2013年09月26日

奮闘記・第899回 見聞録/東京都

●2013年● 東京都千代田区&文京区


スカンツ、お前は凄い奴だな!
(東京23区内放浪記)



皆様、中秋の名月はいかがでしたか? 今年は、天気に恵まれて、月の光がまぶしいくらいでしたねぇ。ちなみにスカンツとは、モケケだるまの「金運」担当のだるま君の名前である。


しかし、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』はミステリーの傑作なのだが、まぁ前回ノーベル文学賞も逃したから、文庫化は当分ないだろうなぁ……。


さてさて、巷ではiPhoneに人気が殺到。なんでも画面操作が簡単なんだとか。ただ、大きさがまたどんどん大きくなって来て、あれじゃノートPCと変わらん気もする。


その佐藤は、スマホどころか、パソコンの操作をよく知らなかったことが「よくよくわかりました」とさ。やみくもに、自己流でパソコンを操っていた結果、PCが「うわぁぁ、もうだめ!!!」(とは言いませんがね)てな感じで悲鳴を上げてダウンしました。かわいそうに(他人事?)。


佐藤は周りにいる人々を手あたり次第つかまえて、困りごとを伝えて、パソコンを見てもらいました。すると、どうでしょう。とても書けないような使い方をしていて、あきれられてしまいました。


仕方がないから、購入したお店(野郎ラーメンの近くに移転)にパソコンを持参して、緊急治療してもらった。HDを換装。データも無事。元気になって戻ってきた。さすが、コンピュータのプロですね。プロならば、こういうプロでありたい。


さて、今回はそのパソコンを受け取りに行ったおりに東京都の中の文京区界隈を散策したのでちょっとばかしご案内したい。


佐藤は、車で秋葉原に向かい、神田明神の近くの駐車場に車を置いて店に向かった。ここは某県の堀の中のソーシャルワーカーさんがいうようにそこらへんに停めていくと、あっという間にレッカーで連れて行かれてしまうからだ(窓口対応は遅いけど、こういうのは早いよね!)。都内にしては安いTimesの駐車場に入れていった。


お店の方に修理伝票を渡し、「再び」(微調整で2度目の来店)元気になったパソコンを受け取った。その足で、神田明神へお礼に行った。そう、修理に持参した折りに帰りにこちらに参拝して、無事に戻ることをお願いしていたのだ。


【神田明神】
ここは千代田区である。正式には「神田神社」という。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など、いわゆる「江戸っ子」の総氏神である。


以前も書いたが、厳密には江戸開闢時に、徳川家と共に江戸入りして、徳川家に協力、日本橋から京橋(のちに神田などが追加)地域に住むことを許された商家の男性とのこと。まぁあと三代江戸に住んで云々という話もある。


武蔵国の国分寺がある府中や、浅草寺などの旧寺社勢力のいる浅草、武蔵国一の宮・氷川大社のある大宮はきれいに避けている。これは大和国(奈良県)の寺社を山城国に入れなかった朝廷と同じ考えでしょうね。ちなみに武家は江戸っ子とは言わない(もちろん、文京区も山の手だから江戸っ子ではない)。


この神田明神は、この江戸および東京に鎮座して1300年の歴史を持っている。江戸期には「江戸総鎮守」として、将軍から江戸庶民にいたるまで江戸のすべてを守護されてきた。そして、江戸城の表鬼門を神田明神が、裏鬼門を赤坂の日枝神社が守護している。


江戸城界隈は、一の宮も埼玉の氷川大社と、神奈川の寒川神社でテリトリーがダブる用に仕向けてある。江戸幕府がよくやる「二者で互いに監視させる制度)はここでも生きているのだ。


神田明神の主祭神は、現在は大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・平将門命(たいらのまさかどのみこと)である。いろいろあったが、平将門命は明治期にご祭神から外され、昭和59年(1984年)に祭神に復帰したのだ。


佐藤は、神々様にパソコンの復活を報告。そして、ここにしかない(?)という「IT情報安全守護2003(バージョンがあるらしい)」をゲット!


そのお守りは、3種類がワンセットで入っており(これが2003版のことで、2002版にはないらしい)、お守りがシールになっているのでパソコンに貼ることができるのだ。もちろん、放熱を妨げるところに貼ってはいけない。



●これぞ、IT情報安全守護2003である●.jpg

●これぞ、IT情報安全守護2003である●



その後、おみくじをひく。ほほう見事に大吉であった! よっしゃ、これで仕事がはかどるというものだ(笑)。そして森鴎外記念館へ向かった。


【文京区立森鴎外記念館】
ここはドンピシャ文京区である。森鴎外記念館では、記念館特別展の「鴎外と画家 原田直次郎 〜文学と美術の交響(シンフォニック)〜」が開催されていた(〜11月24日まで)。そうタイムズの駐車場前の掲示板でたまたま見た。二日後、パソコン屋さんでソフトの不具合の相談の際にはもうなかった。あの日、ここに車を停めなかったら見に行けなかったかも知れないねぇ。


佐藤は、ポスターに記載されているデータをナビ様にインプットして出発した。すると、団子坂に入った途端、やけに人が多い、車も渋滞をしている。みれば、近くのK高校で学園祭が行われており、そのため道路の両側を、学生や若人が列をなして歩いていたのだ。渋滞は困るが、いいですねぇ、お祭りというだけでワクワクしてきますよ。


佐藤は、若人の動きに注意しながら先へ進んだ。もちろん、森鴎外記念館には、駐車場はない。佐藤は、ナビ様にP(パーキング)のマークを出して、ポータブルト……いや、駐車場を探そう。


ところが、近くにはいくつもあるがすでに満車。仕方がないので、坂をくだり、さらに探してみた。すると、ありましたよ、ありました。小さい駐車場が。平日は銀行の来客用だが、土日祭日は格安で使える所が。


佐藤は、車を頭から突っ込み、その狭いスペースの中でぶつけ……もとい、数回切り返しを行い、ようやく、車をバックにてスペースに収納した(汗)。


ここ文京区は、その名にふさわしく、多くの文豪が住んでいた街である(ほとんど敬称略)。森 鴎外(本名・森林太郎)は、現在の島根県津和野町に藩医の長男として生まれ、幼い頃から論語や孟子、オランダ語などを学び、藩校の養老館、9歳で15歳相当の学力があったと推測される。


明治維新後10歳の時、父とともに上京。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得したのであった(ひゃ〜!)。その後30歳(明治25年)で、文京区に家を構え、60歳で亡くなるまで、家族とともにここで暮らしていた。


家は、団子坂上に位置し、増築した2階からは品川沖に浮かぶ舟の白帆が遠くに眺められたという。鴎外は海が見えるその家に「観潮楼」と名付けたのだ(ここが文豪を感じますねぇ)。



●文京区立森鴎外記念館●.jpg

●文京区立森鴎外記念館●



観潮楼は、鴎外が開いた歌会の会場としても使われた。会には、石川啄木斎藤茂吉木下杢太郎など、その他すんごい面々が来会。鴎外により西洋の最新の文学事情が伝えられた会であった。


その「観潮楼」は、鴎外が明治23年から一年余り生活し、約10年のちの明治36〜39年には夏目漱石が借りました。鴎外がここで小説の『文づかひ』などを発表し、漱石は『吾輩は猫である』を書いた。この地域も昭和20年に戦災にあったのだが、文豪たちが住んだ建物自体は1887年(明治20年)にすでに明治村に頃築されていたので無事であった。


以後、現在その地に残っている当時のものとしては、銀杏の木門の敷石、鴎外と幸田露伴、斎藤緑雨による辛口文芸批評(鷗外主宰・雑誌「めさまし草」にて行われた、鷗外、幸田露伴、斎藤緑雨の3人による作品合評をさす)のコーナーの名をつけた石、三人冗語の石(写真)である。



●文豪たちが座り語り合った庭と石●.jpg

●文豪たちが座り語り合った庭と石●



昭和24年に国立博物館館長だった高橋誠一が委員長となり、永井荷風佐佐木信綱齋藤茂吉らを中心とした鴎外記念館準備会が発足。昭和25年に「観潮楼跡」は記念公園(児童遊園地)となり、東京都の史跡として指定を受けた。


鴎外生誕100年である、昭和37年には、文京区立鴎外記念本郷図書館が建設され、鴎外記念室が併設された。


その後、平成18年の図書館の移転に伴い、記念室は独立して本郷図書館鴎外記念室となる。平成20年には、鴎外の遺品資料の保存環境改善のため、改築が決まり、鴎外記念室は休室。鴎外生誕150年の節目である平成24年には文京区立森鴎外記念館としてオープンした。


エントランスに入ると、横顔が浮かび上がった鴎外の彫刻が入館者を迎えてくれる。その横にある受付にて、特別展の観覧料500円を支払い、階段を下りて地下へ行く。そこにも鴎外の胸像が置かれていた。


鴎外は、明治17年から明治21年にかけて、陸軍衛生制度調査と軍陣衛生学研究のため、ドイツに留学している。


ドイツでは、ライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンの各地に滞在し学び、美術や音楽、演劇などの西洋芸術に出会い、それが、帰国後の幅広い活躍の礎となった。そのミュンヘンでの画家「原田直次郎」との出会いが、鴎外が美術に興味をもつきっかけとなったという。


特別展示室は「原田直次郎との出会い〜ミュンヘンでの日々〜と鴎外と原田直次郎〜文学と美術の交響〜」で構成されていた。


鴎外先生黒ハートの遺品である雑記帳書簡などが展示されている。また、原田直次郎氏揺れるハートが描いた、鴎外の小説の表紙や挿絵、原田氏が描いた小品(写真・スケッチ等)などが展示されていた。


特に彼の描いた神父像や、「騎龍観音」などは、観る者の足を止める逸品である。しかも、この「騎龍観音」は、なんと、東京国立近代美術館で、島根県出身の加納完蕾先生の戦争画山西省潼関付近の追撃戦」の絵のすぐ近くに展示されていたからよく覚えている。


この特別展には、若き日の森林太郎(鴎外先生)の写真も多く展示されており、鴎外先生が、ドイツでその青春時代を楽しんでいた様子がうかがえる。常設展では、写真や画像(動く鴎外先生)を交えて、鴎外先生の年表が紹介されていたり、こちらも興味深かいものがたくさんある。


佐藤は、観覧後に館内のショップにて、『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で「性欲的生活」だそうな。当時の発禁本ですが、まぁ当時は……)をゲット。もちろん、現代仮名遣いにはなっているが、果たして読破できるであろうか? まぁゆるゆるといきますわい。


その後、外へ出て庭を眺めてみた。そこに鴎外先生関係の写真でみる、幸田露伴先生・斎藤緑雨氏とポーズをつけている写真で、鴎外先生が腰かけている庭石が萩の花に見え隠れしていた。


【根津神社】
その後、徒歩にて根津神社まで散策(ここもまだ文京区)。先ほどの記念館裏の路地をまっすぐ進むと、やがて日本医科大学の裏に出る。根津神社は、道をはさんだ左前にある。ものの10分程度で着いた。


たぶん、森家の人々も、この路地を歩き、根津神社を参拝していたことであろう。たまに文豪の小説に出てくる神社でもある。たとえば、鴎外『青年』『細木香以』、漱石『道草』、寺田寅彦『柿の種』、宮本百合子『田端の汽車そのほか』、林不忘『丹下左膳(乾雲坤竜の巻)』、高村光雲『幕末維新懐古談』などなど。


●根津神社は秋の大祭中だった●.jpg

●根津神社は秋の大祭中だった●



主祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)である。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作と言われ、社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。ここの例大祭は江戸時代の天下祭の1つに数えられているほどだ(たい焼きはうってませんでしたけど)。


この日は、丁度、その根津神社の例大祭で、境内には多くの屋台が店を出しにぎやかであった。帰りには山車や神輿にも遭遇。久しぶりに江戸の祭りを見た。これも鴎外先生が引き合わせてくれたのかもしれないなぁ!そうそう、前回はコロッと忘れていた鴎外先生の名前(森林太郎)が裏側に刻まれている石(奉納した砲弾の台座)が水飲み場になっているのだ。


さて、秋は始まったばかり、様々な秋に挑戦したいものだ。皆様もPCやスマホを大切に!ではでは。



●御輿に遭遇●.jpg

●御輿に遭遇●


●江戸情緒があふれていた●.jpg

●江戸情緒があふれていた●


(JR北海道はすごい。新たにレールの幅に170の異常箇所が見つかったという。旧国鉄時代のレール幅を基準にしたため、実際には補修が必要な箇所が放置されてきたらしい。ほほう、どこかの某議員がいうように、本当にクマしか通らないのかもしれないねぇ。だって電車が通ればもっと事故がなきゃおかしいもの。まぁそんな程度の仕事ぶりなら役員や社員の給料も、電車の運賃も、旧国鉄時代の値段でお願いしたいね!To Be Continued!!)
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2011年04月11日

奮闘記・第696回 首都圏/東京都

●2011年● 東京都千代田区


福島アンテナショップに行って励まされた!

〜東京駅の高速バス乗り場には長蛇の列〜



佐藤は、少しでも福島を応援したいという気持ちで、東京駅付近にあるという福島のアンテナショップに向かった。


その東京駅では、世紀の大工事とやらが行われていた。そんな大工事なら、原発からやるほうが先なような気がするが……。まぁいいか(よかない)。


その工事は「国の重要文化財」である東京丸の内駅舎を、JR東日本が、「東京駅丸の内駅舎保存・復原工事」として行っているものだ。それよりも東京電力が……(カット!)。


この東京丸の内駅舎は、1914年(大正3年)に建築家・辰野金吾氏により、設計され、西洋の建築様式をもちいた建物として多くの人々に愛されてきた。しかし、1945年(昭和20年)の、戦災により、南北のドームと屋根、内装を焼失。戦後には、3階建ての駅舎を2階建て駅舎に復興して、現在の姿になった。


このたびの、保存・復原工事では、外観を創建時の姿に忠実に再現すること。さらに、未来へ継承するために、鉄骨煉瓦造の下に地下躯体(地下1階・2階)を新設し、巨大地震にも耐えうる建築とするため、「免震工法」を取り入れた機能拡大の工事を行うという。


確か東京駅は、地下水の中にあり、地下におもりを敷き詰めて、駅が浮かないようにしていたはず。上野駅は屋上におもりが乗せてあると聞いたことがある。


ちなみに、この丸の内駅舎はマグニチュード7.9といわれる1923年(大正12年)の関東大震災でも被害を受けなかった強靱な鉄骨煉瓦造の躯体だとか。それより、ううううん、六ヶ所村をなんとかして欲しい。M6.5しか耐震性が……(自粛?)。


鹿島建設のホームページでは、この工事の様子や、概要などを見ることができる。工事は2007年5月30日に着工され、2012年6月頃に完成予定だそうな。


いやはや、日本の建築技術は、出雲大社の遷宮や、東京スカイツリーの建設やこの東京駅の保存・復原工事といい素晴らしい技術を持っているではないですか! こういう技術をなんで活かさないのだろう?(どこに?)


東日本の被災地には、次々に仮設住宅も建てられているし、今後も、日本の設計技師や建築士や大工さん達の底力に期待したい。


実際の東京駅の使い勝手について、である。


工事をしている鹿島建設も、その安全性には十分注意をして行っているという。しかし、構内の通路状態が進行に合わせてしょっちゅう変わる。毎日、利用していれば迷わないかもしれんが、時々利用する身にとっては、


「あれ、ここは通れないの? この前は通れたのに!」


てなこともある。どこへ行ってもそうだという噂もある(笑)。


佐藤は、丸の内北口は良く使うが、八重洲方面にはめったに出ない。


いくなら最初から、地下鉄で日本橋駅や三越前駅に行く。なにしろ、丸善が反対側に移ってしまったからね。今回、久しぶりに八重洲口へ出た。


八重洲南口に出ると、そこにはJRハイウエイバス乗り場がある。行先は、鹿島神宮駅や、水戸・つくば・いわきなど、被災地方面へも行くようだ。こちらには、大きなトランクを持った乗客が並んでいた。


佐藤は、その人々の合間を縫い、道路の反対側へ渡る。ついで、八重洲ブックセンターの前を横切り、その隣にあった福島のアンテナショップに入ったのだ。



【福島県八重洲観光交流館】

平日の午後にもかかわらず、中には、スーツ姿のサラリーマンらしき方々がいて、混んでるような、混んでないような(笑)。それぞれが手に品物を持ち、レジに並んでいた。


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●東京駅前・福島アンテナショップ●



福島名物・こづゆのセットやおせんべい、お饅頭。それからジュースやジャムはちみつ、漬物など。薄皮饅頭が大きい箱入りしかないのが残念であった。美味しいよね、あの饅頭は。


佐藤は、はちみつあげせんべい最中のような餡が入ったお菓子を購入した。買い物をする人々は、必ず、側に置かれている「義援金ボックス」にお金を入れてゆく。


もちろん、佐藤も入れる。今回は品物を買うだけが目的ではなく、「何か協力したい」という気持ちで訪れる人も多いようだ。もちろん、品物が安全で、美味しいのは言うまでもない。今の内閣に太鼓判を押されると、かえって信頼がなくなる気もしますが……。


でも、販売している方々が明るくて、こちらが励まされました。やはり自ら立て直そうと言う気力があると強いね。


先だって、発生した東日本大震災の余震は、東京でもかなり揺れた。テレビでは、津波警報が発令された地域は高台に避難するように繰り返して伝えている。


佐藤は、幸い東日本大震災の当日は、島根県にいた。だから、こういう経験はあんましない。長野も佐藤の住んでいた諏訪地方は地震があんましないし、東京では久しく大地震がなかったからね。


正直、地震の揺れが強く、すぐに対応できなかった。だいたい、逃げるところは東京にはない。日本政府の杜撰な安全対策や安全マップは想定外のできごとばかりで安心できないのだ。斉藤和義氏の「ずっとウソだった」(本人のリメイク版がYouTubeに流出したという)をリクエストしたいくらいだ。


この地震により、またまたライフラインがストップしているという。少しでも早い復興を祈る。祈るだけでなく、いろいろやりたいね。でも、“自粛”なんて強制されてしたくないが。


やりたいやつが自粛すればいい。他人に押し付けることこそ、不謹慎、憲法違反であろう。さて、帰りに八重洲ブックセンターにも立ち寄った。




●買い物後の佐藤●.jpg

●買い物後の佐藤●




【八重洲ブックセンター】

品ぞろえはよいね、相変わらず。ただ、もともと、増築、増築のせいで、紀伊国屋書店新宿本店も同じだが、エレベーターが節電で動かず、途中の階で、エスカレーターもなくなり、上の階まで歩いた。空調も暑い。節電は悪いことではないが、しかし……


●八重洲ブックセンターに立ち寄る●.jpg

●八重洲ブックセンターに立ち寄る●



これでは年配者はインターネットで本を買うようになっても仕方がないかな。やはり本を買うなら丸善のほうが楽じゃ。健康にはこちらのほうがよろしいが程度問題がある。良い品揃えだから、客にもう少し気を遣ってくれればいいんだけど。


とりあえず、皆様、お互いに頑張りましょう。



追伸

林 政彦幹事長殿。ケアマネ業は快調ですか? 今回の統一地方選では、みんなの党は躍進しましたが、やはり自民党に寝返りましたか?(笑) 国会議事堂と議員会館がお待ちしてます、頑張ってくだされ。ではでは!


