2018年06月13日

奮闘記・第1059回 見聞録/長崎県

●2018年● 長崎市

長崎見聞《異聞》録

〜現在から過去、再び現在を満喫ロード〜



皆さま、お元気でしょうか? 佐藤はなんとなく元気ですよ(笑)。

さて、長崎シリーズは、2回目だが、今回は「潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その2)」ではなくて(相変わらずあるかないかわかりませんが・・・)、長崎での研修会(こちらは研修会のツボにて報告済み)前後に行った、長崎市内の見聞録である。

我々は、朝、宿泊地のホテルベルビュー長崎出島出島キッチン クローバーにて朝食をとった。だいたいホテルの朝食はバイキングスタイルであり、こちらもそうであった。

佐藤はお皿に野菜をメインに載せて食卓についた。朝から、日本の食事を満喫!味噌汁がうまいぜ。地元の名物カレー等もあり、 「ひゃ〜参謀」もご機嫌であった。写真は次の日の朝食のものだが、なんと皿うどんまで出てきたのだ。

ホテルを出発して向かった先は、鎮西大社諏訪神社(長崎諏訪神社)である。


●キッチン出島 クローバーの朝食!●.jpg

●キッチン出島 クローバーの朝食!●



【鎮西大社 諏訪神社】
鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様であり、現在は、厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬されているそうな。

以前、長崎近郊は、キリシタン大名が多く、戦国時代はイエズス会の教会領となっていたため、かって、現・長崎市内にまつられていた、諏訪・森崎・住吉の三神社は、焼かれ、壊され、ひどい目にあっていた。

それとは別に、キリシタンへの弾圧もたいがいなもんで、あまりにひどすぎるが、キリシタンはキリシタンで、やり過ぎの面もあろう。暴力は暴力を産みやすい。こういうことをやっていては、なかなか同情はされにくくなるだろう。神社は、寛永2年(1625年)に再興され、長崎の産土神となった。ここは《対キリシタン》の幕府側の要塞のような役割もあったかも知れない。鳥居も威圧するため、大きく、銅製の鳥居が作られた。


●長崎諏訪神社参道●.jpg

●長崎諏訪神社参道●



いきなり、余談だが、明治24年(1891年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生は、松江から熊本の第五高等学校に赴任した。そんで、明治26年7月21日から長崎に2泊の予定で来た。

7月21日の早朝3時に長崎港に到着したが、まだやってなかった。数時間後、南山手の当時のベルビュー・ホテル(現・全日空ホテルグラバーヒルの場所)にチェックイン。もちろん、朝になるまで待たされたが長崎港の朝日の素晴らしさを賞賛していた。

ここでのハーン先生は、外国人気分であっただろう。当時のベルビュー・ホテルは外国人専用のホテルであり、わざわざ選んで、お忍びで出かけているからだ。やはり誰だって自由な時間は欲しいもの。

「でも、ハーン先生。その時期にエアコンもない時代の長崎に来たら、もう暑くて、暑くて、暑くて、暑くて・・・・」と思ったが、案の定、滞在そうそうに数日で熊本に帰られたようだ(笑)。

目的は公式には不明。でもハーン先生が日本来るきっかけになったピエル・ロチ氏(フランス)の長崎を舞台とした小説『お菊さん』関連の資料収集か、舞台となった長崎を見ておきたかったのかも知れない。

先生は、心の中の思いを、ある時は本音を、決して無暗に語ったり、記録したりはしない。それが他者に漏れれば、自分の評価がどうなるか。また、自分が生きにくくなり、周りががっかりするのを、きちんとわかっていた人なのだ。たとえ自分が死んだのちであっても。

本音で暮らしていけるのは、すぐ帰国できる外国人だけだろう。ハーン先生そういう心遣いも、ある意味保身もできた人なのである。

長崎の景色はふんだんにほめている。そのハーン先生が、この長崎諏訪神社の参道入り口に立っていた金属製の一ノ鳥居だけは許さなかった。

「私が今まで日本で見たうちで、最も醜いものだ」

とまで言わしめた。しかし、この鳥居は、かって幕府がキリシタンを威圧する目的で作られたもの。ごっつくても、大きくても、仕方がないのである。

ハーン先生は、初めキリスト教に反感を持ちつつも、最終的には、キリスト教の理念に心を寄せていたと思われる。であれば、そのような目的の鳥居など、許せないのかも知れない。素晴らしくも難しい、マインドの持ち主である。でも決して記録には残したりしないし、あくまでもキリシタンというわけではない。

