46位のS県でもやって・・・、いや、なんでもないです。

一方、キリシタンの中にも生き延びた者もあり、その人々は隠れキリシタンとなり、自分たちの信仰としての十字架やマリア像やキリスト像を形を変えて隠し持ち生きながらえて行った。

マリアとは、カトリックでも、本来神様扱いではないのだが、天の神様(父=唯一神)の分身とも言える、イエス・キリスト(子=唯一神の分身)に「取り次いで頂く」役割があり、キリシタン初心者の日本人を、フランシスコ・ザビエルがマリアに捧げたとも言われている。

ちなみに「聖霊」(せいれい)とは、いささか表現が難しいが、神様の「不思議な力」(神秘的な力)などを指していると思われる。奇跡とも言える。

やがて、開国からまもなく長崎に来た宣教師たちは、大浦天主堂を建設。居留地の西洋人のために宣教活動を行い、その宣教師と浦上村の潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに信徒達が信仰を表明したのだが、再び弾圧が強化され、摘発事件が相次いで起こった。

これに、西洋諸国から当然ながら、強い抗議が相次ぎ、1873年に明治政府は禁教の高札を取り除き、ようやくキリスト教が解禁された。まぁ、西郷(せご)どんをみるまでもなく、明治政府も名ばかり政府であった。

西洋諸国の弾圧の善し悪しは別に(人道的には完全な悪)、本来、信教の自由、不自由は、その国の主管の問題であり、これらは内政干渉にあたると思うのだが、日本に跳ね返す力はなかった。今でも、某・西洋花札大統領に振り回されているのと同じ構造だ。しかし、これは世界中が標的ではあるのがねぇ。

いやいや、ものすごい、時代の時間空間をさまよって、現代に帰って来たような気がした。「歴史を学ぶ」というのは、難しい感じや歴史用語、人名を覚えることも必要だが、「肝」(キモ)を押さえることが、悪しき歴史を繰り返さないためには必要である。サッカーのロシアW杯でも、日本対コロンビア戦でも、そのことが実証されていたと思う。

我々が、館を出たときに、雨の中にもお日様の光を感じたのは気のせいだったのかな? さてさて、先を急がないと!


【道の駅・有明リップルランド】
ここからは、再び「道の駅」のマグネット獲得の旅となる。我々は国道324号、通称・ありあけタコ街道を走っています。ありこちにたこの文字が観られるようになった頃、車は道の駅・有明リップルランドへ着いた。

ここは、物産館はもちろん、温泉施設も併設していて賑やかな所でした。雨が降っているにもかかわらずお客さんが多く訪れていた。ひゃ〜参謀は、早速、同道の駅、トレードマークのたこの写真入りのマグネットをゲット!

混んでいたので、再び車に戻って出発。雨は容赦なく降り続けている。ここは、海岸線を巡る道。本来であれば有明海が輝いてみえるはずだが、あ〜あ、残念。でも、長崎→熊本→福岡→佐賀→長崎と有明海の周囲を一周廻ってしまったが(笑)。


●天草キリシタン館前●.jpg

●天草キリシタン館前●



●悪天候のせいか、荒荒しい有明海●.jpg

●悪天候のせいか、荒荒しい有明海●



【道の駅・上天草さんぱーる】
佐藤は、ナビ様に次に行く場所をインプット。ナビ様に導かれるままに行くと、いつしか国道266号線に乗って、島から島を結ぶ天草五橋を渡っていた。

無事、道の駅・上天草さんぱーるに着いた。車から降りた我々は、よさげな食堂があったら昼食にしましょうといいつつ、中に入った。

すると、なんてこったい。よさげな食堂というより、旬の魚を楽しめる、併設のレストランがあった。さらに、店の前には入店待ちのお客さんが列を作っている。しかも地元民らしき方々である。

店の前にある看板には魅惑的なメニューが書かれ、値段がリーズナブル。これなら地元の人で賑わうのも当たり前だろう。

佐藤が入り口で順番待ちをしている間に「ひゃ〜参謀」は、お目当てのマグネットを探しにふわふわと漂いながら(?)、物産館へ入っていった。

すると、ここには2種類のマグネットがあったそうな。1つはこちらでとれる鯛やかに等の写真をモチーフにした物と、もう1つは、国道266「美と癒しと食」を満喫する天草路と書かれた物があったそうな。結果、彼はシンプルな方を選択し、それを抱えて満足気な顔で戻って来た。


「さっきのタコは生きているヤツ(たぶん)だったけど、ここのは、死んださか・・・(強制終了)」


まもなく我々は店に入り、海鮮丼を注文した。ちなみにこちらの海鮮丼は、その、○○○○○なの鯛が入っており、美味かったなぁ。そうそう、お魚いり餃子(「このしろぎょうざ」)というのもチョイスした。確かに変わった味の餃子である。

こうして、我々は、地の物を頂き大満足。再び元気になって次をめざした。


●上天草のレストランでで海の幸を頂く●.jpg

●上天草のレストランでで海の幸を頂く●



●どこの海でも、道路でも荒荒しい?●.jpg

●どこの海でも、道路でも荒荒しい?●



●天草五橋を疾走●.jpg

●天草五橋を疾走●



●道の駅・宇土マリーナは休み、だが近くに古代の船が!●.jpg

●道の駅・宇土マリーナは休み、だが近くに古代の船が!●



【三角西港と浦島屋】
浦島屋は明治期に旅館(外見は洋風ホテルなんだが)として建てられ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生が、明治26年7月22日、長崎からの帰途に立ち寄り、『夏の日の夢』と題した紀行文の舞台となった旅館である。


●浦島屋(復元)のステキな外観●.jpg

●浦島屋(復元)のステキな外観●



長崎滞在では、ハーン先生は、どうやら西洋の快適さを求めたようだ。しかし、エアコンがない時代だから、それは無理だったろう。

夏の日の夢』は、文庫などでは絶版で手に入らないが、ネットでは全文読むことが可能である。この話は、「浦島太郎」の再話(作り直し)とされる。

日本の童話や昔話を扱う上で注意が必要なのは、この時期の童話の多くは、巌谷小波という童話作家の大家が、元々「再話」されてしまっているものも多いことであろう。

この方は、明治期の子どもたいに合う、道徳規範にするため、大幅に改変されている童話もある。桃太郎などは、鬼ヶ島から流れてきた、大きい桃も、ジイサマ、バサマ(といっても30代なのだが)が拾って食べると若返り、普通に子作りをして、桃太郎が生まれる話だったりするんで、そりゃあ、まぁ・・・。そんでそういう部分を改変すると、我々が知っている、よくわからない童話になる(笑)。だから、明治期の昔話はそのまま昔の伝承とは限らないのだ。

もう1つは、ハーン先生は、すべて、読者対象を欧米人として、書いていることを忘れてはいけないだろう(英語かフランス語で書いたものしかない)。しかも、まだ、先生のキリスト教などに対する考え方もかたまっていない。

早過ぎた晩年、長男に「聖書」を大切に読むことを伝えている。これから考えると、プロテスタントの考えに接近していったのかも知れない。

また、セツ夫人との関係も微妙な時期に差し掛かっていたとも言える。再話の浦島太郎ハーン先生)が、竜宮城から帰る先は、セツ夫人の待つ世を指していると思われ、どうもあまり帰りたそうでもないのだ。37℃を超える気温と言われた長崎や天草の旅館でもだ。試しに一度真夏にここに来てみたいが、暑いだろうなぁ。

この旅館の建物は、日露戦争後に営業は止め、傷病兵の収容施設になったそうで、明治38年には解体され、中国の大連に運ばれたが、平成5年、設計図を元に熊本県が復元している。

「ひゃ〜参謀」は、ハーン先生の動向を調査しているが、以前から浦島屋があることをリサーチしていたが、天草に来る用事がなかった(笑)。

情報では、中に喫茶店があるはずだった。現在は無い。また、宇城市が公募中らしい。喫茶店で、飲食を通して、世界文化遺産の三角西港を訪れる観光客の皆さんの満足度を高めたいという。うん、間違いなく景観は良いが、それだけで客は呼べないと思う。

そもそも、客が呼べないから世界文化遺産にしたいのだろう。ホンネでは文化財として保護したいわけではない。日本の経済力で、世界文化遺産には、ボコボコできるが玉石混合である。

なんせ、日本は国連教育科学文化機関(ユネスコ)への分担金がトップの国なのだ(アメリカは1位とされるが払っていないし、あの大統領さんがユネスコに脱退を通知した)。

もし、町起こしや経済の活性化を狙うなら、近隣の大都市圏から無理なく日帰りでもいける、群馬県富岡製糸場のような立地条件や、静岡県伊豆韮山の反射炉のような、温泉や観光のついでに見れるようなコンパクトだが、内容が濃い施設を作らないと、産業の振興にはつながらない。

それは島根県出雲大社の一連の遷宮などを見ればわかるだろう。そもそも、集客が可能であれば、制約の多い世界文化遺産などにしなくても、客が入り、文化財としての価値も変わらないのだから。


「境内にまわしを着けたうさぎさん像を作られるくらいなら、世界文化遺産にでもして制約したいぜ。神社はアミューズメント施設ではないからな」
(「ひゃ〜参謀」)


という意見もあるにはあるが、佐藤としては、大国主命の神様が良いなら良いですよ(笑)。

さて、館内は、我々が立ち寄ったときには、もはや喫茶店は片づけられ、蘭の花鉢が置かれて、甘い香りをただよらせ、どこぞの紳士・淑女が集っていた。「妖しか?」

はたして、中に入ってよいものやらと躊躇したが、中を除いても注意もされなかったし、影もなかった(ウソ)。堂々と入らせて頂いた。

ハーン先生がらみの物はあるのだろうか。うん? ありましたよ。ありました。それは1階の隅にまとめて展示されていた。なんか寂しい気がするな。我々は、10年間、島根県松江にある小泉八雲旧居を訪れていたからねぇ。それでも感無量であった。

そこにかかっていた、ハーン先生の横顔を拝顔し、


「お懐かしや、ハーン先生!」


と、記念写真を撮らせて頂いたのは言うまでもない。出雲大社売布神社などの島根県の神々様と同様、今でも先生は我々の神様なのだ。


●浦島屋でハーン先生と記念写真●.jpg

●浦島屋でハーン先生と記念写真●



後日、この稿を書くために、浦島屋の情報を集めたところ、現在は、休憩スペースやイベント等の開催に使われているとのこと。なぜか? この浦島屋については県と市が協同で公募したが、応募が無かったという。なんとも残念である。

市では、引き続き地域振興のための活用策を検討しているらしい。もっと、小泉八雲天草記念館とか、ラフカディオ・ハーンあまくさミュージアムとかでも作らんと、集客は難しいと思う。松江のように小泉八雲旧居(余計なものは足さない)と、小泉八雲記念館(集められる情報は全部集める)が並んで存在し、小泉 凡先生という、ご子孫が指揮を取れば一番いいが、そうは簡単にはいかない。

観光客は何を見に来るのか。また、観光客が対象じゃないければ、誰に見せるのか。多くの世界文化遺産は、それに対する展望が見えないのだ。自分たちが日常的に見飽きて、じゃ他人にも見せてやるか、くらいの感覚なんじゃないのかと疑いたくなる。

天気が良ければ、それはそれは、美しい風景が見えるのだ。ハーン先生の生まれ故郷に似ているのかも知れない。うまく自然と人工施設をマッチングして欲しい。あんまりないんだよな、リピートしたい施設が世界文化遺産にね。


●三角西港公園からみる天草五橋●.jpg

●三角西港公園からみる天草五橋●



どうもハーン先生のことを述べると心穏やかにはなかなかいきませんて(笑)。

その後は、九州自動車道に乗って一気に長崎空港をめざした。途中、北熊本SAでソフトを食べて休息し、佐賀県の金立SA等で秀樹グッズ(?)を手に入れ、休み休み、再び長崎県へ入った。


●北熊本サービスエリア(上り線)でソフト!●.jpg

●北熊本サービスエリア(上り線)でソフト!●



【道の駅・彼杵の荘(そのぎのしょう)】
爆走していると、標識に道の駅・彼杵の荘の文字が見えた。そこで、我々は東そのぎICで降りて、立ち寄ることにした。

ここは歴史公園の中にある道の駅である。我々は駐車場に車を置いてそそくさと中に入る。すでに閉店間近な時間でもあり、係の方々は片付けに追われていたが、お店の方にマグネットはありますか?と尋ねて探したが、残念ながら売り切れであった。

しかたなく、とぼとぼと、駐車場方面へ歩いていると、奥の方に古墳らしき物が見えるではないか。古墳の大好きな2人にとって、これは見逃せない。そこで、ちと、のぞき見に出かけた。

凄いぜ。これは「ひさご塚古墳」というらしい。感覚的には、円墳かと思いきや、前方後円墳であった。なお、いい(笑)。

歴史公園東彼杵町・歴史民俗資料館のホームページによれば、この古墳は「ひさご塚」といい、長崎県の代表的な「前方後円墳」である。長い年月の間に周辺が削られひょうたんの形をしているところから「ひさご塚」(瓢塚)と呼ばれてきたという。

