2018年06月04日

奮闘記・第1058回 見聞録/長崎県&佐賀県

●2018年● 長崎県大村市・長崎県島原市ほか&佐賀県鹿島市


『道の駅』マグネット探訪の記

〜潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その1)〜



皆さま、お久しぶりです。(その2)があるかどうかは定かではないが、長崎県の研修会の前後で見た、長崎県佐賀県の見聞録です。まぁ久しぶりに長いですよ(笑)。

今回も、早朝に「ひゃ〜参謀」(以下、今回はH参謀とする)を車に押し込み、羽田から長崎へ飛んだ。

長崎では、前回に引き続き、ニコニコレンタカーをチョイス。まぁここは某県(北陸)で予約し忘れて、困って居たときに助けてくれて以来、気にいっているのだ(安いしね)。

この日、我々を乗せた飛行機は大きく揺れることもなく、墜ちることもなく、無事に長崎空港に着いた。空港を出て、ニコニコレンタカーへ連絡を入れると、待ち合わせ場所を指示してくれたので、速やかにその場所へ移動した。

ややや、するとそこにはすでに係の方が待っていた。出迎えに来てくれた車には、なんとニコニコレンタカーのトレードマークのお日様のぬいぐるみがは置かれていた。佐藤はお店につくまでそのぬいぐるみが気になって仕方がない。

H参謀は、なんの反応も示さないのだ(今は○ジェドさまに興味が全振り)。お店に到着後、係の方に断りを入れてそのお日様くんと記念写真を撮らせて頂いた。ハハハ。


●ニコニコレンタカーのマスコット●.jpg

●ニコニコレンタカーのマスコット●



佐藤はすでにニコニコレンタカーのメンバーカードをもっているため、手続きもスムーズに済み、手に入れたのは三菱・ミラージュ君であった。なんと三菱車には、はじめて乗る(結果、快適であった)。

車に乗り込むとH参謀が行き先を告げる。めざすは祐徳稲荷神社でそうだ。

ちなみに、この神社は長崎県ではなく佐賀県にある。長崎県ではないが、長崎空港からは意外と近い。それに長崎県はあんまし神社がないしな。

佐藤は、ナビ様に導かれるままに車を走らせた。この佐賀県の風景がまたいいのよ。長崎県も佐賀県も景色が良すぎるよ。

【祐徳(ゆうとく)稲荷神社】
駐車場に車を入れると高台に煌びやかなお社が見える。伏見稲荷大社、笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷(神社)とされる。佐藤は、というかH参謀があまり稲荷神社に行かないから、他の神社内にある、摂末社の稲荷社ぐらいしか行かない。なぜ行かないのか?「行きつけの稲荷社があるから」とのこと。行きつけがあれば、特に稲荷社はそこに集中する方が良いらしい。

じゃなぜ今回は行くのか? 見聞録をまわる際に御守護をお願いする神様が少ないから、隣りの県までお願いに行くのだという。特に今回はキリシタン関係もあるから念入りにだそうで、仏教系の稲荷社でなければとのこと。まぁそれに関しては佐藤も別に異存はない。

いや、キリシタン自体は気持ちがしっかりしているからいいのだが、信仰心がないものまでも多くが巻き添えにされている「歴史的事件」であるから、「何がいるか」わからない。これ、そもそも、地元の人も言ってるんだよなぁ。


「この時期になると、ここらにあれが出るのよ」

「あれって?」

「出るもんていったらあれしかないだろう!」

「だから何が出るんですか?」

「おれが生きてるうちは死んでも言えない」

「・・・・」



ともかく、我々は、気分として、Y田S陰先生のように、キリシタンへの激しい拷問があったとされる某温泉にわざわざ行って、その「現場」の下流で温泉に浸かり、「いや〜、極楽、極楽」とはいきにくい。まぁ・・・あの先生、一応武士だからな・・・。さて、話を神社に戻そう。


●祐徳稲荷神社はでかい●.jpg

●祐徳稲荷神社はでかい●



この神社のホームページの情報では、

貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主・鍋島直朝(なべしま・なおとも)公の夫人、花山院萬子媛(かざんいん・まんこひめ)が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されており、日本三大稲荷の1つに数えられている。

