2018年06月22日

奮闘記・第1060回 見聞録/長崎県&熊本県

●2018年● 長崎県大村市・長崎県島原市&熊本県天草市ほか


『道の駅』マグネット探訪の記

〜潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その2)〜


皆さま、おげんきでしょうか。なんとか続きができました。今回は1058回の第2弾です!

と言いつつ、良く考えると、あまり、潜伏キリシタン関連遺産は廻れてませんでしたねぇ・・・。外海や大浦天主堂くらいかな? もうこの時期は、長崎や天草も、世界遺産に登録されることは、規定路線だったんで、各施設がノリノリで補修していました。

走行ルートは、潜伏キリシタン関連のエリアを界隈を走っているのですが、全然遺構や施設が「潜伏」していなかったのです(笑)。むしろ、誇らしげでありました。

潜伏キリシタン関連の資料自体は、かなりあちこちで拝見しましたから、いろはを学ぶ旅が近いのかな(汗)。さてさて、以下、今回はいよいよ潜伏キリシタン・・・、いや道の駅・マグネット探しも終盤です。


本日、我々は、島原半島から熊本県天草へ渡り、長崎空港から東京へ戻るのであった。今回の九州での移動距離、おおむね約367キロときた。

我々の実績(?)からすれば、「並の距離」なのだが、ニコニコレンタカーへの返却時に「いやいや、お客さん、たくさん走りましたねぇ〜」と感心された。まぁ初日も結構乗ったしねぇ・・・。そこは、ハハハ。

ということで、我々は、道の駅・マグネット探しと、ついでに潜伏キリシタン関連遺産を巡るという、大きな使命のもと、早朝、もはや「常宿」となったホテルベルビュー長崎出島を後にした。

この日は、天気予報どおりのあいにくの雨。もともと、直前は「全部雨」予報であったが、今日以外晴れたんだから文句も言えまいて。長崎空港に着く頃は晴れたしね。

我々は、昨夜もどうやったら、快適かつ安く(←ここ重要)天草へ渡れるかと、様々なルートを模索していた。なんせ有明海を越えれば、どちらか周りで長崎空港へ行かなければならない。そうそう、遠回りはできないのだ。

出発前にパソコンでルート検索をして、「ひゃ〜参謀」にそのルートを告げた。


「・・・・大将(佐藤)、いったいフェリーはどちらから?」

「フェリー? 乗らないわよ。だって、ルート検索でふつうに渡っていったわよ。きっと橋がかかって・・・」

「昨年(2017年)の11月に出た地図で掛かってないのに?(笑) しかも、1年もしないうちに橋なんか掛けられますかいな。そんで長崎と熊本、どちらの自治体がその費用を?」

「・・・・」



私は、どうやら知らない間に、空想の中でフェリーに乗って天草への旅をしていたらしい。再検索の結果、佐藤が出した答えは、口之津港(くちのつこう)から対岸の鬼池港(おにいけこう)にわたるルートであった。

これは、司馬遼太郎先生がかって『街道をゆく 17 島原・天草の諸道』で渡ったルートである。まぁ、主目的があちら様は街道、こちらは道の駅のマグネットという違いはあるのだが。


【島鉄フェリー 口之津港】
ナビ様(たまに海上を車が走る)に導かれるままに、島原半島を周遊し、口之津港へ無事に着いた。佐藤が、読んでいる遠藤周作先生の『切支丹の里』にも、この口之津港が登場する。

ここは、1562年に肥前有馬氏・当主の有馬義直により貿易港として開港された。その翌年、イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダが来航して布教活動を開始。

1567年には南蛮船(ポルトガル船)が入港、1579年には、全国から日本で布教活動を行う宣教師が集合して第1回口之津会議が開催されている。

その後、布教の中心が長崎に移るまで、キリスト教布教と南蛮貿易の中心地として栄えた港なのだ。

いや、もう一度、栄えたことがある。明治の初め、現在の福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にあった、三池炭鉱の石炭の輸出港として活用されていた頃である。

炭鉱は江戸時代から操業されていた。やがて明治に三井会社(後の三井財閥)に払い下げられ、三井・三池炭鉱となるが、主な需要は、製塩業者(瀬戸内海が主)が製塩用の釜を沸騰させて、稼働する燃料にしたらしい。

大牟田市にも、研修会で呼んで頂いたことがあるし、その港や三池関連のレストランでも会食もした。その港から、ここまで石炭を底が浅い船を数珠つなぎにして、有明海を渡ったという。ここはその三池の有明海の対岸にある港なのだ。

むかし有明海は浅かったため、大型船が通れなかったのだ。やがて三井財閥の力で、明治42年に、三池に港を作って大型の船が着港できるようになると、口之津港は静かにその役割を終えた。

先の「ひゃ〜参謀」の話は、橋など云々の話は、何度も船による産業が衰退し、また立ち直るということを繰り返して来た、口之津(長崎県)が、フェリーの観光産業などが大幅衰退するような、明石大橋級の橋をわざわざ莫大な予算をかけて作るとは思えないということなのだ。

遠藤周作先生は、天草に春夏秋と訪れ、何の変哲もないこの港が好きだと書かれていた。その上で、町の人はおそらくほとんど、自分たちが今住んでいる場所に約400年前、教会が建てられ、唐人や南蛮人が往来し、切支丹の賛美歌(カトリックなら聖歌)が流れていたことにそれほど関心がないだろう、と。

しかし、車で走行していると、あちこちに墓地があり、明らかに日本の墓石と違う墓石が点在しているにが見えるのだ。全然「潜伏」などしてはいない。

たぶん、遠藤先生は、弾圧され、信仰に命をかけた「純粋な教徒」に想いを寄せ、隠れながら変質し、細々とした「キリスト教もどき」となってしまった教徒には厳しいのだろう。先生ご自身は、結構カトリックとプロテスタントを混同して使っていることが度々あるようだが・・・。

それくらい、現代の穏やかなキリスト教とは違う、命がけの信仰であったのだろう。まぁ現代でも、某・石油がウハウハ出る地域にて、キリシタンであることを宣言すれば、同じ状況を味わう可能性は高いかも知れない。現代でも、信仰の不自由さは、さして変わりがないのかもしれない。

うだうだと、港に向かって車を飛ばしていたが、その港は突然目の前に現れた。いや、正確には突然ではない、ナビ様も道路標識もちゃんと「口之津港」を案内していたのだから。

ところが、そのう、なんというか、うっかり東武東上線(知らんか)の踏切のように、なんとなくそこに存在していたのだ。ハハハ。

佐藤は、長崎の大波止港(おおはとこう)のような、もっと大きな港を想像していたので、口之津港と書かれた、隠れ居酒屋のような、看板を見つけても、それが本体とは認識できず、どうにも入りそびれてしまったのだ。


「ちょっと・・・。もしかして今のじゃない? 入りそびれちゃった。どうしょう?」


と話していると、なんと、カーブを曲がったところに我らが最強のデイリーヤマザキ(パンや惣菜なら、某セブンなんとかよりも確実に上)を発見した。

ここらで、チト確かめて見ようと言うことになり、早速中に入り買い物をしがてら、店員さんに尋ねてみた。


「あの〜、フェリーはどこから乗れますか?」

「この先の左手に入り口がありますから、そこから中に入るとあります」



とのこと。我々は、駐車場で反転し、先の方向へ引き換えした。すると、さっき通り過ぎたときには、人気(「ひとけ」である)が無かった場所に、数台の車が並んでいた。

係の方が聞く前に、さっさと我々を所定の場所へ導いてくれた。窓を開けてあいさつをすると、


「車検証を持って、あちらの案内所へ行ってチケットを購入してくだされ」


と教えてくれた。こうして無事に乗船し、天草に向かったのである。楽しみにした船旅は、たったの30分。何ということはない、あっという間に天草に着いてしまった。


●ここが口之津港であった●.jpg

●ここが口之津港であった●



●船内でいきなりおやつ●.jpg

●船内でいきなりおやつ●



これが隠岐の島後(どうご)などに渡ったときは、もう・・・・、まぁ海もきれいで楽しかったが、時間はかかった。長崎でも五島列島に渡れば、こちらもけっこう時間かかるだろうなぁ。でも、行ってみたいな他所(よそ)の国(日本だよ!)。

鬼池にも、ザ・ピーナッツも唄った島原地方の子守唄で「鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい」(恐いおじさんに連れて行かれるよ)という歌詞があるほど、対岸の島原などに遊女が連れて行かれた港であり、興味深いのだが、今回はテーマが違うので、そこから、一路天草キリシタン館をめざした。いよいよ、雨は本降り。ワイパーがご機嫌に躍動していた。


【天草キリシタン館】
佐藤は、天草宝島観光協会の天草ロードマップ兼天草ミュージアムマップを手に入れている。ミュージアムマップによれば天草には20の施設があるという。しかし、長崎や熊本の地図や案内、ガイドなどがこんなに充実しているのだろう。しかも、ほとんど無料である。薄目ではあるが、持ち運びに良く、市販にものより使い勝手が良い。

でも、やはり、天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を知るためには、通りすがりの見学では追いつきませんなぁ。入門知識くらいが得れれば喜びますわい。