今から約1,500年前にこの地域を治めていた有力な豪族の墓とされ、地元では、神功皇后応神天皇の母親)の三韓征伐のおり、武内宿禰(大臣)の配下として従軍した武将の墓であると言い伝えられている。

1950年、県指定の文化財(史跡)となっていた。なんと、同公園内の歴史民俗資料館に副葬品などが展示されているらしい。

九州は、宮崎県と鹿児島県の神武天皇圏と、それ以外の応神天皇圏が交差する場所である。長崎県・佐賀県・福岡県・大分県は、応神天皇と神功皇后(本来は親子ではない関係かも知れない)関連の古墳や遺構、神社、スターウォーズの「ハンソロ」みたいな、スピンオフ(spin off)神話などが盛りだくさんのエリアで楽しい。

もちろん、2人とも興味津々(笑)なのだが、もうやっていなかった。機会があったら再度訪問したい。


●OH!ひさご塚古墳●.jpg

●OH!ひさご塚古墳●



さてさて、これにて、2泊3日の見聞は終了。最後無事に車を返したときに、ニコニコレンタカーの係の方が明るい笑顔で迎えてくれたのが印象的であった。


返却後、長崎空港で残り時間を楽しんだ。空港内で軽い夕食を摂り、今回はグラバー園近くの岩崎本舗で、角煮まんじゅうを頂けなかったので、空港内の店舗で手に入れた。その際、同社のゆるキャラ・角煮まんじゅうちゃんを持って買いに行った。すると店長らしきさっそうとした若者がそれを見て、


「ああ、それ初代のですね!(今は二代目らしい) 僕、そちらの作りの方がかわいくて好きなんですよ」


ですと。ハハハ。うまいぜ! 長崎の食べ物と接遇にはやられっぱなしであった。こうして、名残り惜しいが長崎の地を後にした。また長崎にも来れることを楽しみにしておりますぞ。皆さま、ご自愛ください。



●長崎空港内で軽く夕食●.jpg

●長崎空港内で軽く夕食●



●長崎空港ロビーで角煮まんじゅうで軽く(?)おやつ●.jpg

●長崎空港ロビーで角煮まんじゅうで軽く(?)おやつ●



(意見陳述した患者さんに「いいかげんにしろ!」というやじを飛ばしていた議員がいたらしい。それはそのまま、あんたに言いたいぜ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:15| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月13日

奮闘記・第1059回 見聞録/長崎県

●2018年● 長崎市

長崎見聞《異聞》録

〜現在から過去、再び現在を満喫ロード〜



皆さま、お元気でしょうか? 佐藤はなんとなく元気ですよ(笑)。

さて、長崎シリーズは、2回目だが、今回は「潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その2)」ではなくて(相変わらずあるかないかわかりませんが・・・)、長崎での研修会(こちらは研修会のツボにて報告済み)前後に行った、長崎市内の見聞録である。

我々は、朝、宿泊地のホテルベルビュー長崎出島出島キッチン クローバーにて朝食をとった。だいたいホテルの朝食はバイキングスタイルであり、こちらもそうであった。

佐藤はお皿に野菜をメインに載せて食卓についた。朝から、日本の食事を満喫!味噌汁がうまいぜ。地元の名物カレー等もあり、 「ひゃ〜参謀」もご機嫌であった。写真は次の日の朝食のものだが、なんと皿うどんまで出てきたのだ。

ホテルを出発して向かった先は、鎮西大社諏訪神社(長崎諏訪神社)である。


●キッチン出島 クローバーの朝食!●.jpg

●キッチン出島 クローバーの朝食!●



【鎮西大社 諏訪神社】
鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様であり、現在は、厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬されているそうな。

以前、長崎近郊は、キリシタン大名が多く、戦国時代はイエズス会の教会領となっていたため、かって、現・長崎市内にまつられていた、諏訪・森崎・住吉の三神社は、焼かれ、壊され、ひどい目にあっていた。

それとは別に、キリシタンへの弾圧もたいがいなもんで、あまりにひどすぎるが、キリシタンはキリシタンで、やり過ぎの面もあろう。暴力は暴力を産みやすい。こういうことをやっていては、なかなか同情はされにくくなるだろう。神社は、寛永2年(1625年)に再興され、長崎の産土神となった。ここは《対キリシタン》の幕府側の要塞のような役割もあったかも知れない。鳥居も威圧するため、大きく、銅製の鳥居が作られた。


●長崎諏訪神社参道●.jpg

●長崎諏訪神社参道●



いきなり、余談だが、明治24年(1891年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生は、松江から熊本の第五高等学校に赴任した。そんで、明治26年7月21日から長崎に2泊の予定で来た。

7月21日の早朝3時に長崎港に到着したが、まだやってなかった。数時間後、南山手の当時のベルビュー・ホテル(現・全日空ホテルグラバーヒルの場所)にチェックイン。もちろん、朝になるまで待たされたが長崎港の朝日の素晴らしさを賞賛していた。

ここでのハーン先生は、外国人気分であっただろう。当時のベルビュー・ホテルは外国人専用のホテルであり、わざわざ選んで、お忍びで出かけているからだ。やはり誰だって自由な時間は欲しいもの。

「でも、ハーン先生。その時期にエアコンもない時代の長崎に来たら、もう暑くて、暑くて、暑くて、暑くて・・・・」と思ったが、案の定、滞在そうそうに数日で熊本に帰られたようだ(笑)。

目的は公式には不明。でもハーン先生が日本来るきっかけになったピエル・ロチ氏(フランス)の長崎を舞台とした小説『お菊さん』関連の資料収集か、舞台となった長崎を見ておきたかったのかも知れない。

先生は、心の中の思いを、ある時は本音を、決して無暗に語ったり、記録したりはしない。それが他者に漏れれば、自分の評価がどうなるか。また、自分が生きにくくなり、周りががっかりするのを、きちんとわかっていた人なのだ。たとえ自分が死んだのちであっても。

本音で暮らしていけるのは、すぐ帰国できる外国人だけだろう。ハーン先生そういう心遣いも、ある意味保身もできた人なのである。

長崎の景色はふんだんにほめている。そのハーン先生が、この長崎諏訪神社の参道入り口に立っていた金属製の一ノ鳥居だけは許さなかった。

「私が今まで日本で見たうちで、最も醜いものだ」

とまで言わしめた。しかし、この鳥居は、かって幕府がキリシタンを威圧する目的で作られたもの。ごっつくても、大きくても、仕方がないのである。

ハーン先生は、初めキリスト教に反感を持ちつつも、最終的には、キリスト教の理念に心を寄せていたと思われる。であれば、そのような目的の鳥居など、許せないのかも知れない。素晴らしくも難しい、マインドの持ち主である。でも決して記録には残したりしないし、あくまでもキリシタンというわけではない。

しかし、その鳥居は、結局、戦争中、金属がいるってんで、扁額以外、軍部に持っていかれた(扁額は天皇の筆)。われわれが今見れる鳥居は、戦後立て直された石製である。

さて、話を今の長崎諏訪神社に戻そう。


●長崎諏訪神社拝殿で大吉●.jpg

●長崎諏訪神社拝殿で大吉●



佐藤は、研修会の前には、その地域にある神社に参拝している。はじめて来たときは、暑い夏のさなかで駐車場もわからず、ちと遠い所に留めたので汗をかいての参拝であった。2回目以降は、神社の中にも広い駐車場があることがわかったため、そちらに停めている。

長崎諏訪神社内には、幼稚園がある。そのため、子どもを送り届けるためにお母さん達が入れかわり車でやって来て、車から降りて、長い階段を登っていると、下の方で子どもの声が聞こえてきた。

やや早口で滑舌も悪い(笑)。

「神様今日1日ムニャムニャムニャ・・・ください」と。

すると、そばにいたお母さんが「そんなんじゃ神様に伝わらないでしょ!ちゃんと言いなさい」と諭している。

でも、そこは長崎の開明的(?)な子どもである。

「大丈夫、神様はちゃんとわかってるって!」

それ以降も、子供らはお母さんと一緒に階段下に来ては手を合わせ、幼稚園の方へ向かった行く。こうして毎日お参りするんだから素晴らしいではないか。きっと、神様はみんなを守る事に必死であろう。

我々は、このようなやりとりを聞きながらこころ和やかになりつつ、階段を登っていった。そして、拝殿前にて参拝し、拝殿にて、神様に長崎の来れたお礼と研修会の成功を祈念した。


ちなみに、祓戸神社は、駐車スペースより下の階段の途中にある。そこには福澤諭吉先生の銅像も近くに立っている。

なぜ像があるのか? この近くには、長崎遊学中の福澤先生が使用したと伝わる井戸(共同)があって、『福翁自伝』にも「上方辺の大地震」で足を滑らせ、あやうく井戸に落ちそうになった井戸として出てくるという。

この福澤先生。のちの政治家・若き日の尾崎行雄氏が、執筆する際、「わかる人がわかればいい」といったところ、

「ばかもの! 猿に見せるつもりで書け。俺などはいつも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれでちょうどいいのだ」と言い放ったという。これはステキだな!

でも、福澤先生。介護業界の場合、書いてるほうも猿という疑いが・・・(笑)。それはともかく、「天才バカボン」のパパは福澤先生がモデルなんじゃないかと思うくらい、若き日の福澤先生は、いつでも、キレッキレで、強烈なかたでありました(やはりダテに1万円札にはならないな!)。

参拝後、社務所横のおみくじ箱から女みくじをひくとなんと、大吉。ハハハ。そう、神様はみていますからねぇ。

ちなみに長崎諏訪神社は高台にある。鳥居の内から外を眺めると、坂の町・長崎を眺望できるのだ。佐藤は、その景色を眺めて、本日も張り切ろうと決意を新たにし、我々は研修終了後には、なんと長崎県歴史文化博物館にいた(笑)。


【長崎県歴史文化博物館】
こちらでは、《明治150年記念特別展「写真発祥地の原風景 長崎」〜写真で振り返る幕末・明治の長崎〜》が開催されていたからだ。うちの「ひゃ〜参謀」が写真展やカメラが大好きなのだ(笑)。

この写真展は、目黒区の東京都写真美術館で、今年の3月から5月までやっていた展覧会の巡回展であろう。しかし、本場の写真発祥地の長崎で観れれば、こりゃ格別である。


●長崎歴史文化博物館にて●.jpg

●長崎歴史文化博物館にて●



手に入れたチラシには、明治150年を記念し、近世から近代への転換期を古写真からご紹介しているとあった。以下、ホームページによる。

長崎は幕末には、写真やその技術がもたらされ、外国人写真師や上野彦馬をはじめとする長崎ゆかりの日本人写真師が活躍している。本展では、写真発祥地ともいえる長崎を「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を通して捉え、幕末から明治の長崎の再構築を試みている。

江戸時代は約150年前に終焉し、日本は西洋的近代国家へと向かった。長崎は、それより前の開港期に写真が渡来している。その写真は江戸時代から明治時代への転換期を捉え、現代に伝えている。

長崎は、江戸時代には、すでに海外に開かれた窓口であった。そこで世界のモノや情報がもたらされているのだ。なんと、幕末には写真やその技術がもたらされ、長崎を訪れたピエール・ロシエフェリーチェ・ベアトなどの外国人写真師が、長崎を捉えた写真を残しているのだ。

さらに、写真開祖と呼ばれる上野彦馬(うえの・ひこま)をはじめ、内田九一(うちだ・くいち)、薛 信二郎(せつ・しんじろう)、竹下佳治(たけした・よしはる)、清河安武(きよかわ・やすたけ)、為政虎三(ためまさ・とらぞう)などの長崎ゆかりの日本人写真師が写真文化を普及していくために長崎は写真発祥地ともいえるのだ。

本展では、写真発祥地「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を中心に、写真を支える台紙や写真アルバム、古地図や絵画・工芸品なども取り上げ、幕末〜明治の「長崎」を振り返っているのだ。

展示は4章仕立てである。

〔第1章〕
江戸期の長崎として、日本写真史の起点となった江戸時代の長崎とその文化を国内外の視点から長崎版画や古地図、旅行記などから写真以前の長崎の姿に迫っている。長崎港図では、長崎港か突き出た出島があり、長崎港には帆船が浮かび、異国ムードがたっだよっている。

出島が現在は埋め立てられており、なかなか想像するのも難しいが、実際、現在の出島の前に立ち、現在の長崎港の出島ワーフにも何度か来ると、「おお!」という感じがわかって来る。やはり、どこでも何度か来ないとわからないことがあるのだ。

〔第2章〕
長崎と写真技術として、写真技術が渡来して間もない頃に焦点をあてて長崎を訪れたロシェやザハトラー、ボードインなど外国人による写真の実践や上野彦馬ら日本人写真師による写真技術への取り組みが案内されている。こちらでは、着物に袴をはき、頭はちょんまげを結い刀を差している侍を写した写真が並んでいる。また、カメラなども展示されていて、「ひゃ〜参謀」はとりわけカメラを熱心に見ていたな(笑)。

