2009年09月18日

奮闘記・第513回 見聞録/長野県

●2009年● 長野県松本市



長野にある国宝・松本城に登城する!

〜どこの誰が作ったかは知らないが、お城はみんな知っている〜




大工さんが作った、という方がいまだにいる(笑)。


さて、研究所の愛車ポンちゃんにはナビがついていない。だから、走行は標識が頼りである。


諏訪から松本への移動は、中央高速を活用すればよいのだ。よほどの事(ちょっと想定しにくい)がない限り、道には迷わない。




●中央道から観える諏訪湖じゃ〜(だから、なに?)●.jpg

●中央道から観える諏訪湖じゃ〜(だから、なに?)●




問題はその後じゃ。標識を見つめながら、松本城を探してみる。ほほう、松本城は迷うことなく見つける事ができた。あんなでかいもの、そうそう隠しおおせるものではない(別に隠してないぞ)。


しかし……、しかし、しかし、なななんということ! 駐車場が見つからないのだぁぁ(大げさ)。何回も、同じ所を旋回して、ようやく包囲を狭め、駐車場へ侵入したのであった。




●うにうにと国宝・松本城公園へ●.jpg

●うにうにと国宝・松本城公園へ●




この国宝松本城は、姫路城彦根城犬山城とともに4つの国宝城郭のひとつである。


佐藤は、これで国宝に指定されているすべての城を制覇したことになる(笑)。城の善し悪しは、むむむむ。やめておこう(笑)。


松本城を囲むお堀周辺は、公園として整備されていて、どこからでも、お城を眺めることができる。


佐藤は、お堀をグルリとまわり、お堀にかかる赤い橋を渡り、城内に入る。ここからは入場券が必要である。松本城は、黒い色が特徴で、別名「烏城」と呼ばれている(はいはい)。



●赤い橋を落ちて、いや渡って城内へ●.jpg

●赤い橋を落ちて、いや渡って城内へ●




これらの古城のご多分にもれず、城内の階段は傾斜がきつく、下との段差もきつい。また、階段の幅も狭く、所々に大きな柱が張り出しているので、はっきり言って邪魔である。


人間が往来(昇降)するためには、時々、お互いの動きを気づかいながら歩くために、所々で渋滞した。昔の比較的小柄で、着物タイプの服を着ていた日本人が快適に活動できるとは思えない。


どうあっても、攻めてこられたときに、相手が活動しにくくしてあるとしか思えないが、もっとポジティブに作れよ、と言いたくなる。佐藤はお城に入ると、当時はどうやって生活していたかと疑問に思ってしまうのだ。




●城内はお宝、鉄砲ばかりじゃ●.jpg

●城内はお宝、鉄砲ばかりじゃ●




汗をかきかき、ようやく辿りついた天守は結構狭い。お城は石高に応じてだいたい作って良い体裁、大きさは、ほぼ決まっているから、10〜30万石くらいでは、そんなに見て変わらない。


ここは、多くの観光客がいるので、外を眺めるのも容易ではなかった。また、他のお城より天井が低い感じがした。その天守の上層部には、神様がお祭りされている。


そのわけは、元和4年(1618年)の正月、月令二十六夜の月が東の空に登る頃、二十六夜様が天守番の藩士・川井八郎三郎の前に美婦となってあらわれ、神告があったという。


「天守の梁の上に、吾を奉祀して、毎月26日に三石三斗三升三合三勺の持ちを搗いて斎き、藩士全部にそれを分ち与えよ。さすれば、御城は安泰に御勝手向きは豊かになるぞ」


翌朝、このことを藩主に言上し、翌二月二十六日に社を勧請した。以後明治維新に至るまで、そのお告げを実行してきたそうだ。


そのおかげで、松本城天守は多くの危難を乗り越えて無事今日に至っているというのだ。


(「守護神二十六夜社勧請の謂われ」より)



●二十六夜社の勧請書●.jpg

●二十六夜社の勧請書●



●二十六夜大神様が守ってくれている●.jpg

●二十六夜大神様が守ってくれている●




うううん、まぁ、いいんじゃないですかね(笑)。


こちらでも神様がその繁栄をしっかりと守ってくれていたというわけですねぇ〜。まことに有り難いことですよ。


ところで、松本城の歴史は、戦国時代1504年(永正元年)に小笠原氏一族である島立貞永が築いた深志城に始まるという。


その後、天文19年(1550年)に甲斐国の武田信玄に攻められて落城。その後32年間にわたり武田氏の信濃攻略の戦略拠点となり、甲斐流普請が施された。


安土桃山時代の天正10年(1582年)には織田勢の攻撃で武田氏が滅び、この地に再入城した小笠原貞慶が大修築。この時に深志城から松本城に改称したという。


現在のお城の基を築いたのは、天正18年(1590年)にこの地に封せられた“豊臣秀吉の臣下”となった石川数正である。


石川数正はもともと徳川家康の家老クラスの大名である。色々な内輪もめというか、ゴタゴタで嫌気がさし、秀吉にヘッドハンティングされたのだ。


その石川数正は、天正19年から城の普請を始め、数正の子・康長によって、城の普請は引き継がれた。


しかし、その後、城普請についての記録が極端に乏しくなり、詳細は明らかではないという。


ふと、別のことが頭をよぎる。天下人となった徳川家康を見限り、あの秀吉に寝返ったのだ。ふつうに考えればただではすむまい。


入場のときにもらったパンフレットにもその点については書かれていない。裏を見ると、歴代藩主の項があった。


石川氏――(1590〜1613)とある。豊臣秀吉が天下を取り、大坂の陣が始まる前年に松本城を去り。その後、偶然か意図的にかはわからないが、例の「大久保長安事件」によって石川康長および石川氏が続けて改易となり、小笠原秀政が返り咲いていた。


ううん、やはり、そうだろうなぁ。うんうん。


さて、城の話に戻る。


大天守と小天守は同時に築かれたと考えられているが、辰巳付き櫓と月見櫓は、後に付け加えられた建物である。


この両櫓造営に関しても良い史料がないが(よくよく石川氏について語りたくないのだろうか)、信府統記によれば、寛永10年(1633年)に松本に入った松平直政によって築かれたと伝えられている。


この松平直政が、寛永15年に出雲に転封させられた。この直政が松本から、信州そばを出雲に“輸入”し、出雲そばを開発し、ホーランエンャのお祭りの原型を確立した人でもある。

やや、せこい人柄(年貢を取るときにはデカイマスを使い、給料を出すときは小さいマスを使った云々)と言う話しもあるが、戦場では勇猛果敢な武将と言われ、大坂の陣では敵方の真田幸村が感嘆したともいう話もあるのだ。


直政から7代目の藩主が、出雲のお茶の文化を根付かせた不昧(ふまい)と号した松平治郷である。


現在ある天守群は、直政在城の寛永10年から寛永15年の間に築かれたらしい。松本城天守はこのような変遷があった。


明治維新時の旧物破壊では、他の多くの城と同じように競売に付され破却寸前のところを、のちの民権家・川量造らの努力で救われ、やがて国宝指定にいたるというのだから、人生何がどうなるかはわからない(笑)。佐藤は、小天守(月見櫓)で、一息つき、お城から出た。




●外には宇宙ツツジがあった●.jpg

●外には宇宙ツツジがあった●




その後、ゆるゆるとお城の入場券とセットになっている松本市立博物館へ入った。この博物館は平成18年に開館100年を迎えているというのだからさすがは信濃の国、わが故郷、奥が深いぜ〜(どこがじゃい)。


入館そうそう、佐藤の目には“デーダラボッチ”の人形が飛び込んできた。これは、別名“ダイダラボッチ”という、神様である。


この名前は、日本の各地で伝承されていて、もともとは、山や湖沼を作った内容が多いために国つくりの神様であった可能性が指摘されているという。出雲では、八束水臣津野命が『もののけ姫』ではシシ神(ここでは、“ディダラボッチ”)、夜の化身として描かれているようだ。


ともあれ、佐藤にとっては、デーダラボッチという名称の方がなじみが深いのだ。この博物館の展覧会では、「松本の七夕飾り」が展示されていた。松本では、紙で作ったひな人形を軒先に飾る風習があるという。


こうして、登城を果たし、松本の文化を堪能した佐藤は、城下のおそば屋さん“川船”さんに立ち寄り、山の茸がたっぷりと入ったきのこそばを頂き大満足したのでありました。ではでは!



●場外にはそば屋があった●.jpg

●場外にはそば屋があった●



(突然だが、久しぶりに岡山に行きたい。吉備津の釜は素晴らしいぞ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 16:51| 島根 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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