しかし、その鳥居は、結局、戦争中、金属がいるってんで、扁額以外、軍部に持っていかれた(扁額は天皇の筆)。われわれが今見れる鳥居は、戦後立て直された石製である。

さて、話を今の長崎諏訪神社に戻そう。


●長崎諏訪神社拝殿で大吉●.jpg

●長崎諏訪神社拝殿で大吉●



佐藤は、研修会の前には、その地域にある神社に参拝している。はじめて来たときは、暑い夏のさなかで駐車場もわからず、ちと遠い所に留めたので汗をかいての参拝であった。2回目以降は、神社の中にも広い駐車場があることがわかったため、そちらに停めている。

長崎諏訪神社内には、幼稚園がある。そのため、子どもを送り届けるためにお母さん達が入れかわり車でやって来て、車から降りて、長い階段を登っていると、下の方で子どもの声が聞こえてきた。

やや早口で滑舌も悪い(笑)。

「神様今日1日ムニャムニャムニャ・・・ください」と。

すると、そばにいたお母さんが「そんなんじゃ神様に伝わらないでしょ!ちゃんと言いなさい」と諭している。

でも、そこは長崎の開明的(?)な子どもである。

「大丈夫、神様はちゃんとわかってるって!」

それ以降も、子供らはお母さんと一緒に階段下に来ては手を合わせ、幼稚園の方へ向かった行く。こうして毎日お参りするんだから素晴らしいではないか。きっと、神様はみんなを守る事に必死であろう。

我々は、このようなやりとりを聞きながらこころ和やかになりつつ、階段を登っていった。そして、拝殿前にて参拝し、拝殿にて、神様に長崎の来れたお礼と研修会の成功を祈念した。


ちなみに、祓戸神社は、駐車スペースより下の階段の途中にある。そこには福澤諭吉先生の銅像も近くに立っている。

なぜ像があるのか? この近くには、長崎遊学中の福澤先生が使用したと伝わる井戸(共同)があって、『福翁自伝』にも「上方辺の大地震」で足を滑らせ、あやうく井戸に落ちそうになった井戸として出てくるという。

この福澤先生。のちの政治家・若き日の尾崎行雄氏が、執筆する際、「わかる人がわかればいい」といったところ、

「ばかもの! 猿に見せるつもりで書け。俺などはいつも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれでちょうどいいのだ」と言い放ったという。これはステキだな!

でも、福澤先生。介護業界の場合、書いてるほうも猿という疑いが・・・(笑)。それはともかく、「天才バカボン」のパパは福澤先生がモデルなんじゃないかと思うくらい、若き日の福澤先生は、いつでも、キレッキレで、強烈なかたでありました(やはりダテに1万円札にはならないな!)。

参拝後、社務所横のおみくじ箱から女みくじをひくとなんと、大吉。ハハハ。そう、神様はみていますからねぇ。

ちなみに長崎諏訪神社は高台にある。鳥居の内から外を眺めると、坂の町・長崎を眺望できるのだ。佐藤は、その景色を眺めて、本日も張り切ろうと決意を新たにし、我々は研修終了後には、なんと長崎県歴史文化博物館にいた(笑)。


【長崎県歴史文化博物館】
こちらでは、《明治150年記念特別展「写真発祥地の原風景 長崎」〜写真で振り返る幕末・明治の長崎〜》が開催されていたからだ。うちの「ひゃ〜参謀」が写真展やカメラが大好きなのだ(笑)。

この写真展は、目黒区の東京都写真美術館で、今年の3月から5月までやっていた展覧会の巡回展であろう。しかし、本場の写真発祥地の長崎で観れれば、こりゃ格別である。


●長崎歴史文化博物館にて●.jpg

●長崎歴史文化博物館にて●



手に入れたチラシには、明治150年を記念し、近世から近代への転換期を古写真からご紹介しているとあった。以下、ホームページによる。

長崎は幕末には、写真やその技術がもたらされ、外国人写真師や上野彦馬をはじめとする長崎ゆかりの日本人写真師が活躍している。本展では、写真発祥地ともいえる長崎を「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を通して捉え、幕末から明治の長崎の再構築を試みている。

江戸時代は約150年前に終焉し、日本は西洋的近代国家へと向かった。長崎は、それより前の開港期に写真が渡来している。その写真は江戸時代から明治時代への転換期を捉え、現代に伝えている。

長崎は、江戸時代には、すでに海外に開かれた窓口であった。そこで世界のモノや情報がもたらされているのだ。なんと、幕末には写真やその技術がもたらされ、長崎を訪れたピエール・ロシエフェリーチェ・ベアトなどの外国人写真師が、長崎を捉えた写真を残しているのだ。

さらに、写真開祖と呼ばれる上野彦馬(うえの・ひこま)をはじめ、内田九一(うちだ・くいち)、薛 信二郎(せつ・しんじろう)、竹下佳治(たけした・よしはる)、清河安武(きよかわ・やすたけ)、為政虎三(ためまさ・とらぞう)などの長崎ゆかりの日本人写真師が写真文化を普及していくために長崎は写真発祥地ともいえるのだ。

本展では、写真発祥地「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を中心に、写真を支える台紙や写真アルバム、古地図や絵画・工芸品なども取り上げ、幕末〜明治の「長崎」を振り返っているのだ。

展示は4章仕立てである。

〔第1章〕
江戸期の長崎として、日本写真史の起点となった江戸時代の長崎とその文化を国内外の視点から長崎版画や古地図、旅行記などから写真以前の長崎の姿に迫っている。長崎港図では、長崎港か突き出た出島があり、長崎港には帆船が浮かび、異国ムードがたっだよっている。

出島が現在は埋め立てられており、なかなか想像するのも難しいが、実際、現在の出島の前に立ち、現在の長崎港の出島ワーフにも何度か来ると、「おお!」という感じがわかって来る。やはり、どこでも何度か来ないとわからないことがあるのだ。

〔第2章〕
長崎と写真技術として、写真技術が渡来して間もない頃に焦点をあてて長崎を訪れたロシェやザハトラー、ボードインなど外国人による写真の実践や上野彦馬ら日本人写真師による写真技術への取り組みが案内されている。こちらでは、着物に袴をはき、頭はちょんまげを結い刀を差している侍を写した写真が並んでいる。また、カメラなども展示されていて、「ひゃ〜参謀」はとりわけカメラを熱心に見ていたな(笑)。

〔第3章〕
長崎鳥瞰として、長崎市街や長崎港など、「長崎を写した」風景写真に注目を展示。数々のパノラマ写真などを通して、江戸時代から明治時代へと変わりゆく長崎を紹介している。この長崎鳥瞰は、景色を数枚の写真におさめ、それを貼り合わせてあるもので、日本家屋が密集している町並みを見ることが出来る。

これをみると、開港が許された土地は、横浜や函館も、海防に適しているところを選別しているのがわかりやすい。

〔第4章〕
長崎クローズアップとして、江戸時代の貿易都市長崎の象徴の1つ出島、開港期、居留地の象徴の南山手、長崎を訪れ「長崎で写された」人々などが紹介されている。なかでも長崎を来訪した人々をめぐっては、英語教師フルベッキや、長崎で学んだ佐賀藩士など長崎・佐賀双方にとってゆかりの深い人々を紹介している。

いや〜、ここではなんと幕末に一役かった多くの人物のありのままの人物をみることができたのは感無量である。ここに、たくさん名前が出てきたが、その中で重要なのが、写真開祖と呼ばれる上野彦馬である。

彼は、幕末期から明治時代にかけて活動した写真家であり、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られているのだが、司馬遼太郎先生の小説『胡蝶の夢』に出てくるポンぺ先生を教官とする医学伝習所に新設の舎密試験所で舎密学(化学)を学んだ英才である。その化学から写真へつながり(写真は化学薬品を多く使い、知識も必要)、写真術は洋書で学んだり、来日した外国人写真家からも教えを乞うたという。

また、江戸で、数々の写真を撮影し、共同で化学解説書『舎密局必携』などを執筆。長崎に戻り、日本における最初期の職業写真師(複数いるが)となり、上野撮影局を開業。ここで、われらがよく見る、坂本龍馬高杉晋作桂小五郎などの若き志士や明治期の名士の肖像写真を多く撮影する。

さらに、西南戦争の戦跡(従軍写真)の撮影、後進の指導としての貢献度もあり、その他多くの功績を残し、明治37年(1904年)、長崎で死去(享年67)。医学や化学の知識もあり、写真術もあり、語学もできる。いや、凄い人材が明治期には存在したのだなぁ。まぁ、佐藤などは写真技術などはまったくわからないが、過去に活躍した本物の写真を見られたことに大満足である。