〔第3章〕
長崎鳥瞰として、長崎市街や長崎港など、「長崎を写した」風景写真に注目を展示。数々のパノラマ写真などを通して、江戸時代から明治時代へと変わりゆく長崎を紹介している。この長崎鳥瞰は、景色を数枚の写真におさめ、それを貼り合わせてあるもので、日本家屋が密集している町並みを見ることが出来る。

これをみると、開港が許された土地は、横浜や函館も、海防に適しているところを選別しているのがわかりやすい。

〔第4章〕
長崎クローズアップとして、江戸時代の貿易都市長崎の象徴の1つ出島、開港期、居留地の象徴の南山手、長崎を訪れ「長崎で写された」人々などが紹介されている。なかでも長崎を来訪した人々をめぐっては、英語教師フルベッキや、長崎で学んだ佐賀藩士など長崎・佐賀双方にとってゆかりの深い人々を紹介している。

いや〜、ここではなんと幕末に一役かった多くの人物のありのままの人物をみることができたのは感無量である。ここに、たくさん名前が出てきたが、その中で重要なのが、写真開祖と呼ばれる上野彦馬である。

彼は、幕末期から明治時代にかけて活動した写真家であり、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られているのだが、司馬遼太郎先生の小説『胡蝶の夢』に出てくるポンぺ先生を教官とする医学伝習所に新設の舎密試験所で舎密学(化学)を学んだ英才である。その化学から写真へつながり(写真は化学薬品を多く使い、知識も必要)、写真術は洋書で学んだり、来日した外国人写真家からも教えを乞うたという。

また、江戸で、数々の写真を撮影し、共同で化学解説書『舎密局必携』などを執筆。長崎に戻り、日本における最初期の職業写真師(複数いるが)となり、上野撮影局を開業。ここで、われらがよく見る、坂本龍馬高杉晋作桂小五郎などの若き志士や明治期の名士の肖像写真を多く撮影する。

さらに、西南戦争の戦跡(従軍写真)の撮影、後進の指導としての貢献度もあり、その他多くの功績を残し、明治37年(1904年)、長崎で死去(享年67)。医学や化学の知識もあり、写真術もあり、語学もできる。いや、凄い人材が明治期には存在したのだなぁ。まぁ、佐藤などは写真技術などはまったくわからないが、過去に活躍した本物の写真を見られたことに大満足である。

その後、ホテルに戻り、一休みしたあと、我々はよるの長崎に繰り出した。


●明治期の写真機材●.jpg

●明治期の写真機材●



【酒場食堂 みなとや】
ここは、ホテルのすぐそばにある店で、昨夜散策していたときに、ちょっと気になったお店なのだ。道路の曲がり角にある角店で入り口が半間と狭い。外にメニューが掲げられてあり、和洋折衷なんでもあるようだ。さすが東西異文化交流の街。

そこで、新たな店も開拓しようと言うことで入ってみることにした。お店の中はカウンターとテーブル席があり、外見よりも広い。ドアを開けると明るい声で迎えてくれた。佐藤は、加齢のせいか、最近どうもビールがうまくない。そこで、黒霧島のロックを所望した(通常運転中)

そして、サラダや、空豆などつまみを食べて、「ひゃ〜参謀」はここまで来てもハンバーグと焼きおにぎりなどを頂いた。季節の食材が豊富にあるようで、様々なメニューが並んでいて楽しいお店であった。もちろん美味しかった。


●酒場食堂 みなとやさんで夕食●.jpg

●酒場食堂 みなとやさんで夕食●



●長崎市街を走る長崎電気軌道●.jpg

●長崎市街を走る長崎電気軌道●



【出島表門橋あたり散策】
さて、お腹もいっぱいになったところで、我々は出島周辺を散策した。昨年11月に出島に130年ぶりに「出島表門橋」が復元され開通したというのだ。夜はライトアップされるという。だから、歩いてその場所へ向かってみた。でも、夏場なら絶対余所者にはできないだろう、暑くて(笑)。

ここは、長崎市の国指定史跡・出島和蘭商館跡とを対岸をつなぐ橋である。当時は唯一「日本」と「外国」とが結ばれていた橋である。


●国指定史跡・出島和蘭商館跡●.jpg

●国指定史跡・出島和蘭商館跡●



●出島表門橋の横に立つ●.jpg

●出島表門橋の横に立つ●



現在は、対岸も整備され当時のそれとは趣も違うが、新たにかけられた橋はシンプルではあるが、どこか異国を感じさせる優雅さを醸し出していた。この時間でも、橋を渡れば、出島に入ることもできる(要入場料)のだが、出島の中の店はすでに閉店しているとのことだったので、周囲を歩いてみるだけにした。

さてさて、あたりが暗くなった来たので、そろそろ、本日のメインイベント稲佐山へ移動するとしょう。


【稲佐山展望台】
長崎の夜景を一望できる稲佐山へは、バスとロープウェイで行くことができる。我々はバス停でロープウェイ下で下車し、長崎ロープウェイで登った。標高は333メートル、東京タワーと同じである。


●ここが稲佐山の頂点●.jpg

●ここが稲佐山の頂点●



展望台に登ると、そこは修学旅行の生徒たちが、わんさかいて、まぁ賑やかなこと。高いところがあまり得意でない「ひゃ〜参謀」(排他的高所恐怖症?)も、なぜか平然としていた(笑)。

まぁ、昨年来たときは、真夏で、強風が吹き荒れていた。だから、「ひゃ〜参謀」はもちろん、他の観光客も皆、手すりをつかんでヒャ〜ヒャ〜言っていた。

ここ、稲佐山は平成24年に、夜景観光コンベンション・ビューロー主催の「夜景サミット2012 in 長崎」において、長崎の夜景が香港・モナコと並び、「世界新三大夜景」に認定されている場所なのだ。


●長崎の世界新三大夜景●.jpg

●長崎の世界新三大夜景●



●稲佐山展望台からの風景は飽きない●.jpg

●稲佐山展望台からの風景は飽きない●



前回も登ってみたのだが、やはり長崎の街はほんとうに美しい。街のライトが海を照らし、海がキラキラと輝いている。昼は昼で良さげである。佐藤は、展望台を1周して、軍艦島や五島列島、大村港などの方面を見定めながら、改めて長崎県のでかさを体感した。

まだまだ、5月だと言うのすでに夏の香りがみていて、夜風が心地よかった。いや、夏場ならここでも汗だくだ。でも、長崎でもまだ5月なら、昼はやや暑くても、夜は涼しいのだ。

さてさて、いよいよ明日は天草へ渡る予定だ。雨が心配されるが晴れるといいなぁ・・・(結果はわかっていますが)。

皆さま、くれぐれもご自愛ください!


(猿カニ合戦は、結局、トランプなんかじゃ勝負は着かないのだろう。bye AMERICAN!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 20:31| 島根 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

奮闘記・第1058回 見聞録/長崎県&佐賀県

●2018年● 長崎県大村市・長崎県島原市ほか&佐賀県鹿島市


『道の駅』マグネット探訪の記

〜潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その1)〜



皆さま、お久しぶりです。(その2)があるかどうかは定かではないが、長崎県の研修会の前後で見た、長崎県佐賀県の見聞録です。まぁ久しぶりに長いですよ(笑)。

今回も、早朝に「ひゃ〜参謀」(以下、今回はH参謀とする)を車に押し込み、羽田から長崎へ飛んだ。

長崎では、前回に引き続き、ニコニコレンタカーをチョイス。まぁここは某県(北陸)で予約し忘れて、困って居たときに助けてくれて以来、気にいっているのだ(安いしね)。

この日、我々を乗せた飛行機は大きく揺れることもなく、墜ちることもなく、無事に長崎空港に着いた。空港を出て、ニコニコレンタカーへ連絡を入れると、待ち合わせ場所を指示してくれたので、速やかにその場所へ移動した。

ややや、するとそこにはすでに係の方が待っていた。出迎えに来てくれた車には、なんとニコニコレンタカーのトレードマークのお日様のぬいぐるみがは置かれていた。佐藤はお店につくまでそのぬいぐるみが気になって仕方がない。

H参謀は、なんの反応も示さないのだ(今は○ジェドさまに興味が全振り)。お店に到着後、係の方に断りを入れてそのお日様くんと記念写真を撮らせて頂いた。ハハハ。


●ニコニコレンタカーのマスコット●.jpg

●ニコニコレンタカーのマスコット●



佐藤はすでにニコニコレンタカーのメンバーカードをもっているため、手続きもスムーズに済み、手に入れたのは三菱・ミラージュ君であった。なんと三菱車には、はじめて乗る(結果、快適であった)。

車に乗り込むとH参謀が行き先を告げる。めざすは祐徳稲荷神社でそうだ。

ちなみに、この神社は長崎県ではなく佐賀県にある。長崎県ではないが、長崎空港からは意外と近い。それに長崎県はあんまし神社がないしな。

佐藤は、ナビ様に導かれるままに車を走らせた。この佐賀県の風景がまたいいのよ。長崎県も佐賀県も景色が良すぎるよ。

【祐徳(ゆうとく)稲荷神社】
駐車場に車を入れると高台に煌びやかなお社が見える。伏見稲荷大社、笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷(神社)とされる。佐藤は、というかH参謀があまり稲荷神社に行かないから、他の神社内にある、摂末社の稲荷社ぐらいしか行かない。なぜ行かないのか?「行きつけの稲荷社があるから」とのこと。行きつけがあれば、特に稲荷社はそこに集中する方が良いらしい。

じゃなぜ今回は行くのか? 見聞録をまわる際に御守護をお願いする神様が少ないから、隣りの県までお願いに行くのだという。特に今回はキリシタン関係もあるから念入りにだそうで、仏教系の稲荷社でなければとのこと。まぁそれに関しては佐藤も別に異存はない。

いや、キリシタン自体は気持ちがしっかりしているからいいのだが、信仰心がないものまでも多くが巻き添えにされている「歴史的事件」であるから、「何がいるか」わからない。これ、そもそも、地元の人も言ってるんだよなぁ。


「この時期になると、ここらにあれが出るのよ」

「あれって?」

「出るもんていったらあれしかないだろう!」

「だから何が出るんですか?」

「おれが生きてるうちは死んでも言えない」

「・・・・」



ともかく、我々は、気分として、Y田S陰先生のように、キリシタンへの激しい拷問があったとされる某温泉にわざわざ行って、その「現場」の下流で温泉に浸かり、「いや〜、極楽、極楽」とはいきにくい。まぁ・・・あの先生、一応武士だからな・・・。さて、話を神社に戻そう。


●祐徳稲荷神社はでかい●.jpg

●祐徳稲荷神社はでかい●



この神社のホームページの情報では、

貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主・鍋島直朝(なべしま・なおとも)公の夫人、花山院萬子媛(かざんいん・まんこひめ)が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されており、日本三大稲荷の1つに数えられている。

商売繁昌家運繁栄大漁満足交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、樓門等、総漆塗極彩色、宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称され、観光ルートの上にも一異彩を放っている。


ご祭神様は、倉稲魂大神大宮売大神天宇受売命猿田彦大神。まぁ、商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全の守護を標榜するには、欠かせない神々様達である。いや、どんなご利益でも標榜できる。もちろん、萬子媛が連れて行った稲荷大神は京都の伏見稲荷大社からである。

そして、境内にある石壁神社には、先の萬媛命(よろづひめのみこと:祐徳院殿・萬子媛)が祀られているとされる。

萬子媛は、後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘であるが、寛文2年直朝公にお輿入れになる。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所であった稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されたという。


萬子媛は、直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、2人のお子様をもうけたが、不幸にしてお2人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕え、以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられたときに石壁山山腹に巌を穿ち寿蔵を築かせ、工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ、邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)された。

萬子媛ご入定の後(祐徳院)も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われ、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称された。

「明治になったら、もう無理かな。関西ではともかく、関東では断然呼びにくいからねぇ。でも解説では、ずいぶん連呼されていたけど。まぁ現代じゃ名前を変えるしかないかなw」

とはH参謀。まぁ、江戸時代のかたですからね・・・。

地元ではゆうとくさんの愛称で親しまれている(そっちなんだw)。九州地方では、正月3が日の参拝客が、例年、大宰府天満宮に次いで多いという。

駐車場から参道に入ると、あちらこちらで記念写真を撮られている。しかも、外国人観光客が多い。けっこうアジアでも有名なパワースポットらしく、ドラマなどの撮影もあるらしい。

商売繁盛の神様で、参拝客が少なければ、説得力がないが、ここは満点であろう。その方々お邪魔にならないように、手水舎にて手を潤し、楼門をくぐり、境内に入った。すると、右手の高台にご本殿の屋根が見える。そう、まるで京都の清水寺のようだ。

ちなみに、この鹿島市から、茨城県の大生(おおう)神社鹿島神宮の本宮:もとみや)を奉斎する氏が来たとも言われている。茨城県の鹿島町が市になるとき、同じ名前が名乗れずに、「鹿嶋市」になった。同じ市名があるのは、全国で1例(1組?)だけ。

佐賀や熊本の軍団が関東に移住してくる際、彼らは故郷を偲び、有明海や雲仙などの山々の風景に似ている、茨城の霞ヶ浦や筑波山の見える湖畔に多くが住み着いたとされる。福岡から移住して来た物部氏も九州の軍団である。

香取神宮は、阿波・忌部氏の氏神であり、香取大神=鹿島大神は成り立たない。都合の良い時だけ、「記紀」を材料にしてもなぁ。

さて、我々は、順路に沿って階段を登った。眼下には、日本家屋が並び、その向こうには有明海が広がっている(結局、有明海をぐるっと周回することになる)。

佐藤は、昨年作った『ケアプラン 困ったときに開く本』(技術評論社)が、さらに多くの方に読まれることを祈願した。もちろん、商売繁盛もだ!

