紅葉にけむる上州路(その3)
〜深まる秋を満喫する〜
佐藤は、水沢うどんで有名な、なんとなくエ●い水沢を抜けて(とおればわかります)、一路伊香保を目指しました。
伊香保は、坂のある温泉街としても有名。元々は、長篠合戦で敗れた武田勝頼が、真田幸村に命じて、兵士の療養のために作らせたともいう。
一方では、竹下夢二、徳冨蘆花などの文化人の記念館なども充実しているところです。佐藤は、ご当地にある神社、上野国三の宮・伊香保神社を目指して車で、うにうにと登って行きました。
目の前にそびえる急坂におそれをなして下にあった駐車場に車をとめた。その場所は、なんと、徳冨蘆花記念文学館のまん前だった! 蘆花先生、ここにいらしたんですかい!って感じ。
そこで、神々様にはもう少しお待ちいただくことにして、閉館間近の文学館へ滑り込みました。
●徳冨蘆花記念文学館前じゃ!●
【徳冨蘆花記念文学館】
徳冨蘆花については、詳しくは知りません。ただ、彼の作品は小説『不如帰』(ほととぎす)という小説の名前だけは知っていました。
当時は、尾崎紅葉の『金色夜叉』(こんじきやしゃ)と並ぶ大人気小説でありました。
今回は、この徳冨蘆花記念文学館に入り、彼の業績を見ているうちに、佐藤は、自分がどんどん彼の魅力に引き込まれていくのを実感しました。
佐藤が、彼の魅力に引き込まれていった原因は、彼の生きざまが書かれた年表を見たことによります。
蘆花先生の生涯は、館のパンフレットにその略歴が記載されているので、パンフレットよりかかり、話を進めます。
徳冨家は、寛永年間、島原の乱に戦功があり、国主・徳川家より、熊本県水俣郷に若干の土地を賜った。
幕末の頃には山林新田の開発によって大きく産をなし、惣庄屋兼代官を務める家格であったという。
蘆花先生のお父さん一敬は、八代目にあたり、肥後実学党率いる横井小楠門下として、明治3年には藩政改革後の新藩庁へ出仕するために、一家を挙げて熊本市郊外大江村に移ったとのこと。
このような封建的な世の中で、蘆花先生は、四女三男の末っ子として誕生。少年・健次郎(蘆花先生)は、6年年上の兄猪一郎(蘇峰氏)の威圧的な庇護のもと、頭は良いが、ひ弱で内公的な、それでいて時に癇癪を爆発させる自尊心の強い少年として育っていったといいます。
蘆花先生は、お兄さんに連れられて京都の同志社英学校へ入学、山本久栄との恋に悩みながらやがて失恋。彼は、同志社を出奔しての鹿児島放浪していったのです。
やがて、兄の召呼により兄の会社・民友社へ入社。そこで、雑報記事係と健次郎の前半世は志に適わないことの連続であった。この頃の姿は、自他共、誰の眼にも賢兄愚弟の感はゆがめなかったらしいですね。
その後、小説『不如帰』やエッセイ『自然と人生』を発表して、文壇的な名声を確固とした後も、蘆花先生自身は、民友社、国民新聞社社主としての兄・蘇峰の存在は、大きくのしかかっていたようです。
このような中で、蘆花は、明治36年に、ついに兄と決別を決意。同時に国民新聞社を辞め、原宿の自宅に黒潮社を設立。同時に小説『黒潮』を自費出版しました。
そして、この黒潮の巻頭には兄への「告別の辞」が掲載されて、この著名な兄妹の反目の行方は、当然のごとく世間の反響を呼んだそうです。
このような中でも、蘆花先生は愛子夫人を伴って度々、伊香保の地を訪れ、自らこの地を「生の策源地」と称して、鋭気を養っていったようです。
その後、蘆花先生は、明治40年トルストイを訪問。その旅より帰国して翌年、千歳村粕谷に転居。ここを永住の地と定め、晴耕雨読の生活を始めたのです。
晩年は自己の新しい生の目的を見出すべく、懺悔告白を通して、独自のキリスト教的思想に開眼し、妻と一緒に海外を巡礼の旅に出ました。
大正13年に、過去の赤裸々な記録とともに言うべき、自伝小説『冨士』の執筆に着手しましたが、元々病弱であったところ、昭和2年に病状が悪化。千葉勝浦などで、療養をしたのですが体調は悪化。
そこで、本人の希望にて、重体を押して伊香保に天地療養に出る。しかし、自分に死が近いと判断、確執のあった兄・蘇峰氏を伊香保に呼び、そして、9月18日、15年ぶりに兄・蘇峰氏と再会します。
兄との再会をはたした蘆花先生は、その夜、伊香保千明仁泉亭の一室にて永眠したのでありました。
徳冨蘆花記念文学館には、このような波乱万丈の、一人の男の激しい人生が、年表と一緒に、その時々の作品や写真と一緒に凝縮され、綴られていたのですよ。
だから、蘆花先生を知らなくても、彼の生きざまを、「読み進む」だけでも、知らないうちに虜になることまちがいなし!(笑)
●蘆花(健次郎)先生終焉の部屋を公開中●
ちなみに、この文学館には、蘆花先生が終焉の時を迎えた部屋(蘆花記念館)が保存されて残されています。その記念館の中に入ることができ、浴室や、お庭を眺めることができます。
また、彼が過ごした部屋には、彼の愛用のガウンや、ベッドなどが展示されていました。
●晩秋の気配が漂っていた●
そうですか、そうですか。見せて頂き、ありがとうございましたと玄関を出た佐藤の目には、記念館の片隅に咲いているもみじが鮮やかな赤い色を見せてくれたのでした。
さて、再び伊香保神社へ挑戦!
【上野国三の宮・伊香保神社】
このブログでもよく出る延喜式には、上野国系の式内社(大社)として、貫前神社、伊香保神社、赤城神社があるそうだ。
これが上野国・三大社としてされている(それぞれ、一の宮、三の宮、二の宮)。榛名神社はなんと、小社で六の宮である。
イメージ的には伊香保神社よりも「大社」な気がするが古代は格がこちらのほうが上だったのだ。
佐藤は、伊香保温泉にある有名な石段街の階段が、傍にあることに気がつかず、坂道をうにうにと登っていきました。
この坂道が結構つらいのよ。「なんださか、こんなさか」と自分を励ましながら歩いた(ちょっと変)。ふう、ようやく辿り着いた。佐藤が着いたそこはなんと伊香保神社の裏側でした(笑)。
●伊香保神社は夕方でも大賑わい!●
それにしても、たくさんの人がお参りに訪れています。まるで、お正月みたいな賑わいです。拝殿前に佐藤がたたずんだ時には、すでに夕暮れ時だったので、神社がライトアップされていました。
参拝後、ふりかえると、そのライトに、イチョウやもみじに光が当たり、黄色と赤いろが揺らめいていた。
こちらのご祭神は、もうお馴染みの少彦名命と大己貴命です(笑)。そうですか、そうですか。ここにもいらっしゃいましたか。まぁ温泉ですものね。ほほほ。
佐藤にとってみれば懐かしい、身近な神々様です。そういえば、松江の白潟天満宮といい、伊香保神社といいこの2柱の神様がいらっしゃるところは参拝客が絶えないような気がします。人気がある神様なのですねぇ(笑)。
これだけ賑わえば神様達もごきげんでしょう。ということで、おみくじ結果は引きなおし大吉でした(甘くはないわな)。
帰りは、名物・伊香保神社の石段をえっさか、ほいさか、降りて帰ったのでした(卑怯者!)。
今回の群馬も奥が深かったなぁ。ではでは!
●鳥居の奥に銀杏が映える●
●階段下に伊香保関所跡あり、ご存じ「入り鉄砲・出女」(佐藤は心配無用?)●
(群馬のJRかなんかのキャラクター「だるまる」君はどこにいるんだ〜の項、研修を挟んで続く!予定。To Be Continued!!)