商売繁昌家運繁栄大漁満足交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、樓門等、総漆塗極彩色、宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称され、観光ルートの上にも一異彩を放っている。


ご祭神様は、倉稲魂大神大宮売大神天宇受売命猿田彦大神。まぁ、商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全の守護を標榜するには、欠かせない神々様達である。いや、どんなご利益でも標榜できる。もちろん、萬子媛が連れて行った稲荷大神は京都の伏見稲荷大社からである。

そして、境内にある石壁神社には、先の萬媛命(よろづひめのみこと:祐徳院殿・萬子媛)が祀られているとされる。

萬子媛は、後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘であるが、寛文2年直朝公にお輿入れになる。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所であった稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されたという。


萬子媛は、直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、2人のお子様をもうけたが、不幸にしてお2人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕え、以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられたときに石壁山山腹に巌を穿ち寿蔵を築かせ、工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ、邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)された。

萬子媛ご入定の後(祐徳院)も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われ、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称された。

「明治になったら、もう無理かな。関西ではともかく、関東では断然呼びにくいからねぇ。でも解説では、ずいぶん連呼されていたけど。まぁ現代じゃ名前を変えるしかないかなw」

とはH参謀。まぁ、江戸時代のかたですからね・・・。

地元ではゆうとくさんの愛称で親しまれている(そっちなんだw)。九州地方では、正月3が日の参拝客が、例年、大宰府天満宮に次いで多いという。

駐車場から参道に入ると、あちらこちらで記念写真を撮られている。しかも、外国人観光客が多い。けっこうアジアでも有名なパワースポットらしく、ドラマなどの撮影もあるらしい。

商売繁盛の神様で、参拝客が少なければ、説得力がないが、ここは満点であろう。その方々お邪魔にならないように、手水舎にて手を潤し、楼門をくぐり、境内に入った。すると、右手の高台にご本殿の屋根が見える。そう、まるで京都の清水寺のようだ。

ちなみに、この鹿島市から、茨城県の大生(おおう)神社鹿島神宮の本宮:もとみや)を奉斎する氏が来たとも言われている。茨城県の鹿島町が市になるとき、同じ名前が名乗れずに、「鹿嶋市」になった。同じ市名があるのは、全国で1例(1組?)だけ。

佐賀や熊本の軍団が関東に移住してくる際、彼らは故郷を偲び、有明海や雲仙などの山々の風景に似ている、茨城の霞ヶ浦や筑波山の見える湖畔に多くが住み着いたとされる。福岡から移住して来た物部氏も九州の軍団である。

香取神宮は、阿波・忌部氏の氏神であり、香取大神=鹿島大神は成り立たない。都合の良い時だけ、「記紀」を材料にしてもなぁ。

さて、我々は、順路に沿って階段を登った。眼下には、日本家屋が並び、その向こうには有明海が広がっている(結局、有明海をぐるっと周回することになる)。

佐藤は、昨年作った『ケアプラン 困ったときに開く本』(技術評論社)が、さらに多くの方に読まれることを祈願した。もちろん、商売繁盛もだ!

参拝後、さすが稲荷神社。金運みくじというのがある。これをひくと、何と1番で「大金運」(いわば大吉であろう)と出た。わぁ、こんなことってあるのかとびっくり。もちろん、絵馬を奉納したのは言うまでもない。これ、いわゆる「凶」はなんなんだろうな・・・・(誰かは「小金運」)。

その後、後方に有った萬媛命が祀られている石壁社を参拝。また、参拝にこられるように導きくださいと願った。この上には奥の院もあるが、健脚な方は更に上をめざして登って行かれらが、我々は正反対の方向へ先をめざす身(笑)。今回はここにて失礼して下山した。次ぎにめざすは道の駅・鹿島である。