車を駐車場に入れ、外へ出た。駐車場の前にはマリア像が雨に濡れ静かにたたずんでいた(動き回っていたら恐い)。館の入口には、天草四郎像があり、出迎えてくれている。

早速中に入り、パンフレットなど入手。こちらでは、天草・島原の乱を中心に、天草キリシタン史を4つのゾーンに分けて展示している。


●天草四郎は雨でも頑張る●.jpg

●天草四郎は雨でも頑張る●



[天草キリシタン史]
エントランスから入ると、いきなり、《天草四郎陣中旗》が目に飛び込んで来た。これによって「観光」という視点から、「歴史の検証」というような視点になり、大げさだが、思わず居住まいを正してしまった。この「展示スペース」が「歴史そのままの空間」に変わったとでも言えようか。

この旗は「歴史の証人」として扱われている。そりゃあ、日本キリシタン史の代表的な資料なのだから。もちろん、展示されている物はレプリカであるが、本物そっくりに作成されているらしい。

ちなみに、日本で展示されている国宝や重要文化財などは、建物以外はまずはレプリカである。文化財に指定を受けると、所轄の官庁から、精巧なレプリカの作成と、それを展示することが求められるという。

したがって、よほどのコネがない限り、建物以外、実物を観ることはないと言える。それが嫌な所有者は、初めから「レプリカ」と説明して、置いているのかも知れない。

さて、この《天草四郎陣中旗》には、中央にキリストの十字架が描かれ、その下にワイングラス。その両サイドには羽をつけた信者が跪き、手を合わせている(一般的に、十字架+キリストは、カトリックの象徴とされ、プロテスタントなら十字架だけである。だからこれはカトリックの絵であると判断できる)。

本物の旗には、戦いの最中に、槍で突かれ血糊がついた跡が残されていたらしく、こちらにも。その跡などが鮮明に写されていた。

佐藤は、その旗に釘付けになった。しばし、見入ってしまったのだ。おいおい、初っぱなからこれでは時間が足りなくなるぞ。しかし、これが天草・島原の乱で使用され、参加した人々の心のよりどころになっていたとすれば感無量である。

なんせ、天草のキリシタンと、島原のキリシタンwithキリシタンじゃない町の人の想いも考えも、実は、全然乖離していた。

正直、天草四郎を始め、天草のキリシタンたちは、こちらに合流するべきではなかったのだと思う。この乱の性質は、純粋な宗教戦争などではなかったからだ。

この時代の日本で言う、キリシタンとはおおむねカトリックを指している。本来は、プロテスタントも含んでいる表現なのだが、幕府はそうは考えなかった。だから、オランダは、プロテスタント国だから比較的フレキシブルであり、厳格とも言えなかったようで、「キリスト教徒」には見えず、拒否されなかったようだ。

[南蛮文化の伝来と天草]
ここでは、キリスト教の伝来から天草・島原の乱勃発までをキリスト教の隆盛と、禁教令によるキリシタン弾圧という激動の時代が紹介されている。

宣教師の人々は、その地域に住み、その地域の人々と共に暮らすことで信頼を得ることで、ようやく布教活動ができた。しかも、神の教えだけではなく、学問や農業・医療の知識などを持ち、その土地にあった耕作物の指導も行い、そしてその土地で骨を埋める覚悟で赴任する方々も多くいた。

苦労の末、ようやく布教ができ、信者が増えたころに、今度は禁止令によって身を隠す生活を余儀なくされるのだ。

それだけではなく、キリスト教弾圧ということで、幕府は絵踏みなどによって、キリスト教徒を発見し、追放あるいは拷問し、棄教を求めるなど、挙げ句の果てには見せしめのために処刑までしているのだ。このあたりは遠藤先生の本を読んでいると身震いするほどですよ、はい。

これらの仕打ちの恐ろしいことは、元々、農民や下級武士たちが、搾取され低待遇で使われていることへの不満を、より弱い立場の者に転嫁させる役割もあった。そう、ガス抜きのようなものである。

ここでは、たまたまキリシタン、そう、たまたまなのだ。幕府からするば、口実があり、弱ければ、なんでも良かったのだろう。

実際、江戸時代の新潟・佐渡送りにされた罪人は、重罪犯や凶悪犯というわけではなく、気の弱い犯罪者ばかりであった。そうでなければ、随時、佐渡に鎮圧部隊を置いておかなければならなくなる。ううん、幕府のえげつない一面とでも言えようか。

[天草・島原の乱]
ここでは、年表と資料や、武器などを展示して、戦いがどのように行われていったのかを案内している。

天草・島原の乱の発端は、松倉勝家が領する島原藩のある、肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮したことである。幕府軍125,800人、キリシタン軍37,000人であった。ちなみに関ヶ原の戦いは、東軍88,880人、西軍83,200人である。

佐藤は、例の遠藤先生本を読んでいる最中であったため、この資料に引き込まれてしまい、時の経つのも忘れ、しばし、その場に立ち止まって、その説明文を読みふけってしまった。

領民たちが起こした一揆も、原城にて終焉を迎えるのだが、それはそれは、たくさんの命が失われた。

まぁだから、原城址などは、いくら世界文化遺産に含められたとはいえ、場所が場所なだけに簡素化したままである。名古屋城や島原城のように再建なんかできない。なんせ、いまだに何万もの遺骨がそのままらしいのだ(ヒソヒソ)。

しかも、地元の方々からは、「あそこは〈あれ〉が出るから、夜は絶対行かないほうがいいよ」とマジで止めて頂けるという。これは司馬先生の行ったころから変わらない。

そもそも、正式なキリシタン(本来、仏教徒もだが)は、霊の存在を認めないのだ。だからこそ、遠藤先生が地元の彼らを「キリシタンの末裔」と認めないのかも知れない。まぁそれは別に双方、自由だとは思いますが・・・。長崎はホントに幽○話が多いらしい。

[乱後の天草復興とキリスト教信仰]
当時の幕府は、天草・島原の乱で多くの犠牲者が出たため、各地から島原への移住策を進めた。ここらへんは、幕府の有能なところだろう。天領から、たとえば、各場所、100人ごとに1人を選ぶなどで移住させ、年貢を数年減免するなどで対処したようだ。

そのせいで、長崎や佐賀などの近隣の農民がひそかに移住してしまうなどの問題も起きたらしい(笑)。まぁ期間限定ではあるが、タックス・ヘイヴン(tax haven/租税回避地)ではそりゃあねぇ。

いまでも、人口ランキングが当時の島原状態に近い、47都道府県での47位のT県や、46位のS県でもやって・・・、いや、なんでもないです。

一方、キリシタンの中にも生き延びた者もあり、その人々は隠れキリシタンとなり、自分たちの信仰としての十字架やマリア像やキリスト像を形を変えて隠し持ち生きながらえて行った。

マリアとは、カトリックでも、本来神様扱いではないのだが、天の神様(父=唯一神)の分身とも言える、イエス・キリスト(子=唯一神の分身)に「取り次いで頂く」役割があり、キリシタン初心者の日本人を、フランシスコ・ザビエルがマリアに捧げたとも言われている。

ちなみに「聖霊」(せいれい)とは、いささか表現が難しいが、神様の「不思議な力」(神秘的な力)などを指していると思われる。奇跡とも言える。

やがて、開国からまもなく長崎に来た宣教師たちは、大浦天主堂を建設。居留地の西洋人のために宣教活動を行い、その宣教師と浦上村の潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに信徒達が信仰を表明したのだが、再び弾圧が強化され、摘発事件が相次いで起こった。

これに、西洋諸国から当然ながら、強い抗議が相次ぎ、1873年に明治政府は禁教の高札を取り除き、ようやくキリスト教が解禁された。まぁ、西郷(せご)どんをみるまでもなく、明治政府も名ばかり政府であった。

西洋諸国の弾圧の善し悪しは別に(人道的には完全な悪)、本来、信教の自由、不自由は、その国の主管の問題であり、これらは内政干渉にあたると思うのだが、日本に跳ね返す力はなかった。今でも、某・西洋花札大統領に振り回されているのと同じ構造だ。しかし、これは世界中が標的ではあるのがねぇ。

いやいや、ものすごい、時代の時間空間をさまよって、現代に帰って来たような気がした。「歴史を学ぶ」というのは、難しい感じや歴史用語、人名を覚えることも必要だが、「肝」(キモ)を押さえることが、悪しき歴史を繰り返さないためには必要である。サッカーのロシアW杯でも、日本対コロンビア戦でも、そのことが実証されていたと思う。

我々が、館を出たときに、雨の中にもお日様の光を感じたのは気のせいだったのかな? さてさて、先を急がないと!


【道の駅・有明リップルランド】
ここからは、再び「道の駅」のマグネット獲得の旅となる。我々は国道324号、通称・ありあけタコ街道を走っています。ありこちにたこの文字が観られるようになった頃、車は道の駅・有明リップルランドへ着いた。

ここは、物産館はもちろん、温泉施設も併設していて賑やかな所でした。雨が降っているにもかかわらずお客さんが多く訪れていた。ひゃ〜参謀は、早速、同道の駅、トレードマークのたこの写真入りのマグネットをゲット!

混んでいたので、再び車に戻って出発。雨は容赦なく降り続けている。ここは、海岸線を巡る道。本来であれば有明海が輝いてみえるはずだが、あ〜あ、残念。でも、長崎→熊本→福岡→佐賀→長崎と有明海の周囲を一周廻ってしまったが(笑)。


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●天草キリシタン館前●



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●悪天候のせいか、荒荒しい有明海●



【道の駅・上天草さんぱーる】
佐藤は、ナビ様に次に行く場所をインプット。ナビ様に導かれるままに行くと、いつしか国道266号線に乗って、島から島を結ぶ天草五橋を渡っていた。

無事、道の駅・上天草さんぱーるに着いた。車から降りた我々は、よさげな食堂があったら昼食にしましょうといいつつ、中に入った。

すると、なんてこったい。よさげな食堂というより、旬の魚を楽しめる、併設のレストランがあった。さらに、店の前には入店待ちのお客さんが列を作っている。しかも地元民らしき方々である。

店の前にある看板には魅惑的なメニューが書かれ、値段がリーズナブル。これなら地元の人で賑わうのも当たり前だろう。

佐藤が入り口で順番待ちをしている間に「ひゃ〜参謀」は、お目当てのマグネットを探しにふわふわと漂いながら(?)、物産館へ入っていった。

すると、ここには2種類のマグネットがあったそうな。1つはこちらでとれる鯛やかに等の写真をモチーフにした物と、もう1つは、国道266「美と癒しと食」を満喫する天草路と書かれた物があったそうな。結果、彼はシンプルな方を選択し、それを抱えて満足気な顔で戻って来た。


「さっきのタコは生きているヤツ(たぶん)だったけど、ここのは、死んださか・・・(強制終了)」


まもなく我々は店に入り、海鮮丼を注文した。ちなみにこちらの海鮮丼は、その、○○○○○なの鯛が入っており、美味かったなぁ。そうそう、お魚いり餃子(「このしろぎょうざ」)というのもチョイスした。確かに変わった味の餃子である。

こうして、我々は、地の物を頂き大満足。再び元気になって次をめざした。


●上天草のレストランでで海の幸を頂く●.jpg

●上天草のレストランでで海の幸を頂く●



●どこの海でも、道路でも荒荒しい?●.jpg

●どこの海でも、道路でも荒荒しい?●



●天草五橋を疾走●.jpg

●天草五橋を疾走●



●道の駅・宇土マリーナは休み、だが近くに古代の船が!●.jpg

●道の駅・宇土マリーナは休み、だが近くに古代の船が!●



【三角西港と浦島屋】
浦島屋は明治期に旅館(外見は洋風ホテルなんだが)として建てられ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生が、明治26年7月22日、長崎からの帰途に立ち寄り、『夏の日の夢』と題した紀行文の舞台となった旅館である。


●浦島屋(復元)のステキな外観●.jpg

●浦島屋(復元)のステキな外観●



長崎滞在では、ハーン先生は、どうやら西洋の快適さを求めたようだ。しかし、エアコンがない時代だから、それは無理だったろう。

夏の日の夢』は、文庫などでは絶版で手に入らないが、ネットでは全文読むことが可能である。この話は、「浦島太郎」の再話(作り直し)とされる。

日本の童話や昔話を扱う上で注意が必要なのは、この時期の童話の多くは、巌谷小波という童話作家の大家が、元々「再話」されてしまっているものも多いことであろう。

この方は、明治期の子どもたいに合う、道徳規範にするため、大幅に改変されている童話もある。桃太郎などは、鬼ヶ島から流れてきた、大きい桃も、ジイサマ、バサマ(といっても30代なのだが)が拾って食べると若返り、普通に子作りをして、桃太郎が生まれる話だったりするんで、そりゃあ、まぁ・・・。そんでそういう部分を改変すると、我々が知っている、よくわからない童話になる(笑)。だから、明治期の昔話はそのまま昔の伝承とは限らないのだ。

もう1つは、ハーン先生は、すべて、読者対象を欧米人として、書いていることを忘れてはいけないだろう(英語かフランス語で書いたものしかない)。しかも、まだ、先生のキリスト教などに対する考え方もかたまっていない。

早過ぎた晩年、長男に「聖書」を大切に読むことを伝えている。これから考えると、プロテスタントの考えに接近していったのかも知れない。

また、セツ夫人との関係も微妙な時期に差し掛かっていたとも言える。再話の浦島太郎ハーン先生)が、竜宮城から帰る先は、セツ夫人の待つ世を指していると思われ、どうもあまり帰りたそうでもないのだ。37℃を超える気温と言われた長崎や天草の旅館でもだ。試しに一度真夏にここに来てみたいが、暑いだろうなぁ。

この旅館の建物は、日露戦争後に営業は止め、傷病兵の収容施設になったそうで、明治38年には解体され、中国の大連に運ばれたが、平成5年、設計図を元に熊本県が復元している。

「ひゃ〜参謀」は、ハーン先生の動向を調査しているが、以前から浦島屋があることをリサーチしていたが、天草に来る用事がなかった(笑)。

情報では、中に喫茶店があるはずだった。現在は無い。また、宇城市が公募中らしい。喫茶店で、飲食を通して、世界文化遺産の三角西港を訪れる観光客の皆さんの満足度を高めたいという。うん、間違いなく景観は良いが、それだけで客は呼べないと思う。

そもそも、客が呼べないから世界文化遺産にしたいのだろう。ホンネでは文化財として保護したいわけではない。日本の経済力で、世界文化遺産には、ボコボコできるが玉石混合である。

なんせ、日本は国連教育科学文化機関(ユネスコ)への分担金がトップの国なのだ(アメリカは1位とされるが払っていないし、あの大統領さんがユネスコに脱退を通知した)。

もし、町起こしや経済の活性化を狙うなら、近隣の大都市圏から無理なく日帰りでもいける、群馬県富岡製糸場のような立地条件や、静岡県伊豆韮山の反射炉のような、温泉や観光のついでに見れるようなコンパクトだが、内容が濃い施設を作らないと、産業の振興にはつながらない。

それは島根県出雲大社の一連の遷宮などを見ればわかるだろう。そもそも、集客が可能であれば、制約の多い世界文化遺産などにしなくても、客が入り、文化財としての価値も変わらないのだから。


「境内にまわしを着けたうさぎさん像を作られるくらいなら、世界文化遺産にでもして制約したいぜ。神社はアミューズメント施設ではないからな」
(「ひゃ〜参謀」)


という意見もあるにはあるが、佐藤としては、大国主命の神様が良いなら良いですよ(笑)。

さて、館内は、我々が立ち寄ったときには、もはや喫茶店は片づけられ、蘭の花鉢が置かれて、甘い香りをただよらせ、どこぞの紳士・淑女が集っていた。「妖しか?」

はたして、中に入ってよいものやらと躊躇したが、中を除いても注意もされなかったし、影もなかった(ウソ)。堂々と入らせて頂いた。

ハーン先生がらみの物はあるのだろうか。うん? ありましたよ。ありました。それは1階の隅にまとめて展示されていた。なんか寂しい気がするな。我々は、10年間、島根県松江にある小泉八雲旧居を訪れていたからねぇ。それでも感無量であった。

そこにかかっていた、ハーン先生の横顔を拝顔し、


「お懐かしや、ハーン先生!」


と、記念写真を撮らせて頂いたのは言うまでもない。出雲大社売布神社などの島根県の神々様と同様、今でも先生は我々の神様なのだ。


●浦島屋でハーン先生と記念写真●.jpg

●浦島屋でハーン先生と記念写真●



後日、この稿を書くために、浦島屋の情報を集めたところ、現在は、休憩スペースやイベント等の開催に使われているとのこと。なぜか? この浦島屋については県と市が協同で公募したが、応募が無かったという。なんとも残念である。

市では、引き続き地域振興のための活用策を検討しているらしい。もっと、小泉八雲天草記念館とか、ラフカディオ・ハーンあまくさミュージアムとかでも作らんと、集客は難しいと思う。松江のように小泉八雲旧居(余計なものは足さない)と、小泉八雲記念館(集められる情報は全部集める)が並んで存在し、小泉 凡先生という、ご子孫が指揮を取れば一番いいが、そうは簡単にはいかない。

観光客は何を見に来るのか。また、観光客が対象じゃないければ、誰に見せるのか。多くの世界文化遺産は、それに対する展望が見えないのだ。自分たちが日常的に見飽きて、じゃ他人にも見せてやるか、くらいの感覚なんじゃないのかと疑いたくなる。

天気が良ければ、それはそれは、美しい風景が見えるのだ。ハーン先生の生まれ故郷に似ているのかも知れない。うまく自然と人工施設をマッチングして欲しい。あんまりないんだよな、リピートしたい施設が世界文化遺産にね。


