東海地方・三県三社めぐりじゃ!
(その3)
〜岐阜には、神社もあれば戦場もあるの巻〜
【美濃国一の宮・南宮大社】
さてさて、佐藤は多度大社を後にし、岐阜県の南宮大社を目指す。
デミオ君は、名神高速道路を快適に北上し、やがて関ヶ原にて高速走行を終えた。南宮(なんぐう)大社は、岐阜県不破郡垂井町に鎮座している。
●南宮大社の楼門。こちらも参拝客で賑う●
さきの多度大社もそうであったが、南宮大社も、好き嫌いは別にして、“稀代の英雄”が割拠した地域の神社であり、戦乱がつき物のここらの地域はさぞや大変であっただろうと思う。
この南宮大社は「延喜式神名帳」にも仲山金山彦神社として名が見える古社で、美濃国一の宮であった。
なにしろ、大友皇子 vs 大海人皇子や、新田義貞 vs 足利尊氏、石田三成 vs 徳川家康という、世紀の対決がほぼ同じ場所で行われたのは珍しい。しかも、より「東側」がいずれも勝っている。幕末に江戸幕府が、薩長連合に負けるまでこの傾向は続いた。
もちろん、これは名義上の“分類”であって、簡単に「●● vs △△」と分けることはできないのだが。
南宮大社のご祭神は、鉱山・金山など、鉱物をつかさどる金山彦(かなやまひこ)大神である。
●本殿には足場が組まれていた●
その神社が、なぜ「南宮大社」と呼ばれるようになったか? 諸説あるが、美濃国府が北方に設けられてからで、「国府の南の宮=南宮」という意味からきた名称という説が一般的である。まぁ、とりあえずそれでいいです。はい(笑)。
近代社格制度のもとでは、1871年に南宮神社として国幣中社に列し、1925年に国幣大社に昇格。戦後、南宮大社と改称している。
基本的に旧制度では「大社(たいしゃ、おおやしろ)」と名乗るのは出雲(杵築)大社だけ。だから大社と言えば出雲大社をさすのだ。
ちなみに「神宮(じんぐう)」という称号は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)、鹿島神宮、香取神宮の4社のみである。
単に「神宮」と言えば、伊勢神宮の2社をさしていた。近代になって、系列の多い神社で、天津神系は「神宮」、国津神系は「大社」と称号が許され、やや乱発気味となった。
それはともかく、さて南宮大社である。
朱色に輝く楼門をくぐると、塀に低い塀に囲まれた空間が広がった。同時に、本殿にかけられた工事用の足場が目に飛び込んでくる。
「あちゃ!こちらもですかい……。」
ここ、南宮大社でも、平成の改修があるようだ。まぁ、痛むものはしかたがない。
佐藤は、その本殿の前にある拝殿にて参拝する。こちらの神様のご利益は、財運招福である。だから、願いはもちろん“商売繁盛”ですだ(全部じゃないのか?)。
さてさて、おみくじ結果は……また「吉」である。願いは「時間がかかるが叶う」んだそうである。なるほど、“願いが叶わないわけではない”のだ。精進あるのみ。がんばりましょう!
そうそう、南宮大社がある不破関(ふわせき)のある地域は、幾多の戦乱があった場所。だからご利益には「難関を突破する」というものもがあった。
そのために、受験する人々の信仰を集め、絵馬を奉納する壁には合格祈願の絵馬がぎっしりと飾られていた。まぁ、神のご加護も重要だが自己研鑽はそうそう自分を裏切らない。ご加護はその上なので皆さんも頑張って頂きたい。佐藤も頑張ります(何を?)。
●難関突破を祈願する絵馬(平時の訓練を忘れずに)●
説教はともかく、せっかく関ヶ原まできたのだ。しばしこちらに留まり、家康殿を待ち伏せ……、いや歴史探訪と行くこととする。その前に、まずは腹ごしらえ(笑)。
国道21号線(旧中山道)沿いをいくと、いくつかの食堂の看板が見えてきた。ところが慣れない場所を運転し、通り過ぎゆく景色の中の短い、瞬間的情報で判断しなければならない。島根県浜田市のスマイルという例外はあるにせよ、外観情報も無視できない。
あれはダメかな? という外観の店に入って、
「……だよな、やっぱり」
では怒りの持って行きようもない。
そんな佐藤が選んだのは、「コーヒー&ステーキ 松」である看板に「ステーキ」を堂々と出すとはなんとも魅惑的である(どこでもステーキ好き?)。
●不破関にある、コーヒー&ステーキ 松●
まずはお店の前のデスプレイで確認。するとドド〜ンとステーキが飾られていた。ほかにも、定食が勢揃いであった。席に座り、メニューを眺める。その中は和牛中心のステーキのオンパレード(古い)。
素晴らしい。できることならば、このまま、ワインなどを頂きながらゆっくりしたいところ。しかし、今日は名古屋駅まで戻り、デミオ君を無事に返さないといけないのだ。
だから、魅惑的なステーキはあきらめ、あっさりとハンバーグ・ランチを所望した。これもいやいや、実に素晴らしい!
なんせ、ボールに入ったコーンスープが濃厚。サラダ、メインデイッシュ、ご飯にコーヒーまでついてくるのだ。
ハンバーグには、目玉焼きまでついている。しかも“中は”半熟じゃ。うううん。ところで、皆さま。
皆さまはハンバーグやステーキについている“目玉焼き”はいかようにして召し上がっていらっしゃるのだろうか。
佐藤はいつも迷う。ケアマネ時代のケアプランに組み込むサービスでもこれだけ悩んだことはない(そうかい?)。
半熟のうちに崩してお肉につけて食べる。お肉は無視して、黄身を崩さないように気をつけおもむろにご飯に乗せて目玉焼きライスと食べる。鉄板の上で、崩れない程度になるまで放置し、玉子のみで口に放り込む。
さてさて、どのような食べ方が正解なのか? だれか教えて下され!(むり無理、答えは食事をする者の中にしかない……か。)
などと、たわごとを考えながら、完食! ごちそうさまでした。旅で美味しいものに遭遇する。それだけでしあわせ♪
【不破関資料館】
佐藤は、ふくれたお腹をかかえながら、かつて美濃国にあった不破関の資料館と関所跡に立ち寄った。
不破関資料館には、岐阜県教育委員会が実施した不破関発掘調査の資料が展示されていた。
●不破関資料館に入る●
館内には、関所の復元模型が置かれ、当時の人々がどのようにこの場所を通行していたのかを知ることができる。写真撮影は例のごとく禁止……。
ここには発掘調査のおりに出土した土器や貨幣、過所(通行証明書)などの資料も展示されている。
くだんの『日本書記』によれば、壬申の乱(672年)の勃発に当たり、大海人皇子(おおあまのおうじ)の舎人(とねり)であった美濃出身の村国連男依(むらくにのむらじおより)らが、「不破道」を塞いだと記されている。
ちなみに、「舎人」は、大ざっぱに言うと律令制度で、皇族や貴族に仕えた護衛・雑用に従事した下級役人である。皇族や貴族への、ある種人質でもあるが、お付きとなった人物が出世すれば取り立てられるし、失脚すれば冷遇(というか殉死もある)される。舎人を出した家の家運をかけることにもなる。
さて、このころの不破は、北を伊吹山地、南を養老・鈴鹿山地に挟まれた天然の要害の地で、そこを塞げば東西に走る道を寸断することができた。
特に西側の藤古川は段丘面までの比高差が8〜12mの断崖をなしている。だから、大海人皇子がここを封鎖するということは、美濃・尾張の農民が、たとえ命令で大友皇子に呼ばれたとしても、近江側の手助けには行けないことを意味していた。
そして、東国の農民兵をすべて自軍側に付けたことにより、壬申の乱の趨勢はこのときに決まった(冊子、西美濃わが街4月号・壬申の乱をあるくより/発行西美濃わが街)と言われている。
まぁ、それ以外にも大友皇子側が決定的に“勝てない”理由がいくつもあり、戦う前に勝負ついていたと思う。
●これが不破関跡らしい……なんだかねぇ●
これは、1000年ぐらい後の関ヶ原の合戦でも同じである。地図上の展開や、作戦法、戦力からみれば、なぜ西軍(石田三成側)が負けたのかがわからないというのは有名な話である。
しかし、40歳過ぎた指令塔(石田三成は関ヶ原の合戦時42歳くらいか)が、あそこまで空気を読まない(“読めない”のではないからよけい問題なのだ)性格では、戦う前から難しかっただろう。誰も嫌いな奴に自分の人生を預けたりはできないのだ。
さて、話を壬申の乱に戻す。
壬申の乱とは、大津皇子が、高市皇子に連れられて、大海人皇子(彼らの父親)の所へ逃げた時点で、ほぼ勝敗は決まっていたのだろう。あとはただの局地戦でしかないのだ。
機会があればいつかふれたいが、大津皇子こそ、天智天皇亡き後の“天智政権の後継者”だったからである。
その後継者が連れ去られた(大津皇子自身は自分の父親の所へ帰っただけで知るよしもなかった)ことにより、大友皇子側に大義名分は無くなったのだ。重臣たちも、ほとんど皆、“内通”していた。これでは勝てる要素はない。
もともと、この乱は大友皇子 vs 鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)の要素が強い。まぁ、長くなるのでそこまで。
おお、壬申の乱……、改めて想いをはせると懐かしさがこみ上げてくる。佐藤は、かつて黒岩重吾先生の『天の川の太陽』(中公文庫)を読んではまったのだ。
これが、まさしく壬申の乱を描いた小説であった。小説とはいえ、黒岩先生のえがく大海人皇子は、人間臭く躍動感があり、佐藤は、一気に大海人皇子大ファンと化した。ちなみにこれが黒岩先生、最初の古代史小説であった。
ただし、年代的にみても仕方がないのだが、黒岩先生の“壬申の乱”は一般論としての意見であり、全面的にその歴史館に賛成しているわけではない。
しかし、もしそうであったら確かにこういう展開になるだろうなぁ、という論理的なリアリティがある。その時点では新しい情報だから黒岩先生の責任とは言えないだろう。
ストーリーをかいつまんで語れば、大化改新の中心人物であった天智天皇が亡くなったあと、天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の息子の大友皇子との間に皇位継承問題が起こる。これこそ、当時の一般論としての「壬申の乱」(672年)についての見方であったろう。
この乱を制して、大海人皇子は天武天皇となる。その後、673年にこの天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守るために、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置された。ここでやっと不破関が出てくる(笑)。
関所は、奈良時代、国家の非常事態に備えるために設置され、中でもその大きさと堅固さを誇った不破関は、延歴8年に停廃されて、その指名を終えた。
関所は人々の前から姿を消したが、人々の心の中には東西を分ける“難所”として刻まれつづけ、文学の中でその存在が々語り継がれることとなった。あのころは大変だったろうねぇ……、と(笑)。
岐阜県教育委員会は、この不破関発掘調査を行い、当時の不破関の様子を再び、目にみえる形にした。
佐藤は資料館を出て、しばし、界隈を散策した。不破関の関所跡などをながめてみたが、佐藤でも突破できそうな(むり無理)たたずまいである。
ここでそんな緊張感の持続された時代があったことはとても想像できない。時は流れ、またいくたびも戦乱が起き、今こうしてのんびりとしたおだやかな町となっている。これもまたこの町の歴史の一部なのだ。平和とは素晴らしい。
【関ヶ原町歴史民俗資料館】
佐藤は、以前行った西軍・石田三成隊の場所を通り抜け、関ヶ原町歴史民俗資料館へと移動した。
ここは、小学生でも知っている、かの“関ヶ原の合戦”にゆかりのある品物を集め展示している。入口を入ると大きな大型ジオラマがある。これは改めて勉強となる。
●石田三成側か?●
●徳川家康側か?●
しかし、ここもさきの不破関資料館と同様に館内での写真撮影は禁止であったのが残念。そこんとこなんとかならないかな? 保存に支障がでるものは別にして、なんでも「撮影禁止」は先進国では日本ぐらいじゃないのか? ほとんどレプリカであろうにな(笑)。
ジオラマによる関ヶ原の合戦のシミュレーションでは、合戦時の東西両軍の陣営と、戦局の流れを電光ランプであらわしてある。臨場感あふれる解説が流れている。これを見れば戦いの筋目がよくわかる。
館内には関ヶ原合戦図の屏風をはじめ、合戦に関わる武具(甲冑、大筒、火縄銃、大鉄砲、ほら貝、陣跡からの出土品)等が、公開されていた。
また、徳川家康、石田光成の所用兜(複製)等、主な参戦武将の肖像写真や、各大名のプロフィール等が描かれたパネル等もあった。
入館者たちは、自分のお気に入りの武将の前で、立ち止まってそのパネルを眺めていた。今、巷では「歴女」とかいう、歴史上の人物に興味をはせている女性が増えていると聞く。
この資料館にも、若き女性が立ち寄り、お土産コーナーをのぞいていた。
この流行りは、武将たちの殺伐とした雰囲気がいっぺんに華やかなものとなった。しかも、よく勉強しているかたがたもいて、ミーハーと侮ることができないのだ。男性よりもよく知っている。
ただ、前にいる若い二人組みの娘さんたちは、ちと趣きが違ったようだ。
「うわ〜、石田三成や島左近があるぅぅぅ! じゃあ、じゃあ、ノブナリ(織田信成)のシールもあるのかな?〜」
ない。
絶対にないぞ。
織田家の家紋ならともかく、いくらバンクーバーオリンピックの最中(来館時)でもスケート選手のシールが歴史民俗資料館にあるか! これはおばあさんのたわごとではないぞ!!
ふう。と言いながら、佐藤もいろいろ勉強した。
そろそろ今回の見聞録も終わり(尾張)に近づいて来た、ということで名古屋(旧・尾張)に戻りましょう(笑)。三県三社めぐりと言いながら、実は4社であった(笑)。大吉がないからさ! ではでは!!
(さきの選挙で「民主党」に投票した3割が、参院選では「みんなの党」へ投票するそうだ。いや〜細分化されてきましたな、林幹事長。ここらがチャンスでは!To Be Continued!!)