参拝後、さすが稲荷神社。金運みくじというのがある。これをひくと、何と1番で「大金運」(いわば大吉であろう)と出た。わぁ、こんなことってあるのかとびっくり。もちろん、絵馬を奉納したのは言うまでもない。これ、いわゆる「凶」はなんなんだろうな・・・・(誰かは「小金運」)。

その後、後方に有った萬媛命が祀られている石壁社を参拝。また、参拝にこられるように導きくださいと願った。この上には奥の院もあるが、健脚な方は更に上をめざして登って行かれらが、我々は正反対の方向へ先をめざす身(笑)。今回はここにて失礼して下山した。次ぎにめざすは道の駅・鹿島である。


●金運みくじは、大金運なり●.jpg

●金運みくじは、大金運なり●



【道の駅・鹿島(かしま)】
道の駅・鹿島は、平成6年に佐賀県で第1号の道の駅として登録されている。ここは、ガタリンピックが開かれる会場でもあり、道の駅の後方は、有明海の干潟が広がっている。我々が行ったときは満潮で、有名な干潟をみることはできなかったが、岸壁には、干潟を走行する舟(板)が山積みされていた。ここでまず最初のマグネットを手に入れた。現在、有明海を左手に国道207号線を長崎方面に走行している。次ぎに立ち寄ったのが、道の駅・太良である。


●道の駅・鹿島のソフト●.jpg

●道の駅・鹿島のソフト●



●これが・・・まぁ干潟になるわけで●.jpg

●これが・・・まぁ干潟になるわけで●



【道の駅・太良(たら)】
ここは、海の幸が豊富に取りそろえて販売されていた。ほとんど、プチ魚市場。中でも竹崎カニが有名らしく、生きているかにも販売されていた。ちなみに「ひゃ〜参謀」はかにを食すのが苦手(でも食べることは食べる)。カニよりも、マグネットを入手でき、喜んでいた。

いよいよ、長崎県に戻って来た。島原でそうめん流しを食べる予定であったが、とんでもない! 佐藤のお腹が持たないぞ。しかし、国道沿いには、カニ焼きや蠣焼きの看板が並んではいるが、普通のレストランが見あたらないのだ。そうこうしているうちに、ようやくイタリアン・スパゲッティの幟をを立てた、お店を発見。佐藤は躊躇することなく店の駐車場に車を入れた。


【釜あげ生パスタ ぱすたろう】
外から中を眺めると数組のお客さんがいる。でも雰囲気が変わっているのだ。ドアを開けて驚いたのは、ここは家具屋さんか(?)と思うような様々なソファやイステーブルが置かれていることだ。


●開店したばかりのぱすたろう●.jpg

●開店したばかりのぱすたろう●



●生パスタは絶品であった●.jpg

●生パスタは絶品であった●



店員さんが、お好きなところへどうぞ、というので窓際の席を陣取る。よいしょっと。座るなりおしりがソファの中に沈み込んだ(笑)。「お勧めは何でしょうか?」と伺うと、「今の時期はアサリです」とのこと。

佐藤はアサリと地元野菜が入ったパスタを注文。H参謀には、有無も言わさず、おいしそうだからと厚切りベーコンの入ったカルボラ−ナを頼ませたw。もちろん飲物はコーラ。アルコールは厳禁だぜ! 冷たいコーラがのどの渇きを癒してくれる。

しかし、はぁ〜、釜あげパスタだけあって、できあがりまで少々時間がかかった。でも出てきたパスタは絶品。先ほどまで海鮮の文字しかなかった街道にこのようなイタリアンに巡り会えるとは、大満足。もちろんお値段もリーズナブルである。

この稿を書くにあたり、ネット検索したところ、こちらは2017年の12月にオープンしたお店で、宣伝する暇もなくリピーターで賑わって行ったらしい。以前はコンビニがあった場所だそうで、駐車スペースも十分ある。まぁコンビニが流行らない場所ってのが、少々心配だが。

私たちが入店後も、女性客が数組入って来た、どうやら地元の方々に愛されているお店らしい。ならば、良かった。皆さま、無くなったコンビニさん以上にお願いしますよ。

こういうお店ってさ、通い続けるところに意味があるんだけど・・・、諫早だもんなぁ。でも、佐藤も「また来たいお店」として、登録しちゃいますよw。

そんで、佐藤は、島原城をめざしている。車窓には、有明海の向こうに雲仙普賢岳がそびえていた。佐藤がナビ様に導かれるままに行くと、何と諫早湾の中を走行しているではないか。先ほどの山は真ん前にある。ちなみにその道路は、諫早湾横断堤防道路といい、長崎県諫早市と雲仙市吾妻町とを結ぶ広域農道だそうで、平成19年に開通した全長7kmの道路なのだ。

いやあ〜、気分爽快。車内の音楽も心地よさを倍増している。さてさて、この日の目的地、島原城に着いた。なんせ、今回は例の「潜伏キリシタン関連遺産」を巡る旅(?)を想定しておりましたからねぇ。ここに来ないと先へは進めない。


●釜あげ生パスタ・ぱすたろうのお店データ
[TEL] 0957-51-4134
[住所] 長崎県諫早市小長井町井崎954-9
[営業時間] 11:00〜21:00(L.O.20:00)
[定休日] 不定休。



【島原城】
現在の建物は、本丸の跡に天守・櫓・長塀が復興されたもので、城跡公園である。まさに雲仙岳の麓に位置していて、あれが噴火したかと思うと、結構こわい。山が割れ、火砕流がどぼどぼ、有明海に流れ出し、対岸の熊本とブーメランのように津波が繰り返し、双方襲うという事態になるのだ。・・・こわい、こわ過ぎる。ほんと裏山ぐらいの距離なんだもの。

城郭の形式は、ほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴であり、本丸は周りを水堀で囲まれている。近くに来ると、ただのお城(入場料はとる)であるが、濠の外から見るとなんとも見栄えがいいのだ。思わず、大人数で取り囲みたくなるのもわかる(おいおい)。

車から降りて、お城を見上げると、青い空に五層の天守閣が優雅にそびえていた。販売機のそばでは、島原城七万石武将隊に扮したキャストが出迎えている(地元では有名らしい)。


●島原城を攻める(?)●.jpg

●島原城を攻める(?)●



チケットを購入し、城中に入ると、そこには島原の乱(島原・天草一揆、天草島原の乱など、表現多数)が、年表と共に案内されていた。かなりの昔、社会科の授業で学んだことはあるはずだが・・・さて。

正直、こどもの頃は切羽詰まった感覚はもたなかった。しかし、この歳になって、改めて天草島原の乱の解説をじっくりと見るとそれはそれはすごいことが行われていたんだなと伝わって来る。こちらには子どもさん向けに「なぜ?なに?天草島原の乱」という解説書が置かれていたので、佐藤もゲットした。

島原城の公式ホームページの情報によれば、島原城は築城以来250年にわたる島原藩の歴史遺産やキリシタン史料及び郷土が誇る芸術家・北村西望氏の作品だそうな。

また、約198年振りに噴火活動を開始し、尊い生命や甚大な被害をもたらした「平成3年雲仙普賢岳噴火災害」の資料などが展示されており、過去から現在までの島原を知ることができる。

ちなみにこの噴火のとき、若きH参謀は、別の仕事で、島原とは対岸の熊本のホテルに宿泊していた。そのホテルの窓からは、夜でも、煌々と光り、流れる溶岩の流れが見えたそうな。

1階は、キリシタン資料として、華やかだったキリシタン文化や南蛮渡りの文物が展示されていた。戦国時代の終わりには、ポルトガル人が相次いで来航して、新しいヨーロッパ文化を伝え、島原地方にもキリスト教をはじめ、南蛮文化が栄えた。庶民の感覚とは別に、高山右近などの例外もあるが、キリシタン大名の多くは、貿易が主目的でキリスト教を誘致していただろう。

当時のここの領主・有馬晴信は南蛮貿易を積極的に進め、自らキリシタン大名となってキリスト教を保護した。領内各地に教会が建てられ、有馬にはセミナリヨ(初等神学校)が、後では加津佐にコレジオ(高等神学校)が開かれた。

当地の千々石ミゲルたち4少年は、キリシタン大名の大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。はるばるローマまで旅立って、教皇に拝謁するという快挙を成し遂げた。

この東西交渉史上の輝かしい1ページは、ここ島原から始まったのだ。このあとの「キナ臭い」伊達政宗の慶長遣欧使節(仙台藩とスペインとの貿易が目的)とはかなり趣が違う。ちなみにH参謀は、伊達政宗公の大ファンである。

しかし、その後、豊臣秀吉の宣教師追放令からはじまり、江戸幕府の禁教令と鎖国令による、激しいキリシタン弾圧が始まり、領民は棄教するか命を奪われるかの厳しい選択を求められた。いや、信仰していない領民がある意味、1番の被害者とも言える。

やがて、有馬氏に代わり、松倉重政が新城主として入国した。新城主は島原城を築城して、島原地方の治世を強力に推進した。その子どもの勝家の代になると、いや、もともと、見栄っ張りで、実際の収穫高以上を幕府に申告し、その分領民から根こそぎ巻きあげ、領民への苛政が続き、絶望した農民が一揆を起こして島原の乱となっていくのだ。

このような厳しい時代にあっても、信仰の自由を守り通した人々を隠れ(潜伏)キリシタンと呼んだ(でも全然隠れていないが)。他人の目に触れないように、イエス様やマリア様の姿を、他の像になぞらえて(誰がみても変ですが)、信仰を続けていた。その隠れ(潜伏)キリシタン関係の収集資料としては全国的にも有名で、貴重な資料が多く展示されている。

皮肉なことに、この展示されている城は、隠れキリシタンの大弾圧を行い、騒乱を巻き起こす原因の「いけない殿さま(松倉氏)」のお城なのだ。この乱のあと、「いけない殿さま」は幕府から厳重な取り調べを受け、改易(お取りつぶし)され、護送中、甲斐(山梨県)で斬首されたのだから、お察しである(斬首とは罪人扱い)。

天草人の明るい気質とは違い、まじめだが深刻味を帯びる島原人の気質の差が出たとも言える。まぁあれだけひどい領主では、しかたがないだろう。うん、でも・・・・。

やがて、天草四郎は3万もの一揆として農民をまとめ、3か月にわたる激しい戦い行れたのだ。

H参謀は展示を観ながら、「どうも、映画の「魔界転生」の、沢田研二扮する天草四郎のいう、エロイムエッサイム 我は求め訴えたり (Eloim, Essaim, frugativi et appelavi )の呪文で死人をよみがえらせる場面が頭から離れないぜ」とブツブツ言っていた。

まぁ当時の沢田研二さんなら、ほんとうにできそうな気がする(笑)。この呪文水木しげる先生の悪魔くんの呪文と同じである。

とにかく、島原の農民は「手強かった」のだ。これは領地転封の際、キリシタンであるゆえに、領主からお暇を頂き(領主もめんどうだから有り難かった)、地元に残り「地侍」となった農民なのだ。通常の農民や漁民ではない。だからこそ、幕府軍も九州の大名たちも、まじに手を焼いたという。オランダの船に依頼して、大砲を打ってもらったりした。それもなぁ・・・。

ここには、当時使われたとされる手作りの槍や打ち込まれた砲弾などが展示されている。その後、原城跡に篭城した農民たちは全滅させられてしまうのだ。さらに悲惨なのは、信仰していない農民たちも、その場でキリシタンの農民たちから、一緒に篭城するか、いまここで死ぬかの選択を強要されたとされていることだろう。

乱鎮圧の後も、厳しいキリスト教の取締りが行われており、踏絵や禁制立札、宗門人別帳などがそれを物語っている。ちなみに、「仏壇」が定着したのは、キリシタン対策のためであろう。

キリシタンは唯一神を信仰しているため、他の宗教のグッズ(?)を家に置くことに対して、多くが激しく抵抗したため、見つけやすかったからだろう。役人は、家に仏壇を置けるヤツなら、キリシタンではないという判断をしていた。でも日本人は融通が利くからね。

もともと、仏壇を家に置くのは、金持ちの貴族ぐらい。実際は、宇治平等院のように、大規模な仏壇を置く、寺院そのものを作っていたわけだが。

これを真剣に眺めていたら気が滅入る。ホント。当時の役人がしていたことはナチスのそれと変わらない。いや、本当は大層変わるのだが、ヤラれるほうからみれば同じだ。そんな過去に触れながら階段を登り、天守閣に上がると、そこには現在の平和な町並みが並んでいるが、噴火すると危険な雲仙普賢岳(手前は眉山:まゆやま)もすぐそこに見える。