●三角西港公園からみる天草五橋●.jpg

●三角西港公園からみる天草五橋●



どうもハーン先生のことを述べると心穏やかにはなかなかいきませんて(笑)。

その後は、九州自動車道に乗って一気に長崎空港をめざした。途中、北熊本SAでソフトを食べて休息し、佐賀県の金立SA等で秀樹グッズ(?)を手に入れ、休み休み、再び長崎県へ入った。


●北熊本サービスエリア(上り線)でソフト!●.jpg

●北熊本サービスエリア(上り線)でソフト!●



【道の駅・彼杵の荘(そのぎのしょう)】
爆走していると、標識に道の駅・彼杵の荘の文字が見えた。そこで、我々は東そのぎICで降りて、立ち寄ることにした。

ここは歴史公園の中にある道の駅である。我々は駐車場に車を置いてそそくさと中に入る。すでに閉店間近な時間でもあり、係の方々は片付けに追われていたが、お店の方にマグネットはありますか?と尋ねて探したが、残念ながら売り切れであった。

しかたなく、とぼとぼと、駐車場方面へ歩いていると、奥の方に古墳らしき物が見えるではないか。古墳の大好きな2人にとって、これは見逃せない。そこで、ちと、のぞき見に出かけた。

凄いぜ。これは「ひさご塚古墳」というらしい。感覚的には、円墳かと思いきや、前方後円墳であった。なお、いい(笑)。

歴史公園東彼杵町・歴史民俗資料館のホームページによれば、この古墳は「ひさご塚」といい、長崎県の代表的な「前方後円墳」である。長い年月の間に周辺が削られひょうたんの形をしているところから「ひさご塚」(瓢塚)と呼ばれてきたという。

今から約1,500年前にこの地域を治めていた有力な豪族の墓とされ、地元では、神功皇后応神天皇の母親)の三韓征伐のおり、武内宿禰(大臣)の配下として従軍した武将の墓であると言い伝えられている。

1950年、県指定の文化財(史跡)となっていた。なんと、同公園内の歴史民俗資料館に副葬品などが展示されているらしい。

九州は、宮崎県と鹿児島県の神武天皇圏と、それ以外の応神天皇圏が交差する場所である。長崎県・佐賀県・福岡県・大分県は、応神天皇と神功皇后(本来は親子ではない関係かも知れない)関連の古墳や遺構、神社、スターウォーズの「ハンソロ」みたいな、スピンオフ(spin off)神話などが盛りだくさんのエリアで楽しい。

もちろん、2人とも興味津々(笑)なのだが、もうやっていなかった。機会があったら再度訪問したい。


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●OH!ひさご塚古墳●



さてさて、これにて、2泊3日の見聞は終了。最後無事に車を返したときに、ニコニコレンタカーの係の方が明るい笑顔で迎えてくれたのが印象的であった。


返却後、長崎空港で残り時間を楽しんだ。空港内で軽い夕食を摂り、今回はグラバー園近くの岩崎本舗で、角煮まんじゅうを頂けなかったので、空港内の店舗で手に入れた。その際、同社のゆるキャラ・角煮まんじゅうちゃんを持って買いに行った。すると店長らしきさっそうとした若者がそれを見て、


「ああ、それ初代のですね!(今は二代目らしい) 僕、そちらの作りの方がかわいくて好きなんですよ」


ですと。ハハハ。うまいぜ! 長崎の食べ物と接遇にはやられっぱなしであった。こうして、名残り惜しいが長崎の地を後にした。また長崎にも来れることを楽しみにしておりますぞ。皆さま、ご自愛ください。



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●長崎空港内で軽く夕食●



●長崎空港ロビーで角煮まんじゅうで軽く(?)おやつ●.jpg

●長崎空港ロビーで角煮まんじゅうで軽く(?)おやつ●



(意見陳述した患者さんに「いいかげんにしろ!」というやじを飛ばしていた議員がいたらしい。それはそのまま、あんたに言いたいぜ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:15| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月13日

奮闘記・第1059回 見聞録/長崎県

●2018年● 長崎市

長崎見聞《異聞》録

〜現在から過去、再び現在を満喫ロード〜



皆さま、お元気でしょうか? 佐藤はなんとなく元気ですよ(笑)。

さて、長崎シリーズは、2回目だが、今回は「潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その2)」ではなくて(相変わらずあるかないかわかりませんが・・・)、長崎での研修会(こちらは研修会のツボにて報告済み)前後に行った、長崎市内の見聞録である。

我々は、朝、宿泊地のホテルベルビュー長崎出島出島キッチン クローバーにて朝食をとった。だいたいホテルの朝食はバイキングスタイルであり、こちらもそうであった。

佐藤はお皿に野菜をメインに載せて食卓についた。朝から、日本の食事を満喫!味噌汁がうまいぜ。地元の名物カレー等もあり、 「ひゃ〜参謀」もご機嫌であった。写真は次の日の朝食のものだが、なんと皿うどんまで出てきたのだ。

ホテルを出発して向かった先は、鎮西大社諏訪神社(長崎諏訪神社)である。


●キッチン出島 クローバーの朝食!●.jpg

●キッチン出島 クローバーの朝食!●



【鎮西大社 諏訪神社】
鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様であり、現在は、厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬されているそうな。

以前、長崎近郊は、キリシタン大名が多く、戦国時代はイエズス会の教会領となっていたため、かって、現・長崎市内にまつられていた、諏訪・森崎・住吉の三神社は、焼かれ、壊され、ひどい目にあっていた。

それとは別に、キリシタンへの弾圧もたいがいなもんで、あまりにひどすぎるが、キリシタンはキリシタンで、やり過ぎの面もあろう。暴力は暴力を産みやすい。こういうことをやっていては、なかなか同情はされにくくなるだろう。神社は、寛永2年(1625年)に再興され、長崎の産土神となった。ここは《対キリシタン》の幕府側の要塞のような役割もあったかも知れない。鳥居も威圧するため、大きく、銅製の鳥居が作られた。


●長崎諏訪神社参道●.jpg

●長崎諏訪神社参道●



いきなり、余談だが、明治24年(1891年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生は、松江から熊本の第五高等学校に赴任した。そんで、明治26年7月21日から長崎に2泊の予定で来た。

7月21日の早朝3時に長崎港に到着したが、まだやってなかった。数時間後、南山手の当時のベルビュー・ホテル(現・全日空ホテルグラバーヒルの場所)にチェックイン。もちろん、朝になるまで待たされたが長崎港の朝日の素晴らしさを賞賛していた。

ここでのハーン先生は、外国人気分であっただろう。当時のベルビュー・ホテルは外国人専用のホテルであり、わざわざ選んで、お忍びで出かけているからだ。やはり誰だって自由な時間は欲しいもの。

「でも、ハーン先生。その時期にエアコンもない時代の長崎に来たら、もう暑くて、暑くて、暑くて、暑くて・・・・」と思ったが、案の定、滞在そうそうに数日で熊本に帰られたようだ(笑)。

目的は公式には不明。でもハーン先生が日本来るきっかけになったピエル・ロチ氏(フランス)の長崎を舞台とした小説『お菊さん』関連の資料収集か、舞台となった長崎を見ておきたかったのかも知れない。

先生は、心の中の思いを、ある時は本音を、決して無暗に語ったり、記録したりはしない。それが他者に漏れれば、自分の評価がどうなるか。また、自分が生きにくくなり、周りががっかりするのを、きちんとわかっていた人なのだ。たとえ自分が死んだのちであっても。

本音で暮らしていけるのは、すぐ帰国できる外国人だけだろう。ハーン先生そういう心遣いも、ある意味保身もできた人なのである。

長崎の景色はふんだんにほめている。そのハーン先生が、この長崎諏訪神社の参道入り口に立っていた金属製の一ノ鳥居だけは許さなかった。

「私が今まで日本で見たうちで、最も醜いものだ」

とまで言わしめた。しかし、この鳥居は、かって幕府がキリシタンを威圧する目的で作られたもの。ごっつくても、大きくても、仕方がないのである。

ハーン先生は、初めキリスト教に反感を持ちつつも、最終的には、キリスト教の理念に心を寄せていたと思われる。であれば、そのような目的の鳥居など、許せないのかも知れない。素晴らしくも難しい、マインドの持ち主である。でも決して記録には残したりしないし、あくまでもキリシタンというわけではない。

しかし、その鳥居は、結局、戦争中、金属がいるってんで、扁額以外、軍部に持っていかれた(扁額は天皇の筆)。われわれが今見れる鳥居は、戦後立て直された石製である。

さて、話を今の長崎諏訪神社に戻そう。


●長崎諏訪神社拝殿で大吉●.jpg

●長崎諏訪神社拝殿で大吉●



佐藤は、研修会の前には、その地域にある神社に参拝している。はじめて来たときは、暑い夏のさなかで駐車場もわからず、ちと遠い所に留めたので汗をかいての参拝であった。2回目以降は、神社の中にも広い駐車場があることがわかったため、そちらに停めている。

長崎諏訪神社内には、幼稚園がある。そのため、子どもを送り届けるためにお母さん達が入れかわり車でやって来て、車から降りて、長い階段を登っていると、下の方で子どもの声が聞こえてきた。

やや早口で滑舌も悪い(笑)。

「神様今日1日ムニャムニャムニャ・・・ください」と。

すると、そばにいたお母さんが「そんなんじゃ神様に伝わらないでしょ!ちゃんと言いなさい」と諭している。

でも、そこは長崎の開明的(?)な子どもである。

「大丈夫、神様はちゃんとわかってるって!」

それ以降も、子供らはお母さんと一緒に階段下に来ては手を合わせ、幼稚園の方へ向かった行く。こうして毎日お参りするんだから素晴らしいではないか。きっと、神様はみんなを守る事に必死であろう。

我々は、このようなやりとりを聞きながらこころ和やかになりつつ、階段を登っていった。そして、拝殿前にて参拝し、拝殿にて、神様に長崎の来れたお礼と研修会の成功を祈念した。


ちなみに、祓戸神社は、駐車スペースより下の階段の途中にある。そこには福澤諭吉先生の銅像も近くに立っている。

なぜ像があるのか? この近くには、長崎遊学中の福澤先生が使用したと伝わる井戸(共同)があって、『福翁自伝』にも「上方辺の大地震」で足を滑らせ、あやうく井戸に落ちそうになった井戸として出てくるという。

この福澤先生。のちの政治家・若き日の尾崎行雄氏が、執筆する際、「わかる人がわかればいい」といったところ、

「ばかもの! 猿に見せるつもりで書け。俺などはいつも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれでちょうどいいのだ」と言い放ったという。これはステキだな!

でも、福澤先生。介護業界の場合、書いてるほうも猿という疑いが・・・(笑)。それはともかく、「天才バカボン」のパパは福澤先生がモデルなんじゃないかと思うくらい、若き日の福澤先生は、いつでも、キレッキレで、強烈なかたでありました(やはりダテに1万円札にはならないな!)。

参拝後、社務所横のおみくじ箱から女みくじをひくとなんと、大吉。ハハハ。そう、神様はみていますからねぇ。

ちなみに長崎諏訪神社は高台にある。鳥居の内から外を眺めると、坂の町・長崎を眺望できるのだ。佐藤は、その景色を眺めて、本日も張り切ろうと決意を新たにし、我々は研修終了後には、なんと長崎県歴史文化博物館にいた(笑)。


【長崎県歴史文化博物館】
こちらでは、《明治150年記念特別展「写真発祥地の原風景 長崎」〜写真で振り返る幕末・明治の長崎〜》が開催されていたからだ。うちの「ひゃ〜参謀」が写真展やカメラが大好きなのだ(笑)。

この写真展は、目黒区の東京都写真美術館で、今年の3月から5月までやっていた展覧会の巡回展であろう。しかし、本場の写真発祥地の長崎で観れれば、こりゃ格別である。


●長崎歴史文化博物館にて●.jpg

●長崎歴史文化博物館にて●



手に入れたチラシには、明治150年を記念し、近世から近代への転換期を古写真からご紹介しているとあった。以下、ホームページによる。

長崎は幕末には、写真やその技術がもたらされ、外国人写真師や上野彦馬をはじめとする長崎ゆかりの日本人写真師が活躍している。本展では、写真発祥地ともいえる長崎を「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を通して捉え、幕末から明治の長崎の再構築を試みている。

江戸時代は約150年前に終焉し、日本は西洋的近代国家へと向かった。長崎は、それより前の開港期に写真が渡来している。その写真は江戸時代から明治時代への転換期を捉え、現代に伝えている。

長崎は、江戸時代には、すでに海外に開かれた窓口であった。そこで世界のモノや情報がもたらされているのだ。なんと、幕末には写真やその技術がもたらされ、長崎を訪れたピエール・ロシエフェリーチェ・ベアトなどの外国人写真師が、長崎を捉えた写真を残しているのだ。

さらに、写真開祖と呼ばれる上野彦馬(うえの・ひこま)をはじめ、内田九一(うちだ・くいち)、薛 信二郎(せつ・しんじろう)、竹下佳治(たけした・よしはる)、清河安武(きよかわ・やすたけ)、為政虎三(ためまさ・とらぞう)などの長崎ゆかりの日本人写真師が写真文化を普及していくために長崎は写真発祥地ともいえるのだ。

本展では、写真発祥地「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を中心に、写真を支える台紙や写真アルバム、古地図や絵画・工芸品なども取り上げ、幕末〜明治の「長崎」を振り返っているのだ。

展示は4章仕立てである。

〔第1章〕
江戸期の長崎として、日本写真史の起点となった江戸時代の長崎とその文化を国内外の視点から長崎版画や古地図、旅行記などから写真以前の長崎の姿に迫っている。長崎港図では、長崎港か突き出た出島があり、長崎港には帆船が浮かび、異国ムードがたっだよっている。

出島が現在は埋め立てられており、なかなか想像するのも難しいが、実際、現在の出島の前に立ち、現在の長崎港の出島ワーフにも何度か来ると、「おお!」という感じがわかって来る。やはり、どこでも何度か来ないとわからないことがあるのだ。

〔第2章〕
長崎と写真技術として、写真技術が渡来して間もない頃に焦点をあてて長崎を訪れたロシェやザハトラー、ボードインなど外国人による写真の実践や上野彦馬ら日本人写真師による写真技術への取り組みが案内されている。こちらでは、着物に袴をはき、頭はちょんまげを結い刀を差している侍を写した写真が並んでいる。また、カメラなども展示されていて、「ひゃ〜参謀」はとりわけカメラを熱心に見ていたな(笑)。

〔第3章〕
長崎鳥瞰として、長崎市街や長崎港など、「長崎を写した」風景写真に注目を展示。数々のパノラマ写真などを通して、江戸時代から明治時代へと変わりゆく長崎を紹介している。この長崎鳥瞰は、景色を数枚の写真におさめ、それを貼り合わせてあるもので、日本家屋が密集している町並みを見ることが出来る。

これをみると、開港が許された土地は、横浜や函館も、海防に適しているところを選別しているのがわかりやすい。

〔第4章〕
長崎クローズアップとして、江戸時代の貿易都市長崎の象徴の1つ出島、開港期、居留地の象徴の南山手、長崎を訪れ「長崎で写された」人々などが紹介されている。なかでも長崎を来訪した人々をめぐっては、英語教師フルベッキや、長崎で学んだ佐賀藩士など長崎・佐賀双方にとってゆかりの深い人々を紹介している。

いや〜、ここではなんと幕末に一役かった多くの人物のありのままの人物をみることができたのは感無量である。ここに、たくさん名前が出てきたが、その中で重要なのが、写真開祖と呼ばれる上野彦馬である。

彼は、幕末期から明治時代にかけて活動した写真家であり、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られているのだが、司馬遼太郎先生の小説『胡蝶の夢』に出てくるポンぺ先生を教官とする医学伝習所に新設の舎密試験所で舎密学(化学)を学んだ英才である。その化学から写真へつながり(写真は化学薬品を多く使い、知識も必要)、写真術は洋書で学んだり、来日した外国人写真家からも教えを乞うたという。

また、江戸で、数々の写真を撮影し、共同で化学解説書『舎密局必携』などを執筆。長崎に戻り、日本における最初期の職業写真師(複数いるが)となり、上野撮影局を開業。ここで、われらがよく見る、坂本龍馬高杉晋作桂小五郎などの若き志士や明治期の名士の肖像写真を多く撮影する。

さらに、西南戦争の戦跡(従軍写真)の撮影、後進の指導としての貢献度もあり、その他多くの功績を残し、明治37年(1904年)、長崎で死去(享年67)。医学や化学の知識もあり、写真術もあり、語学もできる。いや、凄い人材が明治期には存在したのだなぁ。まぁ、佐藤などは写真技術などはまったくわからないが、過去に活躍した本物の写真を見られたことに大満足である。

その後、ホテルに戻り、一休みしたあと、我々はよるの長崎に繰り出した。


●明治期の写真機材●.jpg

●明治期の写真機材●



【酒場食堂 みなとや】
ここは、ホテルのすぐそばにある店で、昨夜散策していたときに、ちょっと気になったお店なのだ。道路の曲がり角にある角店で入り口が半間と狭い。外にメニューが掲げられてあり、和洋折衷なんでもあるようだ。さすが東西異文化交流の街。

そこで、新たな店も開拓しようと言うことで入ってみることにした。お店の中はカウンターとテーブル席があり、外見よりも広い。ドアを開けると明るい声で迎えてくれた。佐藤は、加齢のせいか、最近どうもビールがうまくない。そこで、黒霧島のロックを所望した(通常運転中)

そして、サラダや、空豆などつまみを食べて、「ひゃ〜参謀」はここまで来てもハンバーグと焼きおにぎりなどを頂いた。季節の食材が豊富にあるようで、様々なメニューが並んでいて楽しいお店であった。もちろん美味しかった。


●酒場食堂 みなとやさんで夕食●.jpg

●酒場食堂 みなとやさんで夕食●



●長崎市街を走る長崎電気軌道●.jpg

●長崎市街を走る長崎電気軌道●



【出島表門橋あたり散策】
さて、お腹もいっぱいになったところで、我々は出島周辺を散策した。昨年11月に出島に130年ぶりに「出島表門橋」が復元され開通したというのだ。夜はライトアップされるという。だから、歩いてその場所へ向かってみた。でも、夏場なら絶対余所者にはできないだろう、暑くて(笑)。

ここは、長崎市の国指定史跡・出島和蘭商館跡とを対岸をつなぐ橋である。当時は唯一「日本」と「外国」とが結ばれていた橋である。


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●国指定史跡・出島和蘭商館跡●



●出島表門橋の横に立つ●.jpg

●出島表門橋の横に立つ●



現在は、対岸も整備され当時のそれとは趣も違うが、新たにかけられた橋はシンプルではあるが、どこか異国を感じさせる優雅さを醸し出していた。この時間でも、橋を渡れば、出島に入ることもできる(要入場料)のだが、出島の中の店はすでに閉店しているとのことだったので、周囲を歩いてみるだけにした。

さてさて、あたりが暗くなった来たので、そろそろ、本日のメインイベント稲佐山へ移動するとしょう。


【稲佐山展望台】
長崎の夜景を一望できる稲佐山へは、バスとロープウェイで行くことができる。我々はバス停でロープウェイ下で下車し、長崎ロープウェイで登った。標高は333メートル、東京タワーと同じである。


●ここが稲佐山の頂点●.jpg

●ここが稲佐山の頂点●



展望台に登ると、そこは修学旅行の生徒たちが、わんさかいて、まぁ賑やかなこと。高いところがあまり得意でない「ひゃ〜参謀」(排他的高所恐怖症?)も、なぜか平然としていた(笑)。

まぁ、昨年来たときは、真夏で、強風が吹き荒れていた。だから、「ひゃ〜参謀」はもちろん、他の観光客も皆、手すりをつかんでヒャ〜ヒャ〜言っていた。

ここ、稲佐山は平成24年に、夜景観光コンベンション・ビューロー主催の「夜景サミット2012 in 長崎」において、長崎の夜景が香港・モナコと並び、「世界新三大夜景」に認定されている場所なのだ。


●長崎の世界新三大夜景●.jpg

●長崎の世界新三大夜景●



●稲佐山展望台からの風景は飽きない●.jpg

●稲佐山展望台からの風景は飽きない●



前回も登ってみたのだが、やはり長崎の街はほんとうに美しい。街のライトが海を照らし、海がキラキラと輝いている。昼は昼で良さげである。佐藤は、展望台を1周して、軍艦島や五島列島、大村港などの方面を見定めながら、改めて長崎県のでかさを体感した。

まだまだ、5月だと言うのすでに夏の香りがみていて、夜風が心地よかった。いや、夏場ならここでも汗だくだ。でも、長崎でもまだ5月なら、昼はやや暑くても、夜は涼しいのだ。

さてさて、いよいよ明日は天草へ渡る予定だ。雨が心配されるが晴れるといいなぁ・・・(結果はわかっていますが)。

皆さま、くれぐれもご自愛ください!


(猿カニ合戦は、結局、トランプなんかじゃ勝負は着かないのだろう。bye AMERICAN!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 20:31| 島根 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

奮闘記・第1058回 見聞録/長崎県&佐賀県

●2018年● 長崎県大村市・長崎県島原市ほか&佐賀県鹿島市


『道の駅』マグネット探訪の記

〜潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その1)〜



皆さま、お久しぶりです。(その2)があるかどうかは定かではないが、長崎県の研修会の前後で見た、長崎県佐賀県の見聞録です。まぁ久しぶりに長いですよ(笑)。

今回も、早朝に「ひゃ〜参謀」(以下、今回はH参謀とする)を車に押し込み、羽田から長崎へ飛んだ。

長崎では、前回に引き続き、ニコニコレンタカーをチョイス。まぁここは某県(北陸)で予約し忘れて、困って居たときに助けてくれて以来、気にいっているのだ(安いしね)。

この日、我々を乗せた飛行機は大きく揺れることもなく、墜ちることもなく、無事に長崎空港に着いた。空港を出て、ニコニコレンタカーへ連絡を入れると、待ち合わせ場所を指示してくれたので、速やかにその場所へ移動した。

ややや、するとそこにはすでに係の方が待っていた。出迎えに来てくれた車には、なんとニコニコレンタカーのトレードマークのお日様のぬいぐるみがは置かれていた。佐藤はお店につくまでそのぬいぐるみが気になって仕方がない。

H参謀は、なんの反応も示さないのだ(今は○ジェドさまに興味が全振り)。お店に到着後、係の方に断りを入れてそのお日様くんと記念写真を撮らせて頂いた。ハハハ。


●ニコニコレンタカーのマスコット●.jpg

●ニコニコレンタカーのマスコット●



佐藤はすでにニコニコレンタカーのメンバーカードをもっているため、手続きもスムーズに済み、手に入れたのは三菱・ミラージュ君であった。なんと三菱車には、はじめて乗る(結果、快適であった)。

車に乗り込むとH参謀が行き先を告げる。めざすは祐徳稲荷神社でそうだ。

ちなみに、この神社は長崎県ではなく佐賀県にある。長崎県ではないが、長崎空港からは意外と近い。それに長崎県はあんまし神社がないしな。

佐藤は、ナビ様に導かれるままに車を走らせた。この佐賀県の風景がまたいいのよ。長崎県も佐賀県も景色が良すぎるよ。

【祐徳(ゆうとく)稲荷神社】
駐車場に車を入れると高台に煌びやかなお社が見える。伏見稲荷大社、笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷(神社)とされる。佐藤は、というかH参謀があまり稲荷神社に行かないから、他の神社内にある、摂末社の稲荷社ぐらいしか行かない。なぜ行かないのか?「行きつけの稲荷社があるから」とのこと。行きつけがあれば、特に稲荷社はそこに集中する方が良いらしい。

じゃなぜ今回は行くのか? 見聞録をまわる際に御守護をお願いする神様が少ないから、隣りの県までお願いに行くのだという。特に今回はキリシタン関係もあるから念入りにだそうで、仏教系の稲荷社でなければとのこと。まぁそれに関しては佐藤も別に異存はない。

いや、キリシタン自体は気持ちがしっかりしているからいいのだが、信仰心がないものまでも多くが巻き添えにされている「歴史的事件」であるから、「何がいるか」わからない。これ、そもそも、地元の人も言ってるんだよなぁ。


「この時期になると、ここらにあれが出るのよ」

「あれって?」

「出るもんていったらあれしかないだろう!」

「だから何が出るんですか?」

「おれが生きてるうちは死んでも言えない」

「・・・・」



ともかく、我々は、気分として、Y田S陰先生のように、キリシタンへの激しい拷問があったとされる某温泉にわざわざ行って、その「現場」の下流で温泉に浸かり、「いや〜、極楽、極楽」とはいきにくい。まぁ・・・あの先生、一応武士だからな・・・。さて、話を神社に戻そう。


●祐徳稲荷神社はでかい●.jpg

●祐徳稲荷神社はでかい●



この神社のホームページの情報では、

貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主・鍋島直朝(なべしま・なおとも)公の夫人、花山院萬子媛(かざんいん・まんこひめ)が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されており、日本三大稲荷の1つに数えられている。

商売繁昌家運繁栄大漁満足交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、樓門等、総漆塗極彩色、宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称され、観光ルートの上にも一異彩を放っている。


ご祭神様は、倉稲魂大神大宮売大神天宇受売命猿田彦大神。まぁ、商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全の守護を標榜するには、欠かせない神々様達である。いや、どんなご利益でも標榜できる。もちろん、萬子媛が連れて行った稲荷大神は京都の伏見稲荷大社からである。

そして、境内にある石壁神社には、先の萬媛命(よろづひめのみこと:祐徳院殿・萬子媛)が祀られているとされる。

萬子媛は、後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘であるが、寛文2年直朝公にお輿入れになる。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所であった稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されたという。


萬子媛は、直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、2人のお子様をもうけたが、不幸にしてお2人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕え、以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられたときに石壁山山腹に巌を穿ち寿蔵を築かせ、工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ、邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)された。

萬子媛ご入定の後(祐徳院)も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われ、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称された。

「明治になったら、もう無理かな。関西ではともかく、関東では断然呼びにくいからねぇ。でも解説では、ずいぶん連呼されていたけど。まぁ現代じゃ名前を変えるしかないかなw」

とはH参謀。まぁ、江戸時代のかたですからね・・・。

地元ではゆうとくさんの愛称で親しまれている(そっちなんだw)。九州地方では、正月3が日の参拝客が、例年、大宰府天満宮に次いで多いという。

駐車場から参道に入ると、あちらこちらで記念写真を撮られている。しかも、外国人観光客が多い。けっこうアジアでも有名なパワースポットらしく、ドラマなどの撮影もあるらしい。

商売繁盛の神様で、参拝客が少なければ、説得力がないが、ここは満点であろう。その方々お邪魔にならないように、手水舎にて手を潤し、楼門をくぐり、境内に入った。すると、右手の高台にご本殿の屋根が見える。そう、まるで京都の清水寺のようだ。

ちなみに、この鹿島市から、茨城県の大生(おおう)神社鹿島神宮の本宮:もとみや)を奉斎する氏が来たとも言われている。茨城県の鹿島町が市になるとき、同じ名前が名乗れずに、「鹿嶋市」になった。同じ市名があるのは、全国で1例(1組?)だけ。

佐賀や熊本の軍団が関東に移住してくる際、彼らは故郷を偲び、有明海や雲仙などの山々の風景に似ている、茨城の霞ヶ浦や筑波山の見える湖畔に多くが住み着いたとされる。福岡から移住して来た物部氏も九州の軍団である。

香取神宮は、阿波・忌部氏の氏神であり、香取大神=鹿島大神は成り立たない。都合の良い時だけ、「記紀」を材料にしてもなぁ。

さて、我々は、順路に沿って階段を登った。眼下には、日本家屋が並び、その向こうには有明海が広がっている(結局、有明海をぐるっと周回することになる)。

佐藤は、昨年作った『ケアプラン 困ったときに開く本』(技術評論社)が、さらに多くの方に読まれることを祈願した。もちろん、商売繁盛もだ!

参拝後、さすが稲荷神社。金運みくじというのがある。これをひくと、何と1番で「大金運」(いわば大吉であろう)と出た。わぁ、こんなことってあるのかとびっくり。もちろん、絵馬を奉納したのは言うまでもない。これ、いわゆる「凶」はなんなんだろうな・・・・(誰かは「小金運」)。

その後、後方に有った萬媛命が祀られている石壁社を参拝。また、参拝にこられるように導きくださいと願った。この上には奥の院もあるが、健脚な方は更に上をめざして登って行かれらが、我々は正反対の方向へ先をめざす身(笑)。今回はここにて失礼して下山した。次ぎにめざすは道の駅・鹿島である。


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●金運みくじは、大金運なり●



【道の駅・鹿島(かしま)】
道の駅・鹿島は、平成6年に佐賀県で第1号の道の駅として登録されている。ここは、ガタリンピックが開かれる会場でもあり、道の駅の後方は、有明海の干潟が広がっている。我々が行ったときは満潮で、有名な干潟をみることはできなかったが、岸壁には、干潟を走行する舟(板)が山積みされていた。ここでまず最初のマグネットを手に入れた。現在、有明海を左手に国道207号線を長崎方面に走行している。次ぎに立ち寄ったのが、道の駅・太良である。


●道の駅・鹿島のソフト●.jpg

●道の駅・鹿島のソフト●



●これが・・・まぁ干潟になるわけで●.jpg

●これが・・・まぁ干潟になるわけで●



【道の駅・太良(たら)】
ここは、海の幸が豊富に取りそろえて販売されていた。ほとんど、プチ魚市場。中でも竹崎カニが有名らしく、生きているかにも販売されていた。ちなみに「ひゃ〜参謀」はかにを食すのが苦手(でも食べることは食べる)。カニよりも、マグネットを入手でき、喜んでいた。

いよいよ、長崎県に戻って来た。島原でそうめん流しを食べる予定であったが、とんでもない! 佐藤のお腹が持たないぞ。しかし、国道沿いには、カニ焼きや蠣焼きの看板が並んではいるが、普通のレストランが見あたらないのだ。そうこうしているうちに、ようやくイタリアン・スパゲッティの幟をを立てた、お店を発見。佐藤は躊躇することなく店の駐車場に車を入れた。


【釜あげ生パスタ ぱすたろう】
外から中を眺めると数組のお客さんがいる。でも雰囲気が変わっているのだ。ドアを開けて驚いたのは、ここは家具屋さんか(?)と思うような様々なソファやイステーブルが置かれていることだ。


●開店したばかりのぱすたろう●.jpg

●開店したばかりのぱすたろう●



●生パスタは絶品であった●.jpg

●生パスタは絶品であった●



店員さんが、お好きなところへどうぞ、というので窓際の席を陣取る。よいしょっと。座るなりおしりがソファの中に沈み込んだ(笑)。「お勧めは何でしょうか?」と伺うと、「今の時期はアサリです」とのこと。

佐藤はアサリと地元野菜が入ったパスタを注文。H参謀には、有無も言わさず、おいしそうだからと厚切りベーコンの入ったカルボラ−ナを頼ませたw。もちろん飲物はコーラ。アルコールは厳禁だぜ! 冷たいコーラがのどの渇きを癒してくれる。

しかし、はぁ〜、釜あげパスタだけあって、できあがりまで少々時間がかかった。でも出てきたパスタは絶品。先ほどまで海鮮の文字しかなかった街道にこのようなイタリアンに巡り会えるとは、大満足。もちろんお値段もリーズナブルである。

この稿を書くにあたり、ネット検索したところ、こちらは2017年の12月にオープンしたお店で、宣伝する暇もなくリピーターで賑わって行ったらしい。以前はコンビニがあった場所だそうで、駐車スペースも十分ある。まぁコンビニが流行らない場所ってのが、少々心配だが。

私たちが入店後も、女性客が数組入って来た、どうやら地元の方々に愛されているお店らしい。ならば、良かった。皆さま、無くなったコンビニさん以上にお願いしますよ。

こういうお店ってさ、通い続けるところに意味があるんだけど・・・、諫早だもんなぁ。でも、佐藤も「また来たいお店」として、登録しちゃいますよw。

そんで、佐藤は、島原城をめざしている。車窓には、有明海の向こうに雲仙普賢岳がそびえていた。佐藤がナビ様に導かれるままに行くと、何と諫早湾の中を走行しているではないか。先ほどの山は真ん前にある。ちなみにその道路は、諫早湾横断堤防道路といい、長崎県諫早市と雲仙市吾妻町とを結ぶ広域農道だそうで、平成19年に開通した全長7kmの道路なのだ。

いやあ〜、気分爽快。車内の音楽も心地よさを倍増している。さてさて、この日の目的地、島原城に着いた。なんせ、今回は例の「潜伏キリシタン関連遺産」を巡る旅(?)を想定しておりましたからねぇ。ここに来ないと先へは進めない。


●釜あげ生パスタ・ぱすたろうのお店データ
[TEL] 0957-51-4134
[住所] 長崎県諫早市小長井町井崎954-9
[営業時間] 11:00〜21:00(L.O.20:00)
[定休日] 不定休。



【島原城】
現在の建物は、本丸の跡に天守・櫓・長塀が復興されたもので、城跡公園である。まさに雲仙岳の麓に位置していて、あれが噴火したかと思うと、結構こわい。山が割れ、火砕流がどぼどぼ、有明海に流れ出し、対岸の熊本とブーメランのように津波が繰り返し、双方襲うという事態になるのだ。・・・こわい、こわ過ぎる。ほんと裏山ぐらいの距離なんだもの。

城郭の形式は、ほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴であり、本丸は周りを水堀で囲まれている。近くに来ると、ただのお城(入場料はとる)であるが、濠の外から見るとなんとも見栄えがいいのだ。思わず、大人数で取り囲みたくなるのもわかる(おいおい)。

車から降りて、お城を見上げると、青い空に五層の天守閣が優雅にそびえていた。販売機のそばでは、島原城七万石武将隊に扮したキャストが出迎えている(地元では有名らしい)。


●島原城を攻める(?)●.jpg

●島原城を攻める(?)●



チケットを購入し、城中に入ると、そこには島原の乱(島原・天草一揆、天草島原の乱など、表現多数)が、年表と共に案内されていた。かなりの昔、社会科の授業で学んだことはあるはずだが・・・さて。

正直、こどもの頃は切羽詰まった感覚はもたなかった。しかし、この歳になって、改めて天草島原の乱の解説をじっくりと見るとそれはそれはすごいことが行われていたんだなと伝わって来る。こちらには子どもさん向けに「なぜ?なに?天草島原の乱」という解説書が置かれていたので、佐藤もゲットした。

島原城の公式ホームページの情報によれば、島原城は築城以来250年にわたる島原藩の歴史遺産やキリシタン史料及び郷土が誇る芸術家・北村西望氏の作品だそうな。

また、約198年振りに噴火活動を開始し、尊い生命や甚大な被害をもたらした「平成3年雲仙普賢岳噴火災害」の資料などが展示されており、過去から現在までの島原を知ることができる。

ちなみにこの噴火のとき、若きH参謀は、別の仕事で、島原とは対岸の熊本のホテルに宿泊していた。そのホテルの窓からは、夜でも、煌々と光り、流れる溶岩の流れが見えたそうな。

1階は、キリシタン資料として、華やかだったキリシタン文化や南蛮渡りの文物が展示されていた。戦国時代の終わりには、ポルトガル人が相次いで来航して、新しいヨーロッパ文化を伝え、島原地方にもキリスト教をはじめ、南蛮文化が栄えた。庶民の感覚とは別に、高山右近などの例外もあるが、キリシタン大名の多くは、貿易が主目的でキリスト教を誘致していただろう。

当時のここの領主・有馬晴信は南蛮貿易を積極的に進め、自らキリシタン大名となってキリスト教を保護した。領内各地に教会が建てられ、有馬にはセミナリヨ(初等神学校)が、後では加津佐にコレジオ(高等神学校)が開かれた。

当地の千々石ミゲルたち4少年は、キリシタン大名の大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。はるばるローマまで旅立って、教皇に拝謁するという快挙を成し遂げた。

この東西交渉史上の輝かしい1ページは、ここ島原から始まったのだ。このあとの「キナ臭い」伊達政宗の慶長遣欧使節(仙台藩とスペインとの貿易が目的)とはかなり趣が違う。ちなみにH参謀は、伊達政宗公の大ファンである。

しかし、その後、豊臣秀吉の宣教師追放令からはじまり、江戸幕府の禁教令と鎖国令による、激しいキリシタン弾圧が始まり、領民は棄教するか命を奪われるかの厳しい選択を求められた。いや、信仰していない領民がある意味、1番の被害者とも言える。

やがて、有馬氏に代わり、松倉重政が新城主として入国した。新城主は島原城を築城して、島原地方の治世を強力に推進した。その子どもの勝家の代になると、いや、もともと、見栄っ張りで、実際の収穫高以上を幕府に申告し、その分領民から根こそぎ巻きあげ、領民への苛政が続き、絶望した農民が一揆を起こして島原の乱となっていくのだ。

このような厳しい時代にあっても、信仰の自由を守り通した人々を隠れ(潜伏)キリシタンと呼んだ(でも全然隠れていないが)。他人の目に触れないように、イエス様やマリア様の姿を、他の像になぞらえて(誰がみても変ですが)、信仰を続けていた。その隠れ(潜伏)キリシタン関係の収集資料としては全国的にも有名で、貴重な資料が多く展示されている。

皮肉なことに、この展示されている城は、隠れキリシタンの大弾圧を行い、騒乱を巻き起こす原因の「いけない殿さま(松倉氏)」のお城なのだ。この乱のあと、「いけない殿さま」は幕府から厳重な取り調べを受け、改易(お取りつぶし)され、護送中、甲斐(山梨県)で斬首されたのだから、お察しである(斬首とは罪人扱い)。

天草人の明るい気質とは違い、まじめだが深刻味を帯びる島原人の気質の差が出たとも言える。まぁあれだけひどい領主では、しかたがないだろう。うん、でも・・・・。

やがて、天草四郎は3万もの一揆として農民をまとめ、3か月にわたる激しい戦い行れたのだ。

H参謀は展示を観ながら、「どうも、映画の「魔界転生」の、沢田研二扮する天草四郎のいう、エロイムエッサイム 我は求め訴えたり (Eloim, Essaim, frugativi et appelavi )の呪文で死人をよみがえらせる場面が頭から離れないぜ」とブツブツ言っていた。

まぁ当時の沢田研二さんなら、ほんとうにできそうな気がする(笑)。この呪文水木しげる先生の悪魔くんの呪文と同じである。

とにかく、島原の農民は「手強かった」のだ。これは領地転封の際、キリシタンであるゆえに、領主からお暇を頂き(領主もめんどうだから有り難かった)、地元に残り「地侍」となった農民なのだ。通常の農民や漁民ではない。だからこそ、幕府軍も九州の大名たちも、まじに手を焼いたという。オランダの船に依頼して、大砲を打ってもらったりした。それもなぁ・・・。

ここには、当時使われたとされる手作りの槍や打ち込まれた砲弾などが展示されている。その後、原城跡に篭城した農民たちは全滅させられてしまうのだ。さらに悲惨なのは、信仰していない農民たちも、その場でキリシタンの農民たちから、一緒に篭城するか、いまここで死ぬかの選択を強要されたとされていることだろう。

乱鎮圧の後も、厳しいキリスト教の取締りが行われており、踏絵や禁制立札、宗門人別帳などがそれを物語っている。ちなみに、「仏壇」が定着したのは、キリシタン対策のためであろう。

キリシタンは唯一神を信仰しているため、他の宗教のグッズ(?)を家に置くことに対して、多くが激しく抵抗したため、見つけやすかったからだろう。役人は、家に仏壇を置けるヤツなら、キリシタンではないという判断をしていた。でも日本人は融通が利くからね。

もともと、仏壇を家に置くのは、金持ちの貴族ぐらい。実際は、宇治平等院のように、大規模な仏壇を置く、寺院そのものを作っていたわけだが。

これを真剣に眺めていたら気が滅入る。ホント。当時の役人がしていたことはナチスのそれと変わらない。いや、本当は大層変わるのだが、ヤラれるほうからみれば同じだ。そんな過去に触れながら階段を登り、天守閣に上がると、そこには現在の平和な町並みが並んでいるが、噴火すると危険な雲仙普賢岳(手前は眉山:まゆやま)もすぐそこに見える。


●天守閣から眉山を見て、「島原大変肥後迷惑」を実感●JPG.jpg

●天守閣から眉山を見て、「島原大変肥後迷惑」を実感●



テレビなどの映像では、噴火した場所はかなり遠いように見えた。しかも、佐藤も以前も来たことがあるのだが、そのときは恐怖は感じなかったが、天守閣から見ると、町のすぐそこに、噴火した場所も確認できちゃうのだ。

今までもいくつものお城を制覇してきた。特に、会津の鶴ヶ城の展示も逸品であったが、こちらは信仰が絡んでいるだけにひどく重かった。城跡公園内の茶店で、島原の名物甘味「かんざらし」を味わった(うまい)ので、そろそろ長崎市へ戻るとしょう。


●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●.jpg

●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●



【道の駅・みずなし本陣ふかえ】
その後我々は、雲仙普賢岳噴火による土石流災害の爪跡を保存した『土石流被災家屋保存公園』に隣接した、道の駅・みずなし本陣ふかえに立ち寄り「↑雲仙温泉17q」というマグネットをゲットした。

【道の駅・夕陽が丘そとめ】
その後は、国道57号線にて雲仙岳の麓を回り込み、子イノシシ?に遭遇しつつも、ナビに従って、道の駅・夕陽が丘そとめにたどり着いた。外海地区は、厳しい弾圧を逃れて隠れ住んでいた長崎市の西北の街である。


●雲仙で子イノシシに遭遇●.jpg

●雲仙で子イノシシに遭遇●



時間が遅かったので、遠藤周作文学館やド・ロ神父記念館、文化村や黒崎教会などは入れなかったが、その洋風の街並みはまるで外国みたいであった。

ここらは、比較的寛容な佐賀藩の飛び地も混じっていたため、多くの潜伏キリシタンが存在したという。映画「沈黙」の原作の舞台である(映画自体は日本では撮られていない)。丘からは、角力灘にうっすらと五島列島や、さらに違う方向には軍艦島も見える絶景の地であった。ここには、マグネットはない。でもおいしい食べ物がてんこ盛りであった(笑)。買物の後、無事にホテルにチェックイン。いやはや、かなりハードなコースだった(笑)。


●道の駅・夕陽が丘そとめの絶景(角力灘)●.jpg

●道の駅・夕陽が丘そとめの絶景(角力灘)●




【海鮮市場長崎港から大浦天主堂下などの散策】
一休み後、大波止の懐かしい景色を眺めに散策に出かけた。夕食は。出島ワープの海鮮市場・長崎港にて、新鮮な海鮮丼に舌鼓。ここには長崎市に来る度に寄らせて頂いている。


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●海鮮市場・長崎港●



●長崎港を散歩●.jpg

●長崎港を散歩●



その後、市電に乗りまわり、ライトアップされた大浦天主堂などを眺めて来た。そうそう、われらがハーン先生(小泉八雲)関連の場所にも久しぶりに行った。ハーン先生は、いろいろあって、松江から熊本に移り、夏の休暇中に長崎へ旅に出たが、その暑さの前にさっさと、熊本へ帰って行った。

そりゃ、無理ですよ。エアコンもない時代の長崎の夏になかなか外部の人間が絶えられるわけがない(笑)。そのハーン先生が、長崎で泊まったホテル自体はもうない(我々が泊まっているホテルは同名である)が、南山手のベルビュー・ホテル(現・現全日空ホテルグラバーヒル)跡にも立ち寄った。

まだ暑さがゆるい長崎だからこそできた散策で有る。真夏なら・・・・(汗)。



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●夜の大浦天主堂●



●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●.jpg

●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●



佐藤は、夕食前に、大波止のゆめタウン夢彩都に寄った。そこにある紀伊国屋書店には、佐藤の各種書籍も置いてあった。ほんとに有り難いです。そして、郷土コーナーで、遠藤周作『切支丹の里』(中公文庫)をゲットした。

いやぁ、潜伏キリシタン関連遺産を巡るには必要アイテムでは無いかと思う。この頃、都合の良いときに発生する、寄る年波で、文庫は敬遠していたが、久しぶりに読みふけった。次号につづく・・・予定です。

さてさて、皆さま、梅雨が近づいて来ました。体調に気をつけてお過ごしください。ではまた!



(いろいろあるとは思うが、国名がついてる大学なのに、わが国では、ただ平謝りするのが1番ってことがわかっておらず、中途半端にいろんな人が出て来ては、おさまりつつあるのに「燃料投下」して炎上を繰り返している。ああいう空気がわからん指導者では学生が気の毒だな!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:09| 島根 | Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする