新・松山紀行
ない!ない!ない!ない〜!
駐車場が見つからない〜!!の巻(前編)
〜と言いつつも正岡子規先生の写生文に驚嘆する〜
愛媛県ホームヘルパー協議会さんからの依頼で、松山空港から愛媛入り。研修は明日から。
まぁ、当日来たのでは間に合わないし、この機会を有効に使いたい。だから、1日前に早い時間から松山に入り、あちこちを散策した。
例のごとく、空港からマツダ・レンタカーで車を借り、松山市内をめざす。そこは松山市立子規記念博物館である。
松山駅を抜けると、松山城が高台にそびえている。このあたりになると、市電が右往左往、向こうからみたら、こちらが右往左往している(それが正解だろ)。どちらにしろ、ハンドルをもつ手がピクピクと緊張してしまうのだ。
夏目漱石先生が『坊っちゃん』で書いている悪口は明らかに“言い過ぎ”である。ああ悪くばかり取られたら、日本中はみな、駄目な町しかないに違いない。
ただ、町の風俗、慣習、状景描写などはあながち外れているとは言えない。他府県と比べても確かに道が狭い。
少なくとも外部から来た人間は確実にそう感じる。かなりの慣れがないと怖くて路地に入れない。
しかも案内板や道標示は、はっきり言ってわかりにくい。看板は小さいし、歩いて来る人間には高い位置にあって気づきにくいし、車で来る人間には小さくて読めない。
通行止めの表示などが、まさにその直前にしかなく、入りこんで右往左往する観光客の車がたくさんいて、交通整理のおじさまがぼやいていた。
気持ちはわかるが、なら、しっかり担当者に伝えて、標示をわかりやすくしてから、ぼやくべきだろうとも言いたくなる。
翌日タクシーで会場入りしたのだが、ビュンビュンとばし、突っ込んで行った。それは、それはすさまじいものである(笑)。外部の人間にああはできない。かの漱石先生がピリピリするのがわからないでもない。
とは言っても、外部の人間を拒まない、やさしい大人の態度は関西あたりでは、まずお目にかかれない(悪いけど事実)。それは、それは素晴らしいもの。
だから、もう少し配慮があれば、さらに好感度の高い町なんだけどなぁ〜(笑)。それらの不満は漱石先生のころから変わらないのが残念である。
●子規先生こんにちは!(笑)●
とにもかくにも、子規記念博物館は、道後温泉入口にある公園の一角にあった。ふう、やっと辿り着いた。
うう、しかし、あいにく駐車場は満車。仕方がないので、界隈を往来し、ようやく100円パーキングを見つけて車を停めた。
入口では子規先生の坐像が出迎えてくれた。パンフレットによれば、正岡子規先生は慶應3(1867)年9月17日、伊予国温泉郡藤原新町(元松山花園町)で生まれた。翌年が明治元年なので、年齢は明治の年号と同じ、漱石先生とも同じか。
子規(常規「つねのり」)先生は自由民権運動に触発されるのだ。地方の多くの若者がそうであるように、政治家を目指して、明治16年に上京した。
第一高等学校、帝国大学に進学をする。しかし、22歳時にはじめて喀血したころ、「子規」と号した。子規という字は“ほととぎす”とも読む。
子規先生によれば、喀血した時の様が、ホトトギスの赤い口内に似ていたことからその名をつけたという。そんな余裕はなかっただろうに……。
そのため大学を中退。新聞・日本に入社。新聞記者として活躍し、更に俳句や短歌の革新をさけび、新体詩を試み、写生文の素晴らしさを唱えた。
明治28年からは闘病生活となり、脊髄カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前(つまり、自分の誕生日まで)まで、随筆『病牀六尺』を発表し続けた。明治35(1902)年9月19日に若くして永眠した。激しい人生であっただろう。
でも、確かに悲しい人生ではあったが、正岡子規という人の人生は悲しいだけではなかった。
子規先生が残した多様な文学的な試みは、多くの仲間を持ち、後進を育て、いまなお子規山脈を形成し、近代文学史上の功績として輝いている。何かを残せた人の人生が「無駄」であろうはずがない。人はみな、いずれ死ぬのだ。
ともあれ、いまは子規記念博物館についてである。こちらは「正岡子規の世界」をとおして、より多くの人に松山を親しんでもらい、松山の伝統文化や文学についての認識と理解を深め、新しい文化の創造に役立てることを目的として開設されている。
●イベント中の子規記念博物館●
子規文学をとおして集められた、松山だけではなく、「愛媛学」の博物館でもある。
しかし、残念なのはいまひとつ正岡子規という人は人気がない(気のせいなら良いのだが)。
歌人や詩人でも、石川啄木や中原中也と比べると知名度や人気が落ちる気もする。
まぁ、闘病生活でやつれているし、寝たきりのイメージで、ビジュアル的ではないからかもしれない。司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』で果たして人気が上がるだろうか?
確かに国民的作家・漱石が『坊っちゃん』で松山を舞台に小説を書き、売れた。確かに面白い。読者が松山の人間ででもなければみな、面白い小説というだろう。
いろいろな分析が可能であるが、この小説から漱石先生の松山への愛情を読み取ることは絶対に無理である。
まぁ、ホテルの机の引き出しに、聖書や仏典ではなく、『坊っちゃん』が入っている松山の人々のユーモアには笑わせてもらったが、そろそろ、郷土の偉大な文学者のほうに目を向けてもいいではないかと思う。
またまた話が逸れたが、子規博物館では、各コーナーで映像が観れ、けっこう詳しいガイドシートをもらえる。佐藤も計17枚のシートを持ち帰った(笑)。
常設展は、子規先生の全体像を、いかに統一的に再構成しわかりやすく表現するかという観点から展開している。うううん。これはなかなかヘヴィな作りの構成であった。
時間がかかって他の松山の名所を見物できないのだ。そうかと言ってこれを流して見たら、きた甲斐もない。駐車場もあんまりない(笑)。
それはともかく、実物資料をはじめ、レプリカ、パネル、映像などの資料を駆使し、子規の生涯を追体験できるようになっているは素晴らしい!
腹をすえてコーナーを読み進めていくごとに子規先生の偉業に驚かせれる。その人間臭さにも。21歳で肺結核になり、ペンネームを子規とする。
その後、寄席通いをする中で漱石先生と仲良くなり。漱石先生は子規先生に刺激を受けて、小説を書きはじめる。そして、お互いに尊敬しあう親友になっていったというのだ。
子規先生の俳句で、
「柿喰いの俳句好みし伝ふべし」
という句がある。これには「俺という柿が好きで、俳句好きな男がいたんだってことを後世に伝えてくれよな(忘れてくれるな)」
という、死期が迫っている無念と切ない思いが見事に写されていると思う。まさに究極の写生ではないか。
ちなみに、伊予のかたがたは柿が好きで、一度に8個くらいはぺろりと食べるらしい(ほんとかしら?)。子規先生はなんと16個はいけたという(すご過ぎ)。
亡き親友にこたえ、漱石先生は『三四郎』という小説にそのことを書いている。イライラすることの多かった漱石先生にとっても、よい思い出だったのかもしれない。その子規先生は、漱石先生があれだけ悪く書いた松山の出身なのは面白いが。
ともあれ、ここに「正岡子規」という文学者が記録された。ふたりの友情とともに。
さて、子規先生はベースボールにも夢中となり、館内には野球のユニフォームを来て微笑んでいる子規先生の姿を見ることができる。
これがなかなか凛々しいのだ。野球体育博物館に日本野球界の貢献者として殿堂入りしているのだ。
館内の展示では、日本は日清戦争に突入。子規先生は28歳の時に、「自分の目で戦争の様子を取材したい」と考え、病気を心配する家族や友人の反対を押し切って従軍記者になり、清(中国)へ向う。
しかし、子規先生が清国についたころには戦争も終わろうとしていた。しかも、様々な情報を軍が厳しく取り締まっていたために、取材がうまくできなかったという。
子規先生は、ここで陸軍軍医であり、小説『舞姫』の作者・森鴎外(林太郎)先生と出会った。その後も鴎外先生と文学について語り合うことができたという。自分が興味をもったことには、どんなことがあっても挑戦するこのパワーは凄い。
このあと明治28年に子規先生は松山に帰ってくる。漱石先生が借りていた家で52日間一緒に暮らした。この家は漱石のペンネーム「愚陀仏」から名前をとり、愚陀仏庵(ぐだぶつあん)と呼んで親しまれた。
ここには、松風会の人々など、子規に俳句を教えてもらいに多くの人が訪れた。館内にはこの愚陀仏庵の部分も再現・展示されていました。
この後、子規先生は、大阪や奈良などを旅しながら、東京へもどる。会津八一先生と奈良では東大寺や法隆寺を見物したという。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
という有名な句を詠んでいる。さて、いよいよ子規先生の病気は脊椎カリエス(結核菌が背骨の中に侵入し、骨を溶かしてしまう)と進み、起き上がることもままならなくなってゆく。
それでも、子規先生は薬を飲んでからだの痛みが和らいだ時などには寝たまま絵を描いている。また、寝たきりの子規先生にとっては絵を描くことが大切な楽しみの1つだったのだそうです。
子規先生の提唱した「写生」という視点は、画家になりたかったという、彼の画家的視点であったのかもしれない。「写生文」ねぇ。つまり、見たままを文章にすることですな。これはなかなか難しい。
人は、あるものの全体を見ているようで、見ているわけではない。見れるわけもない。だからこそ、誤解や思い入れが反映しやすい。介護においてもそうである。
介護者が、利用者本位の視点と言っても、介護保険制度は、保険者本位(といったら悪いか)の視点の産物であるから、なかなかすっきりしないのではないか?
だからこそ、介護の指示や計画は、写生文のようなに明晰さをもち、法令に即した根拠性をあらわし、目的と手段をはっきりとできなければサービスにはつながらない。
であればこそ、佐藤が考え続けている『訪問介護計画書』の文体は、写生文でなければならない。
展示内容は、いやはや、壮絶・凄い・素晴らしいとしか称えようがない。佐藤は、子規先生の生涯を視覚的に追い、感嘆を抑えきれないまま、ミュージアム・ショップに入った。
そこで、1冊の本を買った。その本の冒頭に子規の「写生文」があるので、それを引用する。
岩波文庫から出ている『墨汁一滴』(正岡子規・著)である。冒頭で彼はこのようなことを書き連ねていた。
「病める枕辺に、巻紙状袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小さな輪飾りをくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐ心ながらの歯朶(しだ)の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。
その下に橙を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据えたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨の贈りくれたるなり。
直径三寸の地球をつくづくと見ていればいささかながらに本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。
朝鮮満州吉林黒竜江などは紫色の内なれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。
二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変わりあらんか、そは二十世紀初めの地球儀の知る所に非(あら)ず。
とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これが我が病室の蓬莱なり」
さて、時は2008年、あと1か月足らずで、2009年を迎える。この時代に再び子規先生がいたならばどのような思いで地球儀を手に取ったであろうか。
●子規先生の句がいっぱい●
佐藤は野球を(「も」でしょ)よく知らんが、ベースボールこぼれ話(へへんだ)。
今年、上野恩賜公園は130周年を迎えた。台東区では、この130周年記念(はんぱな記念じゃ)事業の一環として、正岡子規の句碑を、東京都による上野恩賜公園野球場の改修にあわせて、設置したそうだ(あれで改修したのか……)。
句碑には、
「春風やまりを投げたき草の原 」
とある。正岡子規の野球に対する思いを表した句 がきざまれているという。また、同野球場の愛称が、東京都の協力により「正岡子規記念球場」となった(あれが正岡子規記念球場かい……)。
松山のみなさん、ごきげんよう。ご自愛ください。ではでは!
(松山城は思ったよりもでかい!To Be Continued!!)