●天守閣から眉山を見て、「島原大変肥後迷惑」を実感●JPG.jpg

●天守閣から眉山を見て、「島原大変肥後迷惑」を実感●



テレビなどの映像では、噴火した場所はかなり遠いように見えた。しかも、佐藤も以前も来たことがあるのだが、そのときは恐怖は感じなかったが、天守閣から見ると、町のすぐそこに、噴火した場所も確認できちゃうのだ。

今までもいくつものお城を制覇してきた。特に、会津の鶴ヶ城の展示も逸品であったが、こちらは信仰が絡んでいるだけにひどく重かった。城跡公園内の茶店で、島原の名物甘味「かんざらし」を味わった(うまい)ので、そろそろ長崎市へ戻るとしょう。


●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●.jpg

●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●



【道の駅・みずなし本陣ふかえ】
その後我々は、雲仙普賢岳噴火による土石流災害の爪跡を保存した『土石流被災家屋保存公園』に隣接した、道の駅・みずなし本陣ふかえに立ち寄り「↑雲仙温泉17q」というマグネットをゲットした。

【道の駅・夕陽が丘そとめ】
その後は、国道57号線にて雲仙岳の麓を回り込み、子イノシシ?に遭遇しつつも、ナビに従って、道の駅・夕陽が丘そとめにたどり着いた。外海地区は、厳しい弾圧を逃れて隠れ住んでいた長崎市の西北の街である。


●雲仙で子イノシシに遭遇●.jpg

●雲仙で子イノシシに遭遇●



時間が遅かったので、遠藤周作文学館やド・ロ神父記念館、文化村や黒崎教会などは入れなかったが、その洋風の街並みはまるで外国みたいであった。

ここらは、比較的寛容な佐賀藩の飛び地も混じっていたため、多くの潜伏キリシタンが存在したという。映画「沈黙」の原作の舞台である(映画自体は日本では撮られていない)。丘からは、角力灘にうっすらと五島列島や、さらに違う方向には軍艦島も見える絶景の地であった。ここには、マグネットはない。でもおいしい食べ物がてんこ盛りであった(笑)。買物の後、無事にホテルにチェックイン。いやはや、かなりハードなコースだった(笑)。


●道の駅・夕陽が丘そとめの絶景(角力灘)●.jpg

●道の駅・夕陽が丘そとめの絶景(角力灘)●




【海鮮市場長崎港から大浦天主堂下などの散策】
一休み後、大波止の懐かしい景色を眺めに散策に出かけた。夕食は。出島ワープの海鮮市場・長崎港にて、新鮮な海鮮丼に舌鼓。ここには長崎市に来る度に寄らせて頂いている。


●海鮮市場・長崎港●.jpg

●海鮮市場・長崎港●



●長崎港を散歩●.jpg

●長崎港を散歩●



その後、市電に乗りまわり、ライトアップされた大浦天主堂などを眺めて来た。そうそう、われらがハーン先生(小泉八雲)関連の場所にも久しぶりに行った。ハーン先生は、いろいろあって、松江から熊本に移り、夏の休暇中に長崎へ旅に出たが、その暑さの前にさっさと、熊本へ帰って行った。

そりゃ、無理ですよ。エアコンもない時代の長崎の夏になかなか外部の人間が絶えられるわけがない(笑)。そのハーン先生が、長崎で泊まったホテル自体はもうない(我々が泊まっているホテルは同名である)が、南山手のベルビュー・ホテル(現・現全日空ホテルグラバーヒル)跡にも立ち寄った。

まだ暑さがゆるい長崎だからこそできた散策で有る。真夏なら・・・・(汗)。



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●夜の大浦天主堂●



●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●.jpg

●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●



佐藤は、夕食前に、大波止のゆめタウン夢彩都に寄った。そこにある紀伊国屋書店には、佐藤の各種書籍も置いてあった。ほんとに有り難いです。そして、郷土コーナーで、遠藤周作『切支丹の里』(中公文庫)をゲットした。

いやぁ、潜伏キリシタン関連遺産を巡るには必要アイテムでは無いかと思う。この頃、都合の良いときに発生する、寄る年波で、文庫は敬遠していたが、久しぶりに読みふけった。次号につづく・・・予定です。

さてさて、皆さま、梅雨が近づいて来ました。体調に気をつけてお過ごしください。ではまた!



(いろいろあるとは思うが、国名がついてる大学なのに、わが国では、ただ平謝りするのが1番ってことがわかっておらず、中途半端にいろんな人が出て来ては、おさまりつつあるのに「燃料投下」して炎上を繰り返している。ああいう空気がわからん指導者では学生が気の毒だな!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:09| 島根 | Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月30日

奮闘記・第1055回 見聞録/群馬県

●2018年● 群馬県下仁田町&富岡市&高崎市



春真っ盛り、街道は春の花々で埋め尽くされていた!


《なぜか上野国を疾走するの巻》



いよいよ季節は春本番。日本も温暖化というか、暦がそろそろズレ時期というか。かなり気候があやしくなって参りましたね。簡単に衣替えだなんてできやしません。皆さまは、いかがお過ごしでしょうか。

さて、佐藤はアレルギーに悩むことなく元気で過ごしております。はい! 今回は久しぶりに群馬県での見聞録です。

ちまたは、ゴールデンウイークとやらであちこちお出かけの方で賑わっていることでしょうね。佐藤の過去の見聞録が、どこへ行くか迷っている方々の参考になれば良いですが(笑)。最近は混む時期はちょっとねぇ・・・。


その前に、某・品川水族館で、クジラの尾をモチーフにしたらしい、金属のオブジェを見たときのお話。


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●某・品川水族館の庭で発見!●



●「・・・・くなるので・・・で下・・」?●.jpg

●「■■くなるので■■■■で下■■」?●




「■■くなるので■■■■で下■■」


というプレートがあった。でも、前後が汚れで読めない。それで、そのものを触って考えた。・・・・うううん。わかった!


「熱くなるので触らない(乗らない)で下さい」だ! 


触っちまったぜ(笑)。春だからよかったが、こういうものは読めるようにしておかんとな。


さて、佐藤は、例のごとく、早朝に熟睡していた「ひゃ〜参謀」を起こして車に押し込み、群馬をめざした。

この日の車はレンタカーである。車は近所にあるニコニコレンタカーで借りた。なんせ、こちらの事情で、あまりにも、頻繁で返したり借りたりするので、たまらん。ここは値段が安いのがステキ(笑)。車はデミオ、色はブルーであった。

なぜレンタカーを? 車を修理に出しているのからだが、まぁ佐藤本人以外にも、いろいろ環境には落とし穴がある。まぁ深くは触れない。


●着脱可能なナビ様はごきげんななめ?(佐藤が)●.jpg

●着脱可能なナビ様はごきげんななめ?(佐藤が)●



【道の駅 しもにた】
そのブルーのデミオ君は関越道をひとっとび。まずは、「道の駅 しもにた」である。ここは、「ひゃ〜参謀」の希望の場所である。「ひゃ〜参謀」は、道の駅のマグネットを集めているのだwww。

このマグネット。実は道の駅ならばどこにでもあるわけではない。どちらかというと、ひなびた場所にある。だから、「ひゃ〜参謀」はちゃあんとある場所をリサーチし、そこに行きたいと申告してくるのだ(笑)。密かに「道の駅 山北」とか「道の駅 遣唐使ふるさと館」のマグネットをねらっているとか。さて、どこにあるのやら・・・。

この日は、あいにく朝から雨降り、天気予報では午後からは晴れるとのこと。いつもならば遠くに群馬の山並みが見えるはずなのに。

この日はフロントガラスに大粒の雨粒がたたきつけられて、車の中に流れる中島みゆきの曲も途切れ途切れに聞こえてくる始末。

ふう、こんなんで本当に晴れるのであろうか。と心配もつかの間。ハハハ。そこはほれ、恐るべき、晴れ男がいるから、まぁ大丈夫だろうとは、陰の声。案の定、次第に雨は小降りになり、道の駅に着く頃には止んでいた。でき過ぎ!

「道の駅 しもにた」には、物産店と食堂があった。そう、ここ下仁田は、下仁田ネギで有名なところ。あちこちネギや蒟蒻、しいたけ等の特産物が並んでいた。佐藤は、しいたけとピリ辛こんにゃくをゲット!

さてさて昼飯でっせ。隣接した、御食事処・おれんぢに入る。我々が選んだのは、生姜焼き定食。なんとこれには麺が付いていてお好きなものは選べるとか。おいおい、ご飯がつく上に麺を選べとな(笑)。

そこで味噌ラーメンを選択。にわかに食べられるのいか?と心配になった。ここは注文すれば厨房にそのままの情報が通る。やがて出てきたものは・・・・、写真で見てくだされ(笑)。


●「道の駅 しもにた」でお昼をとる●.jpg

●「道の駅 しもにた」でお昼をとる●



●もちろん、昼だけではない(笑)●.jpg

●もちろん、昼だけではない(笑)●



【上野国一の宮・貫前神社】
お腹が満ちたところで、上野国一の宮・貫前(ぬきさき)神社をめざすのだ。貫前神社に着いたときには、雲の隙間から青空が見え、ギンギンに照って来た。

神門前の空きスペースに車を置いて出ようとすると、何ということか、晴れているのに、にわかに雨がさわさわと降るではないか!

傘は?と「ひゃ〜参謀」にたずねると「いらないんじゃないの」とのこと。すると、神門まで歩くうちに雨は止んでしまった。どうやら、どこぞの狐の娘さんがお嫁入りをされたようである。自然現象の合図は、神様の歓迎の合図(程度はあるが)である。

さて、ご存知のように貫前神社は階段下に本殿があるため、参拝者は拝殿を見下ろす形で階段を降りていかねばならない。

佐藤は前回返しそびれた「無事帰る」守りの金色カエル君を抱えながら雨上がりの階段をすべらないように注意しながら降りて行った。手水舎で手を清め、拝殿前の棚に静かにカエル君を置いて感謝の意を伝えた。


●上野国一の宮・貫前神社●.jpg

●上野国一の宮・貫前神社●



佐藤が拝殿にて、参拝の準備をしていると、拝殿の中から祝詞が聴こえてきた。どうやらご祈祷されている方がいる様子。これもまた良いことである。

他の方のご祈祷の「おすそ分け」(お福分け)であるとされる。おそらく、ご祈祷された方々が、気持ちの良い方々であったのだろう。それを神様が喜ばれて、参拝に来た周りの人々にも福が振る舞われるたのだ。佐藤は、神々様に改めて感謝し、今後の発展と無事をお願いした。

その後は、恒例のおみくじタイム。じゃがじゃん大吉! しかも「ひゃ〜参謀」大吉! これはこれは、神さまがノリノリである。大吉を喜び合っていると、境内が賑やかになってきた。

見れば、先ほどご祈祷をされていたご一家が出てこられたようだ。中央には祖母らしき方が赤ちゃんを抱いて、赤ちゃんに着物を羽織らせている。どうやらお宮参りらしい。いいなぁ、新しい命の誕生を神様に伝えて、その子の無事な成長を願うのは日本の正しい文化であろう。

我々は、禁足地内の、本殿横にある抜鉾若御子神社にもご挨拶して、しばしご神気に浸った。本殿の千木は内削ぎであり、ご祭神はいちおう女神である。

本来のご祭神は、咲前(さきさき)神社社地から移動して来た、抜鉾(ぬきほこ)神社(経津主大神)であり、別にあった、貫前神社(渡来系の女神様)、稲含(いなふくみ)神社(稲含山の雷神様)の三柱が新・貫前神社として、合祀されているのが現在の形で有る。

まぁ貫前という名称を使っているから、女神様の千木なのだろうな。香取神宮(から勧請)の経津主大神は、武神だが紳士なのだ。本殿の2階には、雷神様用の「雷神小窓」がある。

その後は、月読神社月読命以外にも、たくさん合祀されている)にもご挨拶。振り向くと大きなアゲハ蝶がひらひらと赤紫の花弁をつけたツツジの間を飛び交っていました。なぜか、神社ではクロアゲハを見かける機会が多いのだ。偶然とは思えないんだけど(笑)。

「ハハハ。黒い蝶を悪く取る文化もあるけれど、クロアゲハ等の黒い蝶は、神仏の使いとされ、とくに神社やパワスポで見た場合は、そこの神様の歓迎を受けている吉兆ですから、そこにお神様に感謝しなければいけません。何か良いことがある前に、です。神様はあまり喜ばないと、手のひらクルリですから!(笑)」

とは「ひゃ〜参謀」

神社以外でも、死んで仲良かった人がお別れに来た場合があり、もちろんぞんざいに扱ってはいけないし、仕事で有効な出会いがある暗示ともされているそうな。しかし、夢に出てくるのはね・・・・。いろいろありますから!