その後、ホテルに戻り、一休みしたあと、我々はよるの長崎に繰り出した。


●明治期の写真機材●.jpg

●明治期の写真機材●



【酒場食堂 みなとや】
ここは、ホテルのすぐそばにある店で、昨夜散策していたときに、ちょっと気になったお店なのだ。道路の曲がり角にある角店で入り口が半間と狭い。外にメニューが掲げられてあり、和洋折衷なんでもあるようだ。さすが東西異文化交流の街。

そこで、新たな店も開拓しようと言うことで入ってみることにした。お店の中はカウンターとテーブル席があり、外見よりも広い。ドアを開けると明るい声で迎えてくれた。佐藤は、加齢のせいか、最近どうもビールがうまくない。そこで、黒霧島のロックを所望した(通常運転中)

そして、サラダや、空豆などつまみを食べて、「ひゃ〜参謀」はここまで来てもハンバーグと焼きおにぎりなどを頂いた。季節の食材が豊富にあるようで、様々なメニューが並んでいて楽しいお店であった。もちろん美味しかった。


●酒場食堂 みなとやさんで夕食●.jpg

●酒場食堂 みなとやさんで夕食●



●長崎市街を走る長崎電気軌道●.jpg

●長崎市街を走る長崎電気軌道●



【出島表門橋あたり散策】
さて、お腹もいっぱいになったところで、我々は出島周辺を散策した。昨年11月に出島に130年ぶりに「出島表門橋」が復元され開通したというのだ。夜はライトアップされるという。だから、歩いてその場所へ向かってみた。でも、夏場なら絶対余所者にはできないだろう、暑くて(笑)。

ここは、長崎市の国指定史跡・出島和蘭商館跡とを対岸をつなぐ橋である。当時は唯一「日本」と「外国」とが結ばれていた橋である。


●国指定史跡・出島和蘭商館跡●.jpg

●国指定史跡・出島和蘭商館跡●



●出島表門橋の横に立つ●.jpg

●出島表門橋の横に立つ●



現在は、対岸も整備され当時のそれとは趣も違うが、新たにかけられた橋はシンプルではあるが、どこか異国を感じさせる優雅さを醸し出していた。この時間でも、橋を渡れば、出島に入ることもできる(要入場料)のだが、出島の中の店はすでに閉店しているとのことだったので、周囲を歩いてみるだけにした。

さてさて、あたりが暗くなった来たので、そろそろ、本日のメインイベント稲佐山へ移動するとしょう。


【稲佐山展望台】
長崎の夜景を一望できる稲佐山へは、バスとロープウェイで行くことができる。我々はバス停でロープウェイ下で下車し、長崎ロープウェイで登った。標高は333メートル、東京タワーと同じである。


●ここが稲佐山の頂点●.jpg

●ここが稲佐山の頂点●



展望台に登ると、そこは修学旅行の生徒たちが、わんさかいて、まぁ賑やかなこと。高いところがあまり得意でない「ひゃ〜参謀」(排他的高所恐怖症?)も、なぜか平然としていた(笑)。

まぁ、昨年来たときは、真夏で、強風が吹き荒れていた。だから、「ひゃ〜参謀」はもちろん、他の観光客も皆、手すりをつかんでヒャ〜ヒャ〜言っていた。

ここ、稲佐山は平成24年に、夜景観光コンベンション・ビューロー主催の「夜景サミット2012 in 長崎」において、長崎の夜景が香港・モナコと並び、「世界新三大夜景」に認定されている場所なのだ。


●長崎の世界新三大夜景●.jpg

●長崎の世界新三大夜景●



●稲佐山展望台からの風景は飽きない●.jpg

●稲佐山展望台からの風景は飽きない●



前回も登ってみたのだが、やはり長崎の街はほんとうに美しい。街のライトが海を照らし、海がキラキラと輝いている。昼は昼で良さげである。佐藤は、展望台を1周して、軍艦島や五島列島、大村港などの方面を見定めながら、改めて長崎県のでかさを体感した。

まだまだ、5月だと言うのすでに夏の香りがみていて、夜風が心地よかった。いや、夏場ならここでも汗だくだ。でも、長崎でもまだ5月なら、昼はやや暑くても、夜は涼しいのだ。

さてさて、いよいよ明日は天草へ渡る予定だ。雨が心配されるが晴れるといいなぁ・・・(結果はわかっていますが)。

皆さま、くれぐれもご自愛ください!


(猿カニ合戦は、結局、トランプなんかじゃ勝負は着かないのだろう。bye AMERICAN!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 20:31| 島根 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。