2011年02月08日

奮闘記・第676回 読んでみた!/福島県

●本の分野● エッセイ



福島片岡鶴太郎美術庭園で購入

『良寛椿』



貞心尼さんには及ばないものの、良寛フェチ(?)の佐藤は『良寛椿』を読みながら、佐藤と良寛さんとの「出会い」を思い出した。青空の下、きらきら輝く海面がみえた。


良寛さんの見ていたであろう、日本海は、戦後の暗い時期をテーマに事件が展開された名作、『ゼロの焦点』松本清張・作)あたりから、日本海の暗さが強調され、以後、山陰北陸東北と日本海に面する地域の作家が「暗い、暗い」と強調されたと思う。


まぁ、確かに暗い場所も多いかもしれない。あまり人がいない地域であるので、例の拉致事件が多発する舞台にもなってしまっていたから、よけいイメージが悪いのかもしれない。


この日本海は、佐藤も暗い(?)思い出があった。幼いころ、父と、母と、妹と一緒に父親の友人がいる、新潟県の出雲崎に行った。ここはその暗さが絶品である。夕陽を見ると海に飛び込みたくなる(遊泳ですよ)。でも心にしみる夕陽なんだなぁ。人生の良いことばかりじゃないもの。


さて、その海へ、この時はじめて飛び込んだ(もちろん遊泳)。海の中には藻がぎっしりと生えており、藻の臭いが鼻をついたのだ。死ぬ。


しかも、その途端、海藻中から、ジョーズのような大きい魚が飛び出してくるような恐怖に襲われた(妄想?)。なんだか海が怖くなってしまい、そそくさと上がっていった。


海のない土地に生まれた佐藤にとって、日本海は、得体のしれない魔物(サメ?)が住んでいるというイメージが根深く残ってしまったのである。


年を重ね、私も母となり、父となり(ならない、ならない)、家族が増えた。そして、父や、母や、妹の家族と再び、先の出雲崎に行った。


浴衣を着て、良寛堂のそばで花火をした。寝る前に子どもたちに良寛さんの物語を伝えたのだ。良寛さんはね、エロ坊主で……。いやいや、それは一休さんだ。うううん……。そうそう、良寛さんは、
子供たちと、かくれんぼをしているうちに眠ってしまったんだって……。そんで……


鶴太郎氏の『良寛椿』を読んでいて、なぜ、自分の生い立ちを思い出したのか。この『良寛椿』は、まさしく片岡鶴太郎氏自身の生き方を、良寛さんと重ね合わせて書いているからではないだろうか。


人は皆、老いていくのだ。好き嫌いはあるだろうが、彼が売れっ子としてテレビや映画に出ていた。


余談だが、彼が映画でたくさんの賞を取った「異人たちとの夏」(監督・大林宣彦、出演・風間杜夫他)という映画がある。


傑作である。


あれを観ると、たとえ自分の父母とうまくいっていない人でも、その直後なら、自分の親に「有り難う」と思わず言いたくなってしまうかもしれない。鶴太郎氏の演技も素晴らしい。あの時代に生きていないひとでも、“共通体験”として瞬間に共有してしまうだろう。


内容は言わない。もったいないもの。もちろん、何度観ても泣けるのだが、このタイトルを見ただけで泣いてしまうひともいる。そう名作である。もちろん、自分以外はどうでもよいという人は何を観ても読んでも、ただの無駄にしかならない。だから面白くはないかもしれないが。


原作は、新潮文庫に入っている山田太一さんの同名小説である。これがまた泣ける。これだけ完成度の高い小説は、」近来、少ないでしょう。ああいう、映画(または小説)が、俳優の好き嫌いで観られないならばほんとうに惜しい。


話がそれ過ぎた、戻そう。


そんな演技もできる彼(片岡鶴太郎氏)が、今の視点で書いているエッセイだ。


冒頭で、


「年を重ねたなぁ」


ふとそう思うことがあります、と。彼は芸能界という賑やかな世界に身をおきながらも、今後の自分の生き方を見つめていたという。


「今のままでいいのか?」と彼のなかに棲む「腹の虫」ならぬ、「腹の主」が問いかけてくるらしい。


彼が30歳で始めたボクシングも、40歳で出会った絵の世界も、


「俺の人生これでいいのか?」


と思った時に出会ったものである。そして、40を過ぎて絵や、書を描くようになると、良寛さんの詩を書いて欲しいと言われこともあった。それに備えて、何気なしに良寛さんの書をみたとき、以前はなんも感じなかったものに、彼は「あれ?」という感じを胸に抱いたそうな。


良寛さんが、他者からせがまれて、さらさらと書いたシンプルな文字。余計なものがなく、余分な力もすっかりそぎ落とされていた。


良寛さんの書は、一般的に、ダブりや誤字脱字が多いという。そうかね? ならばこれは内容よりも、“書くこと”を第一としているためだろう。誰かのマネをする書道の時間ではないのだ。良寛さんの書を観て、鶴太郎氏は考え続ける。


若いころ観ても気がつかなかったこれらの書は、「余分なもの」がそぎ落とされているのだ、ということに気づくようになった。これは自分も年を重ねたからであろう、と。


そうそう、私も、私の師匠から、「本には不思議な力がある」「若いころに読んだ本を、年をとって読み返すと、違う感覚で読める」と言われた覚えがある。


年齢を重ねれば、若いころの感性で本を読むことも、読書量をこなすことも、もうできない。しかし、自分の実体験とあわせて、何倍にも楽しむことや、身につけることはできるのではないか。


さて、再び『良寛椿』。


若いころの彼は、自分が傷つきたくないから、わざと「とげとげ」を出して、外敵から自分を守ってきた。年を重ねるということは、その「とげとげ」を削り落していくことなのではないか、と。


実にうまい表現である。


では、私(佐藤)が削ぎ落してきたものはなんだろう? たぶん、親が私に抱てきた、幻想・イメージに対してかもしれない。


「あんたは、小さい子たちの面倒見がいいから将来は保母になるといいよ」


いま考えれば、全く都合のよい、親が子供にもつ幻想だろう。子供がいくら電車が好きでも、電車の運転士には簡単になれないし、人助けがすきなだけで、海猿(レスキュー)など、とても勤まらない。


ところが、子供の私はそんな言葉の暗示に、見事にはめられた。そう保母になったのである(笑)。


やがて、結婚し、私も親になった。


祖母の看病をする傍ら、


「もしかして、自分は、子どもとかかわることより、お年寄りと関わる方が向いているのかもしれない」


と考えるようになった。これは自己暗示なのかもしれない(笑)。


そして、ひいてくれたレールを降り、自らレールをひき直した。そう、自らの手で自己成長の道へと旅立った瞬間でもあった。


施設、在宅と場所は変わったが、「介護」という仕事から、多くのものを学ぶことができた。介護福祉士という資格取得を通して、後輩を育成する楽しさも学んだ。今、自らが、起業し、さらにその道を歩み続けている。その心境の変化を文字化すると、


「新しい自分をみたいのだ ―― 仕事する」(河井寛次郎先生)


お陰様で、毎年新潟へ仕事で出かけられるようになった。そして、JR長岡駅で「良寛さん(銅像)」と再開したのだ。



道のべのすみれつみつつ鉢の子を忘れてぞ来しその鉢の子を

鉢の子をわが忘るれども取る人はなし取る人はなし鉢の子あはれ



その「良寛さん」は、右手にすみれの花を持ち、満面の笑みでたたずんでいる。私は、しばしその像から離れられなかった。この良寛さんと語り合いたいと思ったくらいだ。


そして、ブログとの出会いである。


自分の「していること」の足跡を残していくためにブログをはじめた。これらの「記録」を残していかなかったら、これほど良寛さんのことに興味を持ち続けていけたかどうかわからない。自分のしている事を残すということは、継続するためには、やはり大切なことなのだろう。


このころ、佐藤は良寛さんに取りつかれたように、精力的に良寛さんに縁のある場所を訪ね(第371回・第372回・第486回など)、関連する本を読んだ(第487回等)。


あちこちを見聞する中で、民藝家の柳 宗悦先生や、棟方志功河井寛次郎両先生の世界を知り、自分の価値観や、物の見方、考え方の表現に変化を持たせられたように思う。そして、今、『良寛椿』を読むことができた。


彼は、芸能界という賑やかな世界に身をおきながらも、今後の自分の生き方を見つめていた。いや、見つめざるを得なかったのだろう。浮き沈みの激しさは外部の人間にはわからないのだ。


そんなときに、彼は棟方志功先生(出た!)をドラマ、「おらぁゴッホになる」で、主役の棟方志功役演じた。その影響もあり、自らが絵を描くようになったのだ。


佐藤も棟方志功記念館を訪れたときには、思わずわくわくした。彼の気持ちがよくわかる。彼のそばには棟方先生がついていて、守っているのか、ちょっかい出しているのかも知れない(笑)。


絵に興味を持ってしまった彼は、しばらく、やや芸能界から遠ざかる。そのころを、彼は「自分でも忙しいふりをしていたような気がする、と。仕事の日程の合間に、しっかりと書や絵画の活動を予定として入れてしまったのだ。


これでは、長期的な仕事や、急な仕事への対応はできにくいだろう。仕事のほうを断ると「またか」と思われる。それが続けば仕事は減り、やがては来なくなる。当然であろう。若い芸人や俳優はどんどん現れているのだ。生き馬の目を抜く世界生きることは、これでは難しい。


するとどうだろう? 自分の立ち振る舞いで(芸能関係の)仕事が来なくなっていることに気づくと、絵を描くことができなくなったという。仕事にささえられていた自分に気づいたのだ。この頃(男の「更年期」だったかもしれない、という)に、彼もまた良寛さんと出会ったのだ。


そして、自分には、芸能界も、絵も、同じように切り離せない、大切な存在であることに気づいたのだ。それからというもの、彼は芸能界での仕事にも積極的に関わり、絵もまた精力的に描いていった。


書籍の中で「人間関係を円滑にする」として、良寛さんが残した。「戒語・愛語」について紹介している。もっとも、「愛語」とは道元(どうげん:日本曹洞宗の開祖)禅師が残した『正法眼蔵(四)』にある心構えであるが、その「愛語よく廻天の力ある」という一文は名言であろう。


良寛さんは、印可(師匠から悟りを開いたというお墨付き)を受けたお坊さんにもかかわらず、他人に法を説いたり、道を談じたりすることはしなかった。いいのか悪いのかは別として。


その半面、言葉については、実にやかましい。また、自筆で綴る「戒語」では、他者の前では、このようなふるまいをしないように説いている。ただ、これもその人の本性で、できないものを禁ずるのではなく、できるのにやらないことについて、こうるさいのである。


そして、愛語では、言葉は、このように遣いなさいと説くのである。


『良寛椿』で、再び「戒語・愛語」の尊さを思い出させてくれた。鶴太郎氏は本の中で、良寛さんの生き方と、年を重ねた自分の生き方とを見事に重ねていた。


作家の五木寛之先生は


「もし、日本人(とりわけ知識人)が良寛に出会わなかったら、安心して年をとれたかどうかわからない」


と言わしめた。よい年のとり方の見本としての良寛さんの存在があったということだろう。なかなかうまく年をとることは難しいのだ。


また、夏目漱石先生の晩年の心境、“即天去私”は、良寛さんの心境に共鳴して書かれたもの。あの北大路魯山人先生に至っては、良寛さんの書を崇拝していたという。


この強烈なうるさ型の大先生たちをノックアウトした。そして、良寛さんの書画は鶴太郎氏をもノックアウトしたのだ。先人の優れた遺産に接して、こういう生きかたが出来てこそ、年齢を重ねることの意義を理解できるのであろう。


鶴太郎氏のつかんだものは、明日の自分たちにも役立つに違いない。前向きに、自分の生き方、死に方についても、しみじみ、ほのぼのと考えることができる傑作だ。


誰かに勧められて読むのも悪くはない。だが、書物とはそれぞれが自ら出会い、選び、読むのがいいのだ。だから佐藤は本を勧めない。「読んでみた」であり、「読んでみなさい」ではないのだ(笑)。


さてさて、長くなりました。


佐藤は今、島根県の研修会でケアマネの皆さんと頑張っています。風邪などひかぬよう、自愛しつつ頑張りましょう!



【本のデータ】

『良寛椿』片岡鶴太郎・著

佼成出版社、2009年7月、A5判変型・184ページ、1,575円



●『良寛椿』を読了●.jpg

●『良寛椿』を読了●


(昨日、「池上彰の世界を見に行く」で紹介された石見銀山に行きました。石見銀山大森郵便局は見れたが珈琲屋はやってなかった。地元の人は番組放映を知らんかったがテレビ東京じゃけんねぇ……、また今度ってことで!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 21:58| 島根 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んでみた! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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