さて、いよいよお日様の力が降り注ぎ暑いくらい。次の予定は考えていなかったのであるが、クロアゲハの導きか、天気が良いのでこのまま帰るのはもったいない。ということで、ハハハ。榛名神社へ行くことにした。


●奥には、摂社・抜鉾若御子神社がある●.jpg

●奥には、摂社・抜鉾若御子神社がある●



【榛名山榛名神社】
まつろわぬナビ様に導かれるまま、ウニウニと、山を登って行った。榛名山榛名神社では、いつものように車を郷土資料館の前の空きスペースに置いていざ出発。

ただ、この参道に続くこの坂が結構辛いのだ(笑)。むかし、車の宣伝で、島根県ベタ踏み坂が話題になったが、あれは望遠レンズを使ってのこと。

ここは、本当にベタ踏み坂(笑)。坂下のカーブを曲がるとじゃーんと現れる。けっこうアクセルを踏む込んでいかんと、これ・・・恐いですよ。参拝客も歩いているから気をつけんといかんしねぇ。この坂では車がスローモーションのように登っていく。


●神社前の坂の参道が最大の難所●.jpg

●神社前の坂の参道が最大の難所●



鳥居をくぐり、神門を通り抜けるとそこには凛とした空気が漂っている。

我々がこの神社に来出したころは、パワースポットとしてはそれほど人気がなかった。そもそも、残念なことに群馬自体がイマイチの人気で有った。富岡製糸場も世界遺産になる以前に当ブログに登場している。

その頃から、大洞赤城神社咲前神社貫前神社山名八幡宮上野国総社神社、そして榛名山榛名神社など、たくさんのパワースポットという、ちょっと楽しいが、妙にくすぐったいカテゴライズがなされる前から、楽しませて頂いた。

だから、人気が出て来て非常に嬉しい。群馬には、ふつうに、いっぱい良いところがあるのだ。『お前はまだグンマを知らない』という、人気漫画があるが、我々はそうは言われないだろうなぁ(笑)。けっこうコアだし。

まぁ「ひゃ〜参謀」は祖母(父系)が群馬県出身で、今も親戚が住んでいるというし。関係ないけどwww。

そんで、参道を歩く。前回来たときには、凍っていた川も今日はサラサラと流れている。川辺にはふきの青葉やイタドリの芽などが顔を出していた。

山肌に目を向けると、何とそこには石楠花が淡いピンクの花弁を寄せ集め、まあるい風船をふくらましたかのように、そこ、ここに咲いていた。前回は固いツボミと丸まった葉が付いていた茎も今は葉を広げて背を伸ばして優雅な花弁を支えている。

それが数株まとまって咲いて、参道を賑やかにしているのだ。佐藤は思わず「素晴らしい!」と叫んでしまった。

「ひゃ〜参謀」曰く、「大将、どの花みてもはしゃぐんだからなwww」ですと(笑)。


●境内で花を楽しむ●.jpg

●境内で花を楽しむ●



そりゃそうですよねぇ。東京の花屋さんに並んでいる花々と違い、こちらはしっかりと根付いて花開く時期を把握して咲き誇っているのだ。生命の力強さを感じるというもの。

今の時期つつじの花も様々。そこここにピンクやオレンジ紫の花を楽しむことができる。そんなこんなで、花たちに励まされながら参道を登っていった。

手水舎前から見える瓶子の滝も、硬い氷から解放され、今は崖の間を絹の帯を垂らしたようにさらさらと流れおちていた。ううん、なんとも清々しい。


●手水舎あたりから階段が始まる●.jpg

●手水舎あたりから階段が始まる●



●あと少しの階段●.jpg

●あと少しの階段●



ここから、神社本殿を見上げると上方に御姿岩が見えて、ドドーンと迫ってくる迫力(落ちてきたらこわいというか死ぬ)を感じる。ここもパワースポットとして有名なところ。

さらに階段を登り、双龍門をくぐり、いよいよ本殿に到着である。こちらでも参拝客が多くいて、ご祈祷がなされていた。

我々は、静かに手を合わせ、こころの内でお願いした。さてさて、こちらでのおみくじ結果は、。まあ良いですわwww。この春先にも参拝ができ、しかも石楠花の花を満喫することができたのですからねぇ。

さてさて、そろりそろりと帰ることにしましょう。


●本殿うしろの御姿岩●JPG.jpg

●本殿うしろの御姿岩●



●遠くに見えるのが荒船山●.jpg

●遠くに見えるのが荒船山●



【寄居 星の王子さまPA(上り線)】
下りの関越道の楽しみは、何と言っても、寄居の「星の王子さまパーキングエリア」(埼玉県深谷市)である。ここは、パーキングエリア全体(上り線エリアだけ)が、星の王子さまの作者、サン=テグジュペリ、ゆかりの地である南フランス・プロバンス風のデザインが施されているのだ。

総量としては、箱根の「あちら」には全く及ばないが、いち風景として溶け込んでいるのは、こちらのほうであろう。プロバンス風とでもいうのか。あちらは、何を、どう作っても、やはり、「箱根」なんだよなぁwww。箱根恐るべし。

エリア全体に“星の王子さま”の登場人物が描かれている。もちろん、星の王子さまのモニュメントもバラに囲まれている。

また、お土産コーナーが星の王子さまグッズであふれている。佐藤のおすすめはもちろん、「ゾウを飲み込んだ蛇」である(笑)。

実際、介護の研修会で紹介したところ、これらの星の王子さまグッズを買いに、ここまで来られた猛者がいた。そういう行動力がある方がいる組織は有望である。口だけの人ではないからだ。

その他にも、外国からの輸入菓子も販売されていて、うきうきわくわくするに違いない。

ちなみに今回立ち寄って、グッズがリニューアルされてさらに充実していたのにびっくりした。いや、あるだけじゃなくて、美味いのがすごい。それだけ人気があると言うことなのであろう。

ただ、普通のパーキング(その土地のみやげが)目当てでは、そのようなものは無いので、がっかりするかも知れないが・・・。まぁ、そういう御仁は、上里SAあたりで、早めに休み、買い物するほうが良いかも知れない。

ここに来ると「星の王子さま」を知らない人も、きっと星の王子さまの物語に興味をもつこと間違いなし。なんせ、店員さんが付けているネームプレートは、すべて「星の王子さま」に関係するものばかりなのだ。うるさいばかりのこだわりがいい。

白豹(しろてん)さんや、点灯夫(てんとうふ)さんが、レストラン横で焼いている「うわばみ焼き」(ワッフル)が一押しだ。お店の人と星の王子さまの話をするのも良いかもしれませんぞ。さてさて、これにて本日の見聞録は終了。

皆さま、あちこちで渋滞に巻き込まれているかもしれませんが、どうぞ、良い休日をお過ごしください。

佐藤は、研修資料をつくらないとねぇ・・・。ではでは!



●寄居の星の王子さまPA●.jpg

●寄居の星の王子さまPA●



●某・参謀の紫蘭のツボミ●.jpg

●某・参謀の紫蘭のツボミ●



(愛媛県の刑務所の造船作業場から受刑者が脱走した事件は、広島県警が身柄を広島市南区の路上で確保した。「刑務所の人間関係に疲れた」らしい。どこでも人間関係は大変なんだな!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 23:34| 島根 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

奮闘記・第1053回 見聞録/東京都

●2018年● 東京都あちらこちら

プチ花見! 

研修や買い物の合間にまた花見!!


皆さまお元気でしょうか? 最近は種類仕事に追われて、なかなか外に出れませんが、この日、佐藤もプチ花見に出かけました。今回は、それプラス都内各所でのお花見プチ・見聞録です。

まずは出かけたのが、近所の音無川沿いの加賀公園。この日は、日曜日ということもあって多くの方が花見見物。もちろん、この加賀は石川県の加賀・前田家にゆかりのあるもの。

音無川は、加賀公園は前田家の下屋敷跡の築山であったが、戦時中は日本軍の接収というか、前田家の協力もあり、弾薬庫など軍関係の場所にされた。

だから、よけい滅茶苦茶爆撃を受けたようだが、あまり民間人の被害があったわけではないそうな(もちろん、だから爆撃されても良いわけではない)。

今は板橋区が管轄している公園であるが、春は近くを流れる石神井川の支流・音無川沿いに咲く桜の名所ともなっている。


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●音無川沿いの桜、見事ですぞ●


●ここが北区と板橋区の境目、ハハハ●.jpg

●ここが北区と板橋区の境目、ハハハ●



余談になるかも知れないが、日本はなぜか、悲惨なことが起きた場所を華やかな公園にしたがる国策?(某大国への忖度か陰謀か知らんが)があるので、気をつけなければいけないが・・・。

例えば、巣鴨「なんとか」が現在、サンシャインシティでどうなっているかを見ればわかると思う。だからこそ、広島の原爆ドームなどはきちんと語り継がれなければならないのだ。

さて、桜の花は八部咲きといったところであろうか? 川に向かってたれさがり川面の水鳥にごあいさつ(笑)。とはいえ花の命は短くやがては水鳥の周りをピンクの絨毯で覆うことになるのだ。こういう歴史は繰り返されることに意義がある。

佐藤はお日様にせかされてアイスクリームを頂いた。近所の某セブンなんとかも大繁盛であった。


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●いやー陽射しがまぶしい!●



それ以外にも、都内では、研修や第三者評価などで、プチ花見をする機会があったので、もったいないから、それらも紹介しておきたい。

佐藤の大吉の名所でもある?府中市武蔵国総社大國魂神社、大吉もあれば凶も出る板橋区中丸熊野神社(ドンキの北池袋店の近くですぞ)、国立市の桜並木も無茶苦茶きれいであった。しかも桜並木が盛大で、人混みもない(もちろん、誉めてますよ)。


●数日前はまだ寒かったが・・・●.jpg

●数日前はまだ寒かったが・・・●


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●季節の中で、四季を感じられるのは楽しい●


●交差点近くにある、小さいが気持ちの良い神社●.jpg

●交差点近くにある、小さいが気持ちの良い神社●


●よく事故が起きる首都高の場所の下にある(汗)●.jpg

●よく事故が起きる首都高の場所の下にある(汗)●



加えて、なかなか、「本家」の香取神宮に行く時間がないから、桜はないけど、亀有香取神社新小岩香取神社にも、研修前に寄らせて頂いた(笑)。


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●葛飾区の亀有香取神社●


●新小岩の香取神社だが、江戸川区なのだ●.jpg

●新小岩の香取神社だが、江戸川区なのだ●



というわけで、今の時期は、なかなかブログがアップできないので、とりあえずプチ・ブログをアップしました(笑)。

皆さまも、どんなお花見をされたのでしょう? 佐藤は、今日も、花粉や車をよけながら、頑張っております。皆さまもくれぐれもご自愛ください。ではまた!



(麻生財務相が「森友がTPPより重大」って報道批判。違うでしょう。そういうことをやっている総理の政府に決めてもらいたい案件じゃねーんだってことよ、麻生さん!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 22:24| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

奮闘記・第1050回 見聞録/神奈川県

●2018年● 神奈川県高座郡寒川町&藤沢市


これぞ Holy and Bright!(寒川神社 and 江島神社)

〜その日、丹沢山地と相模湾にご神気が満ちあふれていた〜



お久しぶりです! 今年は異常気象で寒い日のか、本人の感覚がおかしいのか。エラく寒い日が続いております。皆様お元気でしょうか? 佐藤もなんとか過ごしております。

ブログもなかなかアップできませんねぇ。そう、もう2月に入りました。東京では日当たりの良い所では紅梅や白梅が咲きメジロが花の間を戯れております。

さて、今回は、年末年始に所用ができ、年始に恒例のご祈祷ができませんでした。それでは節分に!と、わが研究所の絶対守護神にして、相模国一の宮・寒川神社に新年のご祈願に行った日の見聞録です。立春前になんでもかんでもの八方除けをしておかないと、地球がどうなるかわからないからね(大きく出た)。以下、節分参拝の見聞のお話。

この日は、研究所のフェラーリこと、カナメイシ君(マツダ・デミオwww)になんとなく側にいた「ひゃ〜参謀」もついでに押し込み、東名高速をひとっ飛び。途中、港北PAでお休み。ここは知る人ぞ知るうまい定食ぞろいのフードコートだが、主に11:00過ぎからのメニューなのが残念。


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●知る人ぞ知る、港北PA(下り線)の逸品の数々●



海老名ジャンクションから茅ヶ崎方面へ、寒川北インター出口へ。東へ西へ? そして宮山にある寒川神社の駐車場に着いた。

そう、この日は先に述べたように、なんとも節分祭の日であった。大混雑が予想され、行列が富士山辺りまで続くかと思ったが、難なく車を第3駐車場なる所へ入れることができた。

昨年、からくもわれわれをお守りくださったお札を抱えて、鳥居をくぐり参道へ。参道は係りの方によって掃き清められていた。そこはそれ、対人援助が生業の佐藤。右に左に、その方々に声かけ、いや挨拶しながら、お札を納める場所へ向かった。


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●今年もご祈祷にやってきました●



ご祈祷は朝早くから行われている(というか本日はわれわれが出て来るのがやや遅かった)ようで、すでに社務所内は昇殿参拝する方々であふれていました。いや〜、皆さん高木美帆選手並に速い、いや早い!

