またまた、日向の国・宮崎神話を堪能しちゃうよ!
〜都萬神社を訪ね、西都原古墳群にいにしえの大国を見る〜
車は、宮崎市内から国道219号線をひた走り、西都市を目指した。ここはそう、西都市・ひむか神話街道というのだそうだ。
つまり、神話や伝説が残された宮崎県の高千穂町と高原町を結ぶ道のほぼ中央に位置している。
●ひむか神話街道の案内図●
ここには、なんと、国内最大規模数の古墳群、西都原古墳群があるのだ。東西に約1.3キロ、南北に約3.2キロの台地の上に311基の古墳が密集して存在しているのだ。
しかも奈良や他府県の古墳と違い、盗掘も今に至るまでほとんどないという。せっかく宮崎に来たんなら、ぜひともそのいにしえの姿をみてみたい(すっかり古墳好き?)。
【都萬神社&西都原古墳群】
さすがは神話街道。道路標識には神話にまつわる道案内たくさんあるのだ。佐藤は、その中から「都萬神社」を発見した。日向国二の宮であり、もちろん式内社でもある。
●雨に輝く都萬神社●
神社に着いた時はすでに15時半をまわっていた(汗)。急がねければ。宮崎は「朝」も早いが「夜」も早そうだ。もしかしたら、ご飯を食べるところがホテル以外に見つからないかもしれないのだぁぁ(BINGO!)。
佐藤は、小走りで都萬(つま)神社に参拝した(おみくじは中吉)。
●洞木をくぐるにも作法があるのだ●
この「つま」はもちろん、「妻」でしょうね。ご祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)である。
木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)は、大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘で、姉さんに磐長姫(イワナガヒメ)がいます。おお、お懐かしい!
神話では、高天原から、飛んできて、高千穂の峰に降りたった瓊々杵尊(ニニギノミコト)が、気持ちよく散歩をしていたと思いなさいな(JALで来たらこうは言えない)。
その時、川のそばで水汲みをしていたコノハナサクヤヒメに出会われて、結婚を申し込んだ(早っ!)。コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミに結婚の許した(早っ!)。
オオヤマツミは、姉のイワナガヒメと一緒にニニギのもとへ送ったのだ(ん?)。
しかし、木の花のように美しいコノハナサクヤヒメとはちがい、イワナガヒは磐のようにごつごつとした醜かったという(決めつけはいかんぜ)。
これは、好みの問題であろう。古代には古代。平安には平安時代の美的感覚があるのだ。今から見ればいまいちでも、昔は違う。その逆もあるだろう。
「どちらが普遍的に美しく見えるかはわからない。歴代天皇のご趣味も、さぁ、どうなんだろうねぇ……という感じ。まぁ、好きならそれでいいのであろう(笑)。
それはさておき、ニニギはイワナガヒメをオオヤマツミに返してしまった(恐るべきわがまま)。オオヤマツミは、イワナガヒメが帰されたことにおどろいた。
「私が二人の娘を嫁がせたのには意味がある。コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花の咲くように栄え、イワナガヒメを妻にすれば岩のようにビクともしない永遠の命を持つという力をニニギノミコトと皇子たちに持ってもらうためであった。
こうしてイワナガヒメだけ返したからには、ニニギノミコトの寿命は、いつの日か花のようにはかなく散ってしまうであろう」と言ったがそうだ。
といいながら、ニニギノミコトはともかく、結構長生きなんだけどな、古代の天皇さんは(笑)。
それにここに出てくるオオヤマツミは、結構いまふうの駆け引きをする神様なのである。西都原古墳群の第2古墳群の90号墳は「大山祇塚」と言われる。真偽はわからんが、このオオヤマツミの神様の陵墓といわれている。その大地の下にはこの神様を祀る石貫神社もある。
●大山祇神様のお出迎え(?)●
また、その上に、これも不思議なのだが、思想界の大御所で、哲学者の梅原 猛先生が書いているように、西都原台地の周縁部にはたくさん古墳があるのに、「まん中」には、男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)関連のわずかな古墳群と、206号墳、いわゆる鬼の窟(いわや)ぐらいしかない。
ここは斎殿原が語源とも言われ、聖なるものしかここには作れないともいう。詳しくなるとさらに長いので割愛するが、鬼の窟はそのオオヤマツミの神様の計略で、コノハナサクヤヒメを二二ギに奪われれ、恨んで死んだ“鬼”のお墓だという。都合が悪いとなんでも鬼のせいにする体質は変わらない。なんだかなぁ。まぁ、ここでは深くは追求しませんが。
このニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの古墳が、先に出てきた、西日本最大級の古墳・男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほずか)であり、これが西都原古墳群にあるのだ。
その古墳群を目指していたら、件の石貫神社が真正面にあらわれた。ここには立ち寄らないわけにはいかない。なんせ、ご祭神はあのオオヤマツミノカミなのだ。
●石貫神社も見つけた!●
●石の階段を登ってみた!●
参拝を終え、周りをながめると山肌に石段がみえた。おおっ!あれかい。佐藤は、西都原台地につながる石の階段を一気に登ったのでした。
やはり、そこは、佐藤が目指していた古墳群だった(笑)。鬼の窟は怖いから行けませんが、男狭穂塚と女狭穂塚は遥拝しました。
●そこは古墳群(後ろは90号墳・大山祇塚)●
男狭穂塚は墳長約176メートルの国内最大の帆立て貝型古墳。女狭穂塚は墳長約180メートルの九州最大の前方後円墳である。
二基とも陵墓参考地(天皇家の祖先のお墓である可能性がある場所)で立ち入り禁止になっているが、実は宮内庁にも皇室にも法的権利はないらしい。しかし、自国の王家の先祖のお墓に勝手に入れないよなぁ。ただ、調査としては入ったほうがいい。天皇家の祖先が、まったくの神話でしかないという扱いも変である。
大きさは、たぶん意図的にそろえてあるのだろうが、形式が違うから、時代もずれる。であればこの2基の古墳は夫婦ではないであろうな。
●男狭穂塚・女狭穂塚の前に拝所がある●
今の研究では男狭穂塚は、仁徳天皇の妃の髪長媛(カミナガヒメ)の父さんの諸方君牛諸井(モロカタノキミウシノモロイ)、女狭穂塚はカミナガヒメと推定されているそうだ。まぁ、それもズレるような気もするが古墳ばかりはわからない。地元の皆さんが二二ギノミコトとして拝んでいるんなら、それでいいと思うのだが。
おお、夕暮れまぢか。急げや、急げ!!!
【宮崎県立西都原考古博物館】
古墳群をあとに、西都原考古博物館へ滑り込んだ。この西都原考古博物館は、日向古代史を主なテーマにした古代学専門の博物館である。なんと、西都原古墳群全体を展示空間としてとらえているのだ。
博物館は入り口からスロープを降りていく。スロープでは、プロローグとして写真で見る年表が手すりについている。その手すりをながめつつ展示室に入る。
展示は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、前方後円墳の時代、地下式横穴墓の世界、古墳文化終焉と続いていく。これがいろいろ工夫されていて面白いのだ。
考古学の世界、という展示室には巨大スクリーンがあり、男狭穂塚・女狭穂塚が壁に映し出されていた。
●日向から日が昇り、出雲へ沈む●
先ほど書いたように、西都原古墳群中央部には、明治28(1869)年に陵墓参考地として治定を受けた男狭穂塚・女狭穂塚の2基の巨大古墳がその偉容を誇っている。上から鳥瞰した映像をみるとまことに凄い。下でみるとただの丘だが(笑)。
なんと、この規模の古墳を造るには、1日1000人を動員した場合、農閑期を中心とした年間200日で計算すると2年半くらいは要したであろうという。凄いことだが平和な時代の王様ではあったのだろう。国内外で、騒乱や戦乱があったら、その工事に携わる人々は「兵士」として戦場へゆくであろうから、土木は平和な時期でなければできないのだ。
●馬上の騎士と対決!?●
佐藤は、このスクリーンをながめているだけで、雄大な心持ちになり目はキラキラと輝くのでした(笑)。遙かなる古代のロマンを満喫し外へ出ると、外はすでに闇の空間が広がっていたのでした。この闇は古代も現代もさほど、ここでは変わらないであろう。そこが凄いんだなぁ。ささ、帰りましょう!
車のライトをつけると、周囲には白い霞がただよい、その奥に大小の古墳が隆起して見える。おやっ? 今目の前を古代の正装をしたカップルが通りすぎていったような?(始まったぜ……)
もしかしらたら、ニニギノミコトと、コノハナサクヤヒメが見送りに来てくれたのか? 佐藤は、そんな楽しいまぼろしに見送られて西都原考古博物館を後にしたのだ。
(宮崎の夜は、深くて、暗くて、先が見えないぜ!To Be Continued!!)