●金運みくじは、大金運なり●.jpg

●金運みくじは、大金運なり●



【道の駅・鹿島(かしま)】
道の駅・鹿島は、平成6年に佐賀県で第1号の道の駅として登録されている。ここは、ガタリンピックが開かれる会場でもあり、道の駅の後方は、有明海の干潟が広がっている。我々が行ったときは満潮で、有名な干潟をみることはできなかったが、岸壁には、干潟を走行する舟(板)が山積みされていた。ここでまず最初のマグネットを手に入れた。現在、有明海を左手に国道207号線を長崎方面に走行している。次ぎに立ち寄ったのが、道の駅・太良である。


●道の駅・鹿島のソフト●.jpg

●道の駅・鹿島のソフト●



●これが・・・まぁ干潟になるわけで●.jpg

●これが・・・まぁ干潟になるわけで●



【道の駅・太良(たら)】
ここは、海の幸が豊富に取りそろえて販売されていた。ほとんど、プチ魚市場。中でも竹崎カニが有名らしく、生きているかにも販売されていた。ちなみに「ひゃ〜参謀」はかにを食すのが苦手(でも食べることは食べる)。カニよりも、マグネットを入手でき、喜んでいた。

いよいよ、長崎県に戻って来た。島原でそうめん流しを食べる予定であったが、とんでもない! 佐藤のお腹が持たないぞ。しかし、国道沿いには、カニ焼きや蠣焼きの看板が並んではいるが、普通のレストランが見あたらないのだ。そうこうしているうちに、ようやくイタリアン・スパゲッティの幟をを立てた、お店を発見。佐藤は躊躇することなく店の駐車場に車を入れた。


【釜あげ生パスタ ぱすたろう】
外から中を眺めると数組のお客さんがいる。でも雰囲気が変わっているのだ。ドアを開けて驚いたのは、ここは家具屋さんか(?)と思うような様々なソファやイステーブルが置かれていることだ。


●開店したばかりのぱすたろう●.jpg

●開店したばかりのぱすたろう●



●生パスタは絶品であった●.jpg

●生パスタは絶品であった●



店員さんが、お好きなところへどうぞ、というので窓際の席を陣取る。よいしょっと。座るなりおしりがソファの中に沈み込んだ(笑)。「お勧めは何でしょうか?」と伺うと、「今の時期はアサリです」とのこと。

佐藤はアサリと地元野菜が入ったパスタを注文。H参謀には、有無も言わさず、おいしそうだからと厚切りベーコンの入ったカルボラ−ナを頼ませたw。もちろん飲物はコーラ。アルコールは厳禁だぜ! 冷たいコーラがのどの渇きを癒してくれる。

しかし、はぁ〜、釜あげパスタだけあって、できあがりまで少々時間がかかった。でも出てきたパスタは絶品。先ほどまで海鮮の文字しかなかった街道にこのようなイタリアンに巡り会えるとは、大満足。もちろんお値段もリーズナブルである。

この稿を書くにあたり、ネット検索したところ、こちらは2017年の12月にオープンしたお店で、宣伝する暇もなくリピーターで賑わって行ったらしい。以前はコンビニがあった場所だそうで、駐車スペースも十分ある。まぁコンビニが流行らない場所ってのが、少々心配だが。

私たちが入店後も、女性客が数組入って来た、どうやら地元の方々に愛されているお店らしい。ならば、良かった。皆さま、無くなったコンビニさん以上にお願いしますよ。

こういうお店ってさ、通い続けるところに意味があるんだけど・・・、諫早だもんなぁ。でも、佐藤も「また来たいお店」として、登録しちゃいますよw。

そんで、佐藤は、島原城をめざしている。車窓には、有明海の向こうに雲仙普賢岳がそびえていた。佐藤がナビ様に導かれるままに行くと、何と諫早湾の中を走行しているではないか。先ほどの山は真ん前にある。ちなみにその道路は、諫早湾横断堤防道路といい、長崎県諫早市と雲仙市吾妻町とを結ぶ広域農道だそうで、平成19年に開通した全長7kmの道路なのだ。

いやあ〜、気分爽快。車内の音楽も心地よさを倍増している。さてさて、この日の目的地、島原城に着いた。なんせ、今回は例の「潜伏キリシタン関連遺産」を巡る旅(?)を想定しておりましたからねぇ。ここに来ないと先へは進めない。


●釜あげ生パスタ・ぱすたろうのお店データ
[TEL] 0957-51-4134
[住所] 長崎県諫早市小長井町井崎954-9
[営業時間] 11:00〜21:00(L.O.20:00)
[定休日] 不定休。



【島原城】
現在の建物は、本丸の跡に天守・櫓・長塀が復興されたもので、城跡公園である。まさに雲仙岳の麓に位置していて、あれが噴火したかと思うと、結構こわい。山が割れ、火砕流がどぼどぼ、有明海に流れ出し、対岸の熊本とブーメランのように津波が繰り返し、双方襲うという事態になるのだ。・・・こわい、こわ過ぎる。ほんと裏山ぐらいの距離なんだもの。

城郭の形式は、ほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴であり、本丸は周りを水堀で囲まれている。近くに来ると、ただのお城(入場料はとる)であるが、濠の外から見るとなんとも見栄えがいいのだ。思わず、大人数で取り囲みたくなるのもわかる(おいおい)。

車から降りて、お城を見上げると、青い空に五層の天守閣が優雅にそびえていた。販売機のそばでは、島原城七万石武将隊に扮したキャストが出迎えている(地元では有名らしい)。


●島原城を攻める(?)●.jpg

●島原城を攻める(?)●



チケットを購入し、城中に入ると、そこには島原の乱(島原・天草一揆、天草島原の乱など、表現多数)が、年表と共に案内されていた。かなりの昔、社会科の授業で学んだことはあるはずだが・・・さて。

正直、こどもの頃は切羽詰まった感覚はもたなかった。しかし、この歳になって、改めて天草島原の乱の解説をじっくりと見るとそれはそれはすごいことが行われていたんだなと伝わって来る。こちらには子どもさん向けに「なぜ?なに?天草島原の乱」という解説書が置かれていたので、佐藤もゲットした。

島原城の公式ホームページの情報によれば、島原城は築城以来250年にわたる島原藩の歴史遺産やキリシタン史料及び郷土が誇る芸術家・北村西望氏の作品だそうな。

また、約198年振りに噴火活動を開始し、尊い生命や甚大な被害をもたらした「平成3年雲仙普賢岳噴火災害」の資料などが展示されており、過去から現在までの島原を知ることができる。

ちなみにこの噴火のとき、若きH参謀は、別の仕事で、島原とは対岸の熊本のホテルに宿泊していた。そのホテルの窓からは、夜でも、煌々と光り、流れる溶岩の流れが見えたそうな。

1階は、キリシタン資料として、華やかだったキリシタン文化や南蛮渡りの文物が展示されていた。戦国時代の終わりには、ポルトガル人が相次いで来航して、新しいヨーロッパ文化を伝え、島原地方にもキリスト教をはじめ、南蛮文化が栄えた。庶民の感覚とは別に、高山右近などの例外もあるが、キリシタン大名の多くは、貿易が主目的でキリスト教を誘致していただろう。

当時のここの領主・有馬晴信は南蛮貿易を積極的に進め、自らキリシタン大名となってキリスト教を保護した。領内各地に教会が建てられ、有馬にはセミナリヨ(初等神学校)が、後では加津佐にコレジオ(高等神学校)が開かれた。

当地の千々石ミゲルたち4少年は、キリシタン大名の大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。はるばるローマまで旅立って、教皇に拝謁するという快挙を成し遂げた。

この東西交渉史上の輝かしい1ページは、ここ島原から始まったのだ。このあとの「キナ臭い」伊達政宗の慶長遣欧使節(仙台藩とスペインとの貿易が目的)とはかなり趣が違う。ちなみにH参謀は、伊達政宗公の大ファンである。

しかし、その後、豊臣秀吉の宣教師追放令からはじまり、江戸幕府の禁教令と鎖国令による、激しいキリシタン弾圧が始まり、領民は棄教するか命を奪われるかの厳しい選択を求められた。いや、信仰していない領民がある意味、1番の被害者とも言える。

やがて、有馬氏に代わり、松倉重政が新城主として入国した。新城主は島原城を築城して、島原地方の治世を強力に推進した。その子どもの勝家の代になると、いや、もともと、見栄っ張りで、実際の収穫高以上を幕府に申告し、その分領民から根こそぎ巻きあげ、領民への苛政が続き、絶望した農民が一揆を起こして島原の乱となっていくのだ。

このような厳しい時代にあっても、信仰の自由を守り通した人々を隠れ(潜伏)キリシタンと呼んだ(でも全然隠れていないが)。他人の目に触れないように、イエス様やマリア様の姿を、他の像になぞらえて(誰がみても変ですが)、信仰を続けていた。その隠れ(潜伏)キリシタン関係の収集資料としては全国的にも有名で、貴重な資料が多く展示されている。

皮肉なことに、この展示されている城は、隠れキリシタンの大弾圧を行い、騒乱を巻き起こす原因の「いけない殿さま(松倉氏)」のお城なのだ。この乱のあと、「いけない殿さま」は幕府から厳重な取り調べを受け、改易(お取りつぶし)され、護送中、甲斐(山梨県)で斬首されたのだから、お察しである(斬首とは罪人扱い)。

天草人の明るい気質とは違い、まじめだが深刻味を帯びる島原人の気質の差が出たとも言える。まぁあれだけひどい領主では、しかたがないだろう。うん、でも・・・・。

やがて、天草四郎は3万もの一揆として農民をまとめ、3か月にわたる激しい戦い行れたのだ。

H参謀は展示を観ながら、「どうも、映画の「魔界転生」の、沢田研二扮する天草四郎のいう、エロイムエッサイム 我は求め訴えたり (Eloim, Essaim, frugativi et appelavi )の呪文で死人をよみがえらせる場面が頭から離れないぜ」とブツブツ言っていた。

まぁ当時の沢田研二さんなら、ほんとうにできそうな気がする(笑)。この呪文水木しげる先生の悪魔くんの呪文と同じである。

とにかく、島原の農民は「手強かった」のだ。これは領地転封の際、キリシタンであるゆえに、領主からお暇を頂き(領主もめんどうだから有り難かった)、地元に残り「地侍」となった農民なのだ。通常の農民や漁民ではない。だからこそ、幕府軍も九州の大名たちも、まじに手を焼いたという。オランダの船に依頼して、大砲を打ってもらったりした。それもなぁ・・・。

ここには、当時使われたとされる手作りの槍や打ち込まれた砲弾などが展示されている。その後、原城跡に篭城した農民たちは全滅させられてしまうのだ。さらに悲惨なのは、信仰していない農民たちも、その場でキリシタンの農民たちから、一緒に篭城するか、いまここで死ぬかの選択を強要されたとされていることだろう。

乱鎮圧の後も、厳しいキリスト教の取締りが行われており、踏絵や禁制立札、宗門人別帳などがそれを物語っている。ちなみに、「仏壇」が定着したのは、キリシタン対策のためであろう。

キリシタンは唯一神を信仰しているため、他の宗教のグッズ(?)を家に置くことに対して、多くが激しく抵抗したため、見つけやすかったからだろう。役人は、家に仏壇を置けるヤツなら、キリシタンではないという判断をしていた。でも日本人は融通が利くからね。

もともと、仏壇を家に置くのは、金持ちの貴族ぐらい。実際は、宇治平等院のように、大規模な仏壇を置く、寺院そのものを作っていたわけだが。

これを真剣に眺めていたら気が滅入る。ホント。当時の役人がしていたことはナチスのそれと変わらない。いや、本当は大層変わるのだが、ヤラれるほうからみれば同じだ。そんな過去に触れながら階段を登り、天守閣に上がると、そこには現在の平和な町並みが並んでいるが、噴火すると危険な雲仙普賢岳(手前は眉山:まゆやま)もすぐそこに見える。


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●天守閣から眉山を見て、「島原大変肥後迷惑」を実感●



テレビなどの映像では、噴火した場所はかなり遠いように見えた。しかも、佐藤も以前も来たことがあるのだが、そのときは恐怖は感じなかったが、天守閣から見ると、町のすぐそこに、噴火した場所も確認できちゃうのだ。

今までもいくつものお城を制覇してきた。特に、会津の鶴ヶ城の展示も逸品であったが、こちらは信仰が絡んでいるだけにひどく重かった。城跡公園内の茶店で、島原の名物甘味「かんざらし」を味わった(うまい)ので、そろそろ長崎市へ戻るとしょう。


●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●.jpg

●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●



【道の駅・みずなし本陣ふかえ】
その後我々は、雲仙普賢岳噴火による土石流災害の爪跡を保存した『土石流被災家屋保存公園』に隣接した、道の駅・みずなし本陣ふかえに立ち寄り「↑雲仙温泉17q」というマグネットをゲットした。

【道の駅・夕陽が丘そとめ】
その後は、国道57号線にて雲仙岳の麓を回り込み、子イノシシ?に遭遇しつつも、ナビに従って、道の駅・夕陽が丘そとめにたどり着いた。外海地区は、厳しい弾圧を逃れて隠れ住んでいた長崎市の西北の街である。


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●雲仙で子イノシシに遭遇●



時間が遅かったので、遠藤周作文学館やド・ロ神父記念館、文化村や黒崎教会などは入れなかったが、その洋風の街並みはまるで外国みたいであった。

ここらは、比較的寛容な佐賀藩の飛び地も混じっていたため、多くの潜伏キリシタンが存在したという。映画「沈黙」の原作の舞台である(映画自体は日本では撮られていない)。丘からは、角力灘にうっすらと五島列島や、さらに違う方向には軍艦島も見える絶景の地であった。ここには、マグネットはない。でもおいしい食べ物がてんこ盛りであった(笑)。買物の後、無事にホテルにチェックイン。いやはや、かなりハードなコースだった(笑)。


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●道の駅・夕陽が丘そとめの絶景(角力灘)●




【海鮮市場長崎港から大浦天主堂下などの散策】
一休み後、大波止の懐かしい景色を眺めに散策に出かけた。夕食は。出島ワープの海鮮市場・長崎港にて、新鮮な海鮮丼に舌鼓。ここには長崎市に来る度に寄らせて頂いている。


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●海鮮市場・長崎港●



●長崎港を散歩●.jpg

●長崎港を散歩●



その後、市電に乗りまわり、ライトアップされた大浦天主堂などを眺めて来た。そうそう、われらがハーン先生(小泉八雲)関連の場所にも久しぶりに行った。ハーン先生は、いろいろあって、松江から熊本に移り、夏の休暇中に長崎へ旅に出たが、その暑さの前にさっさと、熊本へ帰って行った。

そりゃ、無理ですよ。エアコンもない時代の長崎の夏になかなか外部の人間が絶えられるわけがない(笑)。そのハーン先生が、長崎で泊まったホテル自体はもうない(我々が泊まっているホテルは同名である)が、南山手のベルビュー・ホテル(現・現全日空ホテルグラバーヒル)跡にも立ち寄った。

まだ暑さがゆるい長崎だからこそできた散策で有る。真夏なら・・・・(汗)。



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●夜の大浦天主堂●



●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●.jpg

●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●



佐藤は、夕食前に、大波止のゆめタウン夢彩都に寄った。そこにある紀伊国屋書店には、佐藤の各種書籍も置いてあった。ほんとに有り難いです。そして、郷土コーナーで、遠藤周作『切支丹の里』(中公文庫)をゲットした。

いやぁ、潜伏キリシタン関連遺産を巡るには必要アイテムでは無いかと思う。この頃、都合の良いときに発生する、寄る年波で、文庫は敬遠していたが、久しぶりに読みふけった。次号につづく・・・予定です。

さてさて、皆さま、梅雨が近づいて来ました。体調に気をつけてお過ごしください。ではまた!



(いろいろあるとは思うが、国名がついてる大学なのに、わが国では、ただ平謝りするのが1番ってことがわかっておらず、中途半端にいろんな人が出て来ては、おさまりつつあるのに「燃料投下」して炎上を繰り返している。ああいう空気がわからん指導者では学生が気の毒だな!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:09| 島根 | Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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