しかし、やはりなんだかんだで、混雑はお正月とはケタ違いである。ご祈祷をするには社務所内にてご祈祷申込み用紙に、住所・氏名などを書き込み、その紙を持って受付の方に祈祷願意(金儲けとか・・・そんな感じ)をお知らせし、ご祈祷料のランクを伝える。

その後、ご祈祷料お支払いして、中待合所へ向かう。われわれの番号は「4番」である。中待合では、お茶と干菓子を頂く。これが正月だと、プチ十日(とーか)エビス状態で、あっという間になくなるのだが、良くも悪くも、参拝客層が違うのか、本日は2ラウンドできた(笑)。


●今年は落ち着いた中待合所、番号札は4番●.jpg

●今年は落ち着いた中待合所、番号札は4番●



やがて、巫女さんから、「受け付け番号4番のお札をお持ちのかたぁぁ〜は、本殿(実際は拝殿)にご案内をいたしますぅぅぅので、お荷物を持って廊下へお並びください」とのアナウンスが発令された。「おかのした!」とは「ひゃ〜参謀」。さて・・・?

その後、巫女さんについていき、・・・なんとなく白い羽織を受け取る。その後、手水を受けて手を清め、いよいよ祓殿へと入る。本日は結構あっさりとここまで来れた。

ここでは、神職がご祈祷前のお祓いをして下さる。われわれは案内に合わせて、頭を垂れてお祓いを受けた。そして、右側に向き直り、ドアの前で待つ。ドアの向こうがざわざわとし、前の木戸が左右に開かれて、拝殿に入った。

しばらくすると、太鼓が打ち鳴らされ、いよいよ、われらがご祈祷が始まるのだ。正月はベテランを中央に左右2人の神職の輪唱体制なのだが、本日はベテランと若手のツートップ体制、ベテランの神職が鈴を振ると、チリチリチリチリチリチリチリチリ〜と鈴の音が天井へ上がって行く。

その後、神職が2人で同時に、ご祈祷の願主の住所(フルでっせ)・氏名・祈願内容をデュエット形式でそれえぞれ勝手に神様に伝えていく。

佐藤の名前は、今回は読み手が若くて、よく声の通るほうに読んで頂くことができたこともあり、昨年に続いて、今年もしっかりと聞くことができた。まぁベテランのほうに読まれたら、「大神力」で神様には通じやすいかもしれないが、人間には一切聞き分けることは難しい。いやいやなんとも(笑)。

皆さんの名前が読まれると、ご祈祷は終了。参加者は神職より、別れの玉串(?)を頂き、神前にて奉納し祈念・・・。儀式は終了であった。

佐藤のお願い? 寒川神社では、求めるものは平和であれ、願うものは自由であれ、願意は皆、こう書かれた「八方除け」(ホント)。まぁ以前よりは細かくお願いできるようにはなった。以前はなんでもかんでも、八方除けであったが、まぁ、実際効くからそれでもいいんだけどねぇ。

だからこそ、いまは「八方除け」「商売繁盛」って、何か問題でも?(笑)。われわれは隣りの部屋にて巫女さんから、それぞれのお札を頂き、風呂敷にくるんで境内へ出た。


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●ご祈祷後、拝殿から境内へ●



そして、恒例のおみくじタイム。佐藤は中吉「ひゃ〜参謀」であるが、なんか半端な感じ。

その後、境内の「大判焼き」と書かれた屋台で、ふつうの「今川焼き」を頂いた。そして宮山神社も参拝した。とは言え、まだまだ時間は10:00を回ったばかり。早い。高木・・・いや、これで帰るのはねぇ、ちと何かが足りない。


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●摂社・宮山神社にもご挨拶●



佐藤は、やはり「江の島」へ行くことを提案した。だって毎年の初詣はそのコースを取っているから、きっとそれが足りなかったのだ。そんで車で藤沢経由で江の島に出た。

えのしまがみぇぇてきたぁぁ、おれのいえぇぇはとおおい〜。まぁ北区から来ればそうですわな。そして、駅の近くのパーキングへ車を置いて、江の島を目指した。

江の島までは距離がけっこうあるのだが、この日は良い天気であり、人混みも適度な程度だったので、大丈夫だなと思いつつ、調子良く歩いていたところ、そこはそれ、所々の理由で佐藤は激しい腰痛に襲われ、「ううう〜ん」と唸る羽目になった。

「ひゃ〜参謀」は少し休んだ方が良いのでは?と提案してくれたが、この腰痛はなんども繰り返しており、病院でもとくに何もできないとのこと、自分でもどうしたら良いかわからないのだ。

痛みがおさまると嘘みたいに普通に歩けるのだ。しばし、この腰が!この腰が!とのたまい続けて歩き続けていくと、ほら治った(笑)。

江の島の大鳥居の前に着いたときには、また元気いっぱいなのだ。しかし、富士山は全く見えない。ここ、江の島は、3人の女神様が祀られている。

奥津宮多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、中津宮市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、辺津宮田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)である。

この三女神を江島大神、古くは 江島明神(えのしまみょうじん)と呼ばれていた。神仏習合により、弁財天とされて、江島弁財天として親しまれて来た。並ぶ順番は別だが、宗像大社厳島神社と同じ組み合わせである。

そこで、いつもなら江ノ島エスカーに乗るのだが、空いていたことから、そのまま階段を登って辺津宮を参拝した。


●江島神社に到着●.jpg

●江島神社に到着●


●通常は江ノ島エスカーに乗るからお会いできなかった女神様がた●.jpg

●通常は江ノ島エスカーに乗るからお会いできなかった女神様がた●


●境内は太陽でまぶしい(辺津宮)●.jpg

●境内は太陽でまぶしい(辺津宮)●



おみくじはこちらでも中吉である。いやはや、なかなか大吉が出ない。その後、摂社のスサノオミコトが祭神の八坂神社を参拝。その後のおみくじもダメ(笑)。

その頃から再び腰痛が出現! そこで途中から江ノ島エスカーに乗ることとした。すると下から乗るとセット料金750円が、ここからは180円なのだ。中津宮「ひゃ〜参謀」大吉であったが、佐藤はダメ。うううん。


●江の島の四季を楽しむ(中津宮)●.jpg

●江の島の四季を楽しむ(中津宮)●


●結局はこれよ、これ。江ノ島エスカー(笑)●.jpg

●結局はこれよ、これ。江ノ島エスカー(笑)●



そろそろ、昼なので、幕末の長岡藩の「ガトリングご家老」とご関係のあった外国人の土地、サムエル・コッキング苑近くのイルキャンティ・カフェ江の島に、初めて立ち寄った。

通常地名だと江の島、施設名などは江ノ島、神社など、古くからあるものは江島である。昔は漢文読みだから、送り仮名やふりがなは入らないのだなぁ、と思っていた。しかし、このお店は店名は「江の島」であったが、メニューには「江ノ島(名物〜)」とあった(笑)。まぁ好きなように使えばいいのだが。

イタリアのシチリア島のカフェレストランをイメージしたらしい。値段はそこは、江の島。お値段はやや高めであるが、場所がら仕方がなかろう。でも味は確かなイタリアンであった。量も見た目よりもあって、美味しい。佐藤の宿敵・トンビもここでは手も足も羽根出ますまいてwww。


●イルキャンティ・カフェ江の島のピッザを楽しむ●.jpg

●イルキャンティ・カフェ江の島のピッザを楽しむ●



そして、奥津宮を目指して歩いた。いや〜、猫が多い。ほんと多い。そして10分くらい歩いて、奥津宮に到着。1年のお礼と、新たなる願いを申し奉った。


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●とうとう奥津宮に来たのだが・・・●



ところが、2人ともおみくじはイマイチ。うううん、近くの龍宮大神を祀る龍宮(わだつみのみや)から声かけがあった。「(女神様は)だだいま御食事中である。だからこちらに来い」とのこと。

そうか、奥津宮の女神様はお食事中? ならばいたしかたがない。龍宮に参拝して、再びおみくじを引くと今度は大吉であった。そそくさと、江の島を出て、帰りは逆ルートを進み、本日の見聞録を終了とした。


●食事中の神様もいればそうでない神様もいる(龍宮)●.jpg

●食事中の神様もいればそうでない神様もいる(龍宮)●



いや〜、新年早々縁起が良い日であった・・・ハハハ。今年の恵方は南南東である。手作りの恵方巻で、改めて、立春を迎えることが出来ました。皆様にも、改めて良き1年でありますよう、祈念いたします。寒いですね、ご自愛ください。



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●あれが聖地・江の島なのだ●


(茨城県の大洗磯前神社の海岸の鳥居でのインスタ映えを狙い、鳥居に近づき、岩場から転落したりの水難事故が相次いだ。注意喚起の看板を立てて沈静化した。大国様がいけにえなんて要らないって。素人カメラマンが命かけてどうすんだよ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 12:52| 島根 | Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

奮闘記・第1049回 見聞録/大分県

●2018年● 大分県宇佐市

【謹賀新年 2018年】

謎の最強神・宇佐神宮に参拝!


新年あけましておめでとうございます!
皆さまも、お元気で良い年を迎えられていると思います。
でもお汁粉は気をつけないとね。いやほんと。

佐藤も、年末、紅白歌合戦の終了時に家を出て、例年通り、近所の鎮守様の王子神社に参拝しました。
そこで、なんと神社で「ひゃ〜参謀」とバッタリ出会い、そんで今年もよろしくと挨拶しました。ハハハ。


●恒例の王子神社に初詣●.jpg

●恒例の王子神社に初詣●



そして、本年第1弾のおみくじ結果は・・・みごとに「大吉」www。今年も、良い年になりますように! 

さてさて、今回は、お正月と言うことで見聞録は昨年、宇佐神宮を参拝をしたときのお話です。ええ、大分県の、でございますよ。

その日、佐藤はおなじみのトヨタレンタカーで「ひゃ〜参謀」を乗せ、大分県宇佐市を目指していた。

もちろん、豊前国一の宮にて、勅祭社で、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社であり、「道鏡事件」で有名な宇佐神宮である。まぁ、ある意味、昨年事件が起きた某八幡宮も託宣があったと言えなくもない。八幡大神は良くも悪くもお見通しなのだ。

さて、宇佐(うさ)は、ローマ字表記で「USA」である。入力ミスをしてしまうとアメリカに行ったのかい!と思われるがそうではない。実際、製品に「MADE ㏌ USA」と入れて、宇佐市の製品(実際は不明)をアメリカ製と偽って販売した事件があった。今でもギャグとしては定番だが実際にあったのですよ。

しかし、アメリカ製品の良し悪しとは別に、宇佐市はれっきとした文化伝統が継承されている場所である。宇佐神宮のホームページによれば、この宇佐神宮は、全国で4万社あまりある八幡様の総本宮であるという。

とは言え、実際は、宇佐神宮筥崎宮(福岡県)も、大分八幡神社(大分宮)から分霊されたらしい(笑)。宇佐は確かに古代史でも重要な土地であるが、応神天皇や神功皇后との繋がりはイマイチわからないし、1番古いからと言って、1番エライわけではないのがこの世界。

大分宮は、応神天皇産湯の井戸というものがある。古伝では、三韓征討の帰途に逗留した場所であり、ここで軍団を解散したとされる。だから、大分かれ(オオワカレ)と呼んだので「大分」という、地名縁起の話がある。もっともその筑前大分は、現在の福岡県にあり、「おおいた」ではなく、「ちくぜん・だいぶ」と呼んでいる。

しかし、この応神天皇。宇佐であれ、筥崎であれ、神話上ではほとんど活躍しないのだ(笑)。母親の神功皇后のほうがバリバリ活躍しているのに。

なぜ、主祭神が全然活躍していない「応神天皇」なのだろか? 想像するに、仏教の伝来が応神天皇のころという伝説があるからかも知れない。

日本古来の宗教(神道の原型)と、古代仏教や道教をベースにまとめたものが、『日本書記』や『古事記』の世界観となったと思われる。仏教では神々様は欲があるから人間界に近い、仏より下の世界にいるとされている。日本神話に出てくる神々様は、黄泉の国の穢れから生れた神々様が中心であるのもどこか似ている感じがする。

しかも、仏教界に習合されたインドの神々様と同じように、日本の神々様もお隠れになる。さらに『記紀』以外では、和歌山の熊野信仰には島根県の熊野大社信仰に加えて、キリスト教の影響も考えられる。『記紀』作成の時点で、仏教もキリスト教も知識として入って来ている。ネタとして利用しない方がおかしい。

古代はもちろん近代まで、中国や朝鮮半島から、自力で横断して来れる船はない。だから、外国から来るのも行くのも、北海道ルートか、九州の鹿児島・佐賀ルートから出入りしていたのだ。

九州は、かなり古くから仏教道教が日本の神々様と融合していたのであろう。だから学者が、式内社の多寡で、この地域(九州)が奈良県(近畿)より劣るというのは誠に馬鹿馬鹿しいし、信用できない。

もちろん『延喜式』の価値は大いにあるどころか大好きである(笑)。しかし、西暦にして927年のものであり、仏教伝来は、応神天皇のころは伝説としても、所説あるが538年(宣化天皇)に百済の聖明王から仏教が伝来したとされるのだ。『記紀』製作の200年前の話なのである。

さて、今回はその謎の宇佐神宮に来たが、何度か来たことがある。御祭神は下記のとおり。

一之御殿八幡大神「誉田別尊(応神天皇)」
二之御殿比売大神「多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命」
三之御殿神功皇后「息長帯姫命」

とされている。

由来では、八幡大神は応神天皇のご神霊であり、571年(欽明天皇の時代)にはじめて宇佐の地にご示顕になったという。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方である。725年に現在の知に御殿を造設し八幡神をお祭りになったこと、これが宇佐神宮の創建である。

宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くからひらけたところであり(いや畿内より古いはず)、『日本書紀』には神代に比売大神が宇佐嶋に降臨されたと記されているという。

この比売大神様とは、八幡大神様が現れる以前お古い神、地主神として祭られて崇敬されている。

八幡大神様が祭られた6年後に神託により二之御殿が設立され、宇佐国造は、そこに比売大神様をお祀りしたという。まぁ、がいろいろ書かれたように、宇佐神宮では、この二之御殿が中央にあり、ひときわ目立つのである。この下は古墳であるともいうが、まぁ卑弥呼のものじゃないでしょう(笑)。

三之御殿は、また神託により823年に建立され、応神天皇の御母・神功皇后が祭られている、こちらの神様は母神様として、神人交歓、安産、教育等の主語をされており、ご威徳が高くあらわれているとのこと。

しかし、三之御殿ができたのは100年後、つまり元々は二柱の神社であったのだ。やはり比売大神様が初期の八幡信仰の中心なのだろう。大事にしなくっちゃね。


●表参道商店街にて甘酒をいただく●.jpg

●表参道商店街にて甘酒をいただく●


●大鳥居から参拝●.jpg

●大鳥居から参拝●


●美味しそうなお酒が奉納されている●.jpg

●美味しそうなお酒が奉納されている●


と写真をたくさん載せているがほんとうにきれいである。

そんで、この八幡大神のご神徳は強く顕現し、三殿一徳のご神威は奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂公に国のあり方を正してゆく神教えを賜ったことは有名な話。事件自体ではイマイチ八幡大神様の立ち位置がわからず、神職や中央と地方の貴族の間ですったもんだしていたようにしかシロウトには見えないが。

まぁ、良くとれば、道鏡は仏教の僧侶であるから、伊勢神宮ではなく、原始仏教と習合している八幡大神に、藤原氏を初めとする貴族たちが、その元郷の宇佐神宮(当時)に使いとお金を出して頼ったのであろう。軍事力でも九州と関東はヤマト政権よりも強力だしなwww。

八幡大神はある意味、無敵である。

仏教先進国としては、中国や朝鮮半島のほうが先達であり、それらの国々と(国内はともかく)外国で戦うのは、日本に味方してくれるかはわからない。神様だけでは、不安で残る(実際、聖徳太子はそれでおかしくなり、撤退した)。そこで、習合神である「MADE in JAPAN」の最強神として、八幡大神が再び登場したと思われる(勝手な想像)。

そんなわけで、皇室も伊勢神宮につぐ第二の宗廟(お墓ですね)としてご崇敬になり、勅祭社が16社に列されている。また、一般の人々にも鎮守の神様として広く親しまれてきた。

そんな国内外の動乱ゆえに誕生した。謎の八幡信仰は、応神天皇をキーワードに、ご聖徳を八幡神として称(たた)え奉るとともに、改めて、仏教文化と我が国固有の神道を習合した信仰なのだと思う。

他の八幡宮には見られないような、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができる。本殿は国宝に指定されており、何度訪れても、まさに八幡信仰の総本宮にふさわしい。


●鳥居があちこちにある●.jpg

●鳥居があちこちにある●


●真ん中が比売大神様の御殿である●.jpg

●真ん中が比売大神様の御殿である●


●遙拝所より奥宮を望む●.jpg

●遙拝所より奥宮を望む●



しかし、伊勢神宮の内宮と同じく、境内を参拝するだけで2時間はたっぷりかかる(汗)。見るだけでもい1時間は楽に過ぎるだろう。神々様の総数がものすごいし、まさに神仏習合の万能神である。とくに心願成就は良く効くという。

佐藤も、しっかり上宮・下宮とも参拝し、絵馬もかけた。皆様もぜひぜひ十分な時間を取って参拝してください。宗像大社と並んで、協力な神様が迎えて頂けますよ! 見るだけでも、境内を歩くだけでも心が安らぎますよ。

●下宮へ続く参道●.jpg

●下宮へ続く参道●


●下宮を参拝、こちらがまた強力!●.jpg

●下宮を参拝、こちらがまた強力!●



ご飯もおいしいところ、御食事処宇佐の家を見つけられたし、道の駅も寄りまくりました。とくに大分県の道の駅・いんないオオサンショウウオ君には癒されたなぁ、でかいし(笑)。

●すてきなお店を発見!こちらで昼食をいただく●.jpg

●すてきなお店を発見!こちらで昼食をいただく●


●こちらが天ぷら定食〜!●.jpg

●こちらが天ぷら定食〜!●


●道の駅・いんないのオオサンショウウオ●.jpg

●道の駅・いんないのオオサンショウウオ●


そんでなんとかJALにて無事帰りました。今回の大分県の見聞録はここまでです。年始めからお付き合い有り難うございました。

ふう、しかし年頭から飛ばし過ぎました(笑)。皆さまも良き1年となりますよう、神々様に祈念致しました。

何卒、本年もよろしくお願いしますね!

【追伸】
今月末、ケママネさん系の月刊誌に佐藤の原稿が載る予定です。詳しくわかりましたら、またお伝え致します。そちらもよろしかったらご覧ください。


(箱根駅伝で、東洋大が4年ぶり往路優勝、まずは好発進ですな。しかし、どこぞにいる「識者」や「マスコミ関係」の予想はあてになりませんな!To Be Continued!!)



posted by さとうはあまい at 19:02| 島根 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

奮闘記・第1048回 見聞録/福岡県

●2017年● 福岡県糟屋郡篠栗町


世界最大の涅槃像に金運アップを祈念する!

【金運が叶う最強パワースポット!】



でも、祈るのは大黒様なんだがwww・・・。さて、佐藤は、現在、千葉市社会福祉協議会さんにお邪魔して、ICF関連の研修会で熱くなっておりますが、今回は福岡県の見聞録です。


●福岡空港で荷物を待つ佐藤●.jpg

●福岡空港で荷物を待つ佐藤●



そんなこんなでやってきました、福岡県。その福岡県の南蔵院には、世界一の涅槃像(お釈迦様が煩悩のない境地に達したお姿)があるというのだ。煩悩のかたまりの佐藤も、ぜひぜひ逢いに行かねば!

ということで、本日の車はトヨタのヴィッツ君。おお、久しぶりだね、よろしくね! 途中大きな渋滞や竜巻に巻きこまれたり(以前危なかった)、道に迷うこともなく、快適に走り目的地に到着。ただし、駐車場がわかりにくくて難儀した。


●トヨタのヴィッツ君!●.jpg

●トヨタのヴィッツ君!●



こちら篠粟町には、小豆島八十八箇所知多四国八十八箇所と共に、三大新四国霊場国として有名な篠栗四国八十八箇所がある。そうなのだ。四国八十八か所巡りが出来る所なのだ。この街道沿いには薬師や寺院が連立している。

余談であるが、某県にはJAの元ケアマネ・Y兄さんという方がいる。なぜか、長期休暇の際は、奥さんをほったらかして、バイクで各遍路を廻っていた。

そのナイスガイ、各種お遍路を廻り終わると、その納経帳を高野山に納めた。「うううん、身内が何か《大量〇人事件》でも起こしたんですか?」と心配したが、「うんにゃ」とのこと。どうやらただの趣味らしい。たぶんwww。

しかし、Y兄さんだと、同行二人(どうぎょうににん)が、弘法大師じゃなくて背後霊っぽいので心配なんだよなぁ、第六天魔王かも知れんが( 「ひゃ〜参謀」の大きなお世話)。

佐藤は「ひゃ〜参謀」がまさかお寺(南蔵院高野山真言宗の別格本山)に行こうというとは思わなかったが、言われるままに来た。何でもこちらのH住職さんが、自寺院内にある大黒天様のお札に宝くじに巻きつけ?(所説あり、包んだり、前に置いたりとも)、仏壇(神棚でも良いとのこと)に置き、お勤めを励行されたとか。

戦績は、1995年には、ジャンボ宝くじで1等前後賞合わせ、1億3000万円に当選! 数日後には、『ナンバーズ4』で560万円。その後も30回以上の高額当選を繰り返しているとのこと。お寺だからなんなのだが、「神」としか言いようがない。

このスーパー、選ばれた、住職さん、きっと志が高いのだろう。しかし、まぁ待てよ。宝くじを買っているわけだから、目的は俗人と変わらないのかも知れんと思ったが、寄付したともいわれるのえ、やっぱり聖人の域には達しているに違いない。

とにかく、巨大涅槃像(実際は、大黒天様だが)に会い、強力な金運アップすべく、南蔵院へ行く。「ひゃ〜参謀」は、その話に惹かれまくりで、長年ここに来たかったらしい(笑)。

もちろん、世界最大の涅槃像を見れるということも楽しみである。まぁ手の上に奈良の大仏が手に乗るほど、でかい立像の牛久大仏はまだ見てない。しかし、仙台大観音(100m)は見たぞ。いや〜、ほんとうにでかい、でかいぞ。たまに仙台市内を歩いているらしい(嘘)。

我々は、案内板に沿ってその涅槃像を目指したが、結構あった。入り口から顔が覗くほどの近さを期待したがそうはいかなかった。途中いたるところにかわゆいお地蔵さんが置かれていてついつい声をかけたくなるのだ。

「おはよう! 寒いね」

お地蔵さんは何も言わない(言ったら恐い)。でも、笑顔で、あちらにお行きなさいと目で合図を送ってくれた(笑)。


●お地蔵さんは毛糸の帽子をかぶっていた●.jpg

●お地蔵さんは毛糸の帽子をかぶっていた●



そのまま進むと、その ドたま、いやお姿が突然、目の前に現れた。このお釈迦様、横幅41m、高さ11m、重さ約300トンあるのだ。

佐藤は、お釈迦様の寝そべっている山に向かって、頭の方から近づいたので、まず見えて来たのは頭のつぶつぶ。これは螺髪(らほつ)と言って知恵を表しているという。それにしてもデカい。早く全体像を拝みたくなる。佐藤は早足になって、お釈迦様の前に回り込んだ。

見た。なんと、美しく優しいお顔なのであろうか! うっとりと見入ってしまった。なんだかブラックホールに引き込まれそうな勢いである。そして、よく見るとお釈迦様の左手には五色の布が握られており、その紐は参拝台の屋根の所に結びつけられ更に垂れ下がっている。


●これよ、これ! お釈迦様がくつろいでいます●.jpg

●これよ、これ! お釈迦様がくつろいでいます●


●全体のお姿、こちら手には紐を持たれている●.jpg

●全体のお姿、こちら手には紐を持たれている●



案内板には、この紐を握ってからお参りするように書かれていた。佐藤も、右側の紐を引き静かに手を合わせた。その後、しばし写真撮影の嵐であったのは言うまでもないwww。それにしても、大きい。最後にもう1度手を合わせてその場を辞した。

帰り道、大黒堂妙見堂を所を通りかかった。うん? 先ほどもここを通ったのだが涅槃像が気になっていて、気付かなかった。ここが「くだんの大黒天様」なのかもしれないな、ハハハ。だとしたらごめんなさいねぇ〜。

さらに舐めるように見ていると、打ち出の小槌を持つ大黒天様の周りは金色に輝いているではないか。もちろん、われらの愛するものは自由、求めるものは平和、そして大願はひとつだ(笑)。

祈念後、その、例のよく当たると評判のお札を手に入れた(出世大黒天お札、金500円也)。それらしきものがあったが念には念を入れるため、「ひゃ〜参謀」が寺務所の方に伺った。

「これがご住職が宝くじに巻きつけて当選したというお札ですか?」
「ほほほ、そうですよ。巻きつけなくとも、仏壇か神棚へお祭りしておけば大丈夫ですよ。そして云々・・・」

との説明を受けた。そして、入手した、お札が折れることがないように、くるくると一巻きして(結局、巻くのだな)、袋に収めて頂いた(まさに、す巻き大黒天状態)。

こういう関わりは素敵ですぜ、さすが「ひゃ〜参謀」www。こうして我々は、念願の大事な、だいじなお札を手に入れることができたのだ。

それにしても福岡県は奥が深い。まだまだ掘り出しもの?がありそうだ。ちょうど、そのとき例の事件で日馬富士関がもめてたのがなぁ・・・、あっちは奥というより闇が深いのかも知れない。

ではでは、皆さまご自愛ください!



●福岡 ヤフオク!ドームを後にする●.jpg

●福岡 ヤフオク!ドームを後にする●


●久しぶりのJR博多駅前、賑わっています●.jpg

●久しぶりのJR博多駅前、賑わっています●


(某海兵隊が大型輸送ヘリの窓を小学校に落下した。危険であるのはヤマヤマだが、ヘリの窓を落とす、コンテナ船にイージス艦を沈められる、はたしてその戦闘能力をいかほど信頼して良いのかの方が不安だぜ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:17| 島根 ☔| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする