2018年10月21日

奮闘記・第1067回 研修会のツボ/東京都

●2018年● 東京都葛飾区


葛飾区高齢者総合相談センター

ケアマネジメント支援研修
〜 課題分析標準項目の書き方研修 〜



皆さまお久しぶりですね。気づけば、10月も20日が過ぎてしまいました。こういうのが歳をとる秘訣なんだよなwww。

佐藤はこのところの気温の変化ですっかり風邪をひいてしまったようですね。鼻声となり、しかも耳の聞こえも悪くなり(前から?)、マイクを通して聞こえてくる自分の声が聞きにくく難儀しております。

そのような中で、葛飾区で活躍している介護支援専門員の方々と関わって来ましたので早速ご報告しましょう。


【課題分析標準項目の書き方研修】
「あの、白い空欄には、いったい何を書けばいいのか?」
〜 書くことがわかれば、質問の方法もわかるというもの 〜


今回のお題は標記の通り、「課題分析標準項目」の、あの白い空間には何を書けば良いのかという研修です。

いつもどおり、亀有香取神社で必勝祈願した。ん? 境内にはおしゃれなカフェが出来ていた。ケーキがおいしいお店ですぞ。


●今日も亀有香取神社に立ち寄り●.jpg

●今日も亀有香取神社に立ち寄り●


●境内には、なんとカフェが!●.jpg

●境内には、なんとカフェが!●




それはさておき、佐藤はむかし、某県で介護支援専門員の実務研修を長らく担当していた。

某県の実務研修では、参加者は前期終了後に実習を行い、課題を作成する。その課題を決められた期日までに仕上げて、事務局へ提出することになっていた。

事務局では、提出された課題をまとめて佐藤の所に郵送し、佐藤は送られてきた課題を全件チェックして添削をしていたのだ。まぁ、良くも悪くも、参加者の作成した課題を全件チェックする講師など皆無に等しいであろう(笑)。

実はこの全件チェック、自分の講義が参加者にどのくらいわかりやすく伝わったのか? それを把握できるツールにもなっていたのだ。

そして、全件チェックをしていると、介護支援専門員の試験に合格したからといって、この課題分析標準項目がすらすら書ける物ではないということがわかった。まぁケアマネ業務もそうなのだが。

なぜあの試験ができるとケアマネ業務ができると思うのか? 国の考えもよくわからないのだが(笑)。

それはそれ。もちろん、記入方法はテキストに沿って伝えた。でも、いくら書く内容が理解できたとしても、その材料を入手しなければ書くことはできない。

その入手方法が、利用者及び家族とのコミュニケーション(相談援助や対人援助)なのだ。


●スタート前に現状把握する●.jpg

●スタート前に現状把握する●



●自分が持参した帳票を確認して頂く●.jpg

●自分が持参した帳票を確認して頂く●



■研修で行ったこと
(1)課題分析とはどうすることなのか。
(2)各項目を収集する視点について。
(3)資料を用いて書く内容を説明。
(4)参加者同士で情報共有。



研修時間は2時間。参加者は40名とのこと。主催した方々はこんなに参加することは珍しいと話されていた(昨年も全3回シリーズで研修をしたこともあり、皆さんが参加しやすかったのではとのこと)。佐藤は簡単に自己紹介の後、その後、一気に話に入った(笑)。


1.課題分析とはどうすることなのか
課題分析=真のニーズを見つけ出すということ。その手法は下記のような状態となる。重要な点は、@〜Cは重なり合っていることにある。

 @ 利用者の現状を把握する。
   A 現状においての困りごとを把握する(改善・維持・悪化の判断材料)。
     B 困りごとをどうしたいか・どうなりたいかを把握する(目標の把握)。
       C 介護支援専門員等の意見を記入する(必要な手立てを提案する)。


そこで、介護支援専門員が利用者の現在の状態を把握する時に、それぞれが偏った情報収集をしないように、国が情報収集する項目として定めた物がこの「課題分析標準項目」なのだ。


●説明に耳を傾ける参加者●.jpg

●説明に耳を傾ける参加者●



2.各項目を収集する視点について
この課題分析標準項目は、「基本情報に関する項目」と「課題分析(アセスメント)に関する項目」とに分かれている。

まずは、基本情報に関する項目や、アセスメントにに関する項目は、どのような内容なのかをしっかりと把握しておく必要がある。そして、これからする事を利用者やご家族に、この課題分析標準項目が記載された帳票をみせて、これらの情報を伺うことを、丁寧に説明する必要がある。

断りもなくいきなり紙を出して、メモられるほど不愉快なこともない。もちろん、利用者や家族は、ここまで来る過程で、そのような失礼な取り扱いにはうんざりするほど突き合って来ている。

介護支援専門員が、帳票をみせてこのような情報を入手したいと、丁寧に依頼すれば、利用者や家族も協力してくれるだろう。なんせ、ことを早く終わらせたいのはお互いさまなのだ。

すでに住所や氏名などは、ここまでに来る段階で入手しているであろう(なきゃこれないし、それ以前の問題だが)。それらの情報は前もって転記しておくと良いであろう。もちろん、書類を開いた段階で「これは○×包括支援センターの○○さんより伺いましたが・・・」などと説明しても良いのだが。

その後は自分が知りたい情報から入手する。この時に、落としどころ(生活全体の解決すべき課題)を見極めている必要がある。そう、この落としどころこそ、自立支援の視点と生活機能分類の視点なのである。

自立支援の視点は、本人のしていることやできることを奪わないということ。

もちろん、本人や家族は「できないこと」を中心に訴えて来る。時には怒涛のように訴えてくる。なんせ、困っているのだ。

そのできないことに振り回されず、その中でも「していること」「できること」を把握すること。その上で困りごとを具体的に聞き出し、「それをどうしたいと思うか」を把握するということである。
合わせて、家族のしていることやできることも奪わないことが重要。支援をしていると、介護者(妻や夫、娘や息子)などが、それはそれは丁寧な介護をしている場合がある。そのような方は、「介護が大変だ」という方と、「自分が介護をしたいから大丈夫」という方などとそれはそれは様々なのだ。

もちろん、家族は、介護支援専門員に介護の大変さを訴える。でも、それは代わりの物品がただ欲しくて訴えているというわけでは無い(中には物品やヘルプ自体を求める方もいる)。その多くの方は、「自分のがんばりを認めて欲しい、聞いて欲しい」と思っている。

介護支援専門員は、人さまの話を伺うこと(聞くこと)も商売のうちである。

聞くということは、すなわち、傾聴・共感・受容・感情の表出を支援するということ。間違っても、初回面接時に「そんなに大変ならばショートステイを利用したらいかがでしょうか?」なんて、いきなり御用聞きに変貌してはいけない。なんでも順序よいうものがある。


◆生活機能分類の視点とは
心身機能の課題・活動の課題・参加の課題・環境の課題を意識するということ。介護支援専門員の多くは、サービスを入れ込む視点はお持っているのだが、課題を振り分ける視点となると難しいようだ(笑)。

もちろん、研修でも、「関係性がある物はまとめましょう」とは言うには言うのだが。介護支援専門員の主観も入りまくるから、課題が多かったり少なかったりしてしまう。だったら、生活機能分類の4つの視点を持つことで、情報も得やすくなるというもの。

特に着目して欲しいのが「ADL」と「IADL」だ。

「ADL」は、主に基本的日常生活動作BADL、つまりBasic ADL)。「IADL」は、手段的日常生活動作である。

基本的日常生活動作は、生活機能分類では「活動」に分類される。手段的日常制活動作は、別名家事活動ともいわれ同じく「活動」に分類されている。

ここで、介護保険制度を利用している方々は、この家事活動に不自由さが出てくるのだ。ただ、ただ、自分の思いどうりにいかない、まどろっこしさや不自由さからは他者のやることに対して「不満」が出やすくなる。

そこで、ヘルパーさん達などに「こうして欲しい」「ああやって」「違うわよ! こうして欲しいの!!」などと要望を伝えてくることになる。

そこで「賢い方」は、その要望を出すということを利用者の役割として設定するのだ。役割は、生活機能分類ではいわゆる「参加」に分類される。

当然、利用者は自分の要望を伝えるときには、ヘルパーさんの側に付いてくる。そうなると、ヘルパーは一つひとつ確認したり、時には「どうやるのですか?」と伺ってお手本を示して頂いたりする。

このような支援は、「老計第10号(訪問介護のサービスごとの区分等)」の1−6自立支援のための見守り的援助となり、報酬区分は「身体介護」となるわけだ。

一方、重度の利用者さんは、自分の身体のことでもう精一杯。だから家事活動に要望を伝えることなんぞ諦めている。

そのような方に対しての支援は、生活援助(家事代行)となるであろう。その家事代行が「生活機能分類の何処に入るか?」というと、実は何処にも含まれないのだ。

そこで、本来は家族や支援をする方がいれば、必要の無い支援であり、環境に入れても良いであろう。


●体を張って伝える佐藤(平常運転?)●.jpg

●体を張って伝える佐藤(平常運転?)●



3.資料を用いて書く内容を説明
さて、落としどころを意識することを伝えたので、ここからは資料を用いて項目に沿って説明した。

実はここの内容は、2012年に出した摂著、『ケアマネジャー最強のアセスメント力養成講座』に基づいて再校正をかけて内容を展開した。ここではその内容は省略する。

皆さんは、マイク越しに響く佐藤の声を聞きながら、時々うなずき、時々「うーん」とうなりながら最後まで静聴して頂いた。限られた時間であるから、泣く泣くはしょったが、資料は良いできだと自負している。引き続き困ったら引っ張り出して確認して頂ければ幸いである。


4.参加者同士で情報共有
さてさて、今回は皆さんに自分が使用しているアセスメント用紙を持参して頂いている。そこで、残り30分はお互いに現実どうしているのかを語り合って頂いた。

佐藤もグループ内を渡り歩き、質問を伺ったり、答えたりした。持参されたものの中には「課題整理総括表」「リ・アセスメントシート」なども散見された。ウ〜ンさすが現役のケアマネさんだ。カッコいいね。


●グループからの質問に答えてまわる●.jpg

●グループからの質問に答えてまわる●



会場内を周りながら聞こえてきたのは、「ソフトに入っているのは、チェックを入れるだけなのよね。困りごとや、要望なんてかけないのよ」とのつぶやきや、「課題分析標準項目のシートだけでは、ニーズを引き出すことは無理よねぇ。だって現状だけでは根拠にならないもの」とか。

「すいません。別の質問なんですが、いいですか?」
「はいはい。いいですよ」
「居宅サービス計画原案は、サービス担当者会議の前に事業所に渡すと」
「はいそうですよ」
「そして、サービス事業所が、アセスメントを行うということですか?」
「はい、そうですね」
「そんなこと、相談員さんやサービス提供責任者さんができるのですか?」
「そうですね。指定基準ではそうなっているんですが」


など個別に対応。そして、残り5分になったところで、今、伺った質問内容を皆さんにもお返した。


(1)課題分析標準項目だけでは、現状把握に留まってしまう。
そこで、意図的に、困りごとや要望を聞き出して記録すること。まぁ、過去に使用した「アセスメントチェックポイントシートは使いやすかったですね」と補足した。

(2)サービス担当者会議の前に、居宅サービス計画原案を配布する事について。
各サービス事業所には「あらかじめ」利用者や家族に、サービス内容や重要事項(費用も含む)を説明の機会をとって頂く必要があること。その時には、利用者に対して「サービスの選択に資する援助をしてい頂くことが必要であることを説明しました(介護支援専門員は、居宅サービス事業所の指定基準も遵守しないと!)。

ちなみに、サービス担当者会議の前に、居宅サービス計画原案を配布することは、『八訂 介護支援専門員基本テキスト1巻 介護保険制度と介護支援』pp.204〜208にイラストで案内されているのでご確認くだされ。

さてさて、本日の研修はこれにて終了!


●さて、〆の時間です●.jpg

●さて、〆の時間です●



次回は「支援経過記録の書き方」について行います。ご自分の支援経過記録をお持ちくださいませ! くれぐれも皆さまご自愛ください。

追伸
新潟県のサ責の皆さま! 佐藤は、来週は長岡市・新潟市に研修で出没予定ですぞ! まさか雪はまだ降らない・・・ことを祈りつつ、お会いできるのを楽しみにしております!!



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●アリオのポムズファームでお昼●



(ドタキャンでもジュリーは意外と好印象。なんせ、さいたまスーパーアリーナは自分には大きすぎると事前に言ってたらしい。いろいろあるけど、ジュリーを見てケンタッキー・フライド・チキンが食べたくなったなというのがもっぱらの噂だぜ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 16:01| 島根 ☀| Comment(0) | 研修会のツボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月13日

奮闘記・第1066回 見聞録/島根県

●2018年● 島根県松江市

新装!小泉八雲記念館を訪問するの巻

〜 館長が探求した曽祖父の面影 〜


皆さま、いかがお過ごしでしょう? 

すっかり寒くなってしまいましたねぇ。でもまぁあの暑さが懐かしくなることはまずありませんが・・・。

さてさて、前回紹介したハンザケ(オオサンショウウオ)君の子ども達であるが、ハンザケ自然館さんのブログによりますと、館内入り口に展示しているケージの中で、子ども達が、それぞれのたまごの中ですくすくと育ち、誕生間近とのこと。

もう、この館が近くにあったら毎日でもいきたいところですがね・・・。

近いどころか東京スカイツリーより高いビルをひっそり作っててもわからないくらい、のどかな良い場所ですから。それはまぁ羨ましいが。佐藤は自然館のブログを見ながら誕生を心待ちにしているのである。


今回まずは、そのころに立ち寄った小泉八雲記念館と小泉八雲旧居のお話。まあ、佐藤のブログでもおなじみの場所である。この記念館は2016年に改装している。であるからして、今回は改装してからは初めての訪問となる。

ここ、小泉八雲記念館は、昭和9(1934)年に、小泉八雲(ラフヵディオ・ハーン)先生とその妻・セツさんが、明治24年5月から11月までの6か月間新婚生活を過ごした小泉八雲旧居の西隣に新築された木造平屋建ての和風建築の館であり、松江市立の文学館なのだ。指定管理者制度により、今は、NPO法人松江ツーリズム研究会さんが管理・運営している。それはまぁいい。

それが2016年7月に、展示構成を拡充・一新し、ライブラリーやホール、ミュージアムショップを備えた小泉八雲記念館として、初代の小泉八雲記念館開館から82年、日本人・小泉八雲が誕生して120年の歳月を経て生まれ変わったのだ。もちろん、館長は島根県立大学教授の小泉 凡(こいずみ ぼん)先生である。先生は、小泉八雲(ハーン)先生のご曾孫である。

ちなみに

「私はその人を常に先生と呼んでいた・・・。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる・・・。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。」

これはまぁ某・夏目金之助先生の文章である。ハーン先生や司馬遼太郎先生など、文章が好きな作家の方々については、拙文のなどでも「先先」と付けてしまうので、そこんところはまぁスールーして頂きたい。

小泉八雲旧居に来るようになって数年の時。旧居に入る前に、「ひゃ〜参謀」のケータイに東京から電話があり、「今日、旧居に凡先生がいるら・・・」というところで切れた(笑)。

すると、たまたま旧居で、小泉 凡先生が、子供たちに、激しく「小泉八雲学」をレクチャーしている熱き凡先生を目の当たりにした。

全然違うのよ、ふだんは紳士なのにほんとうに熱く語ってたのよ。後に、凡先生にお話したら、「いや〜そうでしたか」と照れてましたが(笑)。

そう、佐藤は凡先生と、2013年に一度お会いしているのだ。そして、なんと彼が奏でるピアノを目の前で観たことがある(奮闘記・第901回)。

佐藤は、当時松江ツーリズム研究会さんが企画・運営していた伝説の「松江ゴーストツアー」に参加したことがあるのだ。もう、ほとんど追っかけ。

松江に通うようになってから松江駅前の松江テルサにあるチラシを手に取るようになり、その中の1枚にこの「松江ゴーストツアー」のチラシがあったのだ。それから、このツアーに参加したい、参加したいと思っていたのだが、なかなか日程が合わなかった。

それが、ある時、宿泊を前倒しにすれば参加できることがわかり、思い切って「ひゃ〜参謀」に同行を依頼。そしてそれがついに実現したのだ。

このツアーには、《カラコロコース》《へるんコース》があった。へるんコースでは、蓬莱吉日庵で、凡先生の講演を聴講し、そのまま蓬莱吉日庵で夕食を頂き、その後にカラコロコースの人々と合流し、『怪談』ゆかりの地を巡るというものであった(そのうち凡先生が多忙なのかへるんコースは無くなったようだ)。

なんと、この日の参加者は、我々ともうひと組のカップルのみ。チラシには参加人数が少ない場合は中止と書かれていたが、参加者が遠方からの場合は無碍にできないと案内をしてくれたかたが話してくれた。

ということで、我々は凡先生を独り占め状態(尋問に近い)にして、話を伺うことができたのだ(笑)。

いよいよスライドを交えた凡先生による講演が始まった。凡先生の講演は、ハーン先生の生い立ち、彼が歩んだ地域、その地域の方々(外国の方々)との細やかな出来事や関わりの報告が主な内容であった。

凡先生は、ハーン先生の足跡を現地に出向き、今でも恐らく丁寧に調査研究をしているという。曽祖父の軌跡が残る場所を踏みしめるように何度も訪問し、情報を更新しているのだ。いいよ、ほんと。

でも、昨今は、ヨーロッパもアメリカもテロが多過ぎて、凡先生が巻き込まれてないかが心配になるのだが。曽孫の凡先生が語るハーン先生の姿は、身内としての愛情がそこかしこにあふれていた。

凡先生は、自分が目にした風景を写真に撮り、それらを紹介しながら話を続けた。ハーン先生ゆかりの建物を訪れ、門前払いにされ、塩をまかれた話や、その同じ家で持ち主が変わると、家に入れて温かく迎え入れてくれてもらったりしたそうな。写真の日付がどんどん若返って行く。

ご存じのようにハーン先生は、アイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれている。出身地は、レフカダ島(リューカディア)である。凡先生は、レフカダ島の写真を解説する。その写真に描かれた風景は、紫煙る靄にしまなみが浮かび、眺めていると、松江の宍道湖の風景と重なった。

その後、ハーン先生2歳の時、アイルランドのダブリンに移り住む。まもなく父母は離婚し、同じダブリンに住む大叔母に引き取られることとなる。これでは宍道湖の夕日と重ねるようなゆとりはないかも知れない。恐らく、ほんとうに単純に宍道湖が好きだったのかも知れない。

凡先生は、ハーン先生の母・ローザさんについて、こう語る。

「ギリシャ生まれの彼女は、イングランドの気候に慣れなかったのも離婚の一因ではないかと」話してくれた。まぁ、しかしあの気候に慣れるのは、日照時間の短い秋田県に関東人が住みにくいのと似ているかも知れない(笑)。つまり難しい。

また、画家・安野光雅氏が、ハーン先生の母親の面影を求めて ギリシャへと渡り、その親戚であるという女性の家を訪ねた。そこで彼女が写った写真の存在について調べ、情報を収集して、アドバイスを受けながら、一枚の肖像画を描いたという。その安野さんが描いたローザさんの肖像画もスライドで見せて頂いた。

凡先生によれば、ハーン先生は、2歳の時に別れた母・ローザさんのことを慕っており、ずーと会いたかったという。母の肖像画が存在するならば、全財産をつぎ込んでも手に入れたい、と語っていたという。

その後も、ハーン先生には、阪神タイガースのK前監督や八戸学院大学の監督さんのような不幸が重なっていた。

イングランドの神学校に在学中、16歳の時に左眼を失明し、父が病死。翌年に大叔母が破産するなどで学校を退学する。その前後にはフランスでも教育を受けているのだ。19歳でアメリカへ渡り、24歳の時には、新聞記者となる。凡先生は、アメリカでハーン先生が暮らした場所も詳細に調査し、写真に収めている。

ニューオーリンズにも、同じようにゴーストツアーが存在し、そのツアーを大人たちも進んで参加し、楽しんでいるという話も伺った。

その後、ゴーストツアーにちなんだ、西洋社会でのゴーストや精霊たちにまつわる話をしてくれた。ハーン先生が生まれたギリシャにも精霊たちの話があり、こちらではゴーストツアーもあるという。そのツアーも大人が参加し、定番になっているという。キリスト教の世界観ではちょっと考えにくいものである。

まぁ最終的にハーン先生は、日本の阿弥陀信仰(仏教)とキリスト教の類似点を見出し、総合的にキリスト教に回帰していったのだろうと勝手に思っているのだが。さて・・・。これはイエス様やお釈迦様が云々という観点ではわかりにくいかも知れないが、宗教はあんまり得意ではないのでここまで。

こうして凡先生は、約小1時間、ハーン先生の遍歴を織り混ぜながら、世界で、小泉八雲の功績が高く評価されていること、小泉八雲が晩年を過ごした日本でも、このゴーストツアーを行うことにより、小泉八雲こと、ハーン先生が日本に残してくれたものを継承したいと考えているようであった。

そして最後になんと凡先生がピアノを弾いてくれたのだ。しかもその曲は、聞き覚えのある曲であった。なんとも胸の奥から哀愁があふれ、思わず胸が熱くなっていた。

凡先生はピアノで2曲披露してくださり、講演は終了となった。

「実は僕、楽譜は読めないんですよ(笑)」

と照れながら話してくれた。真偽はともかく、とても素晴らしい演奏であった。

「凡先生が譜面が読めない? まさかそんなぁ。だって世田谷区生まれのボ・・・(強制終了!)。恐らく読めるはず」

とは「ひゃ〜参謀」www。危ない!


あれから5年。佐藤は、今回、新装・小泉八雲記念館を訪問して、あの日に凡先生が語ってくれたことを思い出していた。


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●新装・小泉八雲記念館である!●



今でこそ、ハーン先生がセツさんとは、晩年あまりうまくいっていなかっただろうこともわかるし、松江から出て以降、海に行くのも、たいがいは太平洋側、そう海の向こうにアメリカが恋しかったに違いない。おそらく穏便に別れられれば、アメリカには一雄さん(長男)を連れて帰りたいという願望があったのだろう。

ハーン先生は、日本の食べ物は得意ではなかったし、日本語もあまり覚えていない。これも当初は帰国する気であったからだろう。

でも、これは批難しているのではない。よく故郷に帰りたい思いの中でその不満を漏らさず、死ぬまで日本で頑張ってくれたなぁと感謝の気持ちしかないのである。欧米から日本に来るなんて、東京から島根に住むどころではないのだ。

しかし、ハーン先生は、日本人は口にしなければ、そして文章にも残さなければ、それらの(アメリカに帰りたいという)気持ちを「なかったもの」として考える性質であることを知っていた。

日本人は明治時代から「文献主義」(文字に残って居ないものは、存在しないという共同幻想)なのだ。ハーン先生は、良き日本の喪失に対する不満以外は、日本や日本人を批判する著作がないのを見てもわかる。先生は、それが母国や欧米でできなかったからこそ、各国を転々としていたのだから・・・。


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●館内は相変わらず写真ではお見せできません●



さて、館内には、3つの展示室と、2階へあがる階段のスペースを活用した階段展示があり、2階は多目的スペースと書庫となっていた。

展示室1は、「その眼が見たもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」というコンセプトのもとに、ハーン先生の生涯を編年で紹介している。

壁には、ハーン先生の生涯が、年表で綴られており、その周囲には関係者の写真などが掲示されている。これこそ、凡生生が長年、ハーン先生の面影を求めて、諸外国をまわったときに、実際にみた物、聞いたもの、心に響いたものだったのではないだろうか。

佐藤はハーン生生の人生を振り返りつつ、この軌跡を追い求めた、凡先生の姿を追っていたようにも思う。

それはまさしく5年前のあの蓬莱吉日庵で凡生生から直接話を聞くことがなかったら、このような思いは持たなかったであろう。まさしく時はつながっているんだな〜とつくづく思うのだ。

そして、展示室2には、ハーン先生の事績や思考の特色を「再話」「クレオール」「いのち」など8つの切り口から描き出している。ここには、ハーン先生が利用していた机や椅子と共に、静岡県焼津の山口乙吉さん宅が再現されていたのだ。


もちろん、佐藤は静岡県の焼津市の記念室へも行ったし、愛知県の明治村でもこの乙吉宅の部屋と、だるまをみている。また、島根県の隠岐の島の所縁の品々も展示されていて、すべてが懐かしく走馬燈のように私の周りを回ってた。

そうそう、展示室1から展示室2に入って。すぐの左には大人が2人程度が入れる空間がある。それが「再話コーナー」である。そこでは、なんと、『怪談』の朗読を聞くことができる。

ナレーターは、もちろん島根県出身・佐野史郎氏。静かな空間の中にあの声が響く(笑)佐藤は「かきつばた」を聞いてしまった。いやぁ。佐野さんの声がおどろおどろしく、暗闇から追いかけて来そうであった(笑)。

外国人向けの英語の解説だけではなく、英語のネイティブの朗読による『KWAIDAN』も聞くことができたら喜びます。

もしや外国人向けの解説の中に一部あるかもしれない。いや、知らないだけですでにあったのかも知れないが、それなら次回のお楽しみである。

On the Akasaka Road, in Tokyo, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka・・・・.

これは、有名なハーン先生の原文の『KWAIDAN』MUJINA(むじな)の冒頭である。

かの作家の三島由紀夫氏や、大大ヒットした「広辞苑」(第二版)の編集委員長を務めた大野 晋先生がこの冒頭をよく口ずさみ、

「素晴らしい文章は外国語でも、日本語でも、いいリズムを持っている」

とベタ誉めであったそうな。ならば、ぜひネイティブでの音読も聞いてみたい気がする。だってハーン先生は、英語でセツさんに聞かせていただろうから。作品が翻訳されたのは戦後の話である。そもそも、ハーン先生の当時の読者は欧米人であり、英語で書かれていたのだ。

いや〜できれば、箱根の星の王子さまミュージアムのように、小さいスペースでもいいから、アメリカの新聞記者時代の「想定されるハーン先生の机まわり」も見てみたい(「ひゃ〜参謀」)。いろいろ興味は尽きないのであった。


また、新装記念館に話を戻す。

階段展示には、ハーン先生とその子ども達の写真も、多く展示されており、その表情は、写真を撮っているそばにいるであろう、ハーン先生やセツさんに向けてほほえみかけ全てに愛があふれているように見えた。そして、同時に凡先生の祖先を敬う気持ちがそこには現れていた。

このように、資料の研究など、ご子孫で一手に引き受けてくれるかたがいるのは、我々読者やファンには有り難いことである。

展示室3は企画展示コーナーとしてあり、現在は「八雲が愛した日本の美」として彫刻家荒川亀斎と小泉八雲と題して亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」が展示されている。

でも、申し訳ないが、「あの」人形は可愛くない感じがビンビンするんですけど(笑)。もし、家に置いてあったら、ちょっと怖い。昔のホラー映画のチャイルド・○レイを思い出しそう。でもハーン先生、布団に寝かせたりしてるんだよなぁ・・・、強メンタルとしか・・・。


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●記念館の催し物のご案内●



小泉八雲の記念館のホームページによれば、

荒川亀斎は、松江の雑賀横浜にて木工職人荒川茂蔵の子として誕生。幼少の頃より彫刻界の天童と謳われ、地元では名の通った彫刻家。

1890年8月に松江に赴任した小泉八雲が、散歩中に出会ったあるお寺の石地蔵に魅了され、その作者を尋ね、「荒川亀斎」という名を知り、さっそく亀斎の工房を訪ねます。小泉八雲はその腕前と名人気質に惚れ込み、二人は美術論をかわし意気投合したという。

ここでは、八雲が見出した郷土の作家・荒川亀斎の作品およびその周辺を紹介するとともに、著作や西田日記などの中に登場する亀斎とのエピソードをたどることで、小泉八雲の審美眼・美術観を探り八雲の新たな側面を紹介している。

また、小泉八雲記念館が所蔵する荒川亀斎の作品をはじめ、最近発見された亀斎が八雲に見せた「気楽坊人形」(人形劇の図書館蔵)を初公開しているのだ。

いやはや、凡先生、相変わらず飛ばしてますねぇ(笑)。1日いても見切れませんよ。ホント。解説文などは外国人さん向けには英語の案内もあるので、外国人さんも満足されること間違いない。


その後、我々は聖地・小泉八雲旧居を訪問。玄関先では瑠璃柳が可憐な紫の花を付け出迎えてくれていた。また、南向きの百日紅はまだ赤い花を付け、庭には、秋の花である吾亦紅と桔梗が咲き誇り、その上を赤とんぼが飛んでいた。


●もちろん、こちらの聖地・小泉八雲旧居にも参拝(?)●.jpg

●もちろん、こちらの聖地・小泉八雲旧居にも参拝(?)●


●こちらは写真も大丈夫!●.jpg

●こちらは写真も大丈夫!●


●ここで暮らしていたんだよ!ハーン先生が●.jpg

●ここで暮らしていたんだよ!ハーン先生が●



西の庭には、大きな木瓜の実がたわわとなっていた。受付の方曰く。今年は木瓜の実が多くなりましたとのことであった。確かにたくさん実っていた。北の庭の池は鏡のように池の周りの松や椿の木々を写していた。ここはやがて雪に覆われ銀世界となる。

さてさて、ズーッといたいところではあるが、そろそろ出雲空港へ向かわないといけない。帰りがてら、道の駅・秋鹿なぎさ公園にある、レストラン・フォーシーズンへ寄ってランチを頂いた。


●松江のたんぼ・たんぼ・たんぼ!●.jpg

●松江のたんぼ・たんぼ・たんぼ!●


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●宍道湖はいつでも素晴らしい●


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●道の駅・秋鹿なぎさ.公園に到着●



でも、やはり客商売のプロフェッショナルってすごいなと思った。佐藤がそれはそれは久しぶりに、スルッと入店したのだが、厨房の方から、わいわい話しながらチラと見て、

「いらっしゃませ!」

という声のあと、

「あれ? 今の佐藤さんじゃないの?」

という声がしたのだ(笑)。何年振りかで店内をスーッと通ってもなかなかわからないよね、ふつう。

いや〜、気付いてくださりありがとう。久しぶりに宍道湖を眺めつつ、食事を頂きました。食後、会計時に店長と歓談。お互いに体のことを気にかけあいました。


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●やはりフォーシーズンはいいなぁ●


●これが「ひゃ〜参謀」のお気に入りバーグ●.jpg

●これが「ひゃ〜参謀」のお気に入りバーグ●



【追記】

もちろん、松江に寄って、白潟天満宮売布神社佐太神社などにも廻りました。


●久しぶりの白潟天満宮だが、手水舎の龍さんが消えていた(泣)●.jpg

●久しぶりの白潟天満宮だが、手水舎の龍さんが消えていた(泣)●


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●売布神社でお塩入りのお茶を頂きました●


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●こちらも懐かしの佐太神社●



湖陵町差海のイタリアンのクッチーナ・バッカーノ(Cucina baccano)にも行きましたよ。一時期お休みしていたみたいですが、再開しており、ピザもパスタも以前の味のまま、美味しかった。こういうお店が再開するとうれしいです。皆さんもどうぞお近くを通ったら寄ってみてね! また島根県の見聞録が続くやも知れませんよ。さて?

島根には、湖のそばにうまい店有りですから(笑)。皆さま、くれぐれもご自愛ください!



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●吾輩は初めて出雲空港に凱旋できた。ハハハ●



(巨人の某S選手が若いころ、ボール球を振って三振。ベンチのH監督が「ボールを振るからダメなんだ!」という小言に、背中を向け「自分は(ボール球を)振らなかったんかよ!」と小声で悪態をついたそうな。監督はともかく、周りにはしっかり聞こえていたという。H監督はボールを振るどころか、ストライクだって見逃したから!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 19:46| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月17日

奮闘記・第1065回 見聞録/島根県

●2018年● 島根県邑智郡邑南町

【緊急!】

特別天然記念物の宝庫
〜オオサンショウウオは、育menなのであった〜



お久しぶりです。皆さまお元気でしょうか。佐藤は書類仕事がもう、たまり過ぎて・・・です(笑)。

さてさて、今回はこちらもエラく久しぶりで島根県に行って来ました。ハハハ。今、最も旬な情報なんで、そちらの話をお伝えしたいので、その時の見聞録をご報告したい。


●まずは久しぶりの出雲大社石見分祠から!●.jpg

●まずは久しぶりの出雲大社石見分祠から!●



佐藤が同館を訪ねた日の夕方、瑞穂ハンザケ自然館で、調査研究のために飼育されているオオサンショウウオがめでたく出産(あえて産卵とはしない)した。

この瑞穂ハンザケ自然館は、島根県邑南町(おおなんちょう)にある。邑南町は、島根県の中部に位置しており、自然豊かな町で、島根和牛などでも有名な所である。

今回は、用事を済ませた後、邑南町に、なんとオオサンショウウオのいる自然館があると言うので、行って来たというわけですよ、ええ。

その邑南町では町をあげて、日本の特別天然記念物のオオサンショウウオが生活できる環境維持に取り組んでいるという。

このオオサンショウウオは両生類のため、水が綺麗な清流でなければ生きていけないのだ。そのため、町では生活排水を川に流さない取り組みを行って、オオサンショウウオが生息できる環境を作りあげた。

ひとくちに生活廃水を川に流さないと言っても、町民一人ひとりがこの取り組みに理解を示さないとまったく始まらないから、そう簡単なことではなかったはずだ。

その結果、その取り組みが身を結び、今では、町民が生活しているすぐそばでこのオオサンショウウオを観ることができるようになったという。これは凄すぎる!

ここの自然館のパンフレットによれば、邑南町の一帯ではオオサンショウウオのことを親しみを込めて「ハンザケ」と呼んでいるそうな。

その由来は、一説には、口が大きくて半分に裂けて見えるからだとか、半分に避けても生きているからなどと言われているが、定かではないそうな。ああ、そうですかい・・・。

このハンザケは世界最大級の両生類で、昔ながらの姿を変えないで生き続けていることから「生きている化石」と呼ばれている。ほほう、生きている化石がいるとな!それは是非観たいものである。


ということで、今回も東京から拉致(?)・同行している、「ひゃ〜参謀」(もう果てそうだが)を急かして定宿の浜田ワシントンホテルを飛び出した。

浜田道を爆走し、ハンザケ自然館を目指した。その自然観は浜田道大朝インターを降り、道の駅・瑞穂(みずほ)に行く手前にあった。看板が意外と小さいのでそれを目的に行かないと見落としてしまいそうだ。


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●瑞穂ハンザケ自然館●



入口を入ると、髪を腰くらいまで伸ばした細身の女性(おそらく、岡さん)が「いらっしゃいませ!」と迎い入れてくれた。

入館料を払い、キョロキョロ見回していると、「どちらから来られましたか?」と尋られた。そこで、東京から来ました。こちらでオオサンショウウオが観られると伺ったので!!」と返事を返す(「ひゃ〜参謀」がリサーチ済み)。

すると、岡さんは我々を入口横のケージに案内し、しばしオオサンショウウオと町の取り組みを熱く語ってくれたのだ。いや熱い! 動物や考古学、美術などの専門家は対象に愛情を持っているから妥協がない。

そこでの話が、先述の町をあげて環境整備を行ったという話なのであった。佐藤が「町をあげて取り組んでいるとはすごいとですね」と話すと、

岡さんは「そうなんですよ。この取り組みは本当にすごいことなんです。だけど、あまり他者には知られていなくて、私はこの町の人はその宣伝が下手だと思うのですよ。もっとアピールしても良いのではないかと思っているのです」とおっしゃる。

そうそう、その通り。私も沢山の人々を知っていますが、皆さんそれはそれは謙虚な方が多いですからねぇ。《島根は自然豊かで美味しいものが沢山あるから素晴らしい所ですよ》などと言っても、「そうですか? イノシシやテンやクマなんかが出るところなんだよなぁ」とかわされ、佐藤の言葉を素直に受け取ってくれませんからねぇ(笑)と佐藤。

でも宣伝しないからこそ、このままでいられると思うし、台風の被災地で火事場○○するような連中が集まって来ても困るしな・・・。そもそも価値もわからんだろうてwwとは「ひゃ〜参謀」

会話を交しつつ、ケージの中にいる4歳(?)くらいの、まだまだ、小さなオオサンショウウオ君たちを眺めてた。


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●若きハンザケ君●



まぁ、まだまだ体は小さいが、まん丸い顔に大きな口を蓄えてそれなり顔つきをしている。この口を開けたら、まさしく《ハンザケ》にふさわしい。

「オオサンショウウオは、ほとんど目が見えないのですよ。だから口の周りに来たものは何でも食べて(噛んで)しまうんです。だから、共食いになることもあるんですよ」と岡さん。

ケージの個体を指しながら、「こちら個体は、あちらの個体に指を食べられたんです。でも徐々に再生して指らしくなってきたんですよ」と説明してくれた。

うーん、なるほど! 見れば2匹のうち1匹は指が短いようにも見える。確かに危険だが、それでも可愛いものは可愛い! 私と、 「ひゃ〜参謀」(無類のサメ好き)が「可愛い、可愛い」を連呼していると、突然「実は今この館にいる個体が出産の時期を迎えているんですよ」と彼女は話し出した。

そして、「オオサンショウウオは、巣穴を掘って、毎年同じ場所で産卵をするんですね。産卵の時期になるとオスが巣穴に入り、巣穴の掃除をはじめ、メスを迎入れる準備をするんですよ」。そして、「館内にも巣穴を展示してありますが、そこのオスが掃除をして、メスを迎入れる準備をしているんですよ。それで、今朝からその巣穴の近くにメスが寄ってきているんです」と。

「観に行きますか?」と言いつつ、すでに足は展示室の方へ向っていた。我々は「お願いします」と言いながら、岡さんの後を追う。奥の方から「こちらです!」と、我々をケージの前に誘った。

そちらに行くと、なんと水槽の中にドカンを縦に埋めて、横をドーム型に切り開けて・・・、言うなれば雪のかまくらのような形のもの。そこから焦げ茶色の円盤型の顔らしききものが外に出ていたのだ!


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●出た!大物のハンザケ君!!●



●目が悪いから、なんでも噛んじゃうもんね!●.jpg

●目が悪いから、なんでも噛んじゃうもんね!●



そして、その横には、暗黒色の丸い棒のようなものが横たわっている。水槽の明るさに目が慣れてくると、それは紛れもなく、メスのオオサンショウウオちゃんであった。しかも、その2匹はいそいそと意思表示をしているのである。ハハハ。

彼女の説明によると、「巣穴の中にいるのでかいのがオスで、巣穴の掃除をしていたので顔の上に砂が乗っています」とのこと。

うん、確かに顔の表面に砂のジャリジャリ感がある。そして、「入口の横にいるのがメスでお腹が膨らんでいる」という。確かに見れば胴体のお腹がプックリと膨らみ今にもはじけそうである。でも、産卵すると、オスがメスを巣の外に出して、子育てをオスがするらしい。ハハハ。まさに育menだな。


●こちらがメスでなかなかのシャイ●.jpg

●こちらがメスでなかなかのシャイ●



我々は、もう夢中になって2匹を眺めていた。

その間、オスがしきりに巣穴から顔から肩くらいまでを出して、メスの方を覗き込んでいる。一方のメスは、オスの姿を捉えつつも、裏側へ姿を隠してしまったのだ。

メスは、我々を察知して隠れてしまったのかもしれない。そりゃ人生(一生?)の一大事ですからね。メスが過敏になるのは当たり前ですよね。

我々はメスが隠れたあとも、しばしその場に留まり、オスを観ていた。すると彼はするすると首を水面に伸ばし、水面に鼻だけを出してブクブクブクブクと呼吸を始めたのだ。


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●でもかわいいな●



そりゃ両生類だもの! 爬虫類だもの! 呼吸は必要だよね。ただ、その呼吸は、今にも鼻の中に水が入りそうにみえていかにも苦しそうであった。かわいいww。

オスは息継ぎを2回すると、首を引っ込めた。そしてゲップをするが如く水中で口を開けた。ぷわっ!と。

すると、その口からまあるい泡ぶくがひとつ出た。私は、その姿があまりにも可愛くて、思わず「アクアスのバブリングより可愛い!」(あれはあれでかわいいが、教えられた「芸」ですから)と叫ぶと、隣で岡さんがウンウンと頷いていた(笑)。

我々は暫しオスの行動を見守っていたが、2匹の恋路を邪魔してはと思いその場を離れて、館内を見学して回った。岡さんはその間も関係機関に電話かけて現状を伝え、出産が近づいていることを告げていた。

さてさて、館内を巡っていたら、見つけましたよ。何をって。それは、ほらこれ、被り物ですよ(笑)。


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●さて♪なんだろう?茶ばねじゃないよ●



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●チンあなごでもない●



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●まぁオオサンショウウオということで!(ひゃ〜参謀)●



「ひゃ〜参謀」が笑いながらも「似合いますな」とのたまう。そしてかぶり物との記念写真を撮り、岡さんに挨拶をして帰ろうとあいさつをすると、岡さんは自然界でオオサンショウウオが見られる場所を地図を書いて教えてくれました。なんと親切な方なんでしょう(笑)。

我々はその地図を頼りにその場所へ行ってみた。ただ、その時は留守で見ることはできなかった。ただ、その川は水が澄んでいて、さも美味しそうな水に見えました。まさに瑞穂を名乗るのにふさわしい場所であった。


●きれいな川とオオサンショウウオが住める町・邑南町●.jpg

●きれいな川とオオサンショウウオが住める町・邑南町●



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●きれいな町ってうらやましいな●




たまに、道路を横断して、交通事故に遭うらしい。見つけたら、車でひく前に、こちらの自然館まで連絡してほしいとのこと。ああ、けっこう危ないから触らないでください。天然記念物だし、とも。

さて、ここなら立派に生きていけるねぇ、ほんと良い場所だし。また来たら逢えるかも・・・。我々は川に手を振り、いつまでも元気でいるように祈念した。


さて、次の日、自然館のホームページを観てみると、なんと、訪問したその日の夜にめでたく出産したと書かれていたので、すかさず佐藤は、お祝いメールを出した。

すると、岡さんから返信があった(ここでお名前がわかったわけ)。まるで陣痛の波を越えるがごとく、メスが巣穴を出たり入ったりを繰り返したのちに、無事に出産したことが詳細に書き綴ってあったのだ。さらに、こちらに来た折には是非お寄りくださいとも書かれていた。もちろんですよ!

こうして、我々は偶然にもオオサンショウウオの出産日に訪問したことになったのだ。ハハハ。これも島根の神々様の粋なはからいだったのかもしれない。もちろん、道の駅・瑞穂のマグネットもゲットした。ハハハ。

さてさて、離れているとは言え、オオサンショウウオの様子は、瑞穂ハンザケ自然館が発信する、彼女のブログで現在の様子をうかがうことができる。今後の成長を楽しみにしておりますよ。皆さまもお近くにきたら立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

ではまた! 皆さまご自愛ください。



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●オオサンショウウオ君がお待ちしてます●



【瑞穂ハンザケ自然館】
所在地:〒696-0224島根県邑智郡邑南町上亀谷475
TEL:0855-83-0819
入館料:大人300円(税込)/小人150円(税込)
休館日:毎週月曜日、祝祭日の翌日、年末年始
開館時間:10:00〜17:00(5〜8月)/9:00〜16:00(9〜4月)
HPhttp://www.ohtv.ne.jp/mizuho-hanzake/


※2018年9月時点でのデータです。


(「議員になって33年で19人の総理をみてきたが、6年総理が務まるというのは、強靱な意志がないとできない」そりゃ国民なんて屁とも思わない強靭なそれがね!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 16:35| 島根 ☔| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月27日

奮闘記・第1064回 研修会のツボ/東京都

●2018年● 東京都町田市

共催:町田市・町田市介護人材開発センター

2018年度 相談援助研修・初級編(第3回目)
『相談員の役割を体験 〜相談援助の展開(他者と語ろう)〜』



いやいや、日本中、どこにいても激しい雷雨に襲われる今日この頃、いかがおすごしでしょうか? 関東はとりわけ本当に暑くなりました。雷も凄かった(汗)。と言いつつ、今回も町田市での研修会のお話。


この研修は、町田市町田市介護人材開発センターさんの共催で行っている研修である。しかも主任介護支援専門員の研修を受講するための通り道にある研修なのだ。

参加者は、相談員は、もちろんその多くが介護支援専門員である。研修は全3回シリーズで行われている。今回は、いよいよその3回目である(第1回・第2回はすでに当ブログに掲載済み)

今回は、「相談員の役割を体験」として、皆さんが相談員になって他者と語ろうというものだ。ひと口に、他者と語ると言っても、これは世間話で済むような簡単なことではない(まぁそういうときもあるにはあるのだが)。まずは今回もなぜか大國魂神社に寄ってから会場入りした。


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●何度目の正直(?)大國魂神社に参拝●



はじめに、佐藤は『[八訂]介護支援専門員基本テキスト』(介護支援専門員テキスト編集委員会 編)、長寿社会開発センター刊、2018 (第3巻)高齢者保健医療・福祉の基礎知識「高齢者福祉の基礎知識」のソーシャルワークとケアマネジメントの中の「相談面接技術」より一部を引用して資料を作成し、それについて解説していった。


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●石原会長のあいさつからスタート●


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●参考書籍を案内する●



「相談面接」の目的
相談面接には3つの目的がある。この目的は、それぞれが独立しているわけではなく、相互に重複している。そこで相談員は、これらの目的を認識し、個々の面接の実施前に具体的な目的を設定する必要があるわけだ。

1.援助関係を構築する
相談面接を行うためには、利用者や家族との専門的援助関係が不可欠である。この関係を確立することが初期の面接での、最大の目的と言えよう。もちろん、この専門的援助関係は相談面接のためだけではなく、ケアマネジメント過程のすべてにおいて必須のものなのだ。

2.情報を収集する
利用者が抱えている問題解決を援助するためには、それに関する情報を収集し理解していく必要がある。

この目的は、アセスメントの段階が中心となるが、すべてのケアマネジメントの過程で必要なことと言える。情報を収集するための質問と、利用者や家族からの応答を通して、利用者や家族がその問題に関する理解を深め、その解決に向かって進んで行くことを可能にする。

3.問題解決に向けた援助を行う
問題解決に向けた援助は、主にアセスメントケアプランの作成および実施、モニタリングにおける面接で行われる。利用者が自分の抱える問題を認識し、その解決に向けてどのような方法で対応するのかを決定することを支援する。

そして、その問題解決への対応がスムーズに進むように、利用者の環境を整備していく。同時に、専門的援助関係を基礎として、利用者が、自分の持つ問題解決能力や適応能力等を回復または向上できるように援助していく。

実は「相談面接」とは、このようにかなり込み入ったものなのだ。したがって、今回は演習時間も8分と短いため、このような「込み入った」相談面接ではなく、その手前くらいにあるコミュニケーションを他者とはかっていただこうと考えた。

なにしろ、コミュニケーションとで言っても、これまた奥は広く深いのである。


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●「ひゃ〜参謀」も応援する●



ちなみに(株)ヒューマンスキル開発センターでは、「効果的なコミュニケーションの要素」を5つあげている。

相談員が、

(1)しっかりとした自己概念をもっていること。
(2)良い聞き手であること。
(3)自分の考えていることやアイデアをはっきりと表現すること。
(4)感情を効果的に取り扱うこと。
(5)真実を持って相手に自己を開示すること。

をあげている。

本来であれば、これもエゴグラムストロークと同様に「心理テスト」があるわけで、それを行えば、まぁ自分の弱みや強みを認識できるのだが・・・。

今回は諸事情で省かせていただいた。その代わりに、参加者には、再度、自分のエゴグラム(価値観)ストローク(他者とのかかわる傾向)を思い出しながら演習を進めて頂いた。

この演習は、自分の「コミュニケーション」(質問技法)を他者に披露する場であり、同じく、自分が他者の「コミュニケーション」(質問技法)を観察することができる場でもある。

具体的には、相談員役が、グループメンバーの前で、限られた時間内に、利用者役の方に、質問を行い、与えられた課題を明らかにしていく。しかも、相談員役と利用者役には、それぞれ書記役が付いており、語り合った内容が記録されるとした。

グループ内での役割分担は、相談員役1名。利用者役1名相談者の書記1名。利用者の書記1名。観察者1名となる(4名の場合は観察者を抜く)。

ちなみに、この手法は、私が某県で介護支援専門員の実務研修や、専門課程研修の時に取り入れて、結構おもしろがられていた演習である。


【演習課題:利用者役の幼い頃の楽しかった思い出を明確にする 〜あなたの楽しかった思い出話をお聞かせください〜】

演習で行う面接時間は8分間とし、演習をふり返る時間を2分とり、合計10分で行う。


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●演習方法を案内する●



《演習方法》
@自分が相談員役になったときに、先に自分の名前を記入した用紙を、書記2名。観察者1名に配布する。

A司会(佐藤)が始めてくださいの合図で演習を開始する。

B書記の方は相談員役及び利用者役、それぞれが発した言葉をなるべく詳細に記録し、ため息や、笑い声、沈黙も記録する。

C利用者役は、相談員役の問い合わせに答えること。その時々の話によって、話し安い場合には、話を続けて構わない。逆に、「話したくない」部分は避けてもかまわない(できるだけ相談員役に協力的な態度で応じること)。

D相談員役は、(1)援助関係を構築しながら、(2)情報収集を行い、(3)課題を明確にする(相談者が十分に話せた。あるいは聞いてもらえたという気持ちになれるように展開していく)。

E観察者は、相談員役の手法を観察しながら、効果的な質問や、相談員役のとる態度行動の中で、良い所を書き留めること。また、この部分はこうした方が良いのではというところがあれば助言を書いて置く。

F相談員役の演習が終了したら、書記観察者が記載した記録用紙のすべてを相談員役に戻すこと。その用紙は各自持ち帰り、自分の質問傾向をふり返って見ても良いでしょう。


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●演習スタート!●



さてさて、こうして各グループの演習がはじまった。佐藤は、タイムを切りながら、各グループをめぐり、相談員役の後方に静かに座り、相談技法に耳を傾けた。

もちろん、他のメンバーは、佐藤メンバー(?)の侵入に気がつくのだが、相談員役の方は、演習に真剣に挑んでいるため、気づく方は少ないのだ。


「〜で、あなたの楽しい思い出は○○ということですか?」

「それは楽しかったでしょうね?」



などなど聞こえてくる。

佐藤は、心の中で「おいおい、質問者が利用者の感情を決めつけてどうするのよ?」とつぶやくのだが。

また、他のグループでは利用者役が開口一番「私には楽しかった思い出はありません!」と口火を切ってしまい、その後気まずくなり、質問がぎくしゃくしてしまうなんて場面もあった。

そんなときには、ふり返りの場面で、「相手が思い出した感情を決めつけないこと。そのような場合には、『その時あなたはどのような気持ちになりましたか?』とさらに質問を重ねてみること。

また、相手が楽しかった思い出がないと言ったときには、『よろしかったら、楽しかった思い出がないという理由をお聞かせください』などと、その気持ちを深く掘り下げてみても良いのでは無いかと助言した。


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●どう? 話は深まりましたか●



あるグループでは、「私は夏休みにおばあちゃんの家に行き、農作業を手伝うのが楽しかった」という答えが出たときに、『どんな農作業をしたのか?』『お弁当には何を持っていったのか?』、あるいは『その場には誰がいたのか?』などなど、その方が、楽しかった場面を打ち出してくれたのであるならば、その場面を更に広く広げることも大事であるということを説明した。

そう、今回の「(利用者役の幼い頃の)楽しかった思い出を明確にする 〜あなたの楽しかった思い出話をお聞かせください〜」では、楽しかった思い出「場面」だけではなく、思い出を明確にすること、及び思い出話を聞くことが目的なのだから・・・。

「○○が楽しかった」「○×が面白かった」だけでは、保育園や幼稚園子どもたちの感想と大して変わらないではないか(笑)。

せめて小学生の絵日記にもあるように、なぜならば「〜○×だったから」までを引き出せるようなコミュニケーションをはかっていただきたいものである。


●石原さんも興味津々●.jpg

●石原さんも興味津々●


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●演習に耳を傾ける佐藤●



まぁ、皆さんにとっては、(多くが)初めての体験で、それはそれは緊張されたことと思う。

そこで、最後に佐藤が参加メンバーの協力を得て、その方の「幼い頃の思い出」を引き出すことを試みた。

ここでは、自己紹介において、その方の「名前」(薔薇の名前?)がとても素敵であったため、ついつい、その名前の由来を明らかにする質問となってしまった(笑)。私は8分間の中で、様々な角度からその内容を掘り下げていった。

結果、その由来を明らかにする中でも、たくさんのエピソードがあふれ、隠れていた。私はもちろんだが、答えてくれたご本人も、2人の関わりを聞いていた参加者も、すべての人がほっこりとした気分になれたかなと思う。皆さんは佐藤の「面談デモ」を見ながら、少なからずこの演習の意義を理解していただけたようである。


●参加者の協力を得てデモってみた●.jpg

●参加者の協力を得てデモってみた●


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●利用者さんは同じようで同じではない●



後日、担当者から届いたアンケート結果は、

「他者の質問技法を観ることができて良かった」
「同じ言葉でも違った意味があることを知った」
「自分の話を書き留められることに抵抗があったが、終わってみてふり返ることができて良かった」
「事業所でも取り入れてみたい」


などなど。好評を得られて、佐藤としても良かったと思われました。

さてさて、これにて、相談員研修は終了です。今年は残暑と言うより猛暑が続いております。皆さんどうぞご自愛しつつ、ご活躍ください。


(米フロリダ州で、今度はビデオゲーム大会で敗れた参加者が乱射し、三人死亡のニュースが出た。銃規制に問題はその国の問題だが、自衛手段として規制しないのに、犯人に打ち返した市民の例はあまり聞かないが、気のせいだろうか? まぁアメリカでもふつう、家にはともかく、外に銃なんて持ち歩かないだろうけどな!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 22:17| 島根 ☁| Comment(0) | 研修会のツボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月03日

奮闘記・第1063回 研修会のツボ/東京都

●2018年● 東京都町田市

共催:町田市・町田市介護人材開発センター

2018年度 相談援助研修・初級編(第2回目)
『私のアセスメント・自己覚知 〜他者と交流し、自己理解を深める〜』



もう語るのもなんですが、暑いですね! 皆さま・・・大丈夫ですか(危ないのはこちらかも)。

さて、そんな中、この研修は、町田市町田市介護人材開発センターさんが共催して行っている研修である。しかも主任介護支援専門員の研修を受講するための通り道にある研修でもあるのだ。参加者は、相談員はもちろん、その多くが介護支援専門員である。

この研修は全3回シリーズで行われつつあり、今回はその第2回目第1回目の内容は前回のブログにて報告済み)。今回は、相談援助を行う自分自身をアセスメントして、自己覚知を深めようというものだ。

この日も、暑い暑い暑い暑い暑い中、会場には多くの方が集合してくださった。


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●いざ町田市へ!なーに都内ですからw●



【研修で行ったこと】
自己分析(交流分析のツールを使用して自己に気付く)。
自分で×とする部分を少しでも○に近づけるように意識する。


佐藤は、『[八訂]介護支援専門員基本テキスト』(介護支援専門員テキスト編集委員会 編)、長寿社会開発センター刊、2018 (第3巻)高齢者保健医療・福祉の基礎知識「高齢者福祉の基礎知識」のソーシャルワークとケアマネジメントの中の「相談面接技術」より一部を引用して資料を作成した。


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●町田市より激励を頂く●



そこには、対人援助を行う人の「価値観」が、その方が行う「相談面接過程を牽引している」とあった。

介護支援専門員のケアマネジメントのプロセスは、介護保険法の中で決められた多様な責務が継続するものであり、行わなければならないことが明確に規定されている。

しかし、相談援助自体は、行わなければならないことが、はじめから決められている(答えがある)のではなく、目的と関係性を熟慮して見つけ出していくものであろう。

ケアマネジメントのプロセスが業務として決定されているがゆえに、自分がなぜ、それを行っているのか、どのような方向へ向かっているかについて見落としがちになってしまう。

だからこそ、自分の中に、相談面接の全容を牽引する価値観を置くことによって、事務的な手続きも明確に行いながら、その本質をあるべき方向に向けて行くことが可能となる。

そのためには、自分を牽引する「エンジン」部分である価値観や倫理を、援助者自身が深く認識し、「エンジン」を常にメンテナンスする(常に見直していく)ことが大切なのだ。

そう、すべての対人援助を行う人は、はじめに自分の価値観(自分がどのような人間なのか)を認識しておく必要がある。確かに、相談面接の専門家と言われる「社会福祉士」の方々であれば、学校などで、様々な手法を体験し「自己覚知」に励んで来たはずである。

しかし、医療や福祉の現場で働き続けた人々に取っては案外この部分はスルーしている内容かも知れない。どちらも特殊な状態が一時的な場合であればしかたがないのかも知れないからだ。

そこで、今回は、自分の「価値観」を1人ひとりが意識できるように、(株)ヒューマンスキル開発センターが開発した交流分析ツール「エゴグラム・ストローク」表を使用して、皆さんに自己分析をして頂いた。


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●用紙を配布する●



手始めとして、皆さんに「自分はどのような人間なのか」を、5分間自分と向き合って「私はこのような人間である」を箇条書きに書き出して頂いた。

例えば、私は優しい。何事にも控えめ。短期。人には親切にしてあげたい。1人仕事が好き。片付けられない。などなど。30秒に1個書ければ最低でも10個は書けるはず・・・ハハハ。

佐藤は皆さんが自分と格闘している間、会場をめぐりみなさんの書いた文字を見て歩いた。

ある方は、小さい文字で、点々と。ある方は大きな文字で、ずっしりと。またある方はb振りながら、書き進めていた。また、中にはなかなか書く事ができずに「難しい」とこぼす方もいた。

そうこうしているうちに、タイマーが終了時間を告げる。


そこで佐藤は、皆さんに、

「自分が書いた自分」を眺めて見て、「良いと思うところには○印。駄目、嫌いだと思う部分には×印、どちらとも言えないと思う部分には△印を付けてください」

と伝えた。そして、それぞれの数を数えて頂いた。

その上で○印×印のどちらが多いのかを、それぞれ挙手して頂く。すると、何と言うことか、自分が書いた自分に×印を付けた方が多かったのだ(笑)。ひゃ〜い。もしかしたら、物事を見る目が厳しい方が多いのかな。

ただねぇ、自分を表現する時に、×印の部分しか思い浮かばないっていうのは、つらいのではないか?

×(バツ)探しをする方は、知らない間に相手に対しても×(バツ)探しをしがちですからねぇ。それではもったいない。

昔から、長所と短所は裏表というように、自分が×印としてとらえた事柄を○印の言葉に置き換えてみることも重要なこと。また、常に、いいとこ探しをするように心がけることも対人援助職には必要なことなのだ。・・・人は、そうそう、いいことばかりないものなのかも知れないからね(笑)。


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●では、自己と向き合いましょう●



さてさて、その後エゴグラムや、ストロークの図表を作成して頂き、資料に基づき解説を行った。

皆さんが描いたエゴグラム表はどのようなものだったであろうか。親の影響を受けて自分の中に取り込んだ、批判的ペアレンツと、保護的ペアレンツの割合はいかがであろうか。

両者がバランスがとれているとよいのだが、いずれかが極端に高い、あるいは極端に低いと、高い方のエネルギーだけが働き、偏ったものの見方をしてしまうかも知れない。

また、チャイルドのエネルギーはいかがであったろうか。こちらも、緩やかなカーブを描いていればよいのだが、いずれかの子どもが突出していると、そのエネルギーが強く働き、歪んだ物事の見方とらえ方をしてしまうかも知れない。

ただ、この自分の中にあるペアレンツチャイルドのもつ特徴を理解しておくことも重要なこと。これらの特徴をつかむことによって、「なぜ、こうなってしまったのか」と悩むことは少なくなるかもしれないのだから。

さらに、唯一この親からの影響を受けないで、自分で育むことができるものがある。それが、アダルト(成人)なのだ。

佐藤は資料の中で、低い部分のはぐくみ方を説いた。成人の物事の見方とらえ方考え方を育むためのコツとしては、自分の「言いたいことやしたいこと」を文書にして書いてみる。

あるいは、他の人なら、「どう判断し行動するか」を考えてみる。または、相手の話を鵜呑みにしないで「相手の話の内容」を確認してみるなど。

さらに、感情に揺り動かされるのではなく、「計画を立てて行動する」ように意識してみる。または、「自分の行動に無駄がないか常にチェックする習慣を付ける」などなど。

さてさて、次はストローク表について。TA(交流分析)理論の中にストローク(Stroke)ディスカウント(Discount)の理論がある。ここではこのストロークとディスカウント理論をもとに、自分の傾向性をみて頂いた。


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●この部分は自分でそう思っているだけかも●



「ストローク」とは
「相手(あるいは自分)の存在・価値・行動を“認めている”ということを伝える、何らかの行動や働きかけ」である。つまり、自分が自分の存在・価値・行動を認めているかも自分が描いた図表から捉えることができる。

「ディスカウント」とは
「相手(あるいは自分)の存在・価値・行為について値引く」ことである。相手(あるいは自分)についてバカにしたり、軽く見たり、無視したり、否定したり、排除したりするこころのメカニズムと、それが表面化した言動すべてなのだ。

そう、このストローク表は、皆さん1人ひとりの、他者(自分自身)とのかかわり方を図表(数値)で表しているのだ。

他者と積極的にかかわる傾向性はどうか? 自分が現在働いている環境の中で、自分のことをどのくらい認めてもらっていると思っているか? また、自分自身が自分自身の存在価値をどのぐらい大事にしているか? はたまた、他者に対して「肯定的ストローク・否定的ストローク」を効果的に発信しているかどうか?

さらには、他者からのストローク(感謝及び苦情)を素直に受け取ることができるのか否か? さらには、自分の「できることやできないこと、あるいはして欲しいことなど」素直に他者に伝えることができているか? などなど。

皆さんが、図表を作成する間、佐藤は会場をめぐり皆さんが書かれた図表を眺めて見た。するとどうだろうか。自分自身の存在価値をディスカウントしている方が多くいることがわかった。

ちょっと、ちょっと、相談援助や、対人援助をする人が、自分が自分の存在価値をディスカウントしてどうするの? 利用者や家族は誰を頼りにすれば良いのか(笑)。

まぁ、日本には、「謙譲の美徳」という考え方もあり、自分より他者をたてるという考え方が根強く存在していますからねぇ。言葉の中にも、(使えるかはともかく)尊敬語・謙遜語があるし・・・。

ただ、これは物事の考え方や行動の仕方であって、根っこの所では、自分の存在を大事にした上で、他者を敬おうという考え方が存在しているのだと思う。

なかなか、そのような思いはやはり言葉として表現されていないので難しいことなのかも知れない。

だとしたら「自分の存在価値を認める」という考え方や働き方を意識しないとねぇ。そのためにも、自分が、いま、ここにいる自分自身を愛おしく思い、大事にしないとね。人間は自分を愛するしか分しか他者を愛することができないんですって!


●これにて解説は終了●.jpg

●これにて解説は終了●



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●最後にグループ内で語り合う●



さてさて、国はいずれは介護支援専門員の働きに対して、利用者から負担して頂くことを真剣に考えているようだ。そう、相談援助の分野にも明るい光が差し込んできているともいえるし、人によればそうでないとも。

いよいよ、介護支援専門員自身が、自分の能力「何がどのようにできて、何がどのように、なぜできないか?」を説明して選択して頂く時代がやって来るかもしれないのだ。

その時代を見据えて、今だからこそ、自分自身へのストロークを満杯にしておくことは大事なことであろう(「私はこういう人間だ」において、○印を増やすこと)。


さてさて、これにて第2回目の研修は終了です。

相談援助の研修という割には、佐藤が話している時間が多いような(反省)。

いやいや、大丈夫? 次回は皆さん1人ひとりが主人公。たっぷり、相談援助の醍醐味を味わって頂きますから。どうぞ、次回も楽しみに参加してくださいませませ!


迷走台風が去り、再び猛暑がやってきちゃいました。なんだか日の出が遅くなり、日の入りが早くなってきたような・・・。

暑くても、うっかり電車の座席の下にはさまらないようにご注意ください。危険は思いもよらないところにこそあります。皆さま、引き続きご自愛ください。ではまた!



(岐阜県多治見市で、今年3度目の40℃超。これはもう災害認定レベルに違いないのだが、熱中症対策が抜群の街で被害が少ないらしい。やはり人間ってすごいのかも!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 16:46| 島根 ☀| Comment(0) | 研修会のツボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月16日

奮闘記・第1062回 研修会のツボ/東京都

●2018年● 東京都町田市


町田市・町田市介護人材開発センター:共催

2018年度 相談援助研修・初級編
『利用者の自立支援とは』



暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか? いや書くだけでも暑い!

佐藤は、昨今、寄る年波で文庫本の文字を追うのが一苦労となっておりますが、なんと先日行きつけの本屋で、前野ウルド浩太郎氏の『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)を手に入れて読みふけっております。

車を運転中に某TBSラジオから、前野氏の話が流れてきました。話を来ている内に興味津々となり、早速手に入れたと言うわけです。

お目当ては「サバクトビバッタ」(砂漠飛蝗、学名:Schistocerca gregaria)の集団。しかし、いざそいつらを探そうとすると安易に見つけることができない。そして、ようやく見つけたは良いが、それは自分がめざしていた大集団ではなかった。

つまり、サバクトビバッタの大群はそうやすやすとは見つからないのです。読み進める内にグイグイと物語の中に引き込まれていく。いやぁ前野氏の奮闘ぶりがリアルに伝わって来てワクワクしながら読んでおりますよ、はい。皆さんは夢中になっている書籍はありますか。熱中症にならないように涼しいところで、好きな本でも読み、体力を温存しつつ、頑張りましょう。

さて、今回のブログは、35℃の関東、先だって東京都の町田市で行った、相談業務を生業にしている人々を対象に行った研修報告です。当日は、昼を府中のマンマパスタで頂き、ちょい大國魂神社に参拝し、会場は向かいました。


●昼を頂いてから会場へ(マンマパスタ府中店)●.jpg

●昼を頂いてから会場へ(マンマパスタ府中店)●



●大國魂神社で大吉(摂社住吉・大鳥神社)●.jpg

●大國魂神社で大吉(摂社住吉・大鳥神社)●



この研修は、町田市町田市介護人材開発センターさんの共催で行われた。会場には、60名を超す参加者が集合。参加者の職種は、相談員やサービス提供責任者など若干名を除き、ほとんどが介護支援専門員である。

この研修は、相談援助研修の初級編として、下記の目的で開催される。

「研修目的:「相談業務」と一言で言っても皆様は、様々な役割の中で仕事を進めていきます。相談援助者として何をすればよいのか。どのように進めていけばよいのか等、分からないことがいっぱいあります。面接等に際し「御用聞き」にならず、専門性のある相談援助をするにはどのようにすればよいのか、利用者にとって正しいアセスメントとはなど、一緒に考えてみませんか。

この研修は、自分の仕事を説明する力、判断する力を身に付けたい方、相談援助者としてご自身を振り返りたい方など、初心に戻れる機会を提供します」
というもの。

研修は全3回のシリーズで行う予定で、開催時間は平日の14:00〜16:00までの2時間である。



その《第1回目》相談援助とは何か 〜相談援助の展開(PDCA)と記録〜 


研修で行ったこと
(1)自己紹介
(2)ケアマネジメントのPDCAについて(利用者の選択に資する援助)
(3)情報共有

佐藤の研修は、グループワーク中心である。たまに、研修に参加する方から、「自分はグループワークは苦手」と言われることがある。

まぁ、そのような人がいるのも当たり前なのであるが、講義形式の座学で学べるものは、多くが独学でも習得可能な技術や知識が多いし、集団で受ける意味を特にないであろう。もちろん、ものにもよるのだが。

しかし、対人援助を生業にしている人であるならば、他者との交流術も重要な技術のひとつである。というか、人と話すのが苦手では対人援助のエキスパートになるのはなかなか至難の道ではなかろうか?


以前は、講義形式が好きで、知っている人以外とは話すのはイヤという、能力はあっても、対人(相談)援助職はちと難しいかなというような、適正に疑問のある方でも、なまじ能力があるため、しぶしぶ組織から(対人援助職を)やらされている方も多かった。しかし、最近そういう方々は減って来てはいると思う。

そこはそれ、仕事と割り切って積極的に参加して欲しい。グループワークとは「他流試合」でもある。そこで、他者と手合わせをすることによって、自分の弱点を知り、また良き点を認識することが大事なのではないだろうか? こればかりは座学だけでは体験できない。

ということで、まずは自己紹介から!


(1)自己紹介
自己紹介は「1分間スピーチ」というカタチを取る。まずはグループメンバーの中から、はじめに話す方を決めて頂く。話す人が決まったら本日のお題(伝えること)を伝える。

今回のお題は「自分の仕事について」であった。まぁ、これが難しい場合は、自事業所の宣伝でも構いませんよ、ということで、1番目の方が語りはじめる。ココの時点では、皆さんすでにご存じの方もいると思うが、会場には凛とした空気が流れるのだ。

佐藤は、例によってピンクの子ぶた君のタイマーを利用して、タイムを切っていく。1人目が終わったら、その方に次の方を指名して頂く。

さすが、今回は、(生業として)相談援助業務をしている方々である。自己PRが上手であり、しっかり持ち時間の1分を使い切っていた。実は、ここで自己開示ができない人だと、この1分間が結構辛くなる。

佐藤は、タイマーのメモリを徐々に伸ばして、6番目の方には1分15秒間ほど、長めに話をして頂くのだ。

そして、自己紹介終了後には、佐藤が話す時間を徐々に伸ばしていたこと。最後は1分15秒あったことを伝えると、会場がざわつく。

「えっ? だんだん時間が短くなっていると思っていたのに!」

そうなのだ。参加者同士の自己開示が進むと時間的感覚は短く感じるものらしい。相談業務は、まず相談に来られた方から「充分に話を聞いてもらえた」と思って頂くことが重要である。案件自体はなかなか困難を極めるとしても、だ。

そのためには、限られた時間の中で、相談に来た方がいかに速やかに自己開示ができるのかがカギとなる。そこで相談援助職は自らが正当な自己開示を行える技術を蓄えておく必要があるというわけである。

(2)ケアマネジメントのPDCAについて(利用者の選択に資する援助)
さて、次は、平成30年の介護報酬改定から。ここからは居宅介護支援事業所の改定に特化して話を進めた。

平成30年の介護報酬改定において、「居宅介護支援」分野では下記の内容が示された。

[改定事項]
 @医療と介護の連携の強化
 A末期の悪性腫瘍の利用者に対するケアマネジメント
 B質の高いケアマネジメントの推進
 C公正中立なケアマネジメントの確保
 D訪問回数の多い利用者への対応
 E障害者福祉制度の相談支援専門員との密接な連携


今回はこの中の、「C公正中立なケアマネジメントの確保」につい皆さんに考えて頂いた。この改定の概要では、「利用者との契約時における説明等」として、利用者の意思に基づいた契約であることを確保するため、利用者やその家族に対して、

1)「利用者はケアプランに位置付ける居宅サービス事業所について、複数の事業所の紹介を求めること」が可能であること。
2)「当該事業所をケアプランに位置付けた理由を求めること」が可能であることの説明を行うことが義務付けられた。その上で、これらに違反した場合は報酬を減額するとしている。


であるならば、参加された皆様は、いつの段階で上記の内容を説明しているのか? とりあえず、皆さんが現在行っているPDCAの順番を、言葉や図を用いて描いて頂いた。この時には、自分が行っている「利用者の選択に資する援助」を、いつ行っているのか意識して書いて頂いた。

考える時間は10分。

そこで、PDCAをすべて書かなくても、サービス担当者会議までにしていることを書いて頂けば結構と案内した。すると、どうだろうか?

あるグループから「先生、PDCAって何ですか?」という質問が出たのだ。これには佐藤もびっくり! もちろん、以前実務研修の講師を務めていた時にも、同様な質問が出てきて、「PDCAのサイクルを知らずにケアマネになったのぉぉぉぉぉ」と驚いた(怒ったりは決してしません)が、まぁ、実務研修の受講者ですから仕方ないかなと思った。

しかしですよ、しかし、現役のケアマネさんからこの言葉を聞くとは思わなかった。ハハハ。東京都の実務研修はこのままで大丈夫なのだろうか?と心配になる。

もっとも、佐藤も東京都の研修を受講しているが、参加者が多過ぎて、細部にまで講義が届かないと言うこと。つまり、現場に登場する介護支援専門員は、研修は受けているが、実践はしていないということなのだ。

そうであるならば、即戦力となるケアマネを育成するのはやはり雇っている事業所が行うことが当然なのだろうなぁ。だから主任介護支援専門員が管理者になるんだっけな。

ただ、その主任さんも大丈夫か? その能力を疑いたくなる方もいないわけではない。いや、そもそも、日本の資格は、医師・看護師でも、古株の技能の再検査などはほとんどなく、新制度が出来てもスルーされることが多いだろう。主任介護支援専門員も、初期は甘々で取れたわけだから、その方々が指導するとなれば、そうそう期待はできないのだが。

だからこそ、主任介護支援専門員の皆さんも新たなテキストを片手に指導できるように自己研鑽に励んでほしい。

元々、政府は得意のアリバイ作り(ちゃんと研修やってますよ!)なのだから、そのうち司法取引ならぬ、研修取引(お金を出せば、受けたことにしますよ)みたいにならなければ良いが・・・。しかも研修は、ただ増やせば良いわけではない。要は質とタイミング(いつ、何をやるか)で有ろう。

ということで、佐藤は、問い合わせのあったグループに潜り込み、「ケアマネジメントには、エントリーやインテークの段階、ケアプラン原案を作成する段階、モニタリングや再計画など、各段階がありますよね。それらをPDCAのサイクルというのです。皆さんが各段階において、いつ、利用者さん等に選択に資する援助をしているかを書いて欲しい」と説明した。

その後も佐藤は他のグループを周り皆さんが書いている文字をみて廻った。中にはPDCAのサイクルをフローチャートで見事に描ける猛者もいた。職種を伺うと、地域包括支援センターの職員さんであった。

やはり、(真剣に)地域包括支援センターで働く方々は、常日頃からエントリーの段階の方々とかかわる分、その苦労がにじみ出ていると思った。いや、ほんと、とても真剣とは思えないところ(地域包括支援センター)がありましてね・・・。どことは言えないが。

それはともかく、こちらでは佐藤が求めていた解答をすらすらと描けるのだ。まぁ実際問題、他の通常の居宅介護支援事業所の介護支援専門員さんもこれらをスラスラ書けないと困るのであるが。介護支援専門員とは、ある種「事務のエキスパート」でもあるからだ。

さて、タイマーが鳴り、自分で考える時間の終了を告げた。今度はグループ内でどのようにしているかその情報を共有する時間である。

皆さん、ここぞとばかり、水を得た魚のごとく、ワイワイ、ガヤガヤと話に没頭した。そうそう、介護支援専門員のふだんの苦労を分かち合えるのは、働く場所は違えども同じ職種、仲間であるからこそである。

佐藤もお邪魔にならない程度にグループに入り情報を共有した。そして、最後は佐藤から別紙(解答例)を用いて、PDCAのサイクルについて説明を行った。

佐藤は、今研修の資料を作成する前に、『八訂 介護支援専門員基本テキスト』(一般財団法人長寿開発センター)を購入した。ちなみにこのテキストを「受験テキスト」ととらえ、合格後は購入しない介護支援専門員が多くいるようだ。

まぁ、仕方がない面もある。以前のはほんとうに、●どかった(笑)。間違いとか何とかいうよりも、そこから試験のい出ることが唯一の勝ちであったが、独禁なんたらに引っかかるから、どんどん出題数も落ち、とうとう使わなくても受かる者が増えてきた。でも、これじゃ売れないだろうに・・・。

しかし、前回の改定ぐらいからか、執筆者の顔ぶれが変わってきた。また、介護支援専門員だけではなく、介護保険周りの知識の取得に有効なものになって来たのだ。

介護保険制度の改正ごとに更新され、保険者側の旬の情報がぎっしりと詰まっており、まさに現役の介護支援専門員に必要なバイブル・・・に近くなって来た(まだまだ不満はあるが他にまとまった代替書はない)。皆さんも、手にとってじっくりご賞味くだされ。

とはいえ、本体価格が6300円もするのだから、とりあえず事業所で1セット購入して頂いてもよいのではないだろうか。


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●介護支援専門員基本テキストを紹介する●



ということで、演習の解答は、「第1巻介護保険と介護支援」より、「介護保険制度におけるケアマネジメント」(p.204〜208)から一部引用、佐藤が加筆したものを作成した。

ここはそのPDCAの一部分を案内したい。
(※なお、詳細は当ホームページの連載「介護支援専門員の仕事塾」に掲載。)


利用者の選択に資する援助として重要なポイント
(順番はフローチャートにするとわかりやすいと思う。)

@エントリーの段階 利用者の選択に資する援助(その1):介護保険制度を利用するかどうか。

利用者になり得る方が、皆さんの前に登場した段階である。ここでは、介護保険制度の仕組みについて行政が作成しているパンフレットなどを用いて説明する。

要介護認定を受ける必要があること。要介護認定で行われる手順について説明する。そして、結果によって、介護予防および居宅サービス計画(いわゆるケアプラン)を作成する必要があることを説明する。

ちなみに、近頃は、この段階の説明は、地域包括支援センターがしていることが多くなっているようである。とはいえ、介護支援専門員も、行政が出しているパンフレットなどを用いて、一通りの説明ぐらいしたいところである。

ただし、この段階に利用者等に説明したという記録がされていないことが多いようだ。その理由は、「この段階はまだ利用者になってないから!」といいうわけが多いが、利用者になり得る方が、問い合わせてきたのだ。

ここは、すでに支援ははじまっている段階と考えた方がいい。まぁ、相談したら「やはり他(の事業所)の介護支援専門員がいい」と頻繁に断られるような事業所では、かなり無駄になるかも知れないのだが。

さて、そこで「相談受付」などの帳票を用いて、支援の記録を開始する。受付簿があれば、その後に問い合わせがあった場合も、継続した支援につなげることができるし、どのように関わったのか記録も蓄積し情報を共有できる。

そうすれば、この相談受付の帳票は、その後の契約が成立するまでの経過記録となるわけだ。介護保険制度を十分理解して頂き、利用者が介護保険制度を利用する意向を表明したら、居宅介護支援事業所を案内する。

これは先の算定要件にある、1)「利用者はケアプランに位置付ける居宅サービス事業所について、複数の事業所の紹介を求めることが可能」であることを実践する場面である。

ここでは、行政が出している居宅サービス事業所一覧などを用いて、事業所を選択できることを説明する。

その上で、利用者が、当該事業所を選択した場合には、その旨を記録するが、この段階はまだ契約には至っていない。契約は次の段階である。


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●書いている内容を見守る●



Aインテークの段階 利用者の選択に資する援助(その2):自社を利用するかどうか。
この段階は、契約を目的とした面談を行うことを指している。

介護支援専門員(相談員等)が利用者宅を訪問して、自社サービスに付いて説明し、同意を得て契約を行う段階である。

この頃は、地域包括支援センター経由で自社サービスを選択された上で、地域包括支援センターや、利用者等から連絡が来るらしい。

その場合は、利用者には、下記内容を説明する段階で、再度、居宅サービス事業所は選択することができるということを案内しょう。

さて、インテーク面接(契約を目的にした面接)にて、重要なポイントは「居宅介護支援(ケアマネジメント)の仕組みや、介護支援専門員の役割について丁寧に説明をするということである。

言い換えれば、「居宅サービス計画を作成すること」やその手法についての説明をするということ。

担当者は、この段階で、ケアマネジメントのPDCAのサイクルを再度説明し、介護支援専門員の役割について理解を得る必要がある。なんせ、介護支援専門員は、ことあるごとに利用者宅を訪問し、結果、毎月一度は訪問者となるのだから。

そこで、支援に必要となる、アセスメント様式[リ・アセスメント支援シート(東京都の場合)・課題整理総括票]などや、居宅サービス計画書(1)(2)(3)、利用票及び利用票別表、サービス担当者会議の説明、モニタリングや評価票などについて様式を用いて、利用者等が理解できるように説明する、

また、この居宅サービス計画書(ケアプラン)は、自分で作成することも可能であり、その際には居宅介護支援事業所との契約は必要ないことを案内する。


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●素直な参加者と向き合う●



これらを説明した後に、結果、利用者等から当該事業所にお願いしたいという意向の確認ができたら、契約書や重要事項説明書など契約に必要な帳票を用いて説明し、同意を得る。契約書を説明する際には、費用について「かからない」という案内はしないように!

確かに、現在は全額給付であり、利用者負担はない。しかし、居宅介護支援事業所には、その方を支援すれば、該当する報酬の金額が振り込まれてくるだから、いわゆる「ただ働き」をしているわけではない。「あなたを担当することで事業所には毎月これだけの金額が入ります」という説明を行う必要があるだろう。

契約終了後は、速やかに「居宅サービス計画作成依頼書」の申請手続きを支援する。


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●大丈夫かと見守る石原さん●



Bケアプラン原案を作成する段階 利用者の選択に資する援助(その3):サービス提供事業所を選別する

ここは、先の算定要件にある、2)「当該事業所をケアプランに位置付けた理由を求めること」が可能であることの説明を行う場面である。

うん? ケアプランに位置づけた理由は、利用者さんが「○○サービスを利用したい」と言ったからですって! サラダ記念日じゃあるまいし。

それは、御用聞きプランといって、「位置づけた理由」にはならない。なぜなら、サービス提供事業所(種別)はケアプランの作成段階に浮上してくるものだからである。

ここでは、アセスメント(課題分析)を行い、居宅サービス計画書(ケアプラン)原案を作成する。

「生活全体の解決すべき課題」を導き出し、「長期目標・短期目標」を設定する。次ぎに短期目標を達成するために必要な「サービス内容」を確定する。そしてそのサービス内容を提供するのに「適したサービス種別」を検討するのだ。

このサービス種別を検討する際に、利用者が必要としていたサービス種別であれば、問題は無いであろう。

ただし、アセスメントの結果、利用者等が希望していたサービス種別より、他のサービス種別が必要だという場合も出てくることもある。

例えば、利用者は、「訪問介護」に来てもらいたいと訴えていたが、アセスメントの結果「訪問看護が必要」となったり、または「通所介護」へ行きたいと訴えていたが、現時点では「訪問リハビリが必要である」ととらえた場合などである。

いずれも、利用者と一緒にケアプランを作成していれば、会話の中でその職種が必要な理由を伝えていると思うが・・・。

この段階でなぜ、そのサービス種別が必要ととらえたのかを充分に説明し理解を得るようにしたい。また、理解を得られない場合には、とりあえずケアプランに記載しておいて保留としても良いであろう。

さて、利用者等と協議の結果「サービス種別」が確定したら、その地域の「サービス事業所一覧」などの表を提示しながら、サービス事業所が選別できるように案内しょう。

その上で、担当者は、利用者が選別した事業所に連絡し、空き情報を確認し、利用者に可否の結果を伝え、否の場合には再度選択して頂こう。

こうして、提供可能な事業所が見つかったら、ケアプランにサービス事業所名を記載して、居宅サービス計画原案とします。ここが介護支援専門員の腕(能力)の見せどころ、多いに相談援助を駆使したいところである。


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●この間にしていることは?●



C利用者とサービス提供事業所が契約をできるように支援する。

利用者が利用するサービス事業所を選択できるように支援する

居宅サービス計画書(ケアプラン)原案を作成し、その事業所にケアプラン原案を提示します。

その上で、サービス提供事業所に「事前訪問を依頼」して、利用者とインテーク面接(契約を目的とした面接)をして頂く。

つまり、利用者と契約ができるように支援を行うのだ。せっかく案内しても、実際に会ったら、「この事業所はイヤだ」ということもある。そのようなことが後々起きないように、この時点でサービス提供事業所が、自社サービスを説明する機会を設けるのである。

「えっ、それはサービス担当者会議で行うことではないの?」

キタ〜。まぁ、今まではそれがまかり通っていたようであるが、本来は、サービス提供事業所にも「サービス内容に付いて説明すること」が求められている(指定基準第四節 運営に関する基準・内容及び手続の説明及び同意を参照ください)。

ちなみにこの事前訪問では、同時に、サービス提供に必要なアセスメントをして頂き、原案に対する専門的な見地からの意見をまとめて頂こう。

その結果、サービス提供事業所は事前訪問を行い、サービス内容等の説明し、利用者と契約行為を行うことが可能となる。そして、個別援助計画書の原案を作成するための情報収集を行うのだ。

同時に、サービス担当者会議において専門家としての意見を伝えられるように内容を吟味する。また、サービス種別によっては見学なども必要になるであろう。

さてさて、こうして、利用者さんは、自分を支援してくれるすべてのサービス提供事業書の方々から、それぞれのサービス内容を伺うことができ、今後の自分たちの生活について再考できたことであろう。


●問い合わせに応じる佐藤●.jpg

●問い合わせに応じる佐藤●



Dサービス担当者会議の段階である。

サービス担当者会議を開催する前には、根回しが必要である。事前訪問をした事業所では、個別援助計画の原案を作成して送ってくださる場所もあるかも知れません。もちろん、ケアプランが確定するまではその義務はありませんがね・・・。

また、介護支援専門員として、専門的見地からの意見を収集しておく必要もある。同時に開催日程を調整する。もっとも、これまでの段階で、もう日程が決まっているとは思うのだが・・・。その上で、サービス担当者会議の検討する項目をまとめる。

サービス担当者開催連絡(参加依頼)を出す。

この時に検討する項目を伝えて、意見などを出して頂けるように根回しをする。

サービス担当者会議では、サービス提供事業所間において、各サービス内容の提供方法についての調整を行う。利用者はすでにすべてのサービス事業所と会っているわけだから、話もスムーズに進めることができるであろう。

結果、利用者及びサービス提供事業所に時間的負担をかけることが少なくて済むと思われる。

さてさて、ここまでが長いが、PDCAの「P」と「D」の説明である。

この後に「C」定期的なモニタリングと、「A」評価と再アセスメントとつながっていくのだが、今回の研修はここまでである。

今回の研修は、

1)「利用者はケアプランに位置付ける居宅サービス事業所について、複数の事業所の紹介を求めること」が可能であること。
2)「当該事業所をケアプランに位置付けた理由を求めること」が可能であることの説明をどの時点で行うのかを焦点に説明を行ってきた。

参加者は一様に情報を共有することができて良かったようである。

さて、次回は、「私のアセスメント・自己覚知 〜他者と交流し、自己理解を深める〜」と題して、相談援助の要といえる、自分の価値観について向き合って頂きますぞ。

まだまだ、いやこれから、ガンガン暑い日が続きます。どうぞご自愛くださいませ!



(連日、東京の気温も35℃の猛暑日である。しかし、都道府県や市区町村の温度計は比較的涼しいところに設置されているから3〜6℃くらいはサバが読まているから信用できん。なんせ車の車外温度計はいつだって37℃を割らないのだ。ああもうだめ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:00| 島根 | Comment(0) | 研修会のツボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月06日

奮闘記・第1061回 研修会のツボ/東京都

●2018年● 東京都世田谷区

世田谷区福祉人材育成・研修センター

職務別研修 サービス提供責任者研修【現任2】
「介護が伝わる言葉を学ぶ 〜サービス内容を適切に伝えるために〜」



皆様、お久しぶりですね。お元気でしょうか? 7月に入ったばかりだというのに、関東地方は、もう梅雨が明けてしまいました。しばらくは、東京の空は夏休みのような青空が広がっておりましたが、梅雨明け後のここ数日はかえって雨空です。

やはり、《四季》というものはキチンと存在して欲しいものなのですねぇ。そのために梅雨という、ある種の「儀式」も必要なんでしょうが、いきなり全開の夏はキツイですよね。まぁ長すぎる梅雨もなんですけど・・・。

とはいえ、東西(南北?)に長い形の日本列島では、竜巻が発生したり、豪雨に見舞われたりする地域もあります。九州は台風の勢いがあるまま、とりあえず来るので被害が凄くなります。

特に長崎・福岡・佐賀は直近で行ったから大変心配ですね。その他にも大変な地域が有りすぎ。せめて被害が拡大しないこと、皆様の無事を祈っております。


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●夕食を食べてから会場入り●



さて、今回は、世田谷区福祉人材育成・研修センターさんで行った、訪問介護事業所サービス提供責任者研修【現任2】の研修会のツボです。この研修は、実技を通して学び合う研修として、18:30〜20:30の時間帯で行われました。会場には5台のベッドを設置し、1グループ5名で開催されました。以下、その報告です。


■研修の目的
「伝える」技術は、サービス提供責任者の業務を行う上でとても重要である。この研修では、介護内容を適切に言葉にするスキルを学び、ヘルパーへの指導や訪問介護計画書及ぶ手順書の作成に活用することをめざしている。


●中村さんからエールをいただく●.jpg

●中村さんからエールをいただく●



■研修で行ったこと
(1)介護内容を言葉にする意味 利用者及びヘルパーに通じる言葉。
(2)介護内容を言葉にする前に/介護内容の手順方法などの再確認。
(3)介護内容を言葉にしてみよう。


すでに、ご存知のように、平成30年度介護報酬改定において、訪問介護に関しては、身体介護に重点を置き、報酬を引き上げるとともに、「生活機能向上連携加算の見直し」「自立生活支援のための見守り的援助の明確化」「訪問回数の多い利用者への対応」を行うことにより、自立支援・重度化防止に資する訪問介護を推進・評価することにしている。

そのため、訪問介護事業所では、この自立支援・重度化防止に資する訪問介護の提供をしているということを計画及び記録で示すことが求められ、同時に、各ヘルパーさんは「自立支援・重度化防止に資する訪問介護とは何か」を理解している必要があるのだ。

そうなれば、サービス提供責任者は、各ヘルパーに対して、「あなたが担当しているこの方の、どの部分が、自立支援・重度化防止に資する介護技術であるか」ということを伝えなければならない。

佐藤は、介護報酬改定によって示された「自立生活支援のための見守り的援助」を題材に、演習問題を作成、研修会をスタートした。

ちなみに佐藤は、利用者に対して、必要な援助を提供する際には、ユマニチュード(Humanitude)のかかわり」を意識すると良いと思う。



●手順を語り合う●.jpg

●手順を語り合う●



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●笑顔で見守る●



■『ユマニチュードを意識したかかわり(技術)を言葉(文章)にすること
あなたは、ユマニチュードというかかわり方をご存知だろうか? 一時期、かなり話題になってテレビなどでも取り上げられたのでご存知かも知れない。いや、老計10号も知らない介護職がいるのだ。常識は疑ってかからなければいけない。

介護職員は、常にこのかかわり方を意識して、利用者とかかわれれば、自立支援も重度化防止も叶えることができるのではないか。ユマニチュードでは、利用者とかかわる時には「見る」こと、「話す」こと、「触れる」こと、「立つ」ことが重要だとする。

《「見る」こと》
これは、利用者に支援者を認めていただくことからはじまる。認めていただくこと、つまり支援者は利用者の視野に入る必要があるのだ。利用者の視野に入るためには、職員はおのずとかがむ姿勢を取る必要であろう。そこで、ここで職員が語りかけの場面では常に利用者の視野をとらえて話しているとご理解いただきたい。

《「話す」こと》
これはケアをしている時には、常に職員が何をするのか、しているのかを語りかける(説明)ことを意味している。ここでは、1ケアごとにNo.をつけて案内しているが、この場面は括弧ごとに途切れるのではなく、支援は言葉とともに穏やかに流れるように進んでいるとご理解していただきたい。

《「触れる」こと》
これは、支援が利用者の体に触れながら進んでいることを意味している。決して握るとか、持ち上げるとかではない。サポートする意味での触れることとご理解いただきたい。

《「立つ」こと》
日常生活動作には、立つことや移動することが不可欠である。そこで、上記の3つのポイントを駆使して、利用者に立つ気持ちになっていただけるように支援する。


●うまいじゃないの!●.jpg

●うまいじゃないの!●



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●今度は私の番ね!●



■演習問題
(1)ベッド上からポータブルトイレ等(イス)へ利用者が移乗する際に、転倒等の防止のために付き添い、必要に応じて介助を行う。
(2)認知症等の高齢者がリハビリパンツやパット交換を見守り・声かけを行うことにより、1人でできるだけ交換し、後始末ができるように支援する。


参加者の多くは介護福祉士の資格取得者であり、資格取得の時に介護技術講習を受講された方も多かったという。さすれば、皆さんこれらの支援はお得意なはずであろう(?)。

佐藤が「各グループで順番を決めて実践してみてください」と伝えると、さすが現役である。躊躇することなく問題を実践していかれた。素晴らしい!

でも、専門家ゆえに、技術(手の置き場所や、立ち位置など)に論を唱えることに始終してしまいがちで、ヘルパーがしている本来の自立支援・重度化予防の言葉感謝を伝える言葉や、励まし、称賛の言葉、さらには協力動作に感謝を伝える言葉)が抜けてしまうのが残念であった。


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●言葉によってつながっている●



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●佐藤がやってみる●



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●シャジ―君とまた会えました!●



そこで、佐藤は各グループにシュバっと入り込み、ええ、ええ、介護技術は皆さんのおっしゃる手順で間違えはありませんが・・・、本来のヘルパーがしている大事な援助が抜けてしまっているようにも思うのですが。いかがでしょう?

例えば、1人で起き上がった時にはどのような言葉をかけているのか?

すると「すごい、1人でできたじゃない」とか、「今日は元気そうで良かった」とか。そうそう、その言葉が重要なのに、今の演技の中ではそのような言葉が無かったのはなぜか?

また、他のグループでは、1人でイスに座る時に、そばに付き添ってはいるが、寡黙に立っているだけで、「どう? できそう? 大丈夫?」などと気遣う言葉が無かったのはなぜか?

さらには、「1人でズボンをはけますか?」と本人ができるかどうかを伺いながら、本人がするのをひたすら待っていたが、「自分でやろうという気持ちがあるのは素晴らしい。はけるようになってすごいじゃない!」など励ましの言葉が無かったのはなぜか?

などなど。あちこちで助言をしていった。すると、参加者は、一同に「そういえば、そう言っているわ! うまくできたら拍手もしているし」また、うまくできたら「良かったとか、こうしてくださいとお願いして、答えてくれればありがとう」も言っている、などなど。

こうして、皆さんは、お互いの身体を使いながら、介護技術のおさらいと、かかわっている時の「言葉」を意識することができたようであった。

最後は佐藤が解答例を示して解説した。


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●ええと、例えば…●



【1】ベッド上からポータブルトイレ等(いす)へ利用者が移乗する際に、転倒等の防止のため付き添い、必要に応じて介助を行う。

(1)その時々のあいさつと、自己紹介を行い、体調を把握する。
  「○○さん、おはようございます。ヘルパーの○○です。お体の具合はいかがですか?」
  「そうですか。あまりよく休めなかったと。蒸し暑い日が続いていますからねぇ」
  などなど。

(2)これからする事を説明し同意を得る。
  「そろそろ、お食事になりますがお手洗いはどうされますか?」
  「では、起き上がりましょう。ご自分で起き上がれますか?」

(3)掛け布団を外すことを依頼する。
  「掛け布団を外せますか?」

(4)問いかけに、応じて動き出したら、続けてできるように応援する。
  「そうです! だいぶ力が戻ってきたみたいですね。自分でできて良かったです」
  「ありがとうございます。1人で外せるようになって良かったです」

(5)起き上がりを支援する。
  「自分で起き上がれそうですか」
  「無理をしない程度に起きてみましょう」

(6)問いかけに、応じて動き出したら、うまく起き上がれるように励ます。うまくできたら称賛する。
  「そうです、そうです! うまいですね。」
  「自分で起き上がれるようになりましたね。素晴らしい」

(7)起き上がり後は気分の確認を行い、倒れないように依頼する。
  「ふらふらしませんか?」
  「倒れないように左手で手すりをつかんでいてください。しっかりつかまってくださりありがとうございます」

(8)ポータブルトイレを手前に近づける(ベッドサイドに置くこと)ことを説明し、倒れないように注意を喚起する。
  「ポータブルトイレを近づけます(お持ちする)」
  「自分はそばを離れますので倒れないようにご注意ください」

(9)ポータブルトイレの位置を伝え、了承を得る。協力動作に感謝を伝える。
  「トイレは、ここでよろしいでしょうか?」
  「お待ちいただきありがとうございます」

(10)転倒しないように注意を喚起し、立ち上がりを見守る。
  「では、転ばないように気をつけながら、立ち上がりましょう」

(11)下着衣をおろすように伝え、必要に応じて介助することを伝える。
  「ご自分でズボンなどおろせますか? 難しい場合はお手伝いさせてください」

(12)便座へ着座するように伝える。
  「では腰を後方へ押し出すようにして、ゆっくりと腰をおろしてください」

(13)座り心地を把握し、プライバシーに配慮して腰部にバスタオル等をかける。
  「座り心地はいかがですか? よろしければバスタオルをかけます」

(14)終わったら、呼んで頂くように依頼してそばを離れる。
  「私は外にいますので、終わりましたら呼んでください」

などなど。介護技術の先生には、まだまだ足りないと言われそうだが・・・。ぜひ皆さんは、ご自分の対象の利用者さんを例にあげて、佐藤のたりないところを補いつつ詳細な手順を示してほしい。結果。自立支援・重度化防止に資する援助だということが証明できると思う。


《佐藤の着目点》
「常時介助できる状態で行う見守り等」とは、利用者のそばに寄り添っている状態を指す。また、ここで言われている「見守り」とは、単に目視で確認していることではない。利用者のそばに寄り添い、見守るということは、そこには何かしらのコミュニケーション(会話)が行われるはずである。

ここでは、職員が常時介助できる状態でしている行動を文字化した上で、職員が利用者にどのようなことを語りかけているのかを括弧を用いて言葉を例示した。

ポイントは、重度化予防・自立支援・意欲の向上である。「倒れないように注意を喚起する」こと、本人に「選択肢を示す」(〜できますか?)また、本人ができるように「応援する」こと、「協力動作に感謝を伝える」ことなどが、そのポイントを抑えている文章となるだろう。


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●まとめに加筆する佐藤●



【2】認知症高齢者等がリハビリパンツやパッドの交換を見守り・声かけを行うことにより1人でできるだけ交換し後始末ができるように支援する。

※利用者がリハビリパンツを交換する時は、おおむね排泄介助時や衣類交換のと時などが想定される。今回は排泄後にトイレにてリハビリパンツの交換を行うとして案内している。


(1)本人のそばに寄り添い本人の視線を捉えて挨拶をして、自己紹介を行う。
  「こんにちは、〇〇さん。○×です」

(2)本人の視線をとらえて、お手洗いへお誘いする。
  ここでの注意点は、自分でトイレに行けると思っている方に、いきなり他者からトイレへ誘われるということは、気分を害することである  と言うこと。そこで、なぜ、トイレに行く必要があるのか。その理由を伝えることが重要である。

  例えば、
  「食事の前ですのでトイレによりましょう」
  「お部屋に戻る前にトイレに行きましょう」
  「お風呂場に行く前に行く前にトイレよりましょう」など。

  どうしても拒否がある場合には、しばし時間を空け、気分が落ち着いたら再度お誘いする。

(3)物品準備を行う。
  リハビリパンツやパッドなど、交換する物品を用意する。所定の位置より、リハビリパンツを出す。

(4)視点を捉えて立つことを依頼して協力動作に感謝を伝える。
  立ち上がる方法を伝え本人ができるように見守る。
  「私が側に付きますから立ちましょう」と立つことを依頼する。

  本人が応じてくれたら、
  「ありがとうございます」と感謝を伝える。

(5)気分を把握する。
  本人が立ち上がったら、気分を把握する。
  「ふらふらしませんか? 大丈夫ですね?」など。

(6)これからトイレまで一緒に付きそうことの断りを入れ、転倒しないように見守る。
  「ご一緒させてください。転ばないようにご注意ください」
  先に用意した新しいリハビリパンツを持参する。

(7)トイレのドアを開けることができるように支援する。
  「トイレにつきましたよ」
  「ご自分で、ドアを開けて中に入りましょう」

  本人が開けられない場合には、自分が開けることの断りを入れてから開ける。
  「私が開けますね。はい、どうぞ」

(8)トイレに入ったら、座位での排泄ができるように向きを変えていただくように伝える。
  「○○さん、便器に腰掛けますのでこちらを向いてください」
  「ありがとうございます」

  リハビリパンツをトイレ内の棚などに置く。

(9)下着衣を降ろすように支援する。
  1人でできる場合には、外にいることを伝えそばを離れる。1人でできない場合は、断りを入れてから、降ろす介助を行う。
  「1人でできそうですね」
  「ちょっと難しそうですから、私がズボンを下げましょう」

(10)便座に座れるように支援する。
  「後方に便座がありますのでお座りください」

  不安がる場合には、目視で確認していただく。
  「後方に便座がありますので、ちょっと見て下さい」
  「ほら、イスみたいに座れますよ」
  「腰掛けてみましょう」
  「あるいはそちらに座りましょう」などなど。

  本人が座ることを躊躇する場合には、体に触ることを伝えて、座れるように支援する。
  「○○さん、ちょっと、お手伝いします。腰を触りますが驚かないでくださいね」

※座位介助を行う時には、向かい合わせになり、自分の腰をかがめ、腸骨に両手を当てて前方へ押し出すようにして着座を支持する(利用者は腰を後方へ行く形になる)。



(11)座り心地を把握する。
  「うまく座れましたね。大丈夫そうですね」
  「良かった。これでゆっくりできますね」

(12)排泄時は羞恥心に配慮して外で待機することを説明しそばを離れる。
  「自分は外にいますから、用が済みましたらおしらせください」

  本人が呼べない場合もあるので、情況を把握する。
  本人の声がしたら中に入る。あるいは様子をうかがいながら中に入る。
  「終わりましたね。入りますよ」

(13)後始末ができたか把握する。
  「うまく拭けましたね」
  「温かいおしぼりをお持ちしました。汚れた所を拭かせて下さい」など、必要に応じた支援行う。

  「あったかくて気持ちが良いですね」
  「さっぱりしましたね」などなど。本人の気分を代弁する。

(14)本人に新しいリハビリパンツに履き替える必要性を伝えて。履き替えられるように支援する。
  「下履きを新しいのに履き替えましょう」あるいは「こちらのパンツに履き替えましょう」など。

(15)パンツが脱げるように支援する。
  パンツ等は膝下にまとまっているので、本人が前屈みになって足を使用するなどして脱げるようであれば脱ぐのを見守る。
  この時も、なるべく腰を下ろして見守る。
  「自分で脱げそうですね。もう少しです」など、本人のしていることを認め励ます。

  1人で脱げない場合には手伝う。
  「難しそうなので手伝させて下さい」と依頼して、手伝わせてくれたことに
  「ありがとう」と感謝を伝える。

(16)新しいパンツが履けるように見守る。
  リハビリパンツを渡して、履けそうであれば転ばないように見守る。
  「どうそ、はいてください」
 
  膝までくくりあげられたら、立って引き上げるように説明する。
  腰部にかけてあったバスタオルを外して立ち上がりを支持する。
  「立った方がパンツを持ち上げやすいと思いますので立ちましょう」

  手すりがある場合には、手すりをつかんで立ち上がりを支援する。無い場合には、職員が利用者の手に触れて、
  本人がつかんで立ち上がれるように支援する。
  「立てましたね。パンツを上げますよ」
  「新しいパンツは気持ちが良いですね」などなど、新しいパンツに履き替えた爽快感を言葉に出して伝える。

(17)ズボン等を整える。
  パンツの履き心地を伺いながらズボンも引き上げて履き心地を伺う。
  「ズボンも上げられますか?」
  「うまく履けましたね。良かったです」

(18)一連の行為が無事に済んだことを伝え、労をねぎらい、感謝を伝える。
  「リハビリパンツを履き替えることができましたね。さすがです」
  「○○さんが協力してくださったので無事に交換できました。良かったです、ありがとう」

(19)トイレから出るように説明しで出られるように支援する。転ばないように注意を喚起する。
  「では、手洗いをしますので外へ出ましょう」
  「転ばないようにゆっくりと洗面所へ行きましょう」

(20)洗面所へお誘いして手を洗うように伝える。一緒に手洗いを行う。
  「〇〇さん一緒に手を洗いましょう」「自分でできそうですね」
  「私が水を出しますから、石けんを付けて洗いましょう」
  「冷たくて気持ちが良いですね」
  「さっぱりしますね」
  「タオルで手を拭きましょう」などなど。

(21)居間まで、転ぶことが無いように注意を喚起して居間に着くまで転ぶことが無いように見守る。
  「さあ、お部屋に戻りましょう。くれぐれも転ばないようにご注意ください」
  「足がふらつかなくなりましたね。安心しました」

(22)イスに座っていただく。
  「こちらのイスに座りましょう」


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●やはり現職は熱いぜ●



《佐藤の着目点》
認知症高齢者への支援は、その方の病気の度合いや、理解度によってコミュニケーションの取り方を見極めることが重要となる。「見る」「話す」「触れる」「立つ」などを意識しながらケアを進めていく。常に介護は利用者の同意を得ながら行うことが大前提である。

そこで、職員は、利用者に開かれた質問(意向を確認)を行う。ただし、利用者の中には、開かれた質問(意向を確認)をすると、「あんたに任せる」「わからない」等と答える方もいるので注意する。

特に、認知症高齢者は、開かれた質問(意向を把握)をすることで、一連の流れが止まってしまい、急に不穏になる場合もある。そこで、支援の途中に本人の意向を把握するような「開かれた質問」(意向を把握する)をされると、継続された行為が止まってしまい不穏になる場合もあるかも知れない。

そこで、介護者は先々の行動ができるように導こう(案内する)。また、うまくできた時には、できたことを共感し、「うまくできましたね」さらに感情を言葉にして伝え、「新しいのにしたらさっぱりしましたね。気持ちいいですね」などなどである。

このように成功体験を通して得た、ポジティブな感情を体験することで、拒否反応が少なくなることもある。さてさて、これにて、本日の研修は終了である。

今年の夏は長くなりそうです。皆様ご自愛くださいませ!



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●成城学園駅に着く。お疲れ様でした●



(「あおり運転」で死人が出れば、それはもう殺人である。そもそも、車の免許のペーパー試験が簡単すぎるだろうし、自転車も免許制にしたい。どちらもバ○では取れないようにして欲しい。まずは大阪のあおり殺人容疑の×ズは容疑者こそ「しまい」にしてやってくれ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 22:13| 島根 ☔| Comment(0) | 研修会のツボ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月22日

奮闘記・第1060回 見聞録/長崎県&熊本県

●2018年● 長崎県大村市・長崎県島原市&熊本県天草市ほか


『道の駅』マグネット探訪の記

〜潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その2)〜


皆さま、おげんきでしょうか。なんとか続きができました。今回は1058回の第2弾です!

と言いつつ、良く考えると、あまり、潜伏キリシタン関連遺産は廻れてませんでしたねぇ・・・。外海や大浦天主堂くらいかな? もうこの時期は、長崎や天草も、世界遺産に登録されることは、規定路線だったんで、各施設がノリノリで補修していました。

走行ルートは、潜伏キリシタン関連のエリアを界隈を走っているのですが、全然遺構や施設が「潜伏」していなかったのです(笑)。むしろ、誇らしげでありました。

潜伏キリシタン関連の資料自体は、かなりあちこちで拝見しましたから、いろはを学ぶ旅が近いのかな(汗)。さてさて、以下、今回はいよいよ潜伏キリシタン・・・、いや道の駅・マグネット探しも終盤です。


本日、我々は、島原半島から熊本県天草へ渡り、長崎空港から東京へ戻るのであった。今回の九州での移動距離、おおむね約367キロときた。

我々の実績(?)からすれば、「並の距離」なのだが、ニコニコレンタカーへの返却時に「いやいや、お客さん、たくさん走りましたねぇ〜」と感心された。まぁ初日も結構乗ったしねぇ・・・。そこは、ハハハ。

ということで、我々は、道の駅・マグネット探しと、ついでに潜伏キリシタン関連遺産を巡るという、大きな使命のもと、早朝、もはや「常宿」となったホテルベルビュー長崎出島を後にした。

この日は、天気予報どおりのあいにくの雨。もともと、直前は「全部雨」予報であったが、今日以外晴れたんだから文句も言えまいて。長崎空港に着く頃は晴れたしね。

我々は、昨夜もどうやったら、快適かつ安く(←ここ重要)天草へ渡れるかと、様々なルートを模索していた。なんせ有明海を越えれば、どちらか周りで長崎空港へ行かなければならない。そうそう、遠回りはできないのだ。

出発前にパソコンでルート検索をして、「ひゃ〜参謀」にそのルートを告げた。


「・・・・大将(佐藤)、いったいフェリーはどちらから?」

「フェリー? 乗らないわよ。だって、ルート検索でふつうに渡っていったわよ。きっと橋がかかって・・・」

「昨年(2017年)の11月に出た地図で掛かってないのに?(笑) しかも、1年もしないうちに橋なんか掛けられますかいな。そんで長崎と熊本、どちらの自治体がその費用を?」

「・・・・」



私は、どうやら知らない間に、空想の中でフェリーに乗って天草への旅をしていたらしい。再検索の結果、佐藤が出した答えは、口之津港(くちのつこう)から対岸の鬼池港(おにいけこう)にわたるルートであった。

これは、司馬遼太郎先生がかって『街道をゆく 17 島原・天草の諸道』で渡ったルートである。まぁ、主目的があちら様は街道、こちらは道の駅のマグネットという違いはあるのだが。


【島鉄フェリー 口之津港】
ナビ様(たまに海上を車が走る)に導かれるままに、島原半島を周遊し、口之津港へ無事に着いた。佐藤が、読んでいる遠藤周作先生の『切支丹の里』にも、この口之津港が登場する。

ここは、1562年に肥前有馬氏・当主の有馬義直により貿易港として開港された。その翌年、イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダが来航して布教活動を開始。

1567年には南蛮船(ポルトガル船)が入港、1579年には、全国から日本で布教活動を行う宣教師が集合して第1回口之津会議が開催されている。

その後、布教の中心が長崎に移るまで、キリスト教布教と南蛮貿易の中心地として栄えた港なのだ。

いや、もう一度、栄えたことがある。明治の初め、現在の福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にあった、三池炭鉱の石炭の輸出港として活用されていた頃である。

炭鉱は江戸時代から操業されていた。やがて明治に三井会社(後の三井財閥)に払い下げられ、三井・三池炭鉱となるが、主な需要は、製塩業者(瀬戸内海が主)が製塩用の釜を沸騰させて、稼働する燃料にしたらしい。

大牟田市にも、研修会で呼んで頂いたことがあるし、その港や三池関連のレストランでも会食もした。その港から、ここまで石炭を底が浅い船を数珠つなぎにして、有明海を渡ったという。ここはその三池の有明海の対岸にある港なのだ。

むかし有明海は浅かったため、大型船が通れなかったのだ。やがて三井財閥の力で、明治42年に、三池に港を作って大型の船が着港できるようになると、口之津港は静かにその役割を終えた。

先の「ひゃ〜参謀」の話は、橋など云々の話は、何度も船による産業が衰退し、また立ち直るということを繰り返して来た、口之津(長崎県)が、フェリーの観光産業などが大幅衰退するような、明石大橋級の橋をわざわざ莫大な予算をかけて作るとは思えないということなのだ。

遠藤周作先生は、天草に春夏秋と訪れ、何の変哲もないこの港が好きだと書かれていた。その上で、町の人はおそらくほとんど、自分たちが今住んでいる場所に約400年前、教会が建てられ、唐人や南蛮人が往来し、切支丹の賛美歌(カトリックなら聖歌)が流れていたことにそれほど関心がないだろう、と。

しかし、車で走行していると、あちこちに墓地があり、明らかに日本の墓石と違う墓石が点在しているにが見えるのだ。全然「潜伏」などしてはいない。

たぶん、遠藤先生は、弾圧され、信仰に命をかけた「純粋な教徒」に想いを寄せ、隠れながら変質し、細々とした「キリスト教もどき」となってしまった教徒には厳しいのだろう。先生ご自身は、結構カトリックとプロテスタントを混同して使っていることが度々あるようだが・・・。

それくらい、現代の穏やかなキリスト教とは違う、命がけの信仰であったのだろう。まぁ現代でも、某・石油がウハウハ出る地域にて、キリシタンであることを宣言すれば、同じ状況を味わう可能性は高いかも知れない。現代でも、信仰の不自由さは、さして変わりがないのかもしれない。

うだうだと、港に向かって車を飛ばしていたが、その港は突然目の前に現れた。いや、正確には突然ではない、ナビ様も道路標識もちゃんと「口之津港」を案内していたのだから。

ところが、そのう、なんというか、うっかり東武東上線(知らんか)の踏切のように、なんとなくそこに存在していたのだ。ハハハ。

佐藤は、長崎の大波止港(おおはとこう)のような、もっと大きな港を想像していたので、口之津港と書かれた、隠れ居酒屋のような、看板を見つけても、それが本体とは認識できず、どうにも入りそびれてしまったのだ。


「ちょっと・・・。もしかして今のじゃない? 入りそびれちゃった。どうしょう?」


と話していると、なんと、カーブを曲がったところに我らが最強のデイリーヤマザキ(パンや惣菜なら、某セブンなんとかよりも確実に上)を発見した。

ここらで、チト確かめて見ようと言うことになり、早速中に入り買い物をしがてら、店員さんに尋ねてみた。


「あの〜、フェリーはどこから乗れますか?」

「この先の左手に入り口がありますから、そこから中に入るとあります」



とのこと。我々は、駐車場で反転し、先の方向へ引き換えした。すると、さっき通り過ぎたときには、人気(「ひとけ」である)が無かった場所に、数台の車が並んでいた。

係の方が聞く前に、さっさと我々を所定の場所へ導いてくれた。窓を開けてあいさつをすると、


「車検証を持って、あちらの案内所へ行ってチケットを購入してくだされ」


と教えてくれた。こうして無事に乗船し、天草に向かったのである。楽しみにした船旅は、たったの30分。何ということはない、あっという間に天草に着いてしまった。


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●ここが口之津港であった●



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●船内でいきなりおやつ●



これが隠岐の島後(どうご)などに渡ったときは、もう・・・・、まぁ海もきれいで楽しかったが、時間はかかった。長崎でも五島列島に渡れば、こちらもけっこう時間かかるだろうなぁ。でも、行ってみたいな他所(よそ)の国(日本だよ!)。

鬼池にも、ザ・ピーナッツも唄った島原地方の子守唄で「鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい」(恐いおじさんに連れて行かれるよ)という歌詞があるほど、対岸の島原などに遊女が連れて行かれた港であり、興味深いのだが、今回はテーマが違うので、そこから、一路天草キリシタン館をめざした。いよいよ、雨は本降り。ワイパーがご機嫌に躍動していた。


【天草キリシタン館】
佐藤は、天草宝島観光協会の天草ロードマップ兼天草ミュージアムマップを手に入れている。ミュージアムマップによれば天草には20の施設があるという。しかし、長崎や熊本の地図や案内、ガイドなどがこんなに充実しているのだろう。しかも、ほとんど無料である。薄目ではあるが、持ち運びに良く、市販にものより使い勝手が良い。

でも、やはり、天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を知るためには、通りすがりの見学では追いつきませんなぁ。入門知識くらいが得れれば喜びますわい。

車を駐車場に入れ、外へ出た。駐車場の前にはマリア像が雨に濡れ静かにたたずんでいた(動き回っていたら恐い)。館の入口には、天草四郎像があり、出迎えてくれている。

早速中に入り、パンフレットなど入手。こちらでは、天草・島原の乱を中心に、天草キリシタン史を4つのゾーンに分けて展示している。


●天草四郎は雨でも頑張る●.jpg

●天草四郎は雨でも頑張る●



[天草キリシタン史]
エントランスから入ると、いきなり、《天草四郎陣中旗》が目に飛び込んで来た。これによって「観光」という視点から、「歴史の検証」というような視点になり、大げさだが、思わず居住まいを正してしまった。この「展示スペース」が「歴史そのままの空間」に変わったとでも言えようか。

この旗は「歴史の証人」として扱われている。そりゃあ、日本キリシタン史の代表的な資料なのだから。もちろん、展示されている物はレプリカであるが、本物そっくりに作成されているらしい。

ちなみに、日本で展示されている国宝や重要文化財などは、建物以外はまずはレプリカである。文化財に指定を受けると、所轄の官庁から、精巧なレプリカの作成と、それを展示することが求められるという。

したがって、よほどのコネがない限り、建物以外、実物を観ることはないと言える。それが嫌な所有者は、初めから「レプリカ」と説明して、置いているのかも知れない。

さて、この《天草四郎陣中旗》には、中央にキリストの十字架が描かれ、その下にワイングラス。その両サイドには羽をつけた信者が跪き、手を合わせている(一般的に、十字架+キリストは、カトリックの象徴とされ、プロテスタントなら十字架だけである。だからこれはカトリックの絵であると判断できる)。

本物の旗には、戦いの最中に、槍で突かれ血糊がついた跡が残されていたらしく、こちらにも。その跡などが鮮明に写されていた。

佐藤は、その旗に釘付けになった。しばし、見入ってしまったのだ。おいおい、初っぱなからこれでは時間が足りなくなるぞ。しかし、これが天草・島原の乱で使用され、参加した人々の心のよりどころになっていたとすれば感無量である。

なんせ、天草のキリシタンと、島原のキリシタンwithキリシタンじゃない町の人の想いも考えも、実は、全然乖離していた。

正直、天草四郎を始め、天草のキリシタンたちは、こちらに合流するべきではなかったのだと思う。この乱の性質は、純粋な宗教戦争などではなかったからだ。

この時代の日本で言う、キリシタンとはおおむねカトリックを指している。本来は、プロテスタントも含んでいる表現なのだが、幕府はそうは考えなかった。だから、オランダは、プロテスタント国だから比較的フレキシブルであり、厳格とも言えなかったようで、「キリスト教徒」には見えず、拒否されなかったようだ。

[南蛮文化の伝来と天草]
ここでは、キリスト教の伝来から天草・島原の乱勃発までをキリスト教の隆盛と、禁教令によるキリシタン弾圧という激動の時代が紹介されている。

宣教師の人々は、その地域に住み、その地域の人々と共に暮らすことで信頼を得ることで、ようやく布教活動ができた。しかも、神の教えだけではなく、学問や農業・医療の知識などを持ち、その土地にあった耕作物の指導も行い、そしてその土地で骨を埋める覚悟で赴任する方々も多くいた。

苦労の末、ようやく布教ができ、信者が増えたころに、今度は禁止令によって身を隠す生活を余儀なくされるのだ。

それだけではなく、キリスト教弾圧ということで、幕府は絵踏みなどによって、キリスト教徒を発見し、追放あるいは拷問し、棄教を求めるなど、挙げ句の果てには見せしめのために処刑までしているのだ。このあたりは遠藤先生の本を読んでいると身震いするほどですよ、はい。

これらの仕打ちの恐ろしいことは、元々、農民や下級武士たちが、搾取され低待遇で使われていることへの不満を、より弱い立場の者に転嫁させる役割もあった。そう、ガス抜きのようなものである。

ここでは、たまたまキリシタン、そう、たまたまなのだ。幕府からするば、口実があり、弱ければ、なんでも良かったのだろう。

実際、江戸時代の新潟・佐渡送りにされた罪人は、重罪犯や凶悪犯というわけではなく、気の弱い犯罪者ばかりであった。そうでなければ、随時、佐渡に鎮圧部隊を置いておかなければならなくなる。ううん、幕府のえげつない一面とでも言えようか。

[天草・島原の乱]
ここでは、年表と資料や、武器などを展示して、戦いがどのように行われていったのかを案内している。

天草・島原の乱の発端は、松倉勝家が領する島原藩のある、肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮したことである。幕府軍125,800人、キリシタン軍37,000人であった。ちなみに関ヶ原の戦いは、東軍88,880人、西軍83,200人である。

佐藤は、例の遠藤先生本を読んでいる最中であったため、この資料に引き込まれてしまい、時の経つのも忘れ、しばし、その場に立ち止まって、その説明文を読みふけってしまった。

領民たちが起こした一揆も、原城にて終焉を迎えるのだが、それはそれは、たくさんの命が失われた。

まぁだから、原城址などは、いくら世界文化遺産に含められたとはいえ、場所が場所なだけに簡素化したままである。名古屋城や島原城のように再建なんかできない。なんせ、いまだに何万もの遺骨がそのままらしいのだ(ヒソヒソ)。

しかも、地元の方々からは、「あそこは〈あれ〉が出るから、夜は絶対行かないほうがいいよ」とマジで止めて頂けるという。これは司馬先生の行ったころから変わらない。

そもそも、正式なキリシタン(本来、仏教徒もだが)は、霊の存在を認めないのだ。だからこそ、遠藤先生が地元の彼らを「キリシタンの末裔」と認めないのかも知れない。まぁそれは別に双方、自由だとは思いますが・・・。長崎はホントに幽○話が多いらしい。

[乱後の天草復興とキリスト教信仰]
当時の幕府は、天草・島原の乱で多くの犠牲者が出たため、各地から島原への移住策を進めた。ここらへんは、幕府の有能なところだろう。天領から、たとえば、各場所、100人ごとに1人を選ぶなどで移住させ、年貢を数年減免するなどで対処したようだ。

そのせいで、長崎や佐賀などの近隣の農民がひそかに移住してしまうなどの問題も起きたらしい(笑)。まぁ期間限定ではあるが、タックス・ヘイヴン(tax haven/租税回避地)ではそりゃあねぇ。

いまでも、人口ランキングが当時の島原状態に近い、47都道府県での47位のT県や、46位のS県でもやって・・・、いや、なんでもないです。

一方、キリシタンの中にも生き延びた者もあり、その人々は隠れキリシタンとなり、自分たちの信仰としての十字架やマリア像やキリスト像を形を変えて隠し持ち生きながらえて行った。

マリアとは、カトリックでも、本来神様扱いではないのだが、天の神様(父=唯一神)の分身とも言える、イエス・キリスト(子=唯一神の分身)に「取り次いで頂く」役割があり、キリシタン初心者の日本人を、フランシスコ・ザビエルがマリアに捧げたとも言われている。

ちなみに「聖霊」(せいれい)とは、いささか表現が難しいが、神様の「不思議な力」(神秘的な力)などを指していると思われる。奇跡とも言える。

やがて、開国からまもなく長崎に来た宣教師たちは、大浦天主堂を建設。居留地の西洋人のために宣教活動を行い、その宣教師と浦上村の潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに信徒達が信仰を表明したのだが、再び弾圧が強化され、摘発事件が相次いで起こった。

これに、西洋諸国から当然ながら、強い抗議が相次ぎ、1873年に明治政府は禁教の高札を取り除き、ようやくキリスト教が解禁された。まぁ、西郷(せご)どんをみるまでもなく、明治政府も名ばかり政府であった。

西洋諸国の弾圧の善し悪しは別に(人道的には完全な悪)、本来、信教の自由、不自由は、その国の主管の問題であり、これらは内政干渉にあたると思うのだが、日本に跳ね返す力はなかった。今でも、某・西洋花札大統領に振り回されているのと同じ構造だ。しかし、これは世界中が標的ではあるのがねぇ。

いやいや、ものすごい、時代の時間空間をさまよって、現代に帰って来たような気がした。「歴史を学ぶ」というのは、難しい感じや歴史用語、人名を覚えることも必要だが、「肝」(キモ)を押さえることが、悪しき歴史を繰り返さないためには必要である。サッカーのロシアW杯でも、日本対コロンビア戦でも、そのことが実証されていたと思う。

我々が、館を出たときに、雨の中にもお日様の光を感じたのは気のせいだったのかな? さてさて、先を急がないと!


【道の駅・有明リップルランド】
ここからは、再び「道の駅」のマグネット獲得の旅となる。我々は国道324号、通称・ありあけタコ街道を走っています。ありこちにたこの文字が観られるようになった頃、車は道の駅・有明リップルランドへ着いた。

ここは、物産館はもちろん、温泉施設も併設していて賑やかな所でした。雨が降っているにもかかわらずお客さんが多く訪れていた。ひゃ〜参謀は、早速、同道の駅、トレードマークのたこの写真入りのマグネットをゲット!

混んでいたので、再び車に戻って出発。雨は容赦なく降り続けている。ここは、海岸線を巡る道。本来であれば有明海が輝いてみえるはずだが、あ〜あ、残念。でも、長崎→熊本→福岡→佐賀→長崎と有明海の周囲を一周廻ってしまったが(笑)。


●天草キリシタン館前●.jpg

●天草キリシタン館前●



●悪天候のせいか、荒荒しい有明海●.jpg

●悪天候のせいか、荒荒しい有明海●



【道の駅・上天草さんぱーる】
佐藤は、ナビ様に次に行く場所をインプット。ナビ様に導かれるままに行くと、いつしか国道266号線に乗って、島から島を結ぶ天草五橋を渡っていた。

無事、道の駅・上天草さんぱーるに着いた。車から降りた我々は、よさげな食堂があったら昼食にしましょうといいつつ、中に入った。

すると、なんてこったい。よさげな食堂というより、旬の魚を楽しめる、併設のレストランがあった。さらに、店の前には入店待ちのお客さんが列を作っている。しかも地元民らしき方々である。

店の前にある看板には魅惑的なメニューが書かれ、値段がリーズナブル。これなら地元の人で賑わうのも当たり前だろう。

佐藤が入り口で順番待ちをしている間に「ひゃ〜参謀」は、お目当てのマグネットを探しにふわふわと漂いながら(?)、物産館へ入っていった。

すると、ここには2種類のマグネットがあったそうな。1つはこちらでとれる鯛やかに等の写真をモチーフにした物と、もう1つは、国道266「美と癒しと食」を満喫する天草路と書かれた物があったそうな。結果、彼はシンプルな方を選択し、それを抱えて満足気な顔で戻って来た。


「さっきのタコは生きているヤツ(たぶん)だったけど、ここのは、死んださか・・・(強制終了)」


まもなく我々は店に入り、海鮮丼を注文した。ちなみにこちらの海鮮丼は、その、○○○○○なの鯛が入っており、美味かったなぁ。そうそう、お魚いり餃子(「このしろぎょうざ」)というのもチョイスした。確かに変わった味の餃子である。

こうして、我々は、地の物を頂き大満足。再び元気になって次をめざした。


●上天草のレストランでで海の幸を頂く●.jpg

●上天草のレストランでで海の幸を頂く●



●どこの海でも、道路でも荒荒しい?●.jpg

●どこの海でも、道路でも荒荒しい?●



●天草五橋を疾走●.jpg

●天草五橋を疾走●



●道の駅・宇土マリーナは休み、だが近くに古代の船が!●.jpg

●道の駅・宇土マリーナは休み、だが近くに古代の船が!●



【三角西港と浦島屋】
浦島屋は明治期に旅館(外見は洋風ホテルなんだが)として建てられ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生が、明治26年7月22日、長崎からの帰途に立ち寄り、『夏の日の夢』と題した紀行文の舞台となった旅館である。


●浦島屋(復元)のステキな外観●.jpg

●浦島屋(復元)のステキな外観●



長崎滞在では、ハーン先生は、どうやら西洋の快適さを求めたようだ。しかし、エアコンがない時代だから、それは無理だったろう。

夏の日の夢』は、文庫などでは絶版で手に入らないが、ネットでは全文読むことが可能である。この話は、「浦島太郎」の再話(作り直し)とされる。

日本の童話や昔話を扱う上で注意が必要なのは、この時期の童話の多くは、巌谷小波という童話作家の大家が、元々「再話」されてしまっているものも多いことであろう。

この方は、明治期の子どもたいに合う、道徳規範にするため、大幅に改変されている童話もある。桃太郎などは、鬼ヶ島から流れてきた、大きい桃も、ジイサマ、バサマ(といっても30代なのだが)が拾って食べると若返り、普通に子作りをして、桃太郎が生まれる話だったりするんで、そりゃあ、まぁ・・・。そんでそういう部分を改変すると、我々が知っている、よくわからない童話になる(笑)。だから、明治期の昔話はそのまま昔の伝承とは限らないのだ。

もう1つは、ハーン先生は、すべて、読者対象を欧米人として、書いていることを忘れてはいけないだろう(英語かフランス語で書いたものしかない)。しかも、まだ、先生のキリスト教などに対する考え方もかたまっていない。

早過ぎた晩年、長男に「聖書」を大切に読むことを伝えている。これから考えると、プロテスタントの考えに接近していったのかも知れない。

また、セツ夫人との関係も微妙な時期に差し掛かっていたとも言える。再話の浦島太郎ハーン先生)が、竜宮城から帰る先は、セツ夫人の待つ世を指していると思われ、どうもあまり帰りたそうでもないのだ。37℃を超える気温と言われた長崎や天草の旅館でもだ。試しに一度真夏にここに来てみたいが、暑いだろうなぁ。

この旅館の建物は、日露戦争後に営業は止め、傷病兵の収容施設になったそうで、明治38年には解体され、中国の大連に運ばれたが、平成5年、設計図を元に熊本県が復元している。

「ひゃ〜参謀」は、ハーン先生の動向を調査しているが、以前から浦島屋があることをリサーチしていたが、天草に来る用事がなかった(笑)。

情報では、中に喫茶店があるはずだった。現在は無い。また、宇城市が公募中らしい。喫茶店で、飲食を通して、世界文化遺産の三角西港を訪れる観光客の皆さんの満足度を高めたいという。うん、間違いなく景観は良いが、それだけで客は呼べないと思う。

そもそも、客が呼べないから世界文化遺産にしたいのだろう。ホンネでは文化財として保護したいわけではない。日本の経済力で、世界文化遺産には、ボコボコできるが玉石混合である。

なんせ、日本は国連教育科学文化機関(ユネスコ)への分担金がトップの国なのだ(アメリカは1位とされるが払っていないし、あの大統領さんがユネスコに脱退を通知した)。

もし、町起こしや経済の活性化を狙うなら、近隣の大都市圏から無理なく日帰りでもいける、群馬県富岡製糸場のような立地条件や、静岡県伊豆韮山の反射炉のような、温泉や観光のついでに見れるようなコンパクトだが、内容が濃い施設を作らないと、産業の振興にはつながらない。

それは島根県出雲大社の一連の遷宮などを見ればわかるだろう。そもそも、集客が可能であれば、制約の多い世界文化遺産などにしなくても、客が入り、文化財としての価値も変わらないのだから。


「境内にまわしを着けたうさぎさん像を作られるくらいなら、世界文化遺産にでもして制約したいぜ。神社はアミューズメント施設ではないからな」
(「ひゃ〜参謀」)


という意見もあるにはあるが、佐藤としては、大国主命の神様が良いなら良いですよ(笑)。

さて、館内は、我々が立ち寄ったときには、もはや喫茶店は片づけられ、蘭の花鉢が置かれて、甘い香りをただよらせ、どこぞの紳士・淑女が集っていた。「妖しか?」

はたして、中に入ってよいものやらと躊躇したが、中を除いても注意もされなかったし、影もなかった(ウソ)。堂々と入らせて頂いた。

ハーン先生がらみの物はあるのだろうか。うん? ありましたよ。ありました。それは1階の隅にまとめて展示されていた。なんか寂しい気がするな。我々は、10年間、島根県松江にある小泉八雲旧居を訪れていたからねぇ。それでも感無量であった。

そこにかかっていた、ハーン先生の横顔を拝顔し、


「お懐かしや、ハーン先生!」


と、記念写真を撮らせて頂いたのは言うまでもない。出雲大社売布神社などの島根県の神々様と同様、今でも先生は我々の神様なのだ。


●浦島屋でハーン先生と記念写真●.jpg

●浦島屋でハーン先生と記念写真●



後日、この稿を書くために、浦島屋の情報を集めたところ、現在は、休憩スペースやイベント等の開催に使われているとのこと。なぜか? この浦島屋については県と市が協同で公募したが、応募が無かったという。なんとも残念である。

市では、引き続き地域振興のための活用策を検討しているらしい。もっと、小泉八雲天草記念館とか、ラフカディオ・ハーンあまくさミュージアムとかでも作らんと、集客は難しいと思う。松江のように小泉八雲旧居(余計なものは足さない)と、小泉八雲記念館(集められる情報は全部集める)が並んで存在し、小泉 凡先生という、ご子孫が指揮を取れば一番いいが、そうは簡単にはいかない。

観光客は何を見に来るのか。また、観光客が対象じゃないければ、誰に見せるのか。多くの世界文化遺産は、それに対する展望が見えないのだ。自分たちが日常的に見飽きて、じゃ他人にも見せてやるか、くらいの感覚なんじゃないのかと疑いたくなる。

天気が良ければ、それはそれは、美しい風景が見えるのだ。ハーン先生の生まれ故郷に似ているのかも知れない。うまく自然と人工施設をマッチングして欲しい。あんまりないんだよな、リピートしたい施設が世界文化遺産にね。


●三角西港公園からみる天草五橋●.jpg

●三角西港公園からみる天草五橋●



どうもハーン先生のことを述べると心穏やかにはなかなかいきませんて(笑)。

その後は、九州自動車道に乗って一気に長崎空港をめざした。途中、北熊本SAでソフトを食べて休息し、佐賀県の金立SA等で秀樹グッズ(?)を手に入れ、休み休み、再び長崎県へ入った。


●北熊本サービスエリア(上り線)でソフト!●.jpg

●北熊本サービスエリア(上り線)でソフト!●



【道の駅・彼杵の荘(そのぎのしょう)】
爆走していると、標識に道の駅・彼杵の荘の文字が見えた。そこで、我々は東そのぎICで降りて、立ち寄ることにした。

ここは歴史公園の中にある道の駅である。我々は駐車場に車を置いてそそくさと中に入る。すでに閉店間近な時間でもあり、係の方々は片付けに追われていたが、お店の方にマグネットはありますか?と尋ねて探したが、残念ながら売り切れであった。

しかたなく、とぼとぼと、駐車場方面へ歩いていると、奥の方に古墳らしき物が見えるではないか。古墳の大好きな2人にとって、これは見逃せない。そこで、ちと、のぞき見に出かけた。

凄いぜ。これは「ひさご塚古墳」というらしい。感覚的には、円墳かと思いきや、前方後円墳であった。なお、いい(笑)。

歴史公園東彼杵町・歴史民俗資料館のホームページによれば、この古墳は「ひさご塚」といい、長崎県の代表的な「前方後円墳」である。長い年月の間に周辺が削られひょうたんの形をしているところから「ひさご塚」(瓢塚)と呼ばれてきたという。

今から約1,500年前にこの地域を治めていた有力な豪族の墓とされ、地元では、神功皇后応神天皇の母親)の三韓征伐のおり、武内宿禰(大臣)の配下として従軍した武将の墓であると言い伝えられている。

1950年、県指定の文化財(史跡)となっていた。なんと、同公園内の歴史民俗資料館に副葬品などが展示されているらしい。

九州は、宮崎県と鹿児島県の神武天皇圏と、それ以外の応神天皇圏が交差する場所である。長崎県・佐賀県・福岡県・大分県は、応神天皇と神功皇后(本来は親子ではない関係かも知れない)関連の古墳や遺構、神社、スターウォーズの「ハンソロ」みたいな、スピンオフ(spin off)神話などが盛りだくさんのエリアで楽しい。

もちろん、2人とも興味津々(笑)なのだが、もうやっていなかった。機会があったら再度訪問したい。


●OH!ひさご塚古墳●.jpg

●OH!ひさご塚古墳●



さてさて、これにて、2泊3日の見聞は終了。最後無事に車を返したときに、ニコニコレンタカーの係の方が明るい笑顔で迎えてくれたのが印象的であった。


返却後、長崎空港で残り時間を楽しんだ。空港内で軽い夕食を摂り、今回はグラバー園近くの岩崎本舗で、角煮まんじゅうを頂けなかったので、空港内の店舗で手に入れた。その際、同社のゆるキャラ・角煮まんじゅうちゃんを持って買いに行った。すると店長らしきさっそうとした若者がそれを見て、


「ああ、それ初代のですね!(今は二代目らしい) 僕、そちらの作りの方がかわいくて好きなんですよ」


ですと。ハハハ。うまいぜ! 長崎の食べ物と接遇にはやられっぱなしであった。こうして、名残り惜しいが長崎の地を後にした。また長崎にも来れることを楽しみにしておりますぞ。皆さま、ご自愛ください。



●長崎空港内で軽く夕食●.jpg

●長崎空港内で軽く夕食●



●長崎空港ロビーで角煮まんじゅうで軽く(?)おやつ●.jpg

●長崎空港ロビーで角煮まんじゅうで軽く(?)おやつ●



(意見陳述した患者さんに「いいかげんにしろ!」というやじを飛ばしていた議員がいたらしい。それはそのまま、あんたに言いたいぜ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:15| 島根 ☁| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月13日

奮闘記・第1059回 見聞録/長崎県

●2018年● 長崎市

長崎見聞《異聞》録

〜現在から過去、再び現在を満喫ロード〜



皆さま、お元気でしょうか? 佐藤はなんとなく元気ですよ(笑)。

さて、長崎シリーズは、2回目だが、今回は「潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その2)」ではなくて(相変わらずあるかないかわかりませんが・・・)、長崎での研修会(こちらは研修会のツボにて報告済み)前後に行った、長崎市内の見聞録である。

我々は、朝、宿泊地のホテルベルビュー長崎出島出島キッチン クローバーにて朝食をとった。だいたいホテルの朝食はバイキングスタイルであり、こちらもそうであった。

佐藤はお皿に野菜をメインに載せて食卓についた。朝から、日本の食事を満喫!味噌汁がうまいぜ。地元の名物カレー等もあり、 「ひゃ〜参謀」もご機嫌であった。写真は次の日の朝食のものだが、なんと皿うどんまで出てきたのだ。

ホテルを出発して向かった先は、鎮西大社諏訪神社(長崎諏訪神社)である。


●キッチン出島 クローバーの朝食!●.jpg

●キッチン出島 クローバーの朝食!●



【鎮西大社 諏訪神社】
鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様であり、現在は、厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬されているそうな。

以前、長崎近郊は、キリシタン大名が多く、戦国時代はイエズス会の教会領となっていたため、かって、現・長崎市内にまつられていた、諏訪・森崎・住吉の三神社は、焼かれ、壊され、ひどい目にあっていた。

それとは別に、キリシタンへの弾圧もたいがいなもんで、あまりにひどすぎるが、キリシタンはキリシタンで、やり過ぎの面もあろう。暴力は暴力を産みやすい。こういうことをやっていては、なかなか同情はされにくくなるだろう。神社は、寛永2年(1625年)に再興され、長崎の産土神となった。ここは《対キリシタン》の幕府側の要塞のような役割もあったかも知れない。鳥居も威圧するため、大きく、銅製の鳥居が作られた。


●長崎諏訪神社参道●.jpg

●長崎諏訪神社参道●



いきなり、余談だが、明治24年(1891年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生は、松江から熊本の第五高等学校に赴任した。そんで、明治26年7月21日から長崎に2泊の予定で来た。

7月21日の早朝3時に長崎港に到着したが、まだやってなかった。数時間後、南山手の当時のベルビュー・ホテル(現・全日空ホテルグラバーヒルの場所)にチェックイン。もちろん、朝になるまで待たされたが長崎港の朝日の素晴らしさを賞賛していた。

ここでのハーン先生は、外国人気分であっただろう。当時のベルビュー・ホテルは外国人専用のホテルであり、わざわざ選んで、お忍びで出かけているからだ。やはり誰だって自由な時間は欲しいもの。

「でも、ハーン先生。その時期にエアコンもない時代の長崎に来たら、もう暑くて、暑くて、暑くて、暑くて・・・・」と思ったが、案の定、滞在そうそうに数日で熊本に帰られたようだ(笑)。

目的は公式には不明。でもハーン先生が日本来るきっかけになったピエル・ロチ氏(フランス)の長崎を舞台とした小説『お菊さん』関連の資料収集か、舞台となった長崎を見ておきたかったのかも知れない。

先生は、心の中の思いを、ある時は本音を、決して無暗に語ったり、記録したりはしない。それが他者に漏れれば、自分の評価がどうなるか。また、自分が生きにくくなり、周りががっかりするのを、きちんとわかっていた人なのだ。たとえ自分が死んだのちであっても。

本音で暮らしていけるのは、すぐ帰国できる外国人だけだろう。ハーン先生そういう心遣いも、ある意味保身もできた人なのである。

長崎の景色はふんだんにほめている。そのハーン先生が、この長崎諏訪神社の参道入り口に立っていた金属製の一ノ鳥居だけは許さなかった。

「私が今まで日本で見たうちで、最も醜いものだ」

とまで言わしめた。しかし、この鳥居は、かって幕府がキリシタンを威圧する目的で作られたもの。ごっつくても、大きくても、仕方がないのである。

ハーン先生は、初めキリスト教に反感を持ちつつも、最終的には、キリスト教の理念に心を寄せていたと思われる。であれば、そのような目的の鳥居など、許せないのかも知れない。素晴らしくも難しい、マインドの持ち主である。でも決して記録には残したりしないし、あくまでもキリシタンというわけではない。

しかし、その鳥居は、結局、戦争中、金属がいるってんで、扁額以外、軍部に持っていかれた(扁額は天皇の筆)。われわれが今見れる鳥居は、戦後立て直された石製である。

さて、話を今の長崎諏訪神社に戻そう。


●長崎諏訪神社拝殿で大吉●.jpg

●長崎諏訪神社拝殿で大吉●



佐藤は、研修会の前には、その地域にある神社に参拝している。はじめて来たときは、暑い夏のさなかで駐車場もわからず、ちと遠い所に留めたので汗をかいての参拝であった。2回目以降は、神社の中にも広い駐車場があることがわかったため、そちらに停めている。

長崎諏訪神社内には、幼稚園がある。そのため、子どもを送り届けるためにお母さん達が入れかわり車でやって来て、車から降りて、長い階段を登っていると、下の方で子どもの声が聞こえてきた。

やや早口で滑舌も悪い(笑)。

「神様今日1日ムニャムニャムニャ・・・ください」と。

すると、そばにいたお母さんが「そんなんじゃ神様に伝わらないでしょ!ちゃんと言いなさい」と諭している。

でも、そこは長崎の開明的(?)な子どもである。

「大丈夫、神様はちゃんとわかってるって!」

それ以降も、子供らはお母さんと一緒に階段下に来ては手を合わせ、幼稚園の方へ向かった行く。こうして毎日お参りするんだから素晴らしいではないか。きっと、神様はみんなを守る事に必死であろう。

我々は、このようなやりとりを聞きながらこころ和やかになりつつ、階段を登っていった。そして、拝殿前にて参拝し、拝殿にて、神様に長崎の来れたお礼と研修会の成功を祈念した。


ちなみに、祓戸神社は、駐車スペースより下の階段の途中にある。そこには福澤諭吉先生の銅像も近くに立っている。

なぜ像があるのか? この近くには、長崎遊学中の福澤先生が使用したと伝わる井戸(共同)があって、『福翁自伝』にも「上方辺の大地震」で足を滑らせ、あやうく井戸に落ちそうになった井戸として出てくるという。

この福澤先生。のちの政治家・若き日の尾崎行雄氏が、執筆する際、「わかる人がわかればいい」といったところ、

「ばかもの! 猿に見せるつもりで書け。俺などはいつも猿に見せるつもりで書いているが、世の中はそれでちょうどいいのだ」と言い放ったという。これはステキだな!

でも、福澤先生。介護業界の場合、書いてるほうも猿という疑いが・・・(笑)。それはともかく、「天才バカボン」のパパは福澤先生がモデルなんじゃないかと思うくらい、若き日の福澤先生は、いつでも、キレッキレで、強烈なかたでありました(やはりダテに1万円札にはならないな!)。

参拝後、社務所横のおみくじ箱から女みくじをひくとなんと、大吉。ハハハ。そう、神様はみていますからねぇ。

ちなみに長崎諏訪神社は高台にある。鳥居の内から外を眺めると、坂の町・長崎を眺望できるのだ。佐藤は、その景色を眺めて、本日も張り切ろうと決意を新たにし、我々は研修終了後には、なんと長崎県歴史文化博物館にいた(笑)。


【長崎県歴史文化博物館】
こちらでは、《明治150年記念特別展「写真発祥地の原風景 長崎」〜写真で振り返る幕末・明治の長崎〜》が開催されていたからだ。うちの「ひゃ〜参謀」が写真展やカメラが大好きなのだ(笑)。

この写真展は、目黒区の東京都写真美術館で、今年の3月から5月までやっていた展覧会の巡回展であろう。しかし、本場の写真発祥地の長崎で観れれば、こりゃ格別である。


●長崎歴史文化博物館にて●.jpg

●長崎歴史文化博物館にて●



手に入れたチラシには、明治150年を記念し、近世から近代への転換期を古写真からご紹介しているとあった。以下、ホームページによる。

長崎は幕末には、写真やその技術がもたらされ、外国人写真師や上野彦馬をはじめとする長崎ゆかりの日本人写真師が活躍している。本展では、写真発祥地ともいえる長崎を「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を通して捉え、幕末から明治の長崎の再構築を試みている。

江戸時代は約150年前に終焉し、日本は西洋的近代国家へと向かった。長崎は、それより前の開港期に写真が渡来している。その写真は江戸時代から明治時代への転換期を捉え、現代に伝えている。

長崎は、江戸時代には、すでに海外に開かれた窓口であった。そこで世界のモノや情報がもたらされているのだ。なんと、幕末には写真やその技術がもたらされ、長崎を訪れたピエール・ロシエフェリーチェ・ベアトなどの外国人写真師が、長崎を捉えた写真を残しているのだ。

さらに、写真開祖と呼ばれる上野彦馬(うえの・ひこま)をはじめ、内田九一(うちだ・くいち)、薛 信二郎(せつ・しんじろう)、竹下佳治(たけした・よしはる)、清河安武(きよかわ・やすたけ)、為政虎三(ためまさ・とらぞう)などの長崎ゆかりの日本人写真師が写真文化を普及していくために長崎は写真発祥地ともいえるのだ。

本展では、写真発祥地「長崎を写した、長崎で写した」初期写真を中心に、写真を支える台紙や写真アルバム、古地図や絵画・工芸品なども取り上げ、幕末〜明治の「長崎」を振り返っているのだ。

展示は4章仕立てである。

〔第1章〕
江戸期の長崎として、日本写真史の起点となった江戸時代の長崎とその文化を国内外の視点から長崎版画や古地図、旅行記などから写真以前の長崎の姿に迫っている。長崎港図では、長崎港か突き出た出島があり、長崎港には帆船が浮かび、異国ムードがたっだよっている。

出島が現在は埋め立てられており、なかなか想像するのも難しいが、実際、現在の出島の前に立ち、現在の長崎港の出島ワーフにも何度か来ると、「おお!」という感じがわかって来る。やはり、どこでも何度か来ないとわからないことがあるのだ。

〔第2章〕
長崎と写真技術として、写真技術が渡来して間もない頃に焦点をあてて長崎を訪れたロシェやザハトラー、ボードインなど外国人による写真の実践や上野彦馬ら日本人写真師による写真技術への取り組みが案内されている。こちらでは、着物に袴をはき、頭はちょんまげを結い刀を差している侍を写した写真が並んでいる。また、カメラなども展示されていて、「ひゃ〜参謀」はとりわけカメラを熱心に見ていたな(笑)。

〔第3章〕
長崎鳥瞰として、長崎市街や長崎港など、「長崎を写した」風景写真に注目を展示。数々のパノラマ写真などを通して、江戸時代から明治時代へと変わりゆく長崎を紹介している。この長崎鳥瞰は、景色を数枚の写真におさめ、それを貼り合わせてあるもので、日本家屋が密集している町並みを見ることが出来る。

これをみると、開港が許された土地は、横浜や函館も、海防に適しているところを選別しているのがわかりやすい。

〔第4章〕
長崎クローズアップとして、江戸時代の貿易都市長崎の象徴の1つ出島、開港期、居留地の象徴の南山手、長崎を訪れ「長崎で写された」人々などが紹介されている。なかでも長崎を来訪した人々をめぐっては、英語教師フルベッキや、長崎で学んだ佐賀藩士など長崎・佐賀双方にとってゆかりの深い人々を紹介している。

いや〜、ここではなんと幕末に一役かった多くの人物のありのままの人物をみることができたのは感無量である。ここに、たくさん名前が出てきたが、その中で重要なのが、写真開祖と呼ばれる上野彦馬である。

彼は、幕末期から明治時代にかけて活動した写真家であり、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られているのだが、司馬遼太郎先生の小説『胡蝶の夢』に出てくるポンぺ先生を教官とする医学伝習所に新設の舎密試験所で舎密学(化学)を学んだ英才である。その化学から写真へつながり(写真は化学薬品を多く使い、知識も必要)、写真術は洋書で学んだり、来日した外国人写真家からも教えを乞うたという。

また、江戸で、数々の写真を撮影し、共同で化学解説書『舎密局必携』などを執筆。長崎に戻り、日本における最初期の職業写真師(複数いるが)となり、上野撮影局を開業。ここで、われらがよく見る、坂本龍馬高杉晋作桂小五郎などの若き志士や明治期の名士の肖像写真を多く撮影する。

さらに、西南戦争の戦跡(従軍写真)の撮影、後進の指導としての貢献度もあり、その他多くの功績を残し、明治37年(1904年)、長崎で死去(享年67)。医学や化学の知識もあり、写真術もあり、語学もできる。いや、凄い人材が明治期には存在したのだなぁ。まぁ、佐藤などは写真技術などはまったくわからないが、過去に活躍した本物の写真を見られたことに大満足である。

その後、ホテルに戻り、一休みしたあと、我々はよるの長崎に繰り出した。


●明治期の写真機材●.jpg

●明治期の写真機材●



【酒場食堂 みなとや】
ここは、ホテルのすぐそばにある店で、昨夜散策していたときに、ちょっと気になったお店なのだ。道路の曲がり角にある角店で入り口が半間と狭い。外にメニューが掲げられてあり、和洋折衷なんでもあるようだ。さすが東西異文化交流の街。

そこで、新たな店も開拓しようと言うことで入ってみることにした。お店の中はカウンターとテーブル席があり、外見よりも広い。ドアを開けると明るい声で迎えてくれた。佐藤は、加齢のせいか、最近どうもビールがうまくない。そこで、黒霧島のロックを所望した(通常運転中)

そして、サラダや、空豆などつまみを食べて、「ひゃ〜参謀」はここまで来てもハンバーグと焼きおにぎりなどを頂いた。季節の食材が豊富にあるようで、様々なメニューが並んでいて楽しいお店であった。もちろん美味しかった。


●酒場食堂 みなとやさんで夕食●.jpg

●酒場食堂 みなとやさんで夕食●



●長崎市街を走る長崎電気軌道●.jpg

●長崎市街を走る長崎電気軌道●



【出島表門橋あたり散策】
さて、お腹もいっぱいになったところで、我々は出島周辺を散策した。昨年11月に出島に130年ぶりに「出島表門橋」が復元され開通したというのだ。夜はライトアップされるという。だから、歩いてその場所へ向かってみた。でも、夏場なら絶対余所者にはできないだろう、暑くて(笑)。

ここは、長崎市の国指定史跡・出島和蘭商館跡とを対岸をつなぐ橋である。当時は唯一「日本」と「外国」とが結ばれていた橋である。


●国指定史跡・出島和蘭商館跡●.jpg

●国指定史跡・出島和蘭商館跡●



●出島表門橋の横に立つ●.jpg

●出島表門橋の横に立つ●



現在は、対岸も整備され当時のそれとは趣も違うが、新たにかけられた橋はシンプルではあるが、どこか異国を感じさせる優雅さを醸し出していた。この時間でも、橋を渡れば、出島に入ることもできる(要入場料)のだが、出島の中の店はすでに閉店しているとのことだったので、周囲を歩いてみるだけにした。

さてさて、あたりが暗くなった来たので、そろそろ、本日のメインイベント稲佐山へ移動するとしょう。


【稲佐山展望台】
長崎の夜景を一望できる稲佐山へは、バスとロープウェイで行くことができる。我々はバス停でロープウェイ下で下車し、長崎ロープウェイで登った。標高は333メートル、東京タワーと同じである。


●ここが稲佐山の頂点●.jpg

●ここが稲佐山の頂点●



展望台に登ると、そこは修学旅行の生徒たちが、わんさかいて、まぁ賑やかなこと。高いところがあまり得意でない「ひゃ〜参謀」(排他的高所恐怖症?)も、なぜか平然としていた(笑)。

まぁ、昨年来たときは、真夏で、強風が吹き荒れていた。だから、「ひゃ〜参謀」はもちろん、他の観光客も皆、手すりをつかんでヒャ〜ヒャ〜言っていた。

ここ、稲佐山は平成24年に、夜景観光コンベンション・ビューロー主催の「夜景サミット2012 in 長崎」において、長崎の夜景が香港・モナコと並び、「世界新三大夜景」に認定されている場所なのだ。


●長崎の世界新三大夜景●.jpg

●長崎の世界新三大夜景●



●稲佐山展望台からの風景は飽きない●.jpg

●稲佐山展望台からの風景は飽きない●



前回も登ってみたのだが、やはり長崎の街はほんとうに美しい。街のライトが海を照らし、海がキラキラと輝いている。昼は昼で良さげである。佐藤は、展望台を1周して、軍艦島や五島列島、大村港などの方面を見定めながら、改めて長崎県のでかさを体感した。

まだまだ、5月だと言うのすでに夏の香りがみていて、夜風が心地よかった。いや、夏場ならここでも汗だくだ。でも、長崎でもまだ5月なら、昼はやや暑くても、夜は涼しいのだ。

さてさて、いよいよ明日は天草へ渡る予定だ。雨が心配されるが晴れるといいなぁ・・・(結果はわかっていますが)。

皆さま、くれぐれもご自愛ください!


(猿カニ合戦は、結局、トランプなんかじゃ勝負は着かないのだろう。bye AMERICAN!To Be Continued!!)

posted by さとうはあまい at 20:31| 島根 ☀| Comment(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

奮闘記・第1058回 見聞録/長崎県&佐賀県

●2018年● 長崎県大村市・長崎県島原市ほか&佐賀県鹿島市


『道の駅』マグネット探訪の記

〜潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅(その1)〜



皆さま、お久しぶりです。(その2)があるかどうかは定かではないが、長崎県の研修会の前後で見た、長崎県佐賀県の見聞録です。まぁ久しぶりに長いですよ(笑)。

今回も、早朝に「ひゃ〜参謀」(以下、今回はH参謀とする)を車に押し込み、羽田から長崎へ飛んだ。

長崎では、前回に引き続き、ニコニコレンタカーをチョイス。まぁここは某県(北陸)で予約し忘れて、困って居たときに助けてくれて以来、気にいっているのだ(安いしね)。

この日、我々を乗せた飛行機は大きく揺れることもなく、墜ちることもなく、無事に長崎空港に着いた。空港を出て、ニコニコレンタカーへ連絡を入れると、待ち合わせ場所を指示してくれたので、速やかにその場所へ移動した。

ややや、するとそこにはすでに係の方が待っていた。出迎えに来てくれた車には、なんとニコニコレンタカーのトレードマークのお日様のぬいぐるみがは置かれていた。佐藤はお店につくまでそのぬいぐるみが気になって仕方がない。

H参謀は、なんの反応も示さないのだ(今は○ジェドさまに興味が全振り)。お店に到着後、係の方に断りを入れてそのお日様くんと記念写真を撮らせて頂いた。ハハハ。


●ニコニコレンタカーのマスコット●.jpg

●ニコニコレンタカーのマスコット●



佐藤はすでにニコニコレンタカーのメンバーカードをもっているため、手続きもスムーズに済み、手に入れたのは三菱・ミラージュ君であった。なんと三菱車には、はじめて乗る(結果、快適であった)。

車に乗り込むとH参謀が行き先を告げる。めざすは祐徳稲荷神社でそうだ。

ちなみに、この神社は長崎県ではなく佐賀県にある。長崎県ではないが、長崎空港からは意外と近い。それに長崎県はあんまし神社がないしな。

佐藤は、ナビ様に導かれるままに車を走らせた。この佐賀県の風景がまたいいのよ。長崎県も佐賀県も景色が良すぎるよ。

【祐徳(ゆうとく)稲荷神社】
駐車場に車を入れると高台に煌びやかなお社が見える。伏見稲荷大社、笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷(神社)とされる。佐藤は、というかH参謀があまり稲荷神社に行かないから、他の神社内にある、摂末社の稲荷社ぐらいしか行かない。なぜ行かないのか?「行きつけの稲荷社があるから」とのこと。行きつけがあれば、特に稲荷社はそこに集中する方が良いらしい。

じゃなぜ今回は行くのか? 見聞録をまわる際に御守護をお願いする神様が少ないから、隣りの県までお願いに行くのだという。特に今回はキリシタン関係もあるから念入りにだそうで、仏教系の稲荷社でなければとのこと。まぁそれに関しては佐藤も別に異存はない。

いや、キリシタン自体は気持ちがしっかりしているからいいのだが、信仰心がないものまでも多くが巻き添えにされている「歴史的事件」であるから、「何がいるか」わからない。これ、そもそも、地元の人も言ってるんだよなぁ。


「この時期になると、ここらにあれが出るのよ」

「あれって?」

「出るもんていったらあれしかないだろう!」

「だから何が出るんですか?」

「おれが生きてるうちは死んでも言えない」

「・・・・」



ともかく、我々は、気分として、Y田S陰先生のように、キリシタンへの激しい拷問があったとされる某温泉にわざわざ行って、その「現場」の下流で温泉に浸かり、「いや〜、極楽、極楽」とはいきにくい。まぁ・・・あの先生、一応武士だからな・・・。さて、話を神社に戻そう。


●祐徳稲荷神社はでかい●.jpg

●祐徳稲荷神社はでかい●



この神社のホームページの情報では、

貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主・鍋島直朝(なべしま・なおとも)公の夫人、花山院萬子媛(かざんいん・まんこひめ)が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されており、日本三大稲荷の1つに数えられている。

商売繁昌家運繁栄大漁満足交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、樓門等、総漆塗極彩色、宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称され、観光ルートの上にも一異彩を放っている。


ご祭神様は、倉稲魂大神大宮売大神天宇受売命猿田彦大神。まぁ、商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全の守護を標榜するには、欠かせない神々様達である。いや、どんなご利益でも標榜できる。もちろん、萬子媛が連れて行った稲荷大神は京都の伏見稲荷大社からである。

そして、境内にある石壁神社には、先の萬媛命(よろづひめのみこと:祐徳院殿・萬子媛)が祀られているとされる。

萬子媛は、後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘であるが、寛文2年直朝公にお輿入れになる。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所であった稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されたという。


萬子媛は、直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、2人のお子様をもうけたが、不幸にしてお2人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕え、以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられたときに石壁山山腹に巌を穿ち寿蔵を築かせ、工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ、邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)された。

萬子媛ご入定の後(祐徳院)も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われ、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称された。

「明治になったら、もう無理かな。関西ではともかく、関東では断然呼びにくいからねぇ。でも解説では、ずいぶん連呼されていたけど。まぁ現代じゃ名前を変えるしかないかなw」

とはH参謀。まぁ、江戸時代のかたですからね・・・。

地元ではゆうとくさんの愛称で親しまれている(そっちなんだw)。九州地方では、正月3が日の参拝客が、例年、大宰府天満宮に次いで多いという。

駐車場から参道に入ると、あちらこちらで記念写真を撮られている。しかも、外国人観光客が多い。けっこうアジアでも有名なパワースポットらしく、ドラマなどの撮影もあるらしい。

商売繁盛の神様で、参拝客が少なければ、説得力がないが、ここは満点であろう。その方々お邪魔にならないように、手水舎にて手を潤し、楼門をくぐり、境内に入った。すると、右手の高台にご本殿の屋根が見える。そう、まるで京都の清水寺のようだ。

ちなみに、この鹿島市から、茨城県の大生(おおう)神社鹿島神宮の本宮:もとみや)を奉斎する氏が来たとも言われている。茨城県の鹿島町が市になるとき、同じ名前が名乗れずに、「鹿嶋市」になった。同じ市名があるのは、全国で1例(1組?)だけ。

佐賀や熊本の軍団が関東に移住してくる際、彼らは故郷を偲び、有明海や雲仙などの山々の風景に似ている、茨城の霞ヶ浦や筑波山の見える湖畔に多くが住み着いたとされる。福岡から移住して来た物部氏も九州の軍団である。

香取神宮は、阿波・忌部氏の氏神であり、香取大神=鹿島大神は成り立たない。都合の良い時だけ、「記紀」を材料にしてもなぁ。

さて、我々は、順路に沿って階段を登った。眼下には、日本家屋が並び、その向こうには有明海が広がっている(結局、有明海をぐるっと周回することになる)。

佐藤は、昨年作った『ケアプラン 困ったときに開く本』(技術評論社)が、さらに多くの方に読まれることを祈願した。もちろん、商売繁盛もだ!

参拝後、さすが稲荷神社。金運みくじというのがある。これをひくと、何と1番で「大金運」(いわば大吉であろう)と出た。わぁ、こんなことってあるのかとびっくり。もちろん、絵馬を奉納したのは言うまでもない。これ、いわゆる「凶」はなんなんだろうな・・・・(誰かは「小金運」)。

その後、後方に有った萬媛命が祀られている石壁社を参拝。また、参拝にこられるように導きくださいと願った。この上には奥の院もあるが、健脚な方は更に上をめざして登って行かれらが、我々は正反対の方向へ先をめざす身(笑)。今回はここにて失礼して下山した。次ぎにめざすは道の駅・鹿島である。


●金運みくじは、大金運なり●.jpg

●金運みくじは、大金運なり●



【道の駅・鹿島(かしま)】
道の駅・鹿島は、平成6年に佐賀県で第1号の道の駅として登録されている。ここは、ガタリンピックが開かれる会場でもあり、道の駅の後方は、有明海の干潟が広がっている。我々が行ったときは満潮で、有名な干潟をみることはできなかったが、岸壁には、干潟を走行する舟(板)が山積みされていた。ここでまず最初のマグネットを手に入れた。現在、有明海を左手に国道207号線を長崎方面に走行している。次ぎに立ち寄ったのが、道の駅・太良である。


●道の駅・鹿島のソフト●.jpg

●道の駅・鹿島のソフト●



●これが・・・まぁ干潟になるわけで●.jpg

●これが・・・まぁ干潟になるわけで●



【道の駅・太良(たら)】
ここは、海の幸が豊富に取りそろえて販売されていた。ほとんど、プチ魚市場。中でも竹崎カニが有名らしく、生きているかにも販売されていた。ちなみに「ひゃ〜参謀」はかにを食すのが苦手(でも食べることは食べる)。カニよりも、マグネットを入手でき、喜んでいた。

いよいよ、長崎県に戻って来た。島原でそうめん流しを食べる予定であったが、とんでもない! 佐藤のお腹が持たないぞ。しかし、国道沿いには、カニ焼きや蠣焼きの看板が並んではいるが、普通のレストランが見あたらないのだ。そうこうしているうちに、ようやくイタリアン・スパゲッティの幟をを立てた、お店を発見。佐藤は躊躇することなく店の駐車場に車を入れた。


【釜あげ生パスタ ぱすたろう】
外から中を眺めると数組のお客さんがいる。でも雰囲気が変わっているのだ。ドアを開けて驚いたのは、ここは家具屋さんか(?)と思うような様々なソファやイステーブルが置かれていることだ。


●開店したばかりのぱすたろう●.jpg

●開店したばかりのぱすたろう●



●生パスタは絶品であった●.jpg

●生パスタは絶品であった●



店員さんが、お好きなところへどうぞ、というので窓際の席を陣取る。よいしょっと。座るなりおしりがソファの中に沈み込んだ(笑)。「お勧めは何でしょうか?」と伺うと、「今の時期はアサリです」とのこと。

佐藤はアサリと地元野菜が入ったパスタを注文。H参謀には、有無も言わさず、おいしそうだからと厚切りベーコンの入ったカルボラ−ナを頼ませたw。もちろん飲物はコーラ。アルコールは厳禁だぜ! 冷たいコーラがのどの渇きを癒してくれる。

しかし、はぁ〜、釜あげパスタだけあって、できあがりまで少々時間がかかった。でも出てきたパスタは絶品。先ほどまで海鮮の文字しかなかった街道にこのようなイタリアンに巡り会えるとは、大満足。もちろんお値段もリーズナブルである。

この稿を書くにあたり、ネット検索したところ、こちらは2017年の12月にオープンしたお店で、宣伝する暇もなくリピーターで賑わって行ったらしい。以前はコンビニがあった場所だそうで、駐車スペースも十分ある。まぁコンビニが流行らない場所ってのが、少々心配だが。

私たちが入店後も、女性客が数組入って来た、どうやら地元の方々に愛されているお店らしい。ならば、良かった。皆さま、無くなったコンビニさん以上にお願いしますよ。

こういうお店ってさ、通い続けるところに意味があるんだけど・・・、諫早だもんなぁ。でも、佐藤も「また来たいお店」として、登録しちゃいますよw。

そんで、佐藤は、島原城をめざしている。車窓には、有明海の向こうに雲仙普賢岳がそびえていた。佐藤がナビ様に導かれるままに行くと、何と諫早湾の中を走行しているではないか。先ほどの山は真ん前にある。ちなみにその道路は、諫早湾横断堤防道路といい、長崎県諫早市と雲仙市吾妻町とを結ぶ広域農道だそうで、平成19年に開通した全長7kmの道路なのだ。

いやあ〜、気分爽快。車内の音楽も心地よさを倍増している。さてさて、この日の目的地、島原城に着いた。なんせ、今回は例の「潜伏キリシタン関連遺産」を巡る旅(?)を想定しておりましたからねぇ。ここに来ないと先へは進めない。


●釜あげ生パスタ・ぱすたろうのお店データ
[TEL] 0957-51-4134
[住所] 長崎県諫早市小長井町井崎954-9
[営業時間] 11:00〜21:00(L.O.20:00)
[定休日] 不定休。



【島原城】
現在の建物は、本丸の跡に天守・櫓・長塀が復興されたもので、城跡公園である。まさに雲仙岳の麓に位置していて、あれが噴火したかと思うと、結構こわい。山が割れ、火砕流がどぼどぼ、有明海に流れ出し、対岸の熊本とブーメランのように津波が繰り返し、双方襲うという事態になるのだ。・・・こわい、こわ過ぎる。ほんと裏山ぐらいの距離なんだもの。

城郭の形式は、ほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴であり、本丸は周りを水堀で囲まれている。近くに来ると、ただのお城(入場料はとる)であるが、濠の外から見るとなんとも見栄えがいいのだ。思わず、大人数で取り囲みたくなるのもわかる(おいおい)。

車から降りて、お城を見上げると、青い空に五層の天守閣が優雅にそびえていた。販売機のそばでは、島原城七万石武将隊に扮したキャストが出迎えている(地元では有名らしい)。


●島原城を攻める(?)●.jpg

●島原城を攻める(?)●



チケットを購入し、城中に入ると、そこには島原の乱(島原・天草一揆、天草島原の乱など、表現多数)が、年表と共に案内されていた。かなりの昔、社会科の授業で学んだことはあるはずだが・・・さて。

正直、こどもの頃は切羽詰まった感覚はもたなかった。しかし、この歳になって、改めて天草島原の乱の解説をじっくりと見るとそれはそれはすごいことが行われていたんだなと伝わって来る。こちらには子どもさん向けに「なぜ?なに?天草島原の乱」という解説書が置かれていたので、佐藤もゲットした。

島原城の公式ホームページの情報によれば、島原城は築城以来250年にわたる島原藩の歴史遺産やキリシタン史料及び郷土が誇る芸術家・北村西望氏の作品だそうな。

また、約198年振りに噴火活動を開始し、尊い生命や甚大な被害をもたらした「平成3年雲仙普賢岳噴火災害」の資料などが展示されており、過去から現在までの島原を知ることができる。

ちなみにこの噴火のとき、若きH参謀は、別の仕事で、島原とは対岸の熊本のホテルに宿泊していた。そのホテルの窓からは、夜でも、煌々と光り、流れる溶岩の流れが見えたそうな。

1階は、キリシタン資料として、華やかだったキリシタン文化や南蛮渡りの文物が展示されていた。戦国時代の終わりには、ポルトガル人が相次いで来航して、新しいヨーロッパ文化を伝え、島原地方にもキリスト教をはじめ、南蛮文化が栄えた。庶民の感覚とは別に、高山右近などの例外もあるが、キリシタン大名の多くは、貿易が主目的でキリスト教を誘致していただろう。

当時のここの領主・有馬晴信は南蛮貿易を積極的に進め、自らキリシタン大名となってキリスト教を保護した。領内各地に教会が建てられ、有馬にはセミナリヨ(初等神学校)が、後では加津佐にコレジオ(高等神学校)が開かれた。

当地の千々石ミゲルたち4少年は、キリシタン大名の大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。はるばるローマまで旅立って、教皇に拝謁するという快挙を成し遂げた。

この東西交渉史上の輝かしい1ページは、ここ島原から始まったのだ。このあとの「キナ臭い」伊達政宗の慶長遣欧使節(仙台藩とスペインとの貿易が目的)とはかなり趣が違う。ちなみにH参謀は、伊達政宗公の大ファンである。

しかし、その後、豊臣秀吉の宣教師追放令からはじまり、江戸幕府の禁教令と鎖国令による、激しいキリシタン弾圧が始まり、領民は棄教するか命を奪われるかの厳しい選択を求められた。いや、信仰していない領民がある意味、1番の被害者とも言える。

やがて、有馬氏に代わり、松倉重政が新城主として入国した。新城主は島原城を築城して、島原地方の治世を強力に推進した。その子どもの勝家の代になると、いや、もともと、見栄っ張りで、実際の収穫高以上を幕府に申告し、その分領民から根こそぎ巻きあげ、領民への苛政が続き、絶望した農民が一揆を起こして島原の乱となっていくのだ。

このような厳しい時代にあっても、信仰の自由を守り通した人々を隠れ(潜伏)キリシタンと呼んだ(でも全然隠れていないが)。他人の目に触れないように、イエス様やマリア様の姿を、他の像になぞらえて(誰がみても変ですが)、信仰を続けていた。その隠れ(潜伏)キリシタン関係の収集資料としては全国的にも有名で、貴重な資料が多く展示されている。

皮肉なことに、この展示されている城は、隠れキリシタンの大弾圧を行い、騒乱を巻き起こす原因の「いけない殿さま(松倉氏)」のお城なのだ。この乱のあと、「いけない殿さま」は幕府から厳重な取り調べを受け、改易(お取りつぶし)され、護送中、甲斐(山梨県)で斬首されたのだから、お察しである(斬首とは罪人扱い)。

天草人の明るい気質とは違い、まじめだが深刻味を帯びる島原人の気質の差が出たとも言える。まぁあれだけひどい領主では、しかたがないだろう。うん、でも・・・・。

やがて、天草四郎は3万もの一揆として農民をまとめ、3か月にわたる激しい戦い行れたのだ。

H参謀は展示を観ながら、「どうも、映画の「魔界転生」の、沢田研二扮する天草四郎のいう、エロイムエッサイム 我は求め訴えたり (Eloim, Essaim, frugativi et appelavi )の呪文で死人をよみがえらせる場面が頭から離れないぜ」とブツブツ言っていた。

まぁ当時の沢田研二さんなら、ほんとうにできそうな気がする(笑)。この呪文水木しげる先生の悪魔くんの呪文と同じである。

とにかく、島原の農民は「手強かった」のだ。これは領地転封の際、キリシタンであるゆえに、領主からお暇を頂き(領主もめんどうだから有り難かった)、地元に残り「地侍」となった農民なのだ。通常の農民や漁民ではない。だからこそ、幕府軍も九州の大名たちも、まじに手を焼いたという。オランダの船に依頼して、大砲を打ってもらったりした。それもなぁ・・・。

ここには、当時使われたとされる手作りの槍や打ち込まれた砲弾などが展示されている。その後、原城跡に篭城した農民たちは全滅させられてしまうのだ。さらに悲惨なのは、信仰していない農民たちも、その場でキリシタンの農民たちから、一緒に篭城するか、いまここで死ぬかの選択を強要されたとされていることだろう。

乱鎮圧の後も、厳しいキリスト教の取締りが行われており、踏絵や禁制立札、宗門人別帳などがそれを物語っている。ちなみに、「仏壇」が定着したのは、キリシタン対策のためであろう。

キリシタンは唯一神を信仰しているため、他の宗教のグッズ(?)を家に置くことに対して、多くが激しく抵抗したため、見つけやすかったからだろう。役人は、家に仏壇を置けるヤツなら、キリシタンではないという判断をしていた。でも日本人は融通が利くからね。

もともと、仏壇を家に置くのは、金持ちの貴族ぐらい。実際は、宇治平等院のように、大規模な仏壇を置く、寺院そのものを作っていたわけだが。

これを真剣に眺めていたら気が滅入る。ホント。当時の役人がしていたことはナチスのそれと変わらない。いや、本当は大層変わるのだが、ヤラれるほうからみれば同じだ。そんな過去に触れながら階段を登り、天守閣に上がると、そこには現在の平和な町並みが並んでいるが、噴火すると危険な雲仙普賢岳(手前は眉山:まゆやま)もすぐそこに見える。


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●天守閣から眉山を見て、「島原大変肥後迷惑」を実感●



テレビなどの映像では、噴火した場所はかなり遠いように見えた。しかも、佐藤も以前も来たことがあるのだが、そのときは恐怖は感じなかったが、天守閣から見ると、町のすぐそこに、噴火した場所も確認できちゃうのだ。

今までもいくつものお城を制覇してきた。特に、会津の鶴ヶ城の展示も逸品であったが、こちらは信仰が絡んでいるだけにひどく重かった。城跡公園内の茶店で、島原の名物甘味「かんざらし」を味わった(うまい)ので、そろそろ長崎市へ戻るとしょう。


●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●.jpg

●城跡公園内で、名物甘味「かんざらし」を賞味●



【道の駅・みずなし本陣ふかえ】
その後我々は、雲仙普賢岳噴火による土石流災害の爪跡を保存した『土石流被災家屋保存公園』に隣接した、道の駅・みずなし本陣ふかえに立ち寄り「↑雲仙温泉17q」というマグネットをゲットした。

【道の駅・夕陽が丘そとめ】
その後は、国道57号線にて雲仙岳の麓を回り込み、子イノシシ?に遭遇しつつも、ナビに従って、道の駅・夕陽が丘そとめにたどり着いた。外海地区は、厳しい弾圧を逃れて隠れ住んでいた長崎市の西北の街である。


●雲仙で子イノシシに遭遇●.jpg

●雲仙で子イノシシに遭遇●



時間が遅かったので、遠藤周作文学館やド・ロ神父記念館、文化村や黒崎教会などは入れなかったが、その洋風の街並みはまるで外国みたいであった。

ここらは、比較的寛容な佐賀藩の飛び地も混じっていたため、多くの潜伏キリシタンが存在したという。映画「沈黙」の原作の舞台である(映画自体は日本では撮られていない)。丘からは、角力灘にうっすらと五島列島や、さらに違う方向には軍艦島も見える絶景の地であった。ここには、マグネットはない。でもおいしい食べ物がてんこ盛りであった(笑)。買物の後、無事にホテルにチェックイン。いやはや、かなりハードなコースだった(笑)。


●道の駅・夕陽が丘そとめの絶景(角力灘)●.jpg

●道の駅・夕陽が丘そとめの絶景(角力灘)●




【海鮮市場長崎港から大浦天主堂下などの散策】
一休み後、大波止の懐かしい景色を眺めに散策に出かけた。夕食は。出島ワープの海鮮市場・長崎港にて、新鮮な海鮮丼に舌鼓。ここには長崎市に来る度に寄らせて頂いている。


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●海鮮市場・長崎港●



●長崎港を散歩●.jpg

●長崎港を散歩●



その後、市電に乗りまわり、ライトアップされた大浦天主堂などを眺めて来た。そうそう、われらがハーン先生(小泉八雲)関連の場所にも久しぶりに行った。ハーン先生は、いろいろあって、松江から熊本に移り、夏の休暇中に長崎へ旅に出たが、その暑さの前にさっさと、熊本へ帰って行った。

そりゃ、無理ですよ。エアコンもない時代の長崎の夏になかなか外部の人間が絶えられるわけがない(笑)。そのハーン先生が、長崎で泊まったホテル自体はもうない(我々が泊まっているホテルは同名である)が、南山手のベルビュー・ホテル(現・現全日空ホテルグラバーヒル)跡にも立ち寄った。

まだ暑さがゆるい長崎だからこそできた散策で有る。真夏なら・・・・(汗)。



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●夜の大浦天主堂●



●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●.jpg

●南山手のベルビュー・ホテル跡(現・現全日空ホテルグラバーヒル)●



佐藤は、夕食前に、大波止のゆめタウン夢彩都に寄った。そこにある紀伊国屋書店には、佐藤の各種書籍も置いてあった。ほんとに有り難いです。そして、郷土コーナーで、遠藤周作『切支丹の里』(中公文庫)をゲットした。

いやぁ、潜伏キリシタン関連遺産を巡るには必要アイテムでは無いかと思う。この頃、都合の良いときに発生する、寄る年波で、文庫は敬遠していたが、久しぶりに読みふけった。次号につづく・・・予定です。

さてさて、皆さま、梅雨が近づいて来ました。体調に気をつけてお過ごしください。ではまた!



(いろいろあるとは思うが、国名がついてる大学なのに、わが国では、ただ平謝りするのが1番ってことがわかっておらず、中途半端にいろんな人が出て来ては、おさまりつつあるのに「燃料投下」して炎上を繰り返している。ああいう空気がわからん指導者では学生が気の毒だな!To Be Continued!!)
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