●議員会館と国会議事堂●.jpg

●議員会館と国会議事堂●



(ニュースで「東日本大震災1か月、がれきも課題も山積」とある。 上手いが、笑えない。なにしろ、内閣も政治家のがれきの山だもの!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:18| 島根 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

奮闘記・第662回 見聞録/神奈川県

●2011年● 神奈川県寒川町



2011 謹賀新年ひらめき

寒川神社に初詣

―― 八方塞ぃぃ? 今年はいっきに敵中突破じゃ! ――




皆様

新年明けましておめでとうございます!

また、山陰地方の皆様には豪雪お見舞いを申し上げます。


年末年始にかけて、山陰地方が大雪に見舞われていた。最初は鳥取の一部(大山の雪崩ニュース)だったが、やがては松江にも被害が及んだから穏やかではない。


佐藤もよく乗る特急「やくも」がストップ。「スーパーおき」や、「スーパーまつかぜ」も立ち往生している映像にこりゃいかんね、いかんよと心配になってきた。これ以上不便になっても困るし(それどころじゃないだろう)。


美保関では、市道が積雪のために通れなくなったそうだ。佐藤は、この海沿いにある市道を走り美保神社までよくいっているので、その道の狭さや状況も想像がつく。落石どころか落雪が大変だろう。ろうそくでしのいだ方々もいたそうだ。


そうなってくると、今度は、知りあいだけではなく、こちらにお住まいの方はもちろん、高齢者や、介護職の方々の安否が気がかりになる。ニュースの一面は山陰地方のニュースであった。しかし、こういうことでメインになってもなぁ。


昨日あたりから徐々に復旧されつつあるようで、ひとまず、安堵しております。まだまだ、大変だと思います。すでに今までの雪で相当体力をお使いだと思います。雪かきの筋肉痛にご注意下され。


さて、佐藤が、この「対人援助スキルアップ研究所」を設立して、今年で8年目を迎えます。これも、ひとえに皆様のご愛顧の賜物、有り難うございました!




【相模国一の宮・寒川神社】

ということで、今年も末広がりとなりますように、うにうにと我が研究所の守護神(の一人)である、相模国一の宮寒川神社へ新年のご挨拶に行きました。


近い……、からではない。利くのだ。神社については、今までなんども書いているので。今回は詳しくは書かない。


JR相模鉄道・宮山駅下車。徒歩にて神社へ向かう。この道すがら、何よりもの楽しみなのは、雄大な富士を見ることができることだ。


しか〜し、しかしじゃ。富士は見えるのは見えるには見えるのだが、富士山の山頂付近をまるで、なにかの目張りのように、つくりがけの道路が、ピーっと走っていて、美しいお顔を拝見することができない。……たたられるぞ。


なんってこったい。いかんね、いかんよ。この神社以外観光の目玉もない町なのに、風景まで壊しては! こんな、素敵な景色を道路が塞いでしまうとは、なんともかんとも。


だから、今回は富士山との記念写真はなし。ううん。さみしい!




●寒川神社へごあいさつ●.jpg

●寒川神社へごあいさつ●



●ジュサブロー先生のピロ、いや風呂敷お札の交換●.jpg

●ジュサブロー先生のピロ、いや風呂敷お札の交換●




気を取り直して、境内へ入る。毎年のことではあるが、神社の中は大混雑、ここは毎年出店が多い。人波をくぐりぬけ、例年のごとく、昨年のお札を納める。うにうにと並んで昇殿するための手続きを済ませ、中待合へ進む。今年は意外にはやく順番がきた。


ここでは、恒例となった、乾菓子の奪い合いを子どもたちとし、自分の順番が来るのを待つ。待っている人はそれぞれ自分の順番のカードを持って待っているのがいた。あとの番号の集団に囲まれると、すでに、自分の番号は呼ばれたのではないかと気がかりになる(小心者)。落ち着かないので廊下に出て待つことに。


ようやくその順番が来た。なんとなく「洗濯前」って感じの白い羽織をはおって、祓殿で、神職にお祓いをしていただき、しばし待つ。いよいよ、本殿に入るのだ。


ここでは、まず一人の神職が祝詞をあげ、途中から両サイドに一人ずつ(計三人)の神職が別々に参拝客の願いと住所・氏名を神様に奏上するのだ。


ここからが、早口と言うか、輪唱といえばいいのか、見事な早口である。


聴いている身には「んにゃら・んたら・八方よけうんぬん・交通安全・家内安全・んにゃら・んたら」としか聞こえない。


そんな、口上のすえ、「たいじんえんじょすきるあっぷんにゃら〜」と聞こえてきた(ほんとうに読んでるんだ……)。とにかく聞こえたことは聞こえた。よっしゃ!


どうぞ、寒川の神々様、佐藤が打って出られますようにお力をお貸しくださいませ! ということで、ご祈祷が無事に終了。どうやら、あまりに熱心にお祈りをしたようで、新しいお札をいただいたら、少しふらついてしまったくらいだ。




●楼門にはなぜか、かかぐや姫が……●.jpg

●楼門にはなぜか、かかぐや姫が……●




おみくじ結果は「末吉」。もちろん、引きなおしたが大吉は出ず(笑)。まぁ、それはそれで吉としましょう。帰りには摂末社の宮山神社に立ち寄り、出店で熱燗を頂いた。……ぬるい。今年はゆっくりぬるぬるでいきますかね。


ではでは、皆様、本年もよろしくお願い致します。雪の多い山陰・北陸・東北の皆様、まだまだ雪が心配です。寒さに気をつけご自愛ください!



●宮山神社へも参拝●.jpg

●宮山神社へも参拝●



●「のものも」はアルコール度数の割に物足りない●.jpg

●「のものも」はアルコール度数の割に物足りない●



●お団子屋さんの看板娘に再会!●.jpg

●お団子屋さんの看板娘に再会!●



(それにしてもだな。あの御祈祷の方法でよく神罰があたらんものじゃ、それに毎年びっくり!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 15:26| 島根 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月03日

奮闘記・第481回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県小田原市



小田原文学の神髄に触れる

〜ちょっきん ちょっきん ちょっきんな〜





時間がないのに、佐藤は、小田原文学館をめざし車を走らせていた(笑)。




この小田原文学館は、小田原市南町の西海子通りというところにあった。気づけば、車は、閑静な住宅地に入り込んでいた。まぁ、だいたい文学館的なものは、誰かさんの「元住居」が多いですなぁ。



ナビ様は、1件の家の駐車場に佐藤を導いた。この家は、幕末の志士で、元・宮内大臣でもある田中光顕伯爵が別邸として建てたものだ。





●小田原文学館のひっそりとある入口(笑)●.jpg

●小田原文学館のひっそりとある入口(笑)●




昭和12年建築の洋館であり、古いような新しいような建物である。この文学館も、ご多分にもれず、普通の一軒家なのである。




玄関をあげると上がりかまちになっていた。靴を脱ぎ、ヌメヌメのスリッパを履き、受付にて入場券を購入した。



最近、このスリッパをどうしょうか、と考えるのだ。まぁ、こぢんまりとしたところなら、そのまま履かないで見学するのも良いが、広い屋敷ではそうはいかない。




某ホテル●-1あたりの使い捨てスリッパを頂いて使おうかとも考えている今日このごろである。まぁ壊れやすいのが難点だが。




今日のところは、有り難く、ヌメヌメのスリッパで見学した。




さて、階段を上ってみて驚いた。なるほど、普通の階段より奥行きが広い。また、手すりもヨーロッパ風なのだ。といってもヨーロッパに行ったことがないので、あくまでもイメージである(笑)。どうやらスペイン風らしい。




●さすが大臣の別荘、南欧調の洋館であった●.jpg

●さすが大臣の別荘、南欧調の洋館であった●




●庭には紫陽花が見事!●.jpg

●庭には紫陽花が見事!●




へへん。ここは2階が展示室になっている。ここには、小田原に在住して執筆活動を行ったという作家や学者の先生がた、たとえば、明治のはじめに、島崎藤村先生とともに、「文学界」を創刊した、日本近代文学の祖といわれる北村透谷先生。




文化勲章を受章した尾崎一雄先生、民衆派の代表的詩人・福田正夫先生や、川崎長太郎先生、そしてあの、谷崎潤一郎先生など、多くの先生達が、小田原にゆかりのある文学者として、この文学館で資料が展示されていた。




直筆の手紙や原稿、初版本など、文学好きやファンにはたまらない品物が展示されていた。




そして、小田原にゆかりのある作家・文学者等の活躍が、年譜として、いまに至るまで、現在進行形で記入され、新たに記入できるように壁にパネルが貼られていた。




谷崎潤一郎三好達治北村透谷尾崎一雄北原白秋、他にも多数。




確かに、文学界の巨匠や文豪、著名な詩人がたくさん、小田原に住んで活躍していたのがわかるが、いつのころからか、小田原で活動する作家たちは目に見えて減ってきているようだ。




原因はわからない。関東大震災の影響なのか、また小田原の現代化が進み、閑静ではなくなったせいなのか。交通網が発達したので、もっと遠く(例えば仙台)などでも、東京都の行き来が可能となったせいか。




確かに交通網の発達で、関西から関東圏へは日帰り出張が可能となり、千葉においてあった支社が減り、ビルが空いて影響受けているそうだからね。




もしかしたら、作家はいっぱいいても、売れてる作家が少ないのか。いずれにせよ、記録される小田原在住の作家の活躍は年表で尻すぼみの感は否めない。




むかしの文学者の墓碑銘を読むような気がしてしまうのだ。




失礼ないいかたになるかもしれないが、いまではあまり読まれなくなってしまった作家の展示物が多いせいかもしれない。文学好きなら知っていても今の子たちは知ってる作家ってどれくらいいるかな?




これは、価値を否定しているわけではない。これらの作家たちが読まれなくなった読者レベルの低下や、売れる物しか作らないといいながら、とても売れそうにない本を平気で溢れるほど出し、価値が確立している作品群の「出版文化」を簡単に廃刊にしてしまう出版社事情を残念に思っているのだ。




書店で観ず、手にも入らなければ、親しみも愛着も読書意欲も湧かなくて当然であろう。




確かに村上春樹氏は面白い。もしかしたらノーベル文学賞も夢ではない。これは冗談ではなく、村上春樹氏自身、きちんとそういう活動をしているからなのだ。だが、彼作品のピークは過ぎているのではないかな。




どんな作家でも、活きのいい作品が書けるのはせいぜい、10年である。彼の初期に売れ始めた時の襲撃は凄かった。ヒタヒタと、そして突然にしみ込んできたのだ。『ノルウェイの森』以降ではあまり感じなくなったが……。




夏目漱石先生もピークはやはり10年であろう。司馬遼太郎先生は、晩年はエッセイがほとんど。小説はそんなに書かれてはいない。ただ、後期作品の『空海の風景』(中公文庫で上下巻)は、すばらしかった。それまでの作品のファンの受けは悪いようだし。





さて、村上春樹氏である。





彼は、せっせと、自著の翻訳活動に協力し、他国での理解を深めてもらうための自己努力をしている。読まれなければ評価はされない。善し悪しではなく、日本語は世界ではマイナーな言語である。外国人で読める人の方がまれなのだ。




だから、よい物を書けば誰かが翻訳してくれるだろう、という姿勢よりも、自分で翻訳に協力したほうが世界で認められる確率は上がる。たぶん、だからこその「翻訳調」の文章なのかもしれない。




そうそう、うまくいくかはわからないが、成功例はある。そう、あのノーベル賞作家の大江健三郎先生もそうであろう。路線を決めて、次々に「重いテーマ」で書き続け、世界に発信し続けた。




科学者や医学者は、自分の論文が、英訳できるようにあらかじめ、日本語の文章構成をちゃんと考えているのだ。だから、彼らの文章は翻訳調の論文になってしまう。




その代わり、英文にするのが、たやすくなるし、訳し間違いも、誤訳も少なくなるだろう。これは、読んだり、翻訳したりする外国人の方々にとっても同じであり、親切なのだ。そ代わり日本語としての出来は必ずしもよくならない。





だから、「あの文体」を確立した村上春樹氏は凄いとしかいいようがない。評論家で悪口を言うのもいるみたいだが、あまり説得力はない。




まぁ、古き良き、文学の復権を祈りつつ、文学館を一巡りした。




●こちらには白秋童謡館があるのだ●.jpg

●こちらには白秋童謡館があるのだ●





そして、同じ敷地内(入場券は共通券)にある「北原白秋童謡館」に行ってみた。入場券は文学館と共通券であった。




北原白秋、まさに文学界の巨匠である。いまは手に入りにくいが、岩波書店の全集で、39冊。詩や歌を中心に言葉の魔術師とも言える多作であり、心に残る歌があるし、作曲家・山田耕筰先生とのコンビでも多数の名曲を作られている。




記念館も、白秋先生の生家にある、九州・柳川の記念館。神奈川の城ヶ島。そして、ここに童謡館があり、歌碑などは、それはもう、あちこちにある。




いうまでもなく、北原白秋先生は詩人である。しかも大詩人だ。佐藤もその昔は保育士であったから、童謡はそれなりにわかる(笑)。




白秋童謡館の建物は、先ほどの田中伯爵の建てた住居の別宅だった建物という。先ほどの西洋風建物と違い、こちらは、和風建築そのもの、ということ。佐藤には、畳があるこの建物のほうが居心地がいいなぁ〜、スリッパはいらないし(笑)。




さて、白秋先生が詩を書き出したのは、大正7年に、鈴木三重吉先生の児童雑誌「赤い鳥」に童謡の担当者として参加したことがはじまり。





その頃、白秋先生は小田原の天神山の伝肇寺に「木菟の家」を建てる。木菟の家はかやぶき屋根の家でその姿が木菟に似ていたため、そのような名前がついたとか。でもミニチュアを見ても似てないんだよな。





その白秋先生に、大正11年に長男隆太郎が誕生。すると、童謡に対する思いは一層ふくらんでいったという。愛する子どもに歌ってきかせるための作品作りの目的が、そのまま白秋先生の童謡創作の力の源になっていったのだ。





先生は、「赤い鳥」だけではなく、大隅重信候主催の「大観」や作曲家の山田耕筰先生とともに創刊した「詩と音楽」等、多くの作品を残している。




2階に上ると、畳の上に大きなテーブルがあり、その横に年代を感じさせるテレビが置いてある。そのテレビの画面からは、ビデオで白秋先生が作った歌が流れいた。




ひゃ〜い!!




まずは「あわて床屋」




♪春は〜はよから 川辺のあしに〜


♪かにがみせだし床屋でござる〜


♪チョッキン チョッキン チョッキンな〜




次に「赤い鳥」


♪あかいとり、ことり、なぜなぜ赤い あ〜かい実をたべた




さらに「この道」


♪このみちは〜いつか来た道〜 


ああそうだよう あかしやのはなが 咲いてる




次々に幼い日を思い出すような懐かしい歌が流れてきた。佐藤は、しばし、時の流れを忘れて一緒に口ずさんでいたのである。




1階に降りると、そこには、白秋先生の本等が収納されている展示室があった。その一角には「まざあ・ぐうす」のコーナーがあった。





北原白秋先生は、なんと英国童謡のマザーグースを訳していたのだ。佐藤はそこに展示してった一部を眺めましたが、文章には白秋先生ならではの優しさで溢れていた。





そこには、現代の名人・谷川俊太郎先生の生々しい訳詞も展示されていた。




ううん、でも白秋先生の格調ある文章が好きですねぇ……。善し悪しではなく、好き嫌いの問題でしょうが。




さて、これにて、長引いた小田原見聞録はおしまい。チョッキン、チョッキン、チョッキンなっ〜ですぜ!




●白秋童謡館で童謡を堪能した●.jpg

●白秋童謡館で童謡を堪能した●



(島根県松江市で研修中に、島根県初の新型インフルエンザが出た。しかも松江だったが、発生後の対策は、手洗いとマスクであった。うううん、さすがだ……。To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 16:16| 島根 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

奮闘記・第480回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県小田原市



神奈川県立生命の星・地球博物館

おお、わが地球のダイナミックな誕生!

〜結局、箱根へ行っても、富士宮へ行っても、

 雨の日には富士山は見えないのだ〜




へへんだ。あんなでっかいものを雲で隠せるのだから、自然の力もバカにならんわい。てな、ことに感心しつつ、じゃ雨でも楽しめるとこへ行けばいいじゃん!



ということで、早朝からホテルを飛び出して、向かった先は「神奈川県立生命の星・地球博物館」である。



皆さん、ここ、知っていますか? だいたい、小田原というところは損をしているのかもしれない。近くに箱根という素晴らしい観光地や、横浜などがあるので、見所はあっても、あまり真剣に観光でまわる人が少ないかもしれない。



まぁ小田原は、観光地じゃないよ、普通に生活都市だよ、と言われてしまえば、実もフタもないのだが。でも、結構、見所があるし、食べ物もうまい。あの小田原城だけが見所ではないのだ。


しかし、この博物館、小田原といっても、難点は位置的にはほとんど箱根に近い。



小田原駅から、箱根登山鉄道線か、小田急線で、うだうだ行っても10分くらいで入生田(いりうだ)駅に着く。



そこから徒歩3分くらいで着く。なぁに駅から見えている。だから、箱根の観光ガイドで、「足をのばして」というようなコーナーに書かれ、小田原の観光案内では外れていたりして、あまり載らないようだ。



さて、佐藤は、ここの開館間際に車を駐車場に入れた。すると、もう、そこには小学生を乗せたバスが到着していたのだ。おいおいまたか……。



小学生が格段嫌いというわけではないが、きちんとした引率者がいない、小学生の集団の騒ぎは音の暴力に近い。そう、公害といってもいいぐらいだ。



課外実習といいつつ、彼らは遊びにきているのとなんら変わらない。引率者たちが、彼らに興味をもつような話が、でもできなければ、たたの「お遊びタイム」でしかなくなる。



とても「課外実習」になんかならない。だいたい、馬●なガ●に、学術的なものを見せたって、そうそうわかりゃしないのだ。



こういうものは、小さいころから親がいろいろ話して聞かせて、いくらかの知識や興味を育てておかなければ、面白くないだろう。



もう、日常的にクワガタや、カブトムシもいて、魚を網でとれた時代ではない。それはわれわれ大人の責任なのだ。そんな時代に子供だけ、「勉強して、頭が良くなれ」といってもだめなのだ。大人がまず勉強し、幸せにならなければ説得力がない。



今の大人は、生育地域で育った場所でしか、生きていけない特性を持っているホタルを、どこかで無理矢理捕まえてきて、自分たちの都合の良い場所に離して、ホタル観賞をするぐらいだ。「そして、ホタルには癒されるねぇ〜」っていう程度だからな。



あれって、ホタルが「威嚇」している光なんだとさ。ホタルが放つ光も、安らかな場所で放つ光とは違うらしい。でも、人間はそんなのおかまいなし。自分たちさえ、癒されればいいといういう大人が、子どもを育てるんだから、怖いよねぇ。これって、いろんな事件が起きる背景なのだろうな。




●いきなり巨大魚がお出迎え●.jpg

●いきなり巨大魚がお出迎え●



●金太郎(?)VS 熊さん●.jpg

●金太郎(?)VS 熊さん●




とりあえず、ブツブツいいながら、中に入ってみた。存外、子供たちは静かであった。



ほほう、神奈川の小学生はしっけがされているなと思っていると、大人のほうがいかん。



「いいかい、みんな! 他の人の迷惑にならないように静かに見るんだよ!!!」と注意している先生の声が響き渡っていたのだ。なんだかねぇ……。



もっと頭にきたのは、売店で、博物館の売店で店員同士が、自分の家族の年金や、その制度のしくみについて、大きい声でどなるように、ああでもない、こうでもない、とお客を無視して話していたことだ。バッカじゃなかろうか。



あんたたち、そんな話ばかり仕事中にしているとさ、年金もらうまでここに勤めらんないよ! ふう、子どもの手本にもなれない「バカな大人」は無視して、館内を見よう。


生命の星・地球博物館はまさしくその名のとおり、地球の生い立ちや生命の生い立ちがダイナミックに展示されているのだ。






■地球展示室

ここでは、地球誕生のなぞを、隕石やクレーターを手がかりにして探っていく。ここで、博物館のホームページを少し引用、参考にしながら、「水の惑星」の誕生の様子を紹介する。



およそ、46億年前、原始太陽の周りには高温の気体が渦をつくりながらまわっていた。この高温の気体が、冷えて小さい粒になり、その粒がまとまり固まり(微惑星)をつくっていく。



この微惑星は原始太陽の周囲をまわりながら、ぶつかり合いを繰り返し、大きな原始惑星へと成長していく。



実は、原始の地球も、とめどない、微惑星の衝突によってでき、それが次第に成長していったのだそうだ。月もそれらの衝突で地球から、分派した星だともいう。太陽もいまより70%の明るさだったという。




●でっかい地球儀です●.jpg

●でっかい地球儀です●




その後、原始地球は、大気をためておけるほど大きく成長。微惑星に含まれていた気体は衝突したときに飛び出して、原始の大気となって厚い雲をつくる。



このように、微惑星の衝突の時にできる熱は、厚い大気によって蓄えられていった。そこで、原始地球の表面はマグマの海に覆われ、そこに微惑星が衝突するというすさまじい状態だったと想像されている。



やがて、微惑星の衝突がおさまると、マグマの海に覆われていた原始地球は冷えていくのだ。地表が冷えると、雲ができ、雨が降り出した。



雨は何日も降り続いたろうし、地表はさらに冷やされていった。そうなると、地表では雨水は洪水となって流れ低いところへたまり、海を形成したという。



そして、厚かった雲はやがて薄くなり、太陽が顔を出す(こんにちは!)。このときに原始地球は「水の惑星」として生まれ変わったのだ!




●月球儀、クレーターがリアル●.jpg

●月球儀、クレーターがリアル●




おお!ようやく、わが地球の誕生じゃ。こうしてできた水の惑星であるが、実は地球の内部には熱エネルギーが溜っていたのだ。このエネルギーが地球の様々な活動の源になっていくのだ。火山活動や、地震なども、地球が生きている証拠なのだ。



中でも佐藤が興味を持ったのは、「プレートテクトニクス」というやつだ。このプレートとは、地球の表面からマントルの上部まで厚さ数10qの岩石の層をさしている。そう、よく地震でズレるやつだ(笑)。



地球の表面は、10数枚のプレートに分かれていて、1年間に数pほどの早さでそれぞれが決まった方向に動いているという。



海底の大山脈ではマントルからマグマがわき上がってきて、新しい海洋プレートが作られる。やがて、海洋プレートは大陸プレートの下に潜り込んでマントルに戻る。地震や火山活動の多くは、このプレートの境目付近でおきているわけだ。



書くと、このように長くなるが、博物館ではこの仕組みを大きなモニターをもちいて視覚的にわかりやすく、サクサクと教えてくれる。いやはや、このモニターを眺めているだけでもあきないのだ(笑)。




●映像で地球を知るのじゃ●.jpg

●映像で地球を知るのじゃ●





■生命の展示室

こちらでは生命の化石を見ることができる。マグマの海に覆われていた地球は、やがて冷えて海をつくった。この海の中で生命は誕生した。この生命が地球の環境を変えていったのだ。



地球に誕生した生命は、大気や海水の変化と共に進化していき、さらにオゾン層ができて、陸上にも生きものが進出できるようになると、まずは植物が上陸して大森林をつくっていき、ついで、動物も上陸し、恐竜のような巨大な生物も現れてくる。




●サメ君も佐藤も、地球の一員●.jpg

●サメ君も佐藤も、地球の一員●




こちらのコーナーでは、恐竜や古代動物の骨格模型、及び化石を見ることができる。また、地球が生んだ多様な生物種として、魚類や、恐竜。恐竜からほ乳類へ。鳥類の世界。ゾウの進化。やがて、森の開拓者として「霊長類」を展示。



●おお、恐竜さんかっこいい!●.jpg

●おお、恐竜さんかっこいい!●




●出た!ナウマンゾウ。長野が懐かしい!!●.jpg

●出た!ナウマンゾウ。長野が懐かしい!!●




さらに、被子植物や、昆虫の世界まで地球環境に広がるあらゆる生命が展示されているのだ、こりゃたまらない。佐藤は、1日眺めていても飽きないだろう。



しかし、佐藤は、午後から仕事が控えていたので、そそくさと見てまわった。2階に上ると、神奈川の博物館だけに、神奈川展示室が設けてあり、神奈川の大地の生い立ちから、相模湾に生きる生命や、人と自然のかかわりが紹介されていた。最後のコーナーへ向かった。





■自然との共生を考える

人類の現在と未来として、人類の誕生と人間の歴史などが紹介されていた。大スペクタルな地球の誕生から、生命の誕生をみてきて、地球は、自然は偉大であるなぁとつくづく思った。



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●巨大カブトムシが案内●




皆さんご存知のように、地球上に人類が誕生したのは、この地球の歴史からすれは、ほんの短い期間しか経っていないのだ。



生物をふくめた自然環境は、大気、水、地表などとのあいだに物質が循環することによって、つり合いが保たれているのじゃ。地球に生命が誕生してから現在まで、生物がまったく生存できなくなるような、環境の大きな変化はなかった。




●佐藤は、この種の生き物が苦手じゃ●.jpg

●佐藤は、この種の生き物が苦手じゃ●




しかし、ここに来て、地球上に存在しているわれわれは「地球の温暖化」や「オゾン層の破壊」「砂漠化」などの環境変化などをもたらし、この素晴らしい地球を破壊しまくっているのだ。おおっ。地球を守らねば!



といいつつ、気がつけば、1時間以上見てしまった。まずは自分の持ち時間がピンチじゃ。そろそろ移動じゃ。ではでは!



(いまのところ、自然科学系の博物館は、群馬県立自然史博物館・上野の国立科学博物館、そして、この神奈川県立生命の星・地球博物館がベスト3じゃ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 20:36| 島根 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

奮闘記・第473回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県横浜市


佐藤流・YOKOHAMA GUID

祝・開港150周年記念ウォーキングじゃ〜!

(横浜は素晴らしいPart4)




はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ〜。



かなり疲れている。



といいながら、横浜はいま、開港150年目の大博覧会中。疲れている、はいそうですか、と帰るわけにはいかない。



大イベント「開国博 Y+150」は、横浜開港記念テーマイベントとして、2009年4月28日〜9月27日まで開催されている、ちゅうやつだ。



みなとみらい地区を中心としたメイン会場「ベイサイドエリア」。



食やファッションなどの人気スポットが立ち並ぶ横浜駅周辺から山下・山手地区の「マザーポートエリア」。



自然豊かなズーラシア近隣に広がる「ヒルサイドエリア



」「」「自然」が生きる、この3つエリアから、未来を輝かせるゆめの種をまくために、をテーマに開催されているのだ。あ〜、はいはい。




●巨大たねまる君発見!●.jpg

●巨大たねまる君発見!●




ここには道先案内人として、マスコット「たねまる君」が登場する。これを主催している、財団法人横浜開港150周年協会では、それぞれのエリアに分かれた、たねまるマップと、開国博のパンフレットを、配布しているから方向オンチの佐藤は非常に助かった。佐藤は、すでに、「外交官の家」で、これらをゲットしていたのだ。ふふふ。



佐藤が目指すベイサイドエリアには、平日だというのに大勢の観光客が来ていた。この2日はまさに「開港記念日」だったからさ。



上空には飛行船も飛んでいる。先ほどのブルーインパルスといい、飛行船といい、地上も上空も賑やかであった。




●飛行船が横断していく●.jpg

●飛行船が横断していく●





【赤レンガ倉庫】

赤レンガ倉庫の歴史をご紹介したい。



1907年に、明治政府は、日本で最初の近代的なふ頭として、新港ふ頭を建設。その後1911年に2号倉庫(現在の2号館)を創建。日本初のエレベーターや、避雷針、消火栓が備え付けられて、当時では新鋭の模範倉庫として完成した。



ついで、1913年に1号倉庫(現在の1号館)が、完成。現在もこの1号館には、当時のままのエレベーターが保存されているという。



1920〜1923年には、赤レンガ倉庫が、上屋施設だったために、主に葉たばこ、羊毛、光学器械、洋酒等の貨物が取り扱われ、人ともので賑わいをみせたそうな。



その後、1923年9月1日、関東地方を襲ったゆゆしき関東大震災では、横浜も瓦礫の山と化し、開港当時を語る貴重な建造物が倒壊・焼失してしまったのだ。



ただ、関東大震災で、震度7は相模湾岸地域(鎌倉〜小田原)、東京や横浜は震度6ぐらいで、多くの人は火災で亡くなったのだ。いまなら、「相模湾沖大地震」とだろう、と言う人もいる。



さて、そのような地震でも、赤レンガ倉庫は、1号館は半壊したものの、2号館は倒壊を免れたのだ。このような赤レンガ倉庫も、1945年、終戦直後には、GHQの総司令部に接収されてしまった。



このときの、マッカーサー元帥の進駐は、ペリー来航以来「横浜2度目の開港」と言われ、1956年までのおよそ10年間は横浜港の機能がストップし、大桟橋から伊勢佐木町一帯は立ち入り禁止地域となった。



そして、ようやく、1956年に米軍が接収を解除し、貿易が再開すると、再び海外との取引が盛んになり、入港船舶のトン数取引貨物の量などすべてが戦前の記録を更新していった。



だが、貨物のコンテナ化の進展に伴い、物流機能は他のふ頭に移っていった。そして、1976年、取り扱い貨物が激減し、1980年に赤レンガ倉庫は、倉庫としての役目をここに終了したのであつた。



その後、倉庫としての役目を終えた赤レンガ倉庫は、横浜のシンボルとしてひっそりとたたずんでいた。しかし、ハマっ子は黙っていなかった。


市民の声に後押しされて、横浜市は国から赤レンガ倉庫を取得。その後5年以上をかけて、様々な保存活用工事を行い、2002年4月に現在の横浜赤レンガ倉庫がオープン。それに伴い周辺も赤レンガパークとして整備されたのだ。




●赤レンガ倉庫は大賑わい!●.jpg

●赤レンガ倉庫は大賑わい!●




現在は、ショップや、レストラン&カフェなどのお店が入り人々の憩いの場となっている。横浜に何回か出没している佐藤ではあるが、この赤レンガ倉庫に入るのは初めて(ただの倉庫と思ってたもん!)であった。



さっそく、中に入り、お目当ての、YOKOHAMA ASYAMICHI ICE(横浜馬車道アイス)を食べたのである。馬車道と言えば、日本で最初のアイスクリーム発祥の地じゃないですか!




●馬車道アイスも食べた!●.jpg

●馬車道アイスも食べた!●




カップの中には、柔らかいクリームが鎮座し、その上にカリッとしたウェハースのふたが乗っかている。そのふたをスプーンでカシカシと崩して冷たいクリームに絡めながら食べるのである!!!



もちろん、クリームは冷たく甘い。冷たいクリームは文句なく美味しい! また、ふたをカシカシと崩すのは遊び心があっていい。ひゃひゃひゃ〜い! ごちそうさまでした。



また、赤レンガ倉庫の前にはテントが張られて、開国博のお土産など魅惑な商品を販売していた(ヤバいものはありませんぜ)。



だから、佐藤は、揺らすと音が出るたねまる君をゲット!!!!!


こうして、研究所の仲間は増殖し続けるのであった(笑)。


ところで、佐藤は横浜博の入場券を持っているのだ。しかし、入場券がなくても、あんまし困らない(しっ!秘密)。だから、次は入場券を活用できるところへ向かった。





【Y150はじまりの森】

ここには、巨大スペクタルアートENEOSU「La Machine(ラ・マシン)」が登場。



これはフランスの世界的スペクタルアート劇団「ラ・マシン」が日本初上陸し、彼らの創り出す、高さ約12メートルある巨大生物アート・マシン「生命のある機械」たちが繰り広げる驚きのイベントとである。




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●巨大クモはお休み中●




佐藤も、見ましたよ、巨大クモが寝ているところを(笑)。残念ながらこの時間はお休み中であった。動かないこの巨大生物なら、危害は加えないだろうということで、そばに近づき記念写真を撮りました(笑)。



ちなみに、4階建てのビルの大きさがある、「生命のある機械」がうごめくのだから、この機械が動き出したら相当な迫力であろう。すでに被害者は1000人を超えたと言う(嘘)。


しかし、もはや、佐藤にはこの機械が動き出すのを待つだけの気力がない。なんせ、暑いのだ。しかも歩きっぱなし。いい加減座りたいよ〜。ぶつぶつ言いながら、横浜に関する展示を見て回った。あの丸善の早矢仕氏にも遭遇しました(笑)。




●林政彦氏、いや早矢仕有的氏に遭遇(笑)●.jpg

●林政彦氏、いや早矢仕有的氏に遭遇(笑)●





【Y150トゥモローパーク】

そんなこんなで、見つけましたよ。涼しくて座れる場所を(笑)。会場は、全天候型の施設で大型の映画館(?)。


つまりスーパーハイビジョンシアターなのだ。そこで上映している作品は、未来シアター「BARTON」である。



物語は、宇宙旅行が容易になり、惑星間での移民も行われるようになった未来、惑星アベルを舞台に始まる物語。



過去から現代、そして未来へと、大切な何かを繋ぎ残していく「絆」がテーマのSFファンタジー「BATON」を3部作として上映。しかも世界初公開!!



この日佐藤が見たのは、第2章〜未来〜Episode2:アポロとミカルであった。上映時間は短いのだが、その間に、はらはらドキドキわくわくの物語が展開していく。いい出来なんだ。



この作品は、岩村俊二氏が脚本・プロデゥースした初のアニメーション作品。監督は北村龍平氏、出演キャストは、市原隼人さん・上戸 彩さん。大杉 漣さん。ケイン・コスギさん。内藤剛志さんなど、豪華キャストである。



アニメなのに、声の出演ではなく、出演キャストとはこれいかに。実は、これ、実写の動きをトレースしてアニメーションにリアリティを与えているのだ。



ここがこの映像のおもしろいところ。まぁこれは見てのお楽しみということにしましょう。



心に残る映像にまちがいない。いや、本当!!(内藤剛志さ〜ん!オモシロ過ぎ!!)




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●涼を求め入ったら、素晴らしい映画だった!●





【イタリアン MANGIA MANGIA】

佐藤の横浜ウォ〜キングはこれにて終了。夕飯は定番となった横浜ランドマークタワーのレストラン、イタリアン MANGIA MANGIA(マンジャ・マンジャ)である。ここは、各テーブルに担当者がつく。



お客が席に座ると、その担当者がきて、紙のテーブルクロスに自分の名前をサインするのだ。しかも、お客さんから読めるように書くのだ。



その見事な描きっぷりには、ほれぼれしますよ。よく見れば街にはプロの技があふれています。真のプロのおもてなしは最高だよね!!



さて、佐藤は再び神奈川に出没します。是非とも映画の結末をみたいと思っていま〜す。季節の変わり目です。皆様ご自愛ください。ではでは!




●1日枚数限定ピザ(サインはmihoさん)●.jpg

●1日枚数限定ピザ(サインはmihoさん)●




PS.

と言いながら、佐藤の出没予定会場のお知らせ!!!


「“TA”を活用した対人援助技術」


●日 時:平成21年8月19日(水)  10:00〜17:00


●会 場:八洲学園大学 講義室、もしくは会議室
     (横浜市西区桜木町7丁目42番地)


詳しいお問合わせ先は、社団法人かながわ福祉サービス振興会
教育事業課
までお願いします。

 TEL:045-210-0788
 FAX:045-671-0295



(この道はいつか来た道〜、最近なのに思い出せないのがヤバいぜ〜い!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 15:28| 島根 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月18日

奮闘記・第472回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県横浜市


佐藤流・YOKOHAMA GUID

祝・開港150周年記念ウォーキングじぁ〜

(いや〜困ったPart3)




佐藤は、横浜に来るたびに、登ってみたい。それがなかなか叶わなかった。なにしろ閉館していたのだから。それがこの横浜マリンタワーなのだ。



【新装・横浜マリンタワー】

横浜マリンタワーは、横浜港開港100周年記念行事の時に、横浜を象徴するモニュメントを建設するという計画から1961年に建設された。


その高さは106mである。灯台を意識したデザインが特徴で、実際に当時のタワーには頭頂部に、灯台としての機能を併せ持っていたそうだ。ギネスブックにも、「世界で最も高い灯台」として記録されたというのだから素晴らしい。ははは。


しかし、近隣を航行する船舶に対しては、実際には灯台としての重要度はあまり高くなかったらしい。まぁ、この近くまで来ちゃうと結構わかりやすそうですからな。灯台なんかいらなそうだ(笑)。


2008年には、改装工事が必要となり(結構ガタガタしてました)、まずは灯台としての機能は7月28日未明をもって休止し、9月1日には廃止された。


創業時には、多くの観光客を集め、ピーク時には年間入場者数105万人を記録した。しかし、その後、集客力が減少していき、2005年には年間27万人にまで減少した。とうとう、運営会社は入場者減に伴いマリンタワーの営業を、2006年12月25日に終了した。


その後、横浜市はマリンタワーを改修、2007年リスト株式会社が運営会社となり、2009年5月23日(土曜日)に復活し、グランドオープンしたのである。


改装前はかなり汚かった。値段はともかく、元町百段公園と同じで、何も手を入れないであれるがまま、という感じであった。これでは“いい時の横浜”はなかなか帰って来なくても仕方がない。


横浜は好きな街であるのだが、少し前までは、悪いがB級観光地(横浜を観光地とすれば)の域を出ないものであった。東京に遊びにくるついでに横浜も、ということもあまりなかった。


それが開国150周年という目標があったためか、かなりイメージが回復しつつある。きれいな街になれば、みんなやっぱり横浜が好きなのだ(笑)。



●復活!横浜マリンタワー●.jpg

●復活!横浜マリンタワー●



さて、中に入って盛況ぶりに驚いた(笑)。いつもなら、その人の多さにそそくさと退散するかもしれないが、それでも、今回はなんとしても登りたいのだ。だから辛抱強く待ちましたよ。


ようやく順番が来てエレベーターに乗った。この間にも周りの景色を堪能できる。景色は良い分が足下はすくむ思いですぜ(笑)。


展望フロアは地上29階と30階。展望フロアでは360度すべての景色を見渡すことができた。まぁそれだけなら、もっと高い横浜ランドマークタワーがある。ここにあるタワーだから意義がある。厳密に言えば、いまの桜木町駅や横浜駅は、開国当時は「水の下」なのだ。




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●先ほど歩いた横浜山手方面が見えるぞ●




うううん、横浜〜。当時に想いをはせ、佐藤が西の方向を見つめていたその時、なんと、自衛隊の飛行機、かの有名なブルーインパルスが隊列を組みこちらへととんでくるではないか!(あれが裸眼で見えるその目が怖いわい)



ズキュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン〜


ひゃ〜い! ジェット機がくるぞう! きゃ〜! 逃げろ〜!(何で?)


なんて叫んでいたら、後方から白いスモークをはきながら横浜港上空へ飛んでいった。


機影を追いかけ眺めていると、ブルーインパルスは、横浜港の上空で一気に上昇し弧を描く形で下降し、さらに隊を整えて、先ほど、飛んできた方向へ飛び去っていったのだ。




●突如現れたブルーインパルス!!!(タワーから)●.jpg

●突如現れたブルーインパルス!!!(タワーから)●




この間わずか数分間の出来事であったが、間近にみた、ジェット機の機影と、パフォーマンスの素晴らしさにしばし呆然とたたずむ佐藤であった。ううん。ステキ!!!


ただ、イラクやアフガンで、あれに似たような戦闘機で攻撃されている人々を考えるとその恐ろしさは想像できない。ああいう物を平和利用だけで使える世の中にしないといけない。人類のテーマは続く。




●タワーを出たら、また来たブルーインパルスが描いた輪●.jpg

●タワーを出たら、また来たブルーインパルスが描いた輪●




【横浜開港資料館】

とはいいながら、ブルーインパルスの興奮を抱えながら、横浜開港資料館へ向かった。


この横浜開港資料館は江戸時代から、大正・昭和初期までの国内外の歴史資料を集め、広く公開・普及し、世代間の交流と市民相互のふれあいを高めるためることを目的として、昭和56年の6月2日(開港記念日)に日米和親条約が結ばれた由緒ある地に開設された。




●横浜開港資料館にも行った●.jpg

●横浜開港資料館にも行った●




館内は、常設の2つの展示室と、企画展示室がある。その他に、江戸時代から、大正・昭和初期までの横浜に関する資料を閲覧できる閲覧室があるのだ。


展示室1には、200年あまりの鎖国を破ったペリーの来航時のようすが紹介している。


1854年(嘉永7)ペリーは、500人の武装した兵士を連れて横浜村に上陸した。このペリー上陸図には、横浜港に浮かぶ黒船の船隊。神社の前に整列して立ち並ぶ水兵さん。それを向かえ入れる、日本の武士(幕府)が描かれている。


また、これらの情景を見渡すかのように、神社の中には1本の木描かれている。実はこの木は玉楠で、なんと、横浜開港資料館の中庭で、生き続けているのである。この資料館の場所には旧英国領事館があった。


展示室2では、明治14年に発行された横浜実測図を基とする床面地図上に、その場所で始まった「横浜もののはじめ」などが紹介されている。


また、先述したヘボン先生ご夫婦の業績が紹介されていたり、また、開港により、絹の輸出や、石鹸の製造など、日本の産業の発展などを見ることができる。これは改まってみると結構おもしろかった。さらに、横浜開港資料館の旧館には記念ホールがある。この旧英国領事館は昭和6年に建ったものなので、記念ホールはその待合室だったという。


先を急ぐ佐藤は記念ホールまでは行かなかったが、その代わり、しばし、玉楠の前にたたずみ、清々しい気持ちに浸ったのであった。



●開港を見守った玉楠の子孫ですだ●.jpg

●開港を見守った玉楠の子孫ですだ●





【シルク博物館】

大桟橋のすぐそばにシルクセンター国際貿易観光会館がある。ここは、横浜開港百年記念事業として、神奈川・横浜市・関係業界の協力で、昭和34年3月に、開港当初英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)があった場所である。いろいろ文化の兆しが見えてくるところである。


シルク博物館はこの中で、重要な一事業部門として開設された。ここでは、絹の科学・技術の理解や、絹装飾の工芸美を観賞する事が出来る。一方では、絹の需要促進も目的にしているそうだ。


展示室では、蚕の成長にともない、活用された農具や、繭玉から糸が造られる過程。糸の種類と、その糸を原料として、織られ染められていくいろいろな工程が展示されている。




●シルク博物館にも侵入(やや、お疲れ気味)●.jpg

●シルク博物館にも侵入(やや、お疲れ気味)●




実は佐藤は、その昔幼少時(ご幼少とは言わせない)、蚕の世話をしたことがあるのだ。祖母の家には蚕棚があり、桑畑で、桑をとり、蚕に与えたことがある。


だから、農具や、蚕棚を見ていたら、それらの風景がおもいだされ、いつしか、その桑の葉を蚕がさわさわと食べていく音を思い出していた(誰かに似てる)。


ちなみに、蚕はかわいいが、成長した蛾は大嫌いである!!(皆様たくさん送ってください、ははは。要るか!)


そうそう、館内では、日本の製糸産業の歴史をパネル等で紹介しており、長野県諏訪地方の製糸工場や、群馬県にある、富岡製糸場(世界文化遺産暫定リストに記載)の煉瓦造りの建物や、製糸場の中で絹糸を括る女工さんたちを描いた錦図なども展示されていた。


また、絹糸からつくられた和装や洋装が賑やかに展示されていて、佐藤は、人間が造り出す「美」にしばし見とれてしまったのだ。


さて、シルク博物館も堪能したし、そろそろ、お腹が空いてきました。やや、気が重いが、いよいよ、横浜開国博が開かれている赤レンガ倉庫方面へ向かうことにしますかねぇ。


ということで、横浜ぶらぶら節はまだまだ続く! 何か問題でも?(笑)



●おお!大麻、じゃなくて桑の木が繁っていた●.jpg

●おお!大麻、じゃなくて桑の木が繁っていた●



(ちょっと疲れ気味、まぁそういうことで!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:09| 島根 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

奮闘記・第470回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県横浜市


佐藤流・YOKOHAMA GUID

祝・開港150周年記念ウォーキングだぁ〜

(もしかしてPart II)




さてさて、横浜開港記念のウォークラリー(?)はまだまだ続いていたのだ(笑)。



むかしは見晴らしがよかったであろう、元町百段公園をてくてくと降り、元町は軽く流し、堤川にかかる谷戸橋を渡った。



こちらには横浜の合の同庁舎があるようだ。ここがかつて、横浜の居留地に住む外国人と、横浜から元町に移された日本人の町との間に、堀川を掘って、入口に関所を設けた場所だという(横浜の関内は、関所の内と外である)。



少し歩くと、そばに「ヘボン博士邸跡等」という魅惑の案内板を発見した。それによると、ヘボン博士は、横浜開港と共に、来日した宣教師の1人とある。



●ヘボン博士邸跡ですだ●.jpg

●ヘボン博士邸跡ですだ●



●ヘボン博士の偉業●.jpg

●ヘボン博士の偉業●




そして、神奈川の成仏寺に仮寓し、文久2年(1862年)冬、横浜居留地39番地に移転。幕末明治初期の日本文化の開拓に力を尽くした人物である。



しかし、外国人はみな、神社ではなく、寺に泊まるなぁ。寺はそれぞれ檀家をもち、裕福だからなんだろうなぁ。



さて、そのヘボン博士は、ジェームス・カーティス・ヘボン James Curtis Hepburn(本来は、ヘップバーンらしい)博士である。



アメリカの医療系伝道宣教師なんだそうだ。しかも33年日本に滞在し、帰国。享年は96歳だという!



先生は、日本ではお寺で聖書の翻訳、和英辞典の編纂、医術の普及なども行った。そうそう、ヘボン式ローマ字の、あのヘボンですぜ。



しかも、ご夫婦で横浜の「文明開化」の扉を開いた方である。そして、のちに明治学院大学の母体となるヘボン塾(英語塾)を創設した。



ヘボン博士は幕府から委託されて英語、数学を、大村益次郎などにも教えている。



そういえば、大阪に、江戸時代に蘭学者・医者として知られる、緒方洪庵先生が大坂(現・大阪)に開いた適塾がある。この大村益次郎はこの適塾の塾長を務めていたっけ。



横浜開港により、日本にやってきた外国人さんは、日本の医学発展にも、大きな影響を与えているのであった。



佐藤が次に向かったのは、開港時、外国人向けの洋風宿泊施設を整備していた、という伝説の横浜グランドホテル ― はないので ― その後継となったニューグランドホテルに向かった。横浜グランドホテルは今の「人形の家」あたりにあったという。


●山下公園方面から観たホテルニューグランド●.jpg

●山下公園方面から観たホテルニューグランド●



当時の横浜のグランドホテルの社長はミッチェル・マクドナルド(元アメリカ海軍主計官)であり、わがラフカディオ・ハーン先生の来日時や、ハーン先生の長男・一雄さんの世話をするなど、いろいろハーン先生ご一家とも縁があったのだが……。



関東大震災でホテルとともにお亡くなりになった。最後まで従業員たちを守ろうとして逃げ遅れたという。彼は勇敢な軍人でもあったのだ。





■横浜ニューグランドホテル

さて『横浜今昔散歩』(原島 宏至・著、中経文庫)である。この本は、横浜の開港時代の様子を当時の写真や、絵巻、イラストなどを多く活用して紹介している。



その上に、現在の風景を取りこんでいるので、読む人は、当時と現在の差異や、横浜の発展ぶりを見ることが出来る。この本は横浜を見聞する人にとっては、非常にわくわくする逸品である。



●順番待ちのロビーにはヒストリーが貼られていた●.jpg

●順番待ちのロビーにはヒストリーが貼られていた●





横浜グランドホテルは、この本によると先ほど少し書いたように1879年(明治6年)に現在の人形の家あたりにオープンした。グランドホテルの紹介部分には、ホテルのレストランでの、朝のティー・サービスの様子を写真で紹介されていた。



そこには、日本髪を結い着物を着た日本女性が写っている。このグランドホテルは、本格的な西洋料理で知られていて、宿泊した人々が、パリのグランドホテルに滞在しているかのようだと感想をもらしたということだ。


なにしろ、当時のレストラン(ヨーロッパはいまでも?)では、手書きのメニュー表が多い。そんな中、グランドホテルでは印刷されたメニューをすでに使っていた。もちろんそのメニューは英語で書かれているのだ。



●メニュー看板の裏で待つ!!●.jpg

●メニュー看板の裏で待つ!!●




以前、神楽坂のフランス料理店に入ったときに、メニューがフランス語(もちろん手書き!)に困り果てたことがあるのを思い出した(メルシー)。



このグランドホテルが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊してしまうのだ。その後1927年(昭和2年)に横浜市が中心となり、新ホテルが建設され、このときにホテルの名称を一般に公募したところ、なんとグランドホテルにちなんだ「ホテルニューグランド」が採用された。



つまり、現在のホテル“ニュー”グランドは、グランドホテルの精神を引き継ぎ、外国の一流ホテルと遜色のない、サービスが提供できるホテルを復活すべく、建設されたという。



創業以来、異国文化の窓口として横浜と共に歩んできた日本を代表するクラシックホテルの一つなのである。



いろいろぐちゃぐちゃ言ったが、佐藤はランチを食べることを目的にホテルニューグランドに入った(笑)。



1階にある、コーヒーハウス・ザ・カフェは満席。入店待ちをしている人々がいた。佐藤も、少し待ってみた……。



フロアの壁には、ホテルニューグランドのヒストリーが写真入りで紹介されている。このホテルも、また歴史の荒波にもまれているのだ。



戦後まもなく連合国軍最高司令官総司令部に接収され、あのマッカーサーらが駐屯・滞在していた。



このときに進駐軍の兵士が、故郷を離れ、もう定番の食事にも飽きていたのだろう。スパゲッティとケチャップを和えた軍用食を食べていた。当時の総料理長であった入江茂忠氏と話して新メニューを考案したという。その中のひとつがナポリタンなんだそうだ。確かに外国にはないメニューである。




佐藤が頂いたのは、ビーフがたっぷりと入っているハヤシライス(スープ・サラダつき)。これがまたテーブルマナーもついているのだ(笑)。



皆さん、ハヤシライスといって侮るなかれ! 日本のハヤシライスは丸善の創始者早矢仕有的(ハヤシユウテキ)氏が創設者という話。



これも諸説はあるのだが、まぁ、丸善は好きだし(いい加減だ)、他説がどうであれ、早矢仕さんの説でとりあえずいく。



とにかく、この料理は日本で作られた洋食ではあるらしい。横浜には見かけないが、丸の内OAZO(オアゾ)に丸善の本店がある。



その4階にある喫茶店、『M&C CAFE』で早矢仕(ハヤシ)ライスををいただく事が出来る。ハヤシライスとは書かないところがにくい(笑)。



料理にもどる。



スープを頂いたあとで、ライスと、ルーが入った、グレービーボート(よくカレーのルーなんかが入ってるやつ)が運ばれてきた。



佐藤は、スプーンを使って、器の中からルーをすくおうとして驚いた。
なんと、器にはステーキ肉かと見間違ごうほどの、でかいお肉が無茶苦茶入っていたのだ! どうする?(笑)



これをライスにかけて頂くわけだ。はは〜ん、なるほど!! お肉が多いぶん、ややハヤシのルーが少ない気もするが全く文句はない。



佐藤は、大して知らない(興味なし)テーブルマナーもそこそこに、スプーンに入りきらないお肉をガシガシとほおばっていった、ははは。




●お芋のスープ、ハヤシライス、そしてデザート!●.jpg

●お芋のスープ、ハヤシライス、そしてデザート!●




お肉からは濃厚な肉汁が出る。口の中でハヤシのルーとからまる。そして、ライスの甘みとまじる。うう、絶妙なハーモニーを味わえるのだ。ふう、美味しい。



すると、佐藤が完食するのを見届けた店員さんが寄ってきて、「デザートをお持ちします!」と魅惑のひとことを言い残し、お皿を下げていった。



なんですとぉ? デザートですとぉ!!!




テーブルにははじめからデザートスプーンが置かれていた。んで、デザートが、出てくることはわかってはいたが……。ふう、すでにお腹は満腹(笑)。


運ばれてきたデザートは、午後のティー・タイムにいただくケーキセットに劣らない大きさがあった。冷たいバニラアイスは、熱くなった体をさまし、抹茶のケーキの甘さが体に優しい!


食事中、ランチタイムのサービスなのか、「外国人ミュージシャン」によるによる小粋なアコーディオンの演奏があり、店内大拍手の嵐。ひゃ〜いだ!!




●食後のホテルニューグランド前(笑)●.jpg

●食後のホテルニューグランド前(笑)●





ちょっぴり贅沢なランチであったが、それも納得。大満足じゃ!! さぁ、元気回復。佐藤の横浜ウォークはまだまだ続く(のか?) 


ではでは!



(尊皇攘夷はどこ吹く風。「ひこにゃん」のライバル、「しまさこにゃん」を見たか?To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 15:52| 島根 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

奮闘記・第468回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県横浜市


佐藤流・YOKOHAMA GUID

祝・開港150周年記念ウォーキングだぁ!




というわけで(笑)、横浜は今年、開港150周年を迎えた(おめでとうございます!)



ペリーさんやら、ハリスさんやらが、ぎょーさん来て、ワイワイやった結果、安政五カ国条約によって、安政6年(1859年)6月2日、幕府はアメリカイギリスオランダロシアフランスに対して開港された。



不平等条約であり、必ずしも喜ばしい開港ではないのだ。そして、この幕府の腰抜けさが倒幕へと繋がっていくのだ。



薩摩も長州も確かに頑張ったには違いないが、やはり、「討幕」というより、「倒幕」であろう。最後の最後まで、幕府に勝つチャンスはあったのに、最後の最後まで、幕府に勝つ気がなかった。これでは勝てるわけない。



ちなみに同じ開港でも、開港記念日は、横浜長崎6月2日函館(当時・箱館)は7月1日である。



しかし、正確にいうなら函館が正しいかもしれんが、旧暦の6月2日が、円→ユーロ換算のように「換算」して、新暦で「7月1日」だといわれて、「はい、そうですか」と7月1日を祝う気になるかどうか(笑)。



さて、この日、佐藤は研究所を抜け出し、横浜に向かった。前日まで降り続いた雨もあがり、お散歩(徘徊?)日和であった。



JR根岸線・石川町駅下車、うにうにと目標物の「ありそうな」ほうへ出る(まるでアバウト)。地蔵坂をややあがると、左側に空に向かうがごとき、階段が出現する。



佐藤は、この階段をほうほうの体で、のぼり、山手(やまて)地域に入っていった。



山手には、西洋館がいくつかある(財団法人横浜市緑の協会が管理)。はじめに入ったのは「外交官の家」(こういう名称である)。庭の入口から、玄関までがバラの花が植えられていた。



入口では管理をなされている方が、それはそれは、見てわかるぐらい、一生懸命に入館者が履くスリッパを消毒液で磨いていた。



いや〜いきなり、素晴らしいおもてなしである。



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●石川町にある「外交官の家」●





■外交官の家

ここ、「外交官の家」は、文字どおり明治政府の外交官の居宅であった。といっても内田定槌氏が邸宅として、東京渋谷の南平台に明治43年(1910年)に建てられたものである。



●丁寧に磨きをかけた室内●.jpg

●丁寧に磨きをかけた室内●




横浜市は、平成9年(1997年)に、この内田定槌氏の孫にあたる宮入氏から、この館の寄贈を受け、山手イタリア山庭園内に移築・復元し、一般に公開している。また、この年に国の重要文化財に指定されている。



佐藤は、玄関にて、係の方が磨いてくださったスリッパに履き替えて入館した。なんと入館料は無料である。




●窓下に見ゆる幾何学模様の庭園●.jpg

●窓下に見ゆる幾何学模様の庭園●




この館の設計者はアメリカ人で、後に建築家として活躍したJ.M.ガーディナー氏。1階には、食堂や大小の客間など、重厚な部屋がある。



これらの部屋に、外国の方々を招いていたらしい。佐藤は、華やかな装飾に施されたテーブルや、イスなどを感激しながら眺めていった。



また、こちらでは、各部屋ごとに大振りの花瓶にお花が生けられていた。何気なく飾られたお花たちが、この部屋の華やかさを引き立てていた。



2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並ぶ。佐藤は、2階のサンルームから眼下の横浜港を眺めながら、当時の人々が、恐れた「黒船」や、文明開化の訪れを疑似体験した。



もっとも、当時この館はこちらにあったわけではないのだが……(あくまでもイメージですから、ははは)。



館内を堪能し、1階に降りると喫茶室がオープンしていた。先ほど、階段を必死になって登ってきたので、いささか、体が悲鳴をあげている(さて、いささかか?)。




●喫茶室にて元気を頂くぞー●.jpg

●喫茶室にて元気を頂くぞー●




そこで、喫茶室に入り、アイス・レモンティと、無花果のバウンドケーキを頂いた。バウンドケーキには、無花果がたっぷりと入り、ほうばると、口いっぱい、なさけ無用に、無花果独特の香りが広がった。


(嫌なのか?)。


さらに、噛み進めると無花果の種が、恐ろしいほどプチプチと音を立てる。



(嫌なのか?)。



それらを冷たいレモンティでゴックンと頂くのだからこんな贅沢はない。



(なんだ、好きなんだ。)



陽光が差し込む、手入れのいき届いた庭園内を、園児達が花や蝶を追いかけて歩いている。後方では、白髪の老人が、カメラの焦点を草花にあわせて、シャッターを切っていた。



ここでは、時間がゆっくりと流れているようだ。



白髪の老人は振り向くと足からすう〜っと消えていった。ヒヒヒ。


(それは嘘〜。)




●庭園から観た外交官の家だぞー●.jpg

●庭園から観た外交官の家だぞー●






■ブラフ18番館 with 山手イタリア庭園

佐藤は、エネルギーを十分に蓄えて(でも3分しか持たない)、外交官の家を後にした。



次に隣のブラフ18番館に入る。




●良さげなブラフ18番館前●.jpg

●良さげなブラフ18番館前●




こちらは大正末期に建てられた外国人住宅だそうな。カトリック山手教会の司祭の館として、平成3年まで使用されていたという。



それを横浜市が、平成5年にこのイタリア山庭園内に移築・復元(ご苦労様です)。現在は大正末期から昭和初期、いわゆる震災復興期における外国人住宅の暮らしを再現している。



館内には、当時の暮らしを思い描くことができるように、当時の横浜家具を復元・展示しているそうだ。




●シャンデリアが輝いていたー●.jpg

●シャンデリアが輝いていたー●




天井にはきらびやかにシャンデリアが輝き、重厚なテーブルの上には春の花々が見事に盛られていた。



山手イタリア庭園は、1880年(明治13年)から、1886年(明治19年)まで、イタリア領事館が置かれていたので、イタリア山と呼ばれているようだ。安易でわかりやすい。



そこに、1993年に「ブラフ18番館」が、そして1997年に「外交官の家」が移築され、現在の景観を生み出しているのである。



隣の外交官の家は、幾何学的に配したデザインの公園であったが、この庭園も、水路や花壇を用いたイタリア式の庭園様式であるという。



●床に座ってみた(そんで?)●.jpg

●床に座ってみた(そんで?)●




これらの庭を眺めていたら、その昔、今はなき倉敷チボリ公園(出た)でみたアンデルセンの銅像があった庭を思い出した。そうそう、新宿の大久保にある小泉八雲記念公園の庭もあったな。



いずれも、花々が美しく咲き誇り、密を求めて小さな虫たちが乱舞していたっけな。以前も書いたが、ハーン先生も横浜から、日本へ上陸したのでしたねぇ。



佐藤は、庭園に映える洋館を十分に堪能したあと、山手本通りをテクテクと歩き、高田坂を下り、ハーン先生(小泉八雲先生)ゆかりの場所である、元町百段公園に「再び」たたずんでみた。





■元町百段公園

ハーン先生が来日されたころはもちろん、ここに長い階段があったころ。この「なかば残骸」と化した百段公園の浅間神社(関東大震災で階段と共に崩壊し、なぜか再建されず)にも来られたようだ。



●元町百段あと、元町百段公園に到着●.jpg

●元町百段あと、元町百段公園に到着●




しかし、ううんなんだが、いろいろ事情があるとは思うがもう少しなんとかならないかな、……この公園。当時をしのばせるような雰囲気も、横浜らしい匂いもまったくしない。



これでは残してある意味があまりない。ただの空き地でしかない。公園というのもどうかというのも、はばかられる。



こういうところが、同じ大都会でも神戸のように洗練されないんだよなぁ。頑張れ、横浜!! 



横浜散歩はまだまだ続くのだ!!!




●元町百段公園から横浜港を望む●.jpg

●元町百段公園から横浜港を望む●



(横浜・神戸・長崎などの歴史は日本の歴史でもある。大事にして欲しい!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 16:47| 島根 | Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

奮闘記・第453回 首都圏/東京都

●2009年● 東京都台東区


続・上野公園ぶらぶら記

上野の老舗・精養軒でランチをとり

そんで、あの、『ルーヴル美術館展』を観た!




 佐藤は、東京国立博物館を後にして、うにうにと上野精養軒へ向かった。精養軒に向う道は、上野の桜並木が連なり、みどりのアーケードができていた。

 この道すじには上野東照宮、花園稲荷神社、五条天神社と神々がいらっしゃるのだ。ちと寄らねばなりませんて。




【五条天神社】
 佐藤が、ご挨拶したのは、やはりここ(笑)。こちらの神社は、第12代景行天皇の御世(約1900年前)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷征伐(ひどい言い方)のため、上野忍ヶ岡を通った時に、薬祖神(祭神2柱)のご加護に感謝し、当地に祭ったのが創始といわれている。

 祭神2柱は兄弟の縁を結び、特に疫病や、耕病に苦しむ人々に製薬と治療の方法を授けたことから、医薬の祖神として信仰されている。

 その2柱の神様こそが、佐藤との相性が良いと(勝手に)思っている大己貫命(オオナムチノミコト)少彦名命(スクナヒコナノミコト)の神様である(笑)。

 ん? 何か問題でも?(許されんぞ。)

 さっそく、無病息災(天罰てき面?)を祈願。おみくじ結果は聞かずもがな、“大吉”でんがな(笑)。ばんざ〜い! 気分は最高。

 そのままの勢いで、上野精養軒のドアを開けたのであった。

(入る前に閉めてやりたい。)



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●五条天神社は大吉だぁ!!●




【上野精養軒】
 ここ、精養軒(せいようけん)は、皆さまご存じのように、明治5年創業のフランス料理の老舗。

 不忍の池の高台に位置している。ここでは、結婚式や宴会、各種レセプションが行われる。ここは文豪の先生方も通った店。もちろん、鴎外『青年』、漱石『三四郎』などの小説も出てくるお店である。

 佐藤も、この上野精養軒 カフェ・ランドーレ (Caferant Le Landaulet )に入った。

 名物はハヤシライスらしいが、でもハヤシなら丸善が発祥の店という。なら、ここではランチセットの(得意の)牛フィレ肉ステーキが良さげなのでこちらに決定、赤ワインも所望した。ふふふ。

 噂では、ここから眼下に不忍の池を眺めることができるという。しかし、木々が元気良く葉を茂らせているためなのか、座った場所がわるかったのか、池を見ることはできなかったのは残念!

 運ばれたお皿には、ソテーされたパプリカや、ブロッコリー、などの上に牛フィレ肉が鎮座していた(笑)。お肉はやわらかくサッパリとしておいしかった。

 ランチセットであるから、このメインディッシュのほかにコーンスープにサラダにパンがつく。もちろん、ライスでもOKよん。

 佐藤は、ワインを片手にパクパクと豪快にいただいたのさ、ハハハハハハ。もちろん、赤ワインとお肉のからまり方がたまらない。やはり、肉には赤ワインじゃ! 

 まぁ……、魚でも白ワインは甘いから飲まんけど(じゃいうな)。う〜ん大満足!!とくつろいでいた。

 と、そこへ甘美なウエイトレスが、魅惑的なデザートとコーヒーを持ってきてくれた。おや?これがまた凄い。おもわず、なんですとぉ〜、これがデザートですか〜?(うるさい) しばし呆然となったくらいだ(パクパク)。

 デザートであるはずのストロベリーケーキが、まるでおやつのケーキセット並みの大きさなのだ(笑)。しかも、ベリーがのったプチ・アイスまでがついていたのじゃ。ヒャヒャヒャ。ふつうはこのアイスだけでもデザートといえる。

 佐藤は、ちと(ほんとにちと)考えた末、おなかの中に飲み込まれた先ほどの牛フィレ肉を横へずらし、改めてケーキがおさまるところを確保して、美味しくケーキを頂いた(お腹の脂肪をどかさんでよいのか?)。

 いやはやさすが老舗、大満足です。さて、元気回復! さて、『ルーヴル美術館展』へ行っちゃいますよ〜!



●上野精養軒にてランチじゃ、さらにデザートじゃ!●.jpg

●上野精養軒にてランチじゃ、さらにデザートじゃ!●




【国立西洋美術館】
 ここでは、2月29日〜6月14日まで、『ルーブル美術館 −17世紀ヨーロッパ絵画』が展示されている。連休中は1時間〜1時間半待ちはあたり前だったとか。来て諦めたという知り合いが何人もいた。皆さん、お疲れですから並んでまではねぇ〜。

 さて、今朝も、9:30開館なのに、9:00の時点で開館待ちの列ができていた。休み明けですよぉ〜ん。佐藤が美術館ついたときには、待ち人たちの列はなく、すんなりと入ることができた。

 そうはいっても、やはり館内は少々混み合ってはいた。エントランスから順路に沿って階段を降りていくと、まず、企画展の入口付近で人だかりがあった。

 そこには、かのフェルメールの名作「レースを編む女」の模写が飾られていて、その上に拡大鏡のようなものがあり、フェルメールの絵を拡大してみることができるようなギミックが施されていた。

 佐藤も興味がわいたが、その人の多さに挑戦することを断念(笑)。最近定番となった館内音声ガイドの受信機が貸し出されていた(500円ナリ)。

 先の、東京国立博物館では、『国宝・阿修羅展』では「黒木瞳」さんが。そして、ここ『ルーヴル美術館展』の音声ガイドは、そう中尾彬さんの声なのだ(笑)。



●音声ガイド、お疲れ様です!●.jpg

●音声ガイド、お疲れ様です!●



 こんなところでも、中尾さんの声で絵が観れるとは! 色々ご活躍ですねぇ。お疲れ様です! でも、さようなら〜(すみませんが、黒木さんに続いてパスですわい!ごめんなさいませ)。

 さて、今回の『ルーヴル美術館展』は、17世紀ヨーロッパ絵画を3つの大きなテーマで区切られている。

 
 1つ目は 「黄金の世紀」とその影の領域
 2つ目は  旅行と「科学革命」
 3つ目は 「聖人の世紀」古代の継承者


 そう、今回は国別に絵画を分類せずに、テーマごとに絵画を選別して展示しているというわけである。


●「黄金の世紀」とその影の領域
 フランスはルイ14世の絶対王政の時代である。そこには、貴族達の華やかな宮廷生活の場面がレースをふんだんに活用したドレスを身にまとうフランス・プルピュスの「マリー・ドメディシスの肖像」などが飾られていた。

 当時のフランスではレースが産業生産物の一役を担っていた。その当時の世相で、フェルメールの「レースを編む女」などが描かれているのかもしれない。

 その一方市民の中には貧困や飢餓といった影の領域もあり、ル・ナン兄妹の農民の家族や、ペドロ・ヌーニェス・デ・ビリャビセンシオの「ムール貝を食べる少年達」などが展示されている。

 華やかな宮廷生活が色とりどりに明るく表現される一方で、庶民の貧困や飢餓の状態が暗い色彩で描かれた作品が展示されているのだ。光と影。これがやがてフランス革命へと繋がっていくのだろう。

 さて、このコーナーの目玉として、レンブラントの「ふちなし帽をかぶり、金の鎖をつけた自画像」があった。


●旅行と「科学革命」
 17世紀のヨーロッパは、大航海時代のクライマックスを迎えていた。それらを意識してか、ルドルフ・ハンセンの「アムステルダム港」や、ピエル・フランチェス・モーラの「弓を持つ東方の戦士(バルバリア海賊)」、クロード・ロランの「クリュセイスを父親の元に返すオデュッセウス」など、海を題材にした作品を多く目にするのはそのためかも知れない。


●「聖人の世紀」古代の継承者
 こちらのコーナーでは、モナリザやキリスト、あるいは聖母マリアなど、裸体を描いた作品が多くなる。カルロ・ドルチの「受胎告知 天使」同じく「受胎告知 聖母」が可愛らしかったぁ(笑)。

 今回の作品は全部で71点。そのうち、およそ60点が日本初公開だというのだから素晴らしい。さらに、30点あまりは、初めてルーヴル美術館を出た名品だという(いらっしゃーい)。

 ふう、それにしても、人の波とともに作品を眺めることは結構大変である。優れものの逸品を見たことに違いはないが、人の頭もたくさん見た(笑)。それがどうもなぁ。

 これらの作品を、島根県立美術館でみたとすれば、もしかしたらもっと満足していたのかも〜。あれは作品が少ない分、色々工夫がされているのが大きいのだろ。今回は「力技」として楽しむべきなのだな。

 さて、国立西洋美術館本館(1959年完成)は、フランス人建築家、ル・コルビュジエ(1887〜1965年)さんによって設計された美術館なんだそうな。

 このル・コルビュジエさんの設計した建築及び都市計画が、まとめてフランスの主導で世界文化遺産の登録候補にあがっている。そのために、この本館も彼の建築作品の一つであるため、世界文化遺産の暫定リストに載ったそうである。まだまだ、そこから道のりは遠いようであるが。



●世界文化遺産の暫定リスト入りの建物●.jpg

●世界文化遺産の暫定リスト入りの建物●



 さらに、庭に展示されているロダンの「地獄の門」などの彫刻にも免震台を設置するなど、建築物や芸術作品を地震から保護することに積極的。うううん、なんて素晴らしい施設なのだ!


●免震台の上にたつ「地獄の門」●.jpg

●免震台の上にたつ「地獄の門」●



 さて、佐藤は上野公園の中を色々散策しながら帰路についた。まぁ、くたくた。あとは写真で見てください(笑)。野球場噴水古墳手形(顔?)などなど、見どころはいっぱいありまっせぇ。ではでは!



★★上野公園お休み明けギャラリー★★

●公園内に正岡子規記念球場が!●.jpg

●公園内に正岡子規記念球場が!●


●かえるの噴水と格闘●.jpg

●かえるの噴水と格闘●


●上野の山の主、擂鉢山古墳発見!●.jpg

●上野の山の主、擂鉢山古墳発見!●


●サザエさんも発見!●.jpg

●サザエさんも発見!●


(本日、あの「津軽海峡・冬景色」の作曲家・三木たかし先生の訃報を聞いた。忌野さんといい、残念なNEWSが続く。ご冥福を祈りしたい。To Be Continued!!)
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2009年05月08日

奮闘記・第452回 首都圏/東京都

●2009年● 東京都台東区


連休を終えて上野公園を闊歩する

〜国宝・阿修羅様を堪能する〜




 5月の大型連休が終わりましたが、皆さんは、どのように連休を過ごされたでしょうか? 佐藤は家族奉公についやしておりました、ハイ。

 連休が終わり、お役目を務めた佐藤は(笑)、いそいそと上野公園へ向かった。

 上野公園には、ご存知のように東京国立博物館国立西洋美術館などの見聞施設がたくさんがあるのだ。

 ここは混んでいる時に行ったら死ぬ。実際連休中、しかもこどもの日に、無謀にも動物園に行ったが、やはりあえなく撃沈とあいなった。

 さて、連休明けの今回のお目当ては、「国宝・阿修羅展」と、「ルーブル美術館展―17世紀ヨーロッパ絵画」じゃ。

 朝から、京浜東北線が例のごとく、人身事故。そのためダイヤが乱れ、のろのろ運転であった。しかし、それにしても鈍い。やはり相互乗り入れをやり過ぎなのだろう。ダイヤが乱れると、その便の埋め合わせが容易ではない。

 景気の悪さもあって、自爆テロ、いや人身事故の多発は収まらない。こうなると、うかうか都内でも移動はできなくなる。

 山手線のように、ぐるりとひとまわり循環する路線であれば、動かず、のろのろ運転なんかするくらいなら、いっそのこと、電車をつなげてしまいたい気も、昔はしたものだ。

 その中を人間が歩いて移動したほうが早いとも考えたのだが、いつどこでも、「潜り込み自殺」が増え(格別痛そうである)、今以上に始終止まることは間違いない。

 しかも車中を歩いても、料金は同じ。だから損かもしれない(笑)。
結局、通常ならば10分くらいで移動できる距離を、イライラしながら、なんと30分以上かけて移動したのであった。

 そして、博物館へ向う。すでに入口には入場待ちの列が出来ているではないか!

 小雨がポツポツ落ちる中待つこと30分。いよいよ、開門である。ゲートが開くと、数人「日本人恒例」の小走りが出た。まぁ、たいして混んでいないのであまり意味はないが、まるでデイズニーランドのようだ。

 係りの人が「走らないでください!!」と叫ぶのだが、そんなに真剣に走っているわけではないから、注意するほどでもない。むしろ、係りの人々のほうが、連休の人々の喧騒をそのまま引きずっているのか、興奮している気がした(笑)。



●東京国立博物館じゃあ〜●.jpg

●東京国立博物館じゃあ〜●



 ここ、東京国立博物館にて、3月31日〜6月7日まで、興福寺創建1300年記念に、「国宝・阿修羅展」を開催しているのだ。

 まぁ、他にも国宝はたくさん展示されていたのだが、阿修羅様の人気は抜群だからしかたない(笑)。展示内容は4章で構成されている。



「第1章 興福寺創建と中金堂鎮壇具」のコーナー
 中金堂鎮壇具が展示されていた。

 パンフレットでは、興福寺は、藤原鎌足の子、不比等が、和銅3年(710年)に平城遷都に伴い、春日山の麓に創建した。その創建にかかわる遺物が豪華な中金堂鎮壇具だそうだ。

 こちらには、草花双蝶八花鏡や、銀椀。金銅大盤や銀大盤。更には、銀大刀柄頭や、刀子。丸く磨き上げられた水晶念珠や水晶丸玉、水晶碁石形玉などが飾られている。

 でも、みんなそんなのはほとんど、素っ飛ばして「阿修羅様」に一直線だ。なんか、違う気がするのだが……。何回も来ている方は別にして、阿修羅像だけみれればいい、というのはどうなのかなぁ?

 美術品の価値がわからない、わかろうともしない人々に見られる阿修羅様たちも大変だろうな(笑)。まぁ、人々が救われれば仏教守護神(あくまでも仏法の守り神だが)だから良いのかもしれない。

 佐藤は、凄い、きれい、きれい。当時の人々は水晶をどうやって丸くしたのかなぁ? なんてほとんどガキ、いや、子供に近い好奇心で、ガラスに顔を近づけて眺めていると、後から来た人々が、私の後方を風を切って先を目指して駆けていくのである。

 いくら佐藤でも、こうなると、気が焦ってくる。

 のんびりと眺めていることができない(笑)。大丈夫、阿修羅様はどこにも行かないから、と思うのだが(いや、わからんぞ)。

 もしや動き出したりして……と疑心暗鬼。ついつい早足になって、人々につられて、次の部屋に入ってしまったのである(笑)。


「第2章 国宝・阿修羅とその世界」のコーナー
 こちらには、八部衆像十大弟子等が展示されていた。

 ちなみに、興福寺に遺存する脱活乾漆像14体すべてが、興福寺境内の外で一堂(注釈つきだが)にそろうのは初めてらしい。ただし、交代で展示替えを行うので、いっぺんには観れない。ずるいというかビジネスライクというか(笑)。

 まぁ、それはそれ。興福寺では、阿修羅像を含む八部衆像と十大弟子像は、通常壁面のガラスケースの中で展示されているらしいが、ここでは、なんと、ガラスケースから飛び出し、露出展示されている。

 これらの仏像がまさしく触れることが出来そうな位置に、凛としてたたずみ、佐藤を迎えてくれたので(問い詰められている感がないでもないが)、思わず立ち止まってしまったのである(有罪!)。

 八部衆は、もともとはインドの神様で、仏教に取り入れられてその守護神となったという。「金光明最勝王経」や「法華経」などにその名前が出てくるが、仁王様でも「門番扱い」なのは少々気に入らない。国境を超えてくる宗教はえげつないものが多いようだ。

 そして、この中に三面六臂の阿修羅像を始め、鳥頭の迦楼羅(かるら)像や、一角を生やす緊那羅(きんなら)像などがあり、それらは皆、変わった姿でお立ちになられていた。

 それぞれ、たぶん当時の技法と宗教観なのだろう、ふっくらとした頬が特徴で、うっすらと笑みを浮かべているようにも見えるのだ。

 その中で、唯一鳥頭の迦楼羅(かるら)像だけは、目を光らせ、人の心を射抜くような視線を感じた(悪い奴は、迦楼羅様を恐れるのじゃ、ほほほ)。

 この八部衆の青年(?)達は、穏やかな表情で立っているが、明らかに日本人の顔立ちではなかった。ちなみに、この仏像の顔立ちが美少年なので、人気が高いらしい(うふ)。

 次の部屋には、十大弟子が展示されていた。

 十大弟子とは、釈迦に随った十人の高弟をいう。高弟にはそれぞれに特にすぐれた能力がそなわっている。たとえば、舎利仏は知徳第一。目健連は神通第一。大迦葉は頭陀(=ものごとにこだわらない)第一、等である。

 興福寺には6体の十大弟子像が現存しているという。十大弟子は、年を重ね修行を積んでいくにつれ、その身は細り、あばらなどが浮き彫りになっているのだが、皆、その表情は穏やかで気品が漂っていた。

 さて、いよいよ次の部屋には、イエス=キリ…、いや阿修羅像が展示されていた。阿修羅像は、一段低い、スロープを下りた場所の暗闇の中ライトアップされて浮かび上がって見えた。よく“大物”が展示されるフロアでもある。

 側によると、まさしく、なんのガラスカバーもなく露出されていた。

「……。もちろん、これ本物なんだろうなぁ……」

 それにしても、何かトラブルがあったら、大変だろうな。そこらへんの係のお姉さまやお兄様で対処できるとは思えないもの(笑)。



●阿修羅様が迎えてくれた●.jpg

●阿修羅様が迎えてくれた●



 と思いつつも観た。仏教系なのになんと神々しさであろうか(笑)。しかも、360度、どの方面からも違った表情の阿修羅像を見ることができるのだ。凄いのだ、これが。

 阿修羅像は3つの顔と、6本の腕をもつ可憐な像である。八部衆や十大弟子、そして、阿修羅像は脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)という技法でつくられており、胴体や腕はとても細い。顔立ちは、八部衆と同様ふくよかで、やや憂いがある。

 阿修羅は、インド神話では軍神。もともとは、ペルシア地方、ゾロアスター教の最高神・アスラがインドに入り、さらに中国で阿修羅として習合される。激しい怒りを表す「正義」の神とされるが、帝釈天と戦い、常に敗れているという。

 このインドの神々の最高神に常に負けるというのがいやらしい感じがする。この阿修羅と帝釈天との戦いがすさまじいので、戦う場を修羅場と呼ぶとか。

 ここに展示されている阿修羅の像には、その激しさは感じない。そばにいると、すがすがしい気持ちになる。佐藤は、優雅な気持ちに浸った後、次の部屋(これで修羅場をくぐったぜ、ははは)へ向かったのであった。


「第3章 中金堂再建と仏像」のコーナー
 ここは、四天王や薬王菩薩などが展示されていた。興福寺の中金堂は、平安時代以降7回焼失し、再建を繰り返しているが、享保2年(1717年)の火災の後で、仮の金堂が建てられ現在に至っている。

 そのため、興福寺では、来年に中金堂の立柱を予定して作業が進められている。この堂は創建時の中金堂をできる限り再現するというもので、完成後には現在の仮金堂に安置されている諸像が移される事になっているそうだ。

 今回は、その安置される予定の、薬王菩薩立像と、薬上菩薩立像四天王立像4体が展示されているというのであるから、見ごたえもひとしお! ふふふ。

 にらみをきかせ、勇ましい姿の四天王の先には、金色に輝く薬王菩薩と薬上菩薩の立像があった。いや〜、これらも、そう滅多にみることはできまい。佐藤は、唖然としてその姿を仰ぎ見てしまった。


「第4章 よみがえる興福寺中金堂、阿修羅像」のコーナー
 バーチャル映像が流れている。しかしじゃ。もはやここまで国宝だらけの展示物にいささか酔った。だから、せっかくだが、少し見てスキップ(キュルキュルキュル〜)。

 この時点で、すでに気がつけば1時間はたっぷりと見て過ごしていた(笑)。



●ホンモノに逢えたぞー●.jpg

●ホンモノに逢えたぞー●



 連休というものは、どうも人間は移動しないと気がすまないらしい。初めにかいたように、佐藤も移動を試みた。

 そう、由緒正しき、あの上野動物園である。初代園長はあの文豪・森鴎外先生であるという。ははは。

 他の方々は例のETC制度を活用して遠出をしているだろう。ふふふ、では都内はすいているに違いない、と考えての行動であったのだが……。甘かった。

 いやはや凄い人である。確かに道路はすいてはいたのだが。やれやれ、次はルーヴル美術館展じゃ! 

 中尾 彬さん(?)、待っててくださいよ! ふふふ、知る人ぞ、知る(笑)。ではでは!


(阿修羅様と「あやとり」をしたら、ちょっとやそっとの技量じゃ、受け取れないぜ!To Be Continued!!)

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2009年05月06日

奮闘記・第451回 首都圏/東京都

●2009年● 東京都豊島区


池袋の高層ビルに水族館があるのだ!

〜ここでも巨大水槽の前に陣取る!!〜



 東京・池袋には60階建てのビルがある。その名もサンシャイン60(知ってるよ)。そう、例の巣鴨プリ○ンのあった場所である。

 今でもいろいろあちら側の方々が、徘徊しているという根強い都市伝説がある(はいはい)。

 実は、サンシャインシティにある某介護系のフェアをのぞきに行った。しかし、しょぼ過ぎて書く気にもならない。

 そんで、とぼとぼと、10階にあるサンシャイン国際水族館をのぞきに行った。

 ここはプラネタリウムが隣り合わせ。だから、両方へ入ることができるセット券も用意されているだ。佐藤は、水族館オンリーの入場券をゲット!

 不思議なことにいつもしょぼいフェアばかりがてんこ盛りのサンシャイン(失礼)であるが、なぜか来場者は多い。みな暇なのだろう(笑)。だが、遠出をする時間もお金もない。この日もサンシャイン国際水族館は大賑わいである。



●マダラトビエイ君はユニークな顔!(笑)●.jpg

●マダラトビエイ君はユニークな顔!(笑)●



 まずは、巨大水槽の前にたたずみエイ君たちとご対面。ユニークな顔をしたマダラトビエイ君(向こうもそう思っているぞい)が興味深く寄ってきてくれた。

 海の中にいる魚なのに、その形相は犬のようなうさぎのような不思議な顔をしている。その後方を尾びれを左右に揺らしながら流暢にサメ君が登場。



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●流線型がカッコイイぞ、サメ君!●



「おお、サメ君こんにちは。君も可愛いねぇ〜」などと、うっとりと眺めていた。(すっかり一人前のサメ好き。)

 すると、目の前を通りながら、「なんかようかい!」とウインクしてくれた(はいはい)。

 この水槽の中には、サメ・エイ・鯛・亀、……巣鴨プリ○ンのかたがた(ないない)などが元気一杯に泳いでいる。まるで竜宮城。

 さて、次に佐藤を驚かせてくれたのはゴマフザラシ君です。かれは、水槽の中を右へ左へ、行ったりきたり。その姿はまるで大きなゴム風船のようである(向こうも絶対そう思っているよ)。



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●ゴマフアザラシ君と握手!●



 足ヒレで水を蹴飛ばしひとかきで、ビューンと反対側へ移動できるのであるから、その力は素晴らしい! うううううううん。

 しかも、泳ぎ方は、お腹を上に向けているのだから可愛らしい。つぎの水槽ではラッコ君がお出迎えだ。彼達は、水の中をくるくると回転しながら器用に泳いで行く。

 こちらが、水槽に張り付いて中を覗き込んでいると、時々、水槽のガラスばりのそばまで来て、たばこをくゆらせて……いるわけはない(笑)。こちらを見るその姿はまるで、外で眺めている人間を観察しているようだ(ほら)。



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●どちらが見られているのやら?●



 アマゾン川の水域の展示室には大きな淡水魚がいた。これが全て淡水魚だというから面白い。なんとピラルクの鱗の大きさは手のひらくらいあったのだ!

 そういえば、以前テレビでアマゾン川(?)だったか、どこかの大河では上流にボートで向っていくと人間の顔をめがけて魚が飛び込んでくるという映像を見たことがある(アメリカで問題のアジアン・カープか?)。

 もし、川でそのような魚が顔に向かって飛んできたら、はたして佐藤はどうだろう? きっと、「うまそうな魚じゃ!」などといってはいられないだろうなぁ(ばかもの、鼻が折れるぞ)。



●アマゾンに棲む魚君たちだぁ●.jpg

●アマゾンに棲む魚君たちだぁ●


●ゴリちゃんの仲間だぁ!ももいろペリカンだぁぁ!!●.jpg

●ゴリちゃんの仲間だぁ!ももいろペリカンだぁぁ!!●



 さて、サンシャイン国際水族館の、お土産コーナーは充実している。

 こちらには水族館にいる魚達はもちろん、昆虫のぬいぐるみが販売されていた。その中には、○○かえる君のリアルで巨大なぬいぐるみがあった。

 ……これが凄いのだ。まぁ、6千円ちょっとするから買うのは躊躇するが、リアルなのだ。子供がおばあちゃんに「これ凄いね!」とみせると、「だめ、そんなのかわないわよ」と言われていた。こどもは、「凄いね」といっただけなのになぁ〜(笑)。

 佐藤はとりあえず、リアルなサメ君をゲットした(笑)。このあと、屋外にあるゲージへ移動。そこには、青空の下に桃色ペリカンがいた。おお、どこかで見たような? 

 そう、桃色ペリカンといえば、松江フォーゲルパークにいる肩乗りモモイロペリカンの「ゴリちゃん」は元気であろうか?

 茨城県の大洗や、島根県浜田市などは太平洋や日本海のそばにあるので、水族館の魚たちが充実しているのはまぁ当然といえば当然である。

 しかし、このような東京の都市の真ん中にあり、しかも地上10階にある水族館が、これほど充実しているということは素晴らしい! 水族館ってほんとにいいですな。ではでは!


(めざせ、横浜八景島シーパラダイス!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 17:26| 島根 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

奮闘記・第407回 首都圏/東京都

●2009年1月24日● 東京都杉並区


意外や意外!井草八幡宮初登場!!

〜歴史とともに様々な神様が信仰されてきた〜


 今日の道先案内人(というか車だが)は、わが研究所のニッサンマーチ君! このところ大活躍! マーチ君と一緒に東京プチ散策に出向いた。何でも大寒波が近づいているとか? 雪になったらどうしよう?(どうしょうもねーだろ)

 でも、心配後無用(してねーよ)。マーチ君はスタッドレスをはいているから多少の雪ではへこたれない(ドライバーはすぐへこたれるが)。

 環状7号線から早稲田通りに入る。うにうにと車を走らせていると自然に青梅街道にぶちあたる。井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)は青梅街道沿にあるのだ。これならナビ様いらずじゃ!(ないだけだろ)


●井草八幡宮の参道、流鏑馬が行われるのかな?●.jpg

●井草八幡宮の参道、流鏑馬が行われるのかな?●


 井草八幡宮南側の駐車場へ車を置くと、車外には雪がちらほら舞っていた。

「ひゃ〜いだ!」車から降りたらとりあえず叫んでみた(笑)。とにかく寒いのだ。

 それでも、気をしっかり持って境内へ入った。その佐藤の目に飛び込んできたのは「的3番」と書かれた石碑であった。なんだろう?これは!

 どうやらそれは5年に1度おこなわれるという「流鏑馬の的」を置く場所らしい。

 この空間を馬が駆け抜けるさまを想像したら、武者ぶるいがした(ただ、寒かっただけだ)。


●都内の神社では珍しくきれいな楼門がある●.jpg

●都内の神社では珍しくきれいな楼門がある●


 緋色に染まる楼門をくぐり、手水舎で体を清める。それから手水舎のそばの祓戸社を参拝。そうそう、神社にお参りする時には、祓戸社でお祓いをしていただくことが大切。

 さらに、三宮神社に参拝。平安時代末期にはこちらの春日神が、もともとの主祭神だったという。


●またまた珍しい祓戸社もある●.jpg

●またまた珍しい祓戸社もある●


 春日社のご祭神は天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)・比売神(ヒメノカミ)である。

 この春日神に、源頼朝が奥州討伐の折に八幡神を合祀し、戦勝を祈願した。以来、春日社は末社となった。


●三宮神社は元宮でもある●.jpg

●三宮神社は元宮でもある●


 これは思うに春日神はいわゆる“春日大社”のご祭神、藤原氏の氏神である。ほんとは藤原氏自体、出自が怪しいのだが(笑)。
 
 また、奥州藤原氏は、単純に「藤原氏」とくくれないのだが、やはり藤原を名乗っている以上、奥州藤原氏を征伐する(あくまでも源氏側に立てば)者として、源氏の氏神である“八幡大神”(やわたのおおかみ、はちまんおおかみ)に祀り変えないと安心でいなのだろう(笑)。

 日本に限らず、これはどこの国でもやっていることではある。新しく祠や神社を建てるより、ご祭神を変更する方が安くつくし、その神社がほんとうはどんなご祭神であるかを、庶民はあまり気にしないのだから。


●ここが本殿!掃除も完璧!!●.jpg

●ここが本殿!掃除も完璧!!●


 文明9年に、かの太田道灌(おおたどうかん)が、石神井(しゃくじい)城の豊島氏(東京都豊島区のもとになった「豊島」)を攻め込むのにあたり、ここで戦勝を祈願したとして伝えられている。まぁ、青梅街道沿いで近くの荻窪八幡宮にも寄っていて、同じような話があるので、石神井城に行くまで、神社に寄りっぱなしだったのだろう。

 急を要するときに、いくら神社好きでもどうなのだろう?(笑) いずれにしても、戦勝をつかさどる、男らしい神様がたくさんいらっしゃることを信じたい(笑)。

 佐藤は「事業繁栄と無病息災」をお願いした。さて、恒例のおみくじタイム!ハタシテ、ケッカハ、ジャカジャン!!!!!「キチ」、デゴザイマス!(電報かい)

 またまた大吉はおあずけです(でも実は二つ目の大吉がでているのさ!)。

 まぁ、おみくじの結果はどうであれ、ご神気ただようすがすがしい神社です(でもでないのだ!)。参拝記念に金色に輝く「神鏡守」をゲット! 実はこれネックレスになっているんです(よく首に巻けましたな)。


●おみくじはここでは「吉」●.jpg

●おみくじはここでは「吉」●


●大灯籠じゃ!●.jpg

●大灯籠じゃ!●


 金は幸運を呼び込むというからねぇ〜、身につけておかないと!(笑)。それにしてもあまりにも寒い。

 これにてプチ散策はおしまいです。東京近郊にも素晴らしい神社がたくさんある。いずれまたご紹介してゆくぞ! 寒い折、皆様ご自愛くださいませ!

追伸
 今日は節分。豆まきはともかく、恵方巻きに挑戦! へたすると立春前に果ててしまう。これはキツイ! ではでは。

附1 恵方巻きじゃ!.jpg

附1 恵方巻きじゃ!


(研修会場で仲間と延々と私語をする研修担当者の存在意義がわからない!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 13:55| 島根 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月13日

奮闘記・第360回 首都圏/東京都

●2008年10月● 東京都豊島区


文人に愛された緑の地・雑司が谷

〜どこだ?ハーン先生のお墓を探せ!〜



 我らが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生は、1850年にギリシャのレフカダ島(リューカディア)で、アイルランドのお父さんとギリシャ人のお母さんとの間に生まれました。

 先生が、2歳の時に両親が離婚し、大叔母さんに引き取られ、イングランドの神学校へ進む。16歳で左目を失明、お父さんの病死や、大叔母さんの破産などの不幸がかさなり、学校を退学したといいます。

 その後、19歳でアメリカに渡り、24歳で新聞記者となりました。そして、外国文学の翻訳や創作を発表し、早くもその文才を認められました。

 いよいよ、明治23(1890)年39歳のときに、記者として来日する。まもなく、帝国大学(現・東京大学)のチェンバレン教授や文部省(当時)の紹介で、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師になりました。

 ハーン先生は、当時の籠手田知事や、西田千太郎氏などの知己を得たこともあり、松江の風物や人情が大変気に入ったようです。鳥取はお気に召さなかったようだが(笑)。

 そして、武家の娘・小泉セツさんと結婚。塩見縄手にある武家屋敷に移り住んだのです。

 しかし、松江の冬の寒さと大雪には閉口したそうです。わずか1年3ヶ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ移りました。

 でも、この寒さで肺炎を起こしたからこそ、セツ夫人との出会いもあったのだが。

 さらに神戸クロニクル社、帝国大学(現・東京大学)、早稲田大学にも勤務をしたのでした。そして、明治37(1904)年9月26日、狭心症のために、54歳で逝去されました。


(小泉八雲記念館ホームページ参照)



 佐藤は、2006年6月に島根県社会福祉協議会さんからの依頼を受け、初めて松江の地を訪れました。この時、初めてハーン先生の旧居を訪問することができました。

 その後、熊本での仕事が入ると、研修会場のある駅の反対側に、小泉八雲熊本旧居(移築)がありびっくりしました。

 でも、もっと驚いたのは、神戸三ノ宮で、小泉八雲居宅跡が、研修会場の住所と近いので、どこかと探してみた。

 すると、なんと近いどころか、研修会場(3階)のある場所の1階に居宅跡のレリーフがあるではありませんか! (今週の応援現場34・57)。

 ここまでいくとちょっと怖い(笑)。まるでハーン先生に導かれているみたいです。こうなると、ハーン先生のゆかりの場所へ行ってみたくなるというもの。

 だから、横浜で仕事があれば、ハーン先生が来日時に立ち寄ったという、横浜の「元町・百段階段」に出向き、新宿で仕事があれば西大久保の「小泉八雲終焉の地」に出向いたのです(笑)。

 おっと、たまたまではあるが、明治村では、静岡県焼津で先生が泊まった海の家も見たし、島根県隠岐の島町でも、宿泊宿跡や玉若酢命神社で所縁の品々も見ました。

 鳥取で立ち寄って、盆踊りを見たという場所も見たし、松江の小泉八雲旧居では、ご子孫の民俗学者・小泉凡さんも見た(笑)。

 今年は、ハーン先生のご命日に、たまたまではあるが、その松江の小泉八雲旧居に行くことができました。なら、今回はハーン先生のお墓参りに行こう!と考えたわけです。



【東京都立雑司ヶ谷霊園】
 ハーン先生は、東京都豊島区の雑司が谷霊園に眠っていらっしゃいます。佐藤は、JR山手線・大塚駅下車。都電(早稲田駅ゆき)に乗り換えて、雑司が谷駅に降り立ちました。

●都電に乗って出発!●.jpg

●都電に乗って出発!●


 ゆるゆる、案内板を頼りに、雑司ヶ谷霊園管理事務所へ向かいました。この雑司ヶ谷霊園管理事務所には、「雑司ヶ谷霊園MAP」が置いてあるのです。

 このマップを手にして驚いた。なんと、このマップは豊島区の観光案内が作成していたのです。つまり、この雑司ヶ谷霊園が観光スポットになるだけの名高い人々が眠っている霊園なのですね。


●雑司ヶ谷につきましたが……●.jpg

●雑司ヶ谷につきましたが……●


 雑司ヶ谷霊園は、御料地として、3代将軍家光公の寛永15(1638)年に薬草栽培の御薬園となり、第8代将軍・吉宗公の享保4(1719)年には、御鷹部屋に変わり、将軍の鷹狩りに使う鷹の飼育場所として使われていたところだそうです。

 ちなみに、第5代将軍・綱吉公の出した、生類憐みの令により、鷹狩りは廃止。そのときに、鷹狩りの鷹を飼育する鷹匠(たかじょう)が住んでいた鷹匠町が、小川町(現・東京都神田小川町)に改称されたそうです。まぁ清らかな水が流れる土地だったからだそうです。

 この御鷹部屋時代の松の大樹が今も霊園内に残っているとか。明治7(1874)年9月に東京都によって、共同埋葬墓地となったとのこと。広さは約10万uです。

 佐藤は、地図を頼りに、ハーン先生の墓標を探す。いやはや、広いからなかなか探せない。関係のないお墓をジロジロみるのもなんとなくバツも悪い。区画が示されているのだが、そこはほら、方向ナントカだからねぇ〜。すぐには見つけられないわけですよ。

 そして、誰かが、「こっちだよ〜」と手招きしている平将門公の姿が見えたような気がして(いないよ、ここには)いってみると、ようやくハーン先生の墓標をみつけることができました。

 よしよし、場所が分かれば、お参りができる(当たり前だ)。そこで、霊園内にあるお花屋さんに飛び込み、お花1対をゲット!(ゲッツだぜ!)


●お墓参りです!●.jpg

●お墓参りです!●


 そのお花を水桶に入れて頂き、いよいよ、得意のお墓まいり(?)。敷地内にお邪魔させて頂いた。

 小泉家の墓地には、中央にハーン先生の墓標があり、左にはセツさんの墓標がありました。そうですか、そうですか。こうして仲良くお休みになっておられるわけですね。

 勝●舟先生は、奥様が先にお亡くなりになる間際に、「死んでも、あの人と一緒の所に埋めないでください!」と言われたらしい。

 まぁ、そこまで言われたのがほんとうなら、実際はどういう生き方、やり方をしたのかが知れてしまう気がする。

 いまは何回忌の時に「もう(一緒にしても)いいのでは?」ということで合葬されたという。ほんとうにいいのかね?奥様の遺言を無視してもさ。周りの思い込みだけで勝手なことをしても。

 まぁ、ハーン先生はそんな問題はない(笑)。佐藤は1対しかないお花をお二人にお分けしておごそかに手を合わさせて頂きました。


●お二人は寄り添っておられました●.jpg

●お二人は寄り添っておられました●


「ハーン先生。松江は今でも人情が深く、風物が楽しいところですよ〜。佐藤も先生を見習わせて頂き、頑張ります。どうぞ、お守りくださいませ!」

 こうして、念願だったハーン先生のお墓参りができたのでした。さて、先ほど佐藤を手招きしたのは、誰だったのでしょう?(司●遼太郎先生かも?)。

 ちなみに、佐藤はご挨拶する時間はなかったが、この雑司ヶ谷霊園には、永井荷風先生、夏目漱石先生、中濱(ジョン)万次郎先生、泉鏡花先生、島村抱月先生、竹久夢二先生、金田一京助先生など、著名な文豪や有名人が、数多く眠っている場所でもあるのです。おお、小栗忠順上野介も大久保利通公もいるそうだ!

 佐藤は、先ほどのお花屋さんへ水桶を返し、その後、雑司が谷界隈を散策。近くの大鳥神社を参拝(おみくじは末吉)。


●大鳥神社にも参拝!●.jpg

●大鳥神社にも参拝!●


 その後、平成20年6月14日に開通したばかりの営団地下鉄副都心線雑司が谷駅に到着。駅地下にあったレストラン、トシマサロンで昼食をとり、渋谷を目指しましたとさ。ではでは!

●お昼はオムライスはボリューム満点!●.jpg

●お昼はオムライスはボリューム満点!●


(雑司ヶ谷霊園は夢の跡!To Be Continued!!)
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2008年08月27日

奮闘記・第294回 首都圏/埼玉県

●2008年7月● 埼玉県さいたま市


調神社で「うさぎさん」が優しくお出迎え!

〜むかし、伊勢神宮への奉納品を蓄えた神社なのだ〜


 
 京浜東北線・浦和駅にて、ちょいと降りた。すると、前に来たときにはあった駅前のカメラ量販店・さく●やがなくなっていた。ふう、ちょっと寂しい。

 京浜東北線沿線は、交通の便がいいし、やかましい、いや賑やかそうなので降りてみると結構さびれていたりする。

 そんな中でこの浦和駅はサッカーのJリーグで浦和レッズが強いせいかこの街も降りてみると実際なかなか華やいでいる。

 そんな街中を抜け、旧中山道沿いに10分くらい歩くと、涼しげな木立がある。この森はJR線の中からも見ることができる。この中に調(つき)神社という神社がある(通称・調ノ宮神社ともいう)。

 神社であるが、お決まりの鳥居がない。調神社には入口近くに柱が二本、左右に立っていて、上の部分はない。


●鳥居はなし、柱が立つ●.jpg

●鳥居はなし、柱が立つ●


 この神社のご由緒によると、調神社は、第九代開花天皇3年に、所祭奉幣の社として創建されたそうな。

 それが、第十代崇神天皇の勅命により、伊勢神宮の斎主・倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、参向し、この清らかな地を選び、神宮にたてまつる調を納める倉をこの神社の境内に建て、武蔵・総国の調を集積したとのこと。

 ちなみに調とは簡単にいえば、租・庸・調という、当時の中国の税制にならった律令制度の代表的な3種の税のこと。農民に課された税で、租は地税、庸は年20日の労役、調は布帛などを納めた。

 調神社の「調」はこの租庸調の調からとられ、調の運搬の妨げとなる鳥居や門が取り払われた。だから鳥居はないのだ。

 ご祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)、豊宇気姫命(トヨウケヒメノミコト)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の三柱です。

 ふむふむ、天照大御神は伊勢神宮の神様ですし、豊宇気姫命は食べ物や穀物を司る神であり、そして、素戔嗚尊は道を開いていく神様であるわけですから、お祭りされている神様達、その役割からみても、この神社の存在の大きさを知ることができます。

 また、中世のころから、調が月と同じ読みをすることから、うさぎを神の使いとみなす、うさぎ信仰がおこなわれるようになったとのことです。

 まぁしかし、うさぎになんのゆかりもない神々様の狛犬を上記の理由で、狛うさぎに変えるとは考えにくい。しかも政府機関の倉で、由緒ある神社の狛犬を、ダジャレでうさぎに変えないでしょうよ、ふつう。

 やはり、うさぎにゆかりのある神様・大己貴命(大国主命)がご祭神の気がしますが。ここ浦和は武蔵国一の宮・氷川大社の一座、大己貴命(オオナムチノミコト)を祀る簸王子社のある街だし。どうなんでしょう?

 それはともかく、ここの神社の入口には狛犬ではなく、うさぎさんが鎮座しているのです。かわいい!


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●狛犬ならぬ狛うさぎさん●


 子うさぎをそばに置いた姿は、親が子どもを愛おしく思う姿でもあり、なんとなく誇らしげにも見えます。ちなみに、手水舎でもうさぎさんが水を出していました、口から吐き出して(笑)。またこれがおいしい。

 境内はかなり広く、地域の子供たちが、虫取りにこうじたり、涼を求めて地元の人々が集う場所でもあるようです。この日は、境内の一部が遷宮されていて大工さんたちが賑やかに働かれていました。

 佐藤は、拝殿にて、これからも一生懸命精進してまいりますので、よき仕事をくださいませ。と心をこめてお願いをしたしだいです。

 さて、おみくじ結果は? やった〜、 中吉 ……。でも引き直して 大吉 です! ハハハ。元気にやってます。ではでは!


●調神社の拝殿です●.jpg

●調神社の拝殿です●


(浦和で途中下車の項、終わり!To Be Continued!!)
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2008年05月09日

奮闘記・第213回 首都圏/東京都

●ちよみの感動● 検索ワード


五月晴れの隅田川をゆく

(前編)

〜吾妻橋に佇む〜


(2008年5月某日 東京都台東区/墨田区)



 さてさて、5月の大型連休が終わりました。皆様はどのような過ごし方をされましたか?もっとも、かいご職の皆様には、カレンダーに勝手に決められている(?)赤丸、白抜き数字は、当面関係ないのかもしれませんねぇ〔佐藤もそうでした〕。

 佐藤は、たまたま、3日の日にふと「都内は空いているだろう」と出かけてみたのですが、車で高速道路に入ると(そりゃそうだろう)、首都高速は、行楽地へ出かけた人と入れ替わりに、地方から東京に遊びに来る人々が押し寄せ大繁盛! 大渋滞!!(泣)

 なかには、福岡や、群馬、宮崎や、広島などのナンバーをつけた車をみかけてしまいました(沈黙)。

 そんなわけで、遠出をせずに研究所にこもってブログの管理などをしていると、皆さんが佐藤のブログを探してくれる検索ワードが、連休が近づくに連れて、「ヒミコ」の文字が目立つようになりました(笑)。

 そうですか、そうですかあれがよいのですか。皆様がヒミコに興味があるのであれば再びリサーチをする必要がありそうです。

 ということで、浅草までゆくわけだが結果的にはヒミコには乗れなかった。そう、水上バスには時間と種類があったのでした(再び沈黙)。

 それはまた後ほど、さて浅草・吾妻橋に到着。この吾妻橋の近所には、アサヒビールの巨大なモニュメントがあり、俗にウン●ビルと言われている。佐藤が勝手に言っているのではなく、地方へ言ったときに地元の方に伺うと、「浅草って、あのウン●ビルが……」と言われるくらい有名ですよ(笑)。


図1 吾妻橋からスタート!!.jpg

図1 吾妻橋からスタート!!


 そんでその界隈には、墨田区役所や、隅田公園がある。そういえば、墨 田区の訪問介護事業者連絡会が主催した研修を担当させて頂いたことがあったなぁ〜、などと墨田区役所を見上げていた佐藤の目に飛び込んできたのは、なんと、あの勝 海舟先生の銅像でした。先生の銅像の台座には「勝 安芳」と書かれています。

 しゃらくさい碑文に寄れば、勝海舟(安芳)は江戸本所亀沢町(両国4丁目)生まれだそうな。海舟先生は、幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の針路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で、海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成したとあります。

 また、西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城を取り決めた海舟先生は、江戸を戦火から救い、今日の東京の発展と、近代日本の平和軌道を敷設した英雄であると書かれていました。ものは言い様だ(笑)。

 幕末とはいえ、そんな甘ったるい正義だけで無血開城が行われたとは思えないが、海舟先生がいなければ、日本が朝鮮半島や、かつてのドイツのように、箱根を境に「東日本」「西日本」(JRじゃないよ)に分かれて、それぞれ英仏の植民地状態になって争いが続いた可能性もあるのだから、海舟先生の功績は大には違いない。

 ここにある海舟先生の像は、「勝 海舟の銅像を立てる会」から墨田区に寄贈されたものだとか。確かに卓越した見識のある海舟先生を象徴しているように、こちらの銅像は、まさしく、自分の前方を指差し、前を見据えて凛々しく鎮座されていました。佐藤も勝 海舟先生にあやかってしっかりと前を見据えて歩いていくことにしましょう。


図2 前を見据える勝海舟先生像.jpg

図2 前を見据える勝海舟先生像



【牛島神社】
 さて、このあたりに牛島神社があるはずですが、なかなか、ない。犬を散歩されている方に尋ねると、「この公園の奥にありますよ」とのこと。さっそく、公園の中を闊歩していくと、遠くに小学生の集団が見えます。ほらきた! また小学生だ。

 ここは群馬県ではないので気をつけないと。警戒しながら近寄りよると、子供達は、写生用の画板を持ちおとなしく並んでいた。群馬県の子供達と同じ躾をされた子供達を期待してはいけない、そう言い聞かせながら、鳥居の前まで行ってみると、ほら、がっかり。本当にがっかり。

 何にがっかりしたのかというと、なんと、鳥居の真下に、画板を広げて自分の居場所を確保しているのです。それも、数名で固まっている。通行人にはなんの配慮もなし。

 確かに大声は出さない。皆、熱心に絵を描いてはいる。まぁ美味い下手は別にして。とにかく、これでは参拝客が中に入りにくい。絵を各場所ではないよ、ここは。先生もそばにいてもその程度かい、東京の●カガキは。

 なるほど、新聞に出ていたように、110番に電話して「家にゴキブリが出てこわい」と警察を呼ぶようなバカ夫婦も確かにいるだろうなぁ、この街には。この子らの親なんてそんな感じの親ばかりだろうな。

 まぁ市民のためとはいえ、わざわざ出向く警官も警官だ。ストーカーの相談には全然のってやんなくて、何人も善良な市民を見殺しにしてるのにさ。価値観がおかしいよ、まったく。

 見殺しにしたのが後ろめたいのかもしれないが、それは穴埋めになってないよ、全然。まぁしゃーない、こちらがよけて通りますわい(すっかりブルーな気分)。


図3 牛島神社の狛犬(子どももいた).jpg

図3 牛島神社の狛犬(子どももいた)


 さて、この牛島神社は、明治維新の前は本所表町(現在の墨田区東駒形)の最勝寺が、その別当として管理していたそうな。明治初年の神仏分離後「牛の御前」の社名を「牛島神社」と改め、郷社に定められたそうです。ふうん。

 古くは、本所区向島須崎町七十八番地にあったそうですが、関東大震災後隅田公園の設計の都合上、昭和の始めに現在の位置に再建されたらしい。

 神社に伝わる縁起によればと、慈覚大師が御神託によって、須佐之男命(スサノオノミコト)を郷土守護神として勧請して創祀した後に、天之穂日命(アメノホヒノミコト)を祀り、ついで清和天皇の第七皇子・貞辰親王が、この地でなくなられたのを大師の弟子の良本阿闇梨が、その神霊を併せてお祀りしたそうな。


図4 境内はすがすがしい.jpg

図4 境内はすがすがしい


 実は、この慈覚大師・円仁(えんにん)が凄い! 

 日本初の大師号を受けた天台宗の高僧。最後の遣唐使として唐に留学し、唐から天台教学と密教を系統的に学び持ち帰った延暦寺の中興の祖。没後に朝廷から諡号、慈覚大師を賜った。

 その後に頼まれて(ほんとうに)、その師・最澄(伝教大師)、空海(弘法大師)が授けられている。

 東京・瀧泉寺(目黒不動)や山形・立石寺、宮城・瑞巌寺(松島)などの開祖といわれる。たぶんに伝説的だが、慈覚大師が開山や再興したと伝わる寺社は、関東だけで200寺を越えて、東北にも多数ある。長くなるので慈覚大師の話はここまで。

 関東大震災のときにもこのあたりは被害が凄かったらしい。第二次世界大戦下の東京大空襲では、このあたりは一面は火の海だったという話も聞いたことがありました。

 牛島神社は、このような災害(ある意味人災)をくぐり抜けて、現在は地域の人々に愛されている街の神社として鎮座。



図5 鳥居の真下での写生は参拝客が入りにくい!!.jpg

図5 鳥居の真下での写生は参拝客が入りにくい!!


 だから、子供達も絵を描くのは良いが、もう少し、他者に対して気遣い、まともな人間になってくださいな。君たちには、まだ時間はたくさんあるんだからさ。(でもぼうっとしてるとすぐだよ!)

 隅田公園から、水上バスに乗るため、吾妻橋まで戻ります。「ヒミコ」の他にも、「竜馬」「道灌」「海舟」など、いろいろあるようです。さて、どれに乗れるのでしょうか? ではでは!!


(To Be Continued!)
posted by さとうはあまい at 16:31| 島根 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月01日

奮闘記・第205回 首都圏/東京都

●本日のおみくじ結果●

文豪の町・文京区界隈を歩く

〜根津神社はつつじが満開!
文豪の石に座り考えた〜


(2008年4月某日 東京都文京区根津)



 文豪の町、と言っても文豪のお墓ばっかりだが(笑)。さて、饅頭談義から。根津神社のつつじ祭りでは、自称・名物甘酒茶屋が出店し、酒饅頭を蒸して販売していた(ほんとうに名物かどうかしんない)。

 根津神社を参拝し、つつじを愛でた人々は、甘酒などを頂きながら一休みするのにちょうどよい。まぁ、そのときそのときの気分で、甘酒とか酒饅頭を食べたくなることもあるでしょう。だから、酒饅頭を1個所望しようとしても、この酒饅頭は6個500円でしか販売されていないそうな、つまりバラ売りなし。

 ですので、参拝客は「バラ売りはないの?(怒)」とお店のかなり年配のお姉さま(?)たちに詰め寄っていました。すると、お姉さん達は「すみません、決まりになっていてばら売りはできないんです」とのたまう。

 こうして、酒饅頭をバラじゃ売らないと言い張る主催者側と、6個も食べきれないぜというお客の言い合い(というのか)が聞こえてきた。

 どちらの言い分も一理ある。神社のお祭りであるわけだからご祝儀として500円をはずんでも良いではないかとは思うのだが。でも商売なんだから、蒸したての饅頭をバラ売りして、お客さんにお土産用に買っていただく工夫があってもいいのかもしれない。

 美味ければ、ほとんどの店で、ほぼ例外なく、バラで売っていることから考えれば、たいして美味くないのでバラ売りできないのが現状なのだろう。

 まぁどちらにしてもせこい話である。ふう、気分がなえそうですが、神社でそこそこ美味しい甘酒をほおばり、挽回しました。まぁお互い大人なんですから大声で言い争わなくてもよいでしょうに・・・と思ったしだいです、はい。


図1 根津神社の大鳥居.jpg

図1 根津神社の大鳥居


図2 根津神社楼門.jpg

図2 根津神社楼門


 さて、根津神社は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が千駄木に創祀したものらしい。太田道灌が社殿を奉建している。ご祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)・大山咋命(オオヤマクイノミコト)・誉田別命(ホンダワケノミコト)です。ほかに大国主命(オオクニヌシノミコト)と菅原道真公が相殿されています。

 ここ、根津神社はつつじ祭りで有名。それにこの界隈には、森鴎外先生や、夏目漱石先生などが住み、この神社をこよなく愛していたらしい。ちなみに、森鴎外先生の『青年』や夏目漱石先生の『道草』など、文豪作家の作品に、根津神社(根津権現)が登場します。

 「権現」の名称は、明治初期の神仏分離の際に「権現」の名称が戦後まで禁止されたため、あまり使われなくなりましたが、地元では今でも「権現様」と親しまれています。

 そうですか、そうですか。文豪の愛した神社ということですな。ふむふむ、ということで、拝殿では「少しはまともな文章を書くことが出来ますように」と心をこめてお願いをしました。その結果、おみくじは「」頑張れば報われるって(無理?)。はいはい、がんばりますよう!


図3 森鴎外(林太郎)先生からの奉納品.jpg

図3 森鴎外(林太郎)先生からの奉納品


図4 おみくじ結果は吉.jpg

図4 おみくじ結果は吉


 さて、根津神社の境内には、森鴎外先生(本名、森林太郎)が、陸軍軍医監として、日露戦争に出向いたときの戦利品(なのかねぇ)として、大砲の砲弾の台座(とパンフにあるが砲弾の薬莢にしか見えない)を奉納したそうです。それが、現在は水のみ場としてリサイクルされて活用されています。この日は苗木などを販売している屋台に挟まれて寂びしそう(笑)。

 さらに境内を散策すると、森鴎外先生や夏目漱石先生が境内散策のときに腰をおろした石として、「文豪の石」と名付けられた石などもあります。早速、佐藤も腰をかけて先達の方々の知徳にあやかったのでございます、ハイ。何か問題でも?(笑)


図5 文豪の石にすわり知徳を得る?.jpg

図5 文豪の石にすわり知徳を得る?


 文豪達が愛した境内を十分に堪能した後は、お目当てのつつじ苑へ移動しました。根津神社といえば、つつじ祭りといわれるくらい有名で、約2000坪のつつじ苑には、約50種3000株のつつじが咲き競っているのです。

 つつじの花びらは、赤、白、紫、ピンクと、色鮮やかに咲きほこっています。その花が、みどりの若葉に支えられて見事に映えていました。

 このような素晴らしいつつじを観覧できるのも、地元の方々と神社さんの常日頃のご尽力のおかげでしょう。神社が地元の人々に愛されて大切にされていることは本当に素晴らしいことですし、神社の存在が有名になり、全国から多くの観光客が来ることは、地元の繁栄にもつながります。

 また、参拝者は、地域のかたがたが神社を一生懸命に守ってくれているからこそ、気持ちよく参拝ができ、。素晴らしいつつじを愛でることができるのです。だから、参拝に来る人も、神社の存在を支えている人々も、お互いを尊重する気遣い(マナー)が大切なのは言うまでもありません。


図6 色彩豊かなつつじ群.jpg

図6 色彩豊かなつつじ群


図7 種類も豊富.jpg

図7 種類も豊富


(To Be Continued!)
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2008年02月21日

奮闘記・第148回 首都圏/神奈川県

●ちよみの感動● 烏帽子岩が遠くに見える


湘南をゆく

ちよみの海岸物語(?)

〜サザン通りからラチエン通りをわたる〜



(2008年2月某日 神奈川県茅ヶ崎市ほか)



 佐藤は、湘南といえば鎌倉・江の島、と決め付けていた。まぁ鎌倉はともかく、江の島は佐藤にとって死語となりつつある、といってもまた夏になったら江の島に行きたくならないとも限らない(笑)。

 やはりあんなもんのなのかどうか、という怖いもの見たさもある。でも、片瀬江ノ島の駅は使わないが。

 それはさておき、湘南といえば鎌倉・江の島という概念は間違いと気づいた。なぜなら、青春という言葉がぴったりの茅ヶ崎に行っちゃったからです(笑)。

 だって鎌倉・江の島は観光地としては有名だが湘南の匂いはしない、生活の匂いがしないといってもよいかな。良くも悪くも、鎌倉時代の文化を守り、昭和初期の海水浴から変わらない(悪いことでは決してない)。戦国時代や幕末の鎌倉ってあまり想像できないでしょ?

 ここ茅ヶ崎はまさに現在の湘南! 俳優で歌手の加山雄三さんが育った場所。彼は明治維新で活躍した公家・岩倉具視の玄孫(孫の孫)だそうです。

 いまならば湘南といえば歌手のサザンオールスターズの桑田佳祐さんを思い出すことでしょう。「夏をあきらめて」に出てくるパシフィックホテルはここ茅ヶ崎にあったんですよ(いまはない)。そして幼いころの桑田さんはここで加山雄三さんに会い、歌手になろうとしたらしい、と確か本人がラジオかなんかで言っていた。

 JR東海道本線・茅ヶ崎駅にて下車。南口に降り立ち重い荷物はコインロッカーへ。ふふふ。今回は中型ロッカーも完備されていましたよ。


図1 サザン通りを発見!.jpg

図1 サザン通りを発見!


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図2 サザンサブレはまぁまぁです


 さて、茅ヶ崎のロータリーにある地図では、海に出るまでに数本の通りがある。素敵なことにその通りには湘南に関係している人物名がつけられているのです。サザン通り、雄三通りなど・・・。そうですか、そうですか。では、まずはサザン通りを行きましょう。

 ♪海岸で若い2人が恋をする物語〜♪

 などと、口ずさんで歩き出したのはいいのだが、これが結構長い。まぁ若い二入だったらこの道もロマンチックなのでしょうが。おばさんは、まだかまだか、いつ着くのかと必死に歩いて行き、ビーチに抜けるトンネルでかわいいイラストに励まされながら、やっとこさ、海岸に到着したのでした。

 おお!あれこそ♪チャコの海岸物語♪にでてくる烏帽子岩が遠くに見える。その烏帽子岩をめがけて、雲間からお日様の光がおりています。烏帽子岩はそのお日様の光を浴びて「俺の雄姿をしっかり見てくれ」といわんばかりにまばゆくひかっていました。

 その烏帽子岩を望む絶好の場所に、馬鹿でかいCの形をしたモニュメントを発見! 駐車場でトビに餌をやってるひとを発見!(まぁこれはどうでもいい) 

 早速、登って記念撮影。なになに?このモニュメントは若いカップルが端に立って空いている部分をふさげば〇になるとな。どうやら縁結びのモニュメントらしい。

 そばにあった、サザンビーチモニュメントの解説によれば、(前略〜)人々が抱える様々な問題に、いたわりや、譲り合う心を思い出し、不完全な円(縁を完成させ幸せな暮らしを形作る「思いやりの輪」〜後略だとのこと。そうそう、何事にも、いたわりや、譲り合う心が必要です。


図3 烏帽子岩がみえますか?(サザンビーチのモニュメントから).jpg

図3 烏帽子岩がみえますか?

(サザンビーチのモニュメントから)



【茅ヶ崎市・開高健記念館】
 佐藤は、ひたすら湘南海岸を江の島方面へ向けて歩いています。次に目指すはラチエン通り。

 その通りには、開高 健(かいこう・たけし)先生の記念館があるんだそうです。これがまた遠い、というか遠いところへ向かっているだけなのだが(笑)。

 あとでわかったのだが、茅ヶ崎駅を中心に、右がサザン通り、左がラチエン通りだから、その裾野は扇状に広がっているんです。佐藤は、広げた扇のはじからはじまでを歩いているんだもの。なんせ、地図の読めない(空気も読めない?)女でございますから、ほほほ。何か問題でも?

 ぶつぶつ言いながら歩いていると発見! やったぁ〜ようやく見つけた先生宅。ちなみに記念館は土・日・祝日のみの開館、平日は開いてません、ご注意ください。


図4 ガラス越しに見える開高健先生書斎.jpg

図4 ガラス越しに見える開高健先生書斎


図5 展示されている開高先生直筆原稿.jpg

図5 展示されている開高先生直筆原稿


 記念館といえども、個人宅でありますから普通の家。ドアは閉ざされていますから、庭で係りの方から「どうぞ、ごゆっくり」といわれても、開けて良いものやら悪いのやら(悪いわけない)と思いつつ、明けてみてびっくり! すでに何人もお客様がいて記念品を物色しているではありませんか!!

 佐藤は、記念館のかたに勧められてテレビの前に座りました。室内をぐるりとみまわすと、高い天井近くの壁には開高先生が、ジャーナリストとして、生と死の極限状態を生き抜いたベトナム戦争の従軍記者としての写真が、布にプリントされてはためきながらゆれていました。その横には、釣り師として巨大魚釣り上げて満面の笑みの先生の姿も飾られていました。

 佐藤は先生が出演しているビデオをながめ、「おおっ。開高節(ぶし)じゃ〜」と久しぶりに聞いた先生の声に大満足! その後、企画展として展示されている「ずばり東京」展を閲覧し(文春文庫、最近光文社文庫で出た)、先生の書斎はいったん家の外に出て、ガラス張りから部屋の中を見せていただきました。

 掘りごたつに座り、好きなたばこにワインをくゆらせ原稿用紙に丸文字を滑らせていく。先生独特の声が聞こえてきそうな空間でした。釣り上げた大魚など、いろいろな剥製がありました。ただ飼ってた猫の剥製はちょっとねぇ……(先生が亡くなったあとらしいが)。

 若いころの佐藤、ありますよ〜佐藤にも若い時が(笑)、は自然(今でいうノンフィクション)が好きでした。愛読書は、自然や野生を描いた書物が多かった。難しいものはパス! 先生の作品では、釣りを描いた作品を好んで読みました。いや、読んだつもりが目を通しただけかも〜(苦笑)。

 しばし、ゆったりと過ごさせていただきました。開高先生、そして丁寧に説明してくださった記念館の方々、有り難うございました! 9キロしか離れていない。どこそこの島とはえらい違いじゃ!!


図6 玄関脇にある石.jpg

図6 玄関脇にある石


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図7 哲学者の小径


 まぁ確かに街自体は少し寂れているかもしれない。もちろん住んでいる人々には不満もあるかもしれない(ないかもしれない)。パシフィックホテルでさえ、なくなった。

 でも人が暮らす、生活するということは、そういうこと(できたり、なくなったりする)なのではないのか? すべてが変わらなかったら思い出なんて美しくも懐かしくもないのかもしれない。良かれ悪しかれ、いまの湘南がありのまま、感じられるのだ。

 そして、湘南を歩くには今が一番良いかもしれない。湘南の車は湘南ナンバーだらけ。カッコイイ!(って湘南ナンバーしかないわい)。そこには、忘れていた青春の一コマが、ふと垣間見れたのかも知れません(笑)。



【寒川市・寒川神社】
 寒川神社がある宮山駅は茅ヶ崎駅からすぐ目と鼻の先。ですから行っちゃいました。お正月に行ったときには、富士山がはっきりと見え、「やはり近いな〜」と感激しましたが、今日はあいにく厚い雲に覆われてみることはできませんでした。

 ま、それはそれで仕方がない。別に富士山を見に来たわけじゃなし(そこまでいうな)。早速、参拝。研究所の安泰を願いました。おみくじは末吉・大吉でした。

 前者はふつうのおみくじ、後者は花みくじ。そんで入り口で末吉、出口を出たら花みくじで大吉、なのです。皆さん、ほんとうに欲しいものはあきらめちゃだめです(笑)。

 またどこかでお会いしましょう! ではでは!!


図8 寒川神社へ再襲.jpg

図8 寒川神社へ再襲


(To Be Continued!)

posted by さとうはあまい at 13:23| 島根 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月19日

奮闘記・第122回 首都圏/東京都

●今日のおみくじの結果● 大吉


出た!出た!出た! 初日が出た!

〜港区で大吉が!!(笑)〜


(2008年1月某日 東京都港区)

 

 いきなり取り乱して始まってしまいましたが、港区の方々とかかわりますので、いつものごとくその地域にある神社さんへご挨拶。

【西郷南洲、勝海舟会見の場】
 三田駅からおりて東京タワーのほうへ歩くと、とあるビルの前に大きなモニュメントが見えました。ふむふむ、それはなんとぉ〜。あの西郷南洲(隆盛)と勝海舟が幕末のときに会見した場所の記念碑でした。

 その昔、ここには、薩摩藩の蔵屋敷があったところだそうな。勝海舟(幕府側の責任者)はこの時に、形成が幕府に対して不利であると判断、西郷隆盛(官軍側の重鎮)に江戸城を無血で明け渡す決意をし(なにしろ将軍だった慶喜に戦意なし)、戦乱から江戸の町を救ったということです。

 何気なくおかれているけれど、この場所は日本の歴史に重要な変化をもたらせた場所のひとつなんだよねぇ。それにしても、この大きな記念碑。すごいでしょう。台座には会見している西郷隆盛と、勝海舟が描かれていましたよ。通る人はみんな、ほとんど気にしないで通りすぎてたけど(笑)。


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図1 発見!会見の地


【御穂鹿島神社】
 先ほどの記念碑のあるビルを右手に折れるとこの神社がある。聞くところによると、なんか出そうな社だったそうですが、今ではきれいに整備されて地域の方に守られているみたいでした。

入り口には神社があることを示すように2体の狛犬がひとつの台座に鎮座して迎えてくれました。もちろん、鳥居の中にも狛犬がいます。ここの狛犬はお母さんのほうに2匹の子犬が、お父さんの方には1匹の子犬がいて、親子が微笑ましくじゃれあっている様子を見ることができました。早速。参拝、本日の研修の無事を御祈願。その後恒例のおみくじタイム……。

 わっはっはっはっは〜!大吉♪♪♪出ちゃいましたよ〜。島根の神様方ごめんなさいね。でも、近日中には絶対行きますので、そちらでもなにとぞよろしくお願いします。ではでは、張り切って仕事にいきま〜す。!


図2 ひとつの像で阿吽の狛犬.jpg

図2 ひとつの像で阿吽の狛犬


図3 やったぜ!今年初の大吉!!.jpg

図3 やったぜ!今年初の大吉!!


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図4 ビル街にあった御穂鹿島神社


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posted by さとうはあまい at 21:00| 島根 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月06日

奮闘記・第112回 首都圏/東京都

●今日のおみくじ結果● 末吉・吉・小吉


浅草界隈をゆく

〜浅草寺は大賑わい行列のできる店だらけ〜


(2008年1月3日 東京都台東区)



【王子神社】 
 正月三が日も最終日となれば、正月くらいは家族孝行もせねばなるまいな、と思い立ち(いやいやかい!)、昨日日帰りスキーに行ってくたびれている主人を起こして、「ささ、初詣に行きましょうね!」とおびき出し、いや誘い出し、「うまいもの食べさせてくれるなら行く!!」という息子までも引き連れ、まずは地元の王子神社に参拝。

 私自身は元日にご挨拶はすませておりますが、今日は家族と一緒ですからねぇ。気持ちを改めまして神様にご挨拶をしました。

 さて恒例のおみくじは....(「あれ? 末吉???」)。そうですか、そうですか、ふ〜ん。ところで主人と息子は何が出たかしら? 

 興味津々でのぞいてみると、なんとぉ主人と息子はそろって大吉ではありませんか! こんなことってあ〜り〜? 毎朝、信心深く神棚を整えている私が末吉で、「おみくじなんてどうでもいいじゃん」などとのたまう2人が大吉ですってさ! 神様いいの?(でも、神棚に王子神社のお札、ないじゃん!)

 そういえば私ったら家族と一緒に来たのに願ったのは研究所の繁栄を願っちまったからねぇ。それが良くなかったかも〜(泣)。やはり、世界征服、もとい世界平和も祈らねば!


図1 王子神社再来襲.jpg

図1 王子神社再来襲



【浅草寺界隈】
 まぁまぁ気を取り直して次は浅草寺に行きましょうかねぇ。浅草には、王子駅から、バス1本で行けちゃうので便利。しかし、さすがはお正月。バスも参拝客で混みまくり。

 バス停に停まると運転手さんが「中程まで送り合わせてください!!!!」と落ちついてアナウンスをするのですが、もう中程も何も空いてないよ、まったく。運転手さんも途中で一人ごとのように「もう無理だよなぁ」なんてつぶやいている(なら、入れんなよな)。

 すると私の後方のおじさんもこれまた一人ごとのように「そうそう無理だからやめなさいよ」と言っています(正論)。運転手さんもようやく諦め、「次のバスをお待ちください!!!!!」とアナウンスしながらバス停をスルーしたのでした。


図2 屋台で賑やか.jpg

図2 屋台で賑やか


図3 参道が賑やかすぎて入れない.jpg

図3 参道が賑やかすぎて入れない


 さてと、浅草寺あたりは歩行者天国。仲見世から、浅草寺の参拝を試みるも断念。遠くで手を合わせて拝みました(前のおじさんの頭を拝んだ気分)。でもでも、おみくじだけはゲット! ふふふ、そう吉。ママでも吉、おばあちゃんでも(柔道の谷選手かい)。浅草神社では小吉(沈黙)。

 その後は縁日を右往左往。たこ焼きたい焼き甘酒と頂き〆はお寿司じゃ〜。これで文句はあるまい!って、最初から誰も文句をいってないわいな。


図4 お正月飾りが賑やか.jpg

図4 お正月飾りが賑やか


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図5 参道まで340mだが・・・


 帰りももちろんバス。無事に王子駅に到着。でも、まだ、3時じゃけん。家に帰るには早い。お正月といえば映画でしょ。だから、主人を誘うが遠巻きに却下され、辞退されてしまいました(笑)。

 そこで、息子と見た映画は「ALWAYS 続・三丁目の夕日」です。「続」ですから、「前編を見ていないとわからないかもよ〜」と息子に脅かされながらも見ちゃいましたよ、はい。なんの、なんの、前作を見ていなくても十分に理解できました(見てもどうせおぼえてねい?)。心がぽかぽかする温かい映画でした。

 終わってみれば、私が家族に癒された一日でした。ありがとね!!!


(To Be Continued!)
posted by さとうはあまい at 14:44| 島根 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 見聞録(首都圏版) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする