2018年10月13日

奮闘記・第1066回 見聞録/島根県

●2018年● 島根県松江市

新装!小泉八雲記念館を訪問するの巻

〜 館長が探求した曽祖父の面影 〜


皆さま、いかがお過ごしでしょう? 

すっかり寒くなってしまいましたねぇ。でもまぁあの暑さが懐かしくなることはまずありませんが・・・。

さてさて、前回紹介したハンザケ(オオサンショウウオ)君の子ども達であるが、ハンザケ自然館さんのブログによりますと、館内入り口に展示しているケージの中で、子ども達が、それぞれのたまごの中ですくすくと育ち、誕生間近とのこと。

もう、この館が近くにあったら毎日でもいきたいところですがね・・・。

近いどころか東京スカイツリーより高いビルをひっそり作っててもわからないくらい、のどかな良い場所ですから。それはまぁ羨ましいが。佐藤は自然館のブログを見ながら誕生を心待ちにしているのである。


今回まずは、そのころに立ち寄った小泉八雲記念館と小泉八雲旧居のお話。まあ、佐藤のブログでもおなじみの場所である。この記念館は2016年に改装している。であるからして、今回は改装してからは初めての訪問となる。

ここ、小泉八雲記念館は、昭和9(1934)年に、小泉八雲(ラフヵディオ・ハーン)先生とその妻・セツさんが、明治24年5月から11月までの6か月間新婚生活を過ごした小泉八雲旧居の西隣に新築された木造平屋建ての和風建築の館であり、松江市立の文学館なのだ。指定管理者制度により、今は、NPO法人松江ツーリズム研究会さんが管理・運営している。それはまぁいい。

それが2016年7月に、展示構成を拡充・一新し、ライブラリーやホール、ミュージアムショップを備えた小泉八雲記念館として、初代の小泉八雲記念館開館から82年、日本人・小泉八雲が誕生して120年の歳月を経て生まれ変わったのだ。もちろん、館長は島根県立大学教授の小泉 凡(こいずみ ぼん)先生である。先生は、小泉八雲(ハーン)先生のご曾孫である。

ちなみに

「私はその人を常に先生と呼んでいた・・・。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる・・・。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。」

これはまぁ某・夏目金之助先生の文章である。ハーン先生や司馬遼太郎先生など、文章が好きな作家の方々については、拙文のなどでも「先先」と付けてしまうので、そこんところはまぁスールーして頂きたい。

小泉八雲旧居に来るようになって数年の時。旧居に入る前に、「ひゃ〜参謀」のケータイに東京から電話があり、「今日、旧居に凡先生がいるら・・・」というところで切れた(笑)。

すると、たまたま旧居で、小泉 凡先生が、子供たちに、激しく「小泉八雲学」をレクチャーしている熱き凡先生を目の当たりにした。

全然違うのよ、ふだんは紳士なのにほんとうに熱く語ってたのよ。後に、凡先生にお話したら、「いや〜そうでしたか」と照れてましたが(笑)。

そう、佐藤は凡先生と、2013年に一度お会いしているのだ。そして、なんと彼が奏でるピアノを目の前で観たことがある(奮闘記・第901回)。

佐藤は、当時松江ツーリズム研究会さんが企画・運営していた伝説の「松江ゴーストツアー」に参加したことがあるのだ。もう、ほとんど追っかけ。

松江に通うようになってから松江駅前の松江テルサにあるチラシを手に取るようになり、その中の1枚にこの「松江ゴーストツアー」のチラシがあったのだ。それから、このツアーに参加したい、参加したいと思っていたのだが、なかなか日程が合わなかった。

それが、ある時、宿泊を前倒しにすれば参加できることがわかり、思い切って「ひゃ〜参謀」に同行を依頼。そしてそれがついに実現したのだ。

このツアーには、《カラコロコース》《へるんコース》があった。へるんコースでは、蓬莱吉日庵で、凡先生の講演を聴講し、そのまま蓬莱吉日庵で夕食を頂き、その後にカラコロコースの人々と合流し、『怪談』ゆかりの地を巡るというものであった(そのうち凡先生が多忙なのかへるんコースは無くなったようだ)。

なんと、この日の参加者は、我々ともうひと組のカップルのみ。チラシには参加人数が少ない場合は中止と書かれていたが、参加者が遠方からの場合は無碍にできないと案内をしてくれたかたが話してくれた。

ということで、我々は凡先生を独り占め状態(尋問に近い)にして、話を伺うことができたのだ(笑)。

いよいよスライドを交えた凡先生による講演が始まった。凡先生の講演は、ハーン先生の生い立ち、彼が歩んだ地域、その地域の方々(外国の方々)との細やかな出来事や関わりの報告が主な内容であった。

凡先生は、ハーン先生の足跡を現地に出向き、今でも恐らく丁寧に調査研究をしているという。曽祖父の軌跡が残る場所を踏みしめるように何度も訪問し、情報を更新しているのだ。いいよ、ほんと。

でも、昨今は、ヨーロッパもアメリカもテロが多過ぎて、凡先生が巻き込まれてないかが心配になるのだが。曽孫の凡先生が語るハーン先生の姿は、身内としての愛情がそこかしこにあふれていた。

凡先生は、自分が目にした風景を写真に撮り、それらを紹介しながら話を続けた。ハーン先生ゆかりの建物を訪れ、門前払いにされ、塩をまかれた話や、その同じ家で持ち主が変わると、家に入れて温かく迎え入れてくれてもらったりしたそうな。写真の日付がどんどん若返って行く。

ご存じのようにハーン先生は、アイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれている。出身地は、レフカダ島(リューカディア)である。凡先生は、レフカダ島の写真を解説する。その写真に描かれた風景は、紫煙る靄にしまなみが浮かび、眺めていると、松江の宍道湖の風景と重なった。

その後、ハーン先生2歳の時、アイルランドのダブリンに移り住む。まもなく父母は離婚し、同じダブリンに住む大叔母に引き取られることとなる。これでは宍道湖の夕日と重ねるようなゆとりはないかも知れない。恐らく、ほんとうに単純に宍道湖が好きだったのかも知れない。

凡先生は、ハーン先生の母・ローザさんについて、こう語る。

「ギリシャ生まれの彼女は、イングランドの気候に慣れなかったのも離婚の一因ではないかと」話してくれた。まぁ、しかしあの気候に慣れるのは、日照時間の短い秋田県に関東人が住みにくいのと似ているかも知れない(笑)。つまり難しい。

また、画家・安野光雅氏が、ハーン先生の母親の面影を求めて ギリシャへと渡り、その親戚であるという女性の家を訪ねた。そこで彼女が写った写真の存在について調べ、情報を収集して、アドバイスを受けながら、一枚の肖像画を描いたという。その安野さんが描いたローザさんの肖像画もスライドで見せて頂いた。

凡先生によれば、ハーン先生は、2歳の時に別れた母・ローザさんのことを慕っており、ずーと会いたかったという。母の肖像画が存在するならば、全財産をつぎ込んでも手に入れたい、と語っていたという。

その後も、ハーン先生には、阪神タイガースのK前監督や八戸学院大学の監督さんのような不幸が重なっていた。

イングランドの神学校に在学中、16歳の時に左眼を失明し、父が病死。翌年に大叔母が破産するなどで学校を退学する。その前後にはフランスでも教育を受けているのだ。19歳でアメリカへ渡り、24歳の時には、新聞記者となる。凡先生は、アメリカでハーン先生が暮らした場所も詳細に調査し、写真に収めている。

ニューオーリンズにも、同じようにゴーストツアーが存在し、そのツアーを大人たちも進んで参加し、楽しんでいるという話も伺った。

その後、ゴーストツアーにちなんだ、西洋社会でのゴーストや精霊たちにまつわる話をしてくれた。ハーン先生が生まれたギリシャにも精霊たちの話があり、こちらではゴーストツアーもあるという。そのツアーも大人が参加し、定番になっているという。キリスト教の世界観ではちょっと考えにくいものである。

まぁ最終的にハーン先生は、日本の阿弥陀信仰(仏教)とキリスト教の類似点を見出し、総合的にキリスト教に回帰していったのだろうと勝手に思っているのだが。さて・・・。これはイエス様やお釈迦様が云々という観点ではわかりにくいかも知れないが、宗教はあんまり得意ではないのでここまで。

こうして凡先生は、約小1時間、ハーン先生の遍歴を織り混ぜながら、世界で、小泉八雲の功績が高く評価されていること、小泉八雲が晩年を過ごした日本でも、このゴーストツアーを行うことにより、小泉八雲こと、ハーン先生が日本に残してくれたものを継承したいと考えているようであった。

そして最後になんと凡先生がピアノを弾いてくれたのだ。しかもその曲は、聞き覚えのある曲であった。なんとも胸の奥から哀愁があふれ、思わず胸が熱くなっていた。

凡先生はピアノで2曲披露してくださり、講演は終了となった。

「実は僕、楽譜は読めないんですよ(笑)」

と照れながら話してくれた。真偽はともかく、とても素晴らしい演奏であった。

「凡先生が譜面が読めない? まさかそんなぁ。だって世田谷区生まれのボ・・・(強制終了!)。恐らく読めるはず」

とは「ひゃ〜参謀」www。危ない!


あれから5年。佐藤は、今回、新装・小泉八雲記念館を訪問して、あの日に凡先生が語ってくれたことを思い出していた。


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●新装・小泉八雲記念館である!●



今でこそ、ハーン先生がセツさんとは、晩年あまりうまくいっていなかっただろうこともわかるし、松江から出て以降、海に行くのも、たいがいは太平洋側、そう海の向こうにアメリカが恋しかったに違いない。おそらく穏便に別れられれば、アメリカには一雄さん(長男)を連れて帰りたいという願望があったのだろう。

ハーン先生は、日本の食べ物は得意ではなかったし、日本語もあまり覚えていない。これも当初は帰国する気であったからだろう。

でも、これは批難しているのではない。よく故郷に帰りたい思いの中でその不満を漏らさず、死ぬまで日本で頑張ってくれたなぁと感謝の気持ちしかないのである。欧米から日本に来るなんて、東京から島根に住むどころではないのだ。

しかし、ハーン先生は、日本人は口にしなければ、そして文章にも残さなければ、それらの(アメリカに帰りたいという)気持ちを「なかったもの」として考える性質であることを知っていた。

日本人は明治時代から「文献主義」(文字に残って居ないものは、存在しないという共同幻想)なのだ。ハーン先生は、良き日本の喪失に対する不満以外は、日本や日本人を批判する著作がないのを見てもわかる。先生は、それが母国や欧米でできなかったからこそ、各国を転々としていたのだから・・・。


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●館内は相変わらず写真ではお見せできません●



さて、館内には、3つの展示室と、2階へあがる階段のスペースを活用した階段展示があり、2階は多目的スペースと書庫となっていた。

展示室1は、「その眼が見たもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」というコンセプトのもとに、ハーン先生の生涯を編年で紹介している。

壁には、ハーン先生の生涯が、年表で綴られており、その周囲には関係者の写真などが掲示されている。これこそ、凡生生が長年、ハーン先生の面影を求めて、諸外国をまわったときに、実際にみた物、聞いたもの、心に響いたものだったのではないだろうか。

佐藤はハーン生生の人生を振り返りつつ、この軌跡を追い求めた、凡先生の姿を追っていたようにも思う。

それはまさしく5年前のあの蓬莱吉日庵で凡生生から直接話を聞くことがなかったら、このような思いは持たなかったであろう。まさしく時はつながっているんだな〜とつくづく思うのだ。

そして、展示室2には、ハーン先生の事績や思考の特色を「再話」「クレオール」「いのち」など8つの切り口から描き出している。ここには、ハーン先生が利用していた机や椅子と共に、静岡県焼津の山口乙吉さん宅が再現されていたのだ。


もちろん、佐藤は静岡県の焼津市の記念室へも行ったし、愛知県の明治村でもこの乙吉宅の部屋と、だるまをみている。また、島根県の隠岐の島の所縁の品々も展示されていて、すべてが懐かしく走馬燈のように私の周りを回ってた。

そうそう、展示室1から展示室2に入って。すぐの左には大人が2人程度が入れる空間がある。それが「再話コーナー」である。そこでは、なんと、『怪談』の朗読を聞くことができる。

ナレーターは、もちろん島根県出身・佐野史郎氏。静かな空間の中にあの声が響く(笑)佐藤は「かきつばた」を聞いてしまった。いやぁ。佐野さんの声がおどろおどろしく、暗闇から追いかけて来そうであった(笑)。

外国人向けの英語の解説だけではなく、英語のネイティブの朗読による『KWAIDAN』も聞くことができたら喜びます。

もしや外国人向けの解説の中に一部あるかもしれない。いや、知らないだけですでにあったのかも知れないが、それなら次回のお楽しみである。

On the Akasaka Road, in Tokyo, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka・・・・.

これは、有名なハーン先生の原文の『KWAIDAN』MUJINA(むじな)の冒頭である。

かの作家の三島由紀夫氏や、大大ヒットした「広辞苑」(第二版)の編集委員長を務めた大野 晋先生がこの冒頭をよく口ずさみ、

「素晴らしい文章は外国語でも、日本語でも、いいリズムを持っている」

とベタ誉めであったそうな。ならば、ぜひネイティブでの音読も聞いてみたい気がする。だってハーン先生は、英語でセツさんに聞かせていただろうから。作品が翻訳されたのは戦後の話である。そもそも、ハーン先生の当時の読者は欧米人であり、英語で書かれていたのだ。

いや〜できれば、箱根の星の王子さまミュージアムのように、小さいスペースでもいいから、アメリカの新聞記者時代の「想定されるハーン先生の机まわり」も見てみたい(「ひゃ〜参謀」)。いろいろ興味は尽きないのであった。


また、新装記念館に話を戻す。

階段展示には、ハーン先生とその子ども達の写真も、多く展示されており、その表情は、写真を撮っているそばにいるであろう、ハーン先生やセツさんに向けてほほえみかけ全てに愛があふれているように見えた。そして、同時に凡先生の祖先を敬う気持ちがそこには現れていた。

このように、資料の研究など、ご子孫で一手に引き受けてくれるかたがいるのは、我々読者やファンには有り難いことである。

展示室3は企画展示コーナーとしてあり、現在は「八雲が愛した日本の美」として彫刻家荒川亀斎と小泉八雲と題して亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」が展示されている。

でも、申し訳ないが、「あの」人形は可愛くない感じがビンビンするんですけど(笑)。もし、家に置いてあったら、ちょっと怖い。昔のホラー映画のチャイルド・○レイを思い出しそう。でもハーン先生、布団に寝かせたりしてるんだよなぁ・・・、強メンタルとしか・・・。


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●記念館の催し物のご案内●



小泉八雲の記念館のホームページによれば、

荒川亀斎は、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生。幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家。

1890年8月に松江に赴任した小泉八雲が、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了され、その作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知り、さっそく亀斎の工房を訪ねます。小泉八雲はその腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし意気投合したという。

ここでは、八雲が見出した郷土の作家・荒川亀斎の作品およびその周辺を紹介するとともに、著作や西田日記などの中に登場する亀斎とのエピソードをたどることで、小泉八雲の審美眼・美術観を探り八雲の新たな側面を紹介している。

また、小泉八雲記念館が所蔵する荒川亀斎の作品をはじめ、最近発見された亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」(人形劇の図書館蔵)を初公開しているのだ。

いやはや、凡先生、相変わらず飛ばしてますねぇ(笑)。1日いても見切れませんよ。ホント。解説文などは外国人さん向けには英語の案内もあるので、外国人さんも満足されること間違いない。


その後、我々は聖地・小泉八雲旧居を訪問。玄関先では瑠璃柳が可憐な紫の花を付け出迎えてくれていた。また、南向きの百日紅はまだ赤い花を付け、庭には、秋の花である吾亦紅と桔梗が咲き誇り、その上を赤とんぼが飛んでいた。


●もちろん、こちらの聖地・小泉八雲旧居にも参拝(?)●.jpg

●もちろん、こちらの聖地・小泉八雲旧居にも参拝(?)●


●こちらは写真も大丈夫!●.jpg

●こちらは写真も大丈夫!●


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●ここで暮らしていたんだよ!ハーン先生が●



西の庭には、大きな木瓜の実がたわわとなっていた。受付の方曰く。今年は木瓜の実が多くなりましたとのことであった。確かにたくさん実っていた。北の庭の池は鏡のように池の周りの松や椿の木々を写していた。ここはやがて雪に覆われ銀世界となる。

さてさて、ズーッといたいところではあるが、そろそろ出雲空港へ向かわないといけない。帰りがてら、道の駅・秋鹿なぎさ公園にある、レストラン・フォーシーズンへ寄ってランチを頂いた。


●松江のたんぼ・たんぼ・たんぼ!●.jpg

●松江のたんぼ・たんぼ・たんぼ!●


●宍道湖はいつでも素晴らしい●.jpg

●宍道湖はいつでも素晴らしい●


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●道の駅・秋鹿なぎさ.公園に到着●



でも、やはり客商売のプロフェッショナルってすごいなと思った。佐藤がそれはそれは久しぶりに、スルッと入店したのだが、厨房の方から、わいわい話しながらチラと見て、

「いらっしゃませ!」

という声のあと、

「あれ? 今の佐藤さんじゃないの?」

という声がしたのだ(笑)。何年振りかで店内をスーッと通ってもなかなかわからないよね、ふつう。

いや〜、気付いてくださりありがとう。久しぶりに宍道湖を眺めつつ、食事を頂きました。食後、会計時に店長と歓談。お互いに体のことを気にかけあいました。


●やはりフォーシーズンはいいなぁ●.jpg

●やはりフォーシーズンはいいなぁ●


●これが「ひゃ〜参謀」のお気に入りバーグ●.jpg

●これが「ひゃ〜参謀」のお気に入りバーグ●



【追記】

もちろん、松江に寄って、白潟天満宮売布神社佐太神社などにも廻りました。


●久しぶりの白潟天満宮だが、手水舎の龍さんが消えていた(泣)●.jpg

●久しぶりの白潟天満宮だが、手水舎の龍さんが消えていた(泣)●


●売布神社でお塩入りのお茶を頂きました●.jpg

●売布神社でお塩入りのお茶を頂きました●


●こちらも懐かしの佐太神社●.jpg

●こちらも懐かしの佐太神社●



湖陵町差海のイタリアンのクッチーナ・バッカーノ(Cucina baccano)にも行きましたよ。一時期お休みしていたみたいですが、再開しており、ピザもパスタも以前の味のまま、美味しかった。こういうお店が再開するとうれしいです。皆さんもどうぞお近くを通ったら寄ってみてね! また島根県の見聞録が続くやも知れませんよ。さて?

島根には、湖のそばにうまい店有りですから(笑)。皆さま、くれぐれもご自愛ください!



●吾輩は初めて出雲空港に凱旋できた。ハハハ●.jpg

●吾輩は初めて出雲空港に凱旋できた。ハハハ●



(巨人の某S選手が若いころ、ボール球を振って三振。ベンチのH監督が「ボールを振るからダメなんだ!」という小言に、背中を向け「自分は(ボール球を)振らなかったんかよ!」と小声で悪態をついたそうな。監督はともかく、周りにはしっかり聞こえていたという。H監督はボールを振るどころか、ストライクだって見逃したから!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 19:46| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする