2009年07月13日

奮闘記・第488回 ケアマネ/島根県

●2009年● 島根県松江市・くにびきメッセ



島根県社会福祉協議会 福祉人材センター

介護支援専門員更新研修・再研修

【後期】





6月29日から、島根県社会福祉協議会 福祉人材センターさんの主催で、介護支援専門員更新研修・再研修の後期研修が行われ、そちらはすでに7月2日に終了した。



今回はこの研修を振り返ってみたい。この研修には、現在介護支援専門員の職についていない方々が、介護支援専門員の資格を「有効」にするために受講されているのだ。



前期の研修は、5月に終了。受講者はみな、居宅サービス計画作成演習を経て、後期研修に望んでいた。佐藤は後期の研修前に、受講者の方から提出された課題に目を通し、評価記入を済ませている。



今回の研修会場は、くにびきメッセである。こちらの会場は、ホテルから近いので徒歩にてむかう。ちなみに7月1日は雨であった。短い距離でも雨だと濡れるのはしかたがない(苦笑)。



受講者の方々は島根県全域から参加されているので、宿泊しながら参加されている方も多いと聞く。もちろん隠岐地域からの受講者もいるのだ。




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●くにびきメッセに向かうのじゃ!●





■1日目

まずは、佐藤から、受講者1人ひとりに、評価記入済みの課題を返還する。課題に対する、皆さんからの感想はこれだ。



今回学んだ、居宅サービス計画の作成方法をこれから意識するように心がけたい。改めて社会資源を探してみたら、インフォーマルな資源が目についた。やはり、介護支援専門員の仕事は大変であると感じた。利用者の考えや家族の考えを引き出すのが大変だった。


等々でした。佐藤は、皆さんの課題を見て、居宅サービス計画の目標などが、利用者の理解を得やすい文章表現がなされていた。であっても、このほとんどの方が、いま介護支援専門員の現職ではないのが残念であった。




●課題を1人ひとり返す●.jpg

●課題を1人ひとり返す●



●全員で事例検討、書記は忙しいぞ〜●.jpg

●全員で事例検討、書記は忙しいぞ〜●





課題をもとに、事例検討会がスタート! まずは、佐藤があらかじめ選抜しておいた事例を元に事例検討の手法を学ぶ。



事例提供者がいるグループの方に司会・書記を依頼。事例提供者が事例の概要を説明。会場から質問を出してもらった。




●グループ内の検討会に参加●.jpg

●グループ内の検討会に参加●





書記は、皆さんからの質問を、ホワイトボードに「ため込む」。ある程度たまったところで、提供者に答えてもらった。



この事例検討を通して、事例提供者は、居宅サービス計画作成演習で、自分ができていたことや、不足していたなぁという部分に気づくことができた。



また、他者の考えを聞くことによって、「ひとつの事柄でも、違った見方があること」に気づいて、「視点が広がった」と感想を伝えてくれた。



後半は、1人ひとりの事例について各グループ内で時間をかけて同様に検討を行い、事例検討を通して、様々な気づきを得られたと思う。




●答えは本人が持っている●.jpg

●答えは本人が持っている●





■2日目

午前は、「居宅サービス計画の展開技術として、モニタリングの方法」。受講者は、サービスを提供している人々が多い。だから、モニタリングの方法について解説していくと実際のモニタリングを想定することができるのだ。



皆さんは、自分たちの行うモニタリングと、介護支援専門員が行うモニタリングの差異に気づくことができたと思う。



午後は、「介護支援サービスの展開技術」。相談面接技術について講義演習ストローク表を作成して、自己理解他者理解を深めた。




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●たずね、答え、観察しょう●




後半は、「夢の調査員」と題して、「たずね、答え、観察」するコミュニケーション演習を行った。



皆さん、常日頃対人援助の職に就いている人々である。しかし、その現場を他者に観察されていることはめったにない事であると思う。



だから、他者に発言内容を記録されたり、観察されたりするというだけで、かなり緊張された様子であった。だが、回数をこなすに連れて、どのような事を聞き出せばよいのか、そのヒントを得たみたいである。



だから、グループ内で、ダイナミックなジェスチャーや、笑い声などが飛び出して賑やかな研修となった。



そうそう、対人援助者は他者の非言語的なコミュニケーションを意識することはもちろん、他者と面接している自分の非言語的なコミュニケーション、つまり、笑顔やジェスチャーなどを、効果的に活用する必要があるのだ。



皆さんが演習終了後に、「他者と話すって結構体力が必要だね〜」と話していたのが印象的であった。





■3日目

地域包括支援センターの概要」と介護予防支援(ケアマネジメント)の講義演習。午前中はテキストの内容理解に専念して、地域包括支援センターの概要を解説した。



●地域包括支援センタ―について学ぶ●.jpg

●地域包括支援センタ―について学ぶ●




皆さんの多くは、平成18年度の介護保険法改正前に、介護支援専門員の資格を取った方が多い。また、介護保険制度とは直接関係のないところで業務をされている方もたくさんいる。



だから、皆さんは熱心にテキストの文を眼で追い、講義終了後にため息が漏れていました(笑)。そうですか、そんなに変わっていましたか。



「先生、たまにはテキストを読むことも大事ということがわかりました」と言う声もきかれた。



そうそう。介護保険制度はどんどん変化するやっかいな制度である。何しろ、できたときから完成度が低い法律なのである。



今後も、世論や財源悪化でどんどん変わるだろう。だから、新聞やニュースでチェックして下さいませ。そして、自分たちで法律を「改正」する力を持とう(今のは「改悪」)。



午後からは、佐藤が選抜していた事例をもとに、介護予防の支援サービス計画作成演習がスタートした。




●介護予防のケアプランを披露●.jpg

●介護予防のケアプランを披露●




介護予防支援サービス計画の様式について解説し、事例概要把握。



・事例の各領域のアセスメントを実行する。
・領域における課題を抽出する。
・総合的な課題を抽出する。





事例提供者に事例の概要について説明をしていただき、本人の基本情報を共有。次に、事例発表者に対して、佐藤が介護予防のアセスメントツールを活用して領域別にアセスメントを実行する。



このアセスメントは、まさに相談援助そのもの。事例発表者は、事例の事をよく知っている方だったので、結構詳細なアセスメントを行うことができた。



そして、どうやら、この方は不活発病から来る意欲の減退があるような方だという事が理解していくことができた。その後、総合的な課題を抽出するところまで個人ワークを行い、今日の演習は終了した。





■4日目

介護予防支援・サービス計画作成」「意見交換


・課題における目標と具体策を提案する。
・目標についての支援のポイントを考える。
・本人等のセルフケアや家族の支援インフォーマルな
サービスを考える。
・介護保険のサービスを理解する。




昨日の続き。まずはテキストを活用して、今後の作業の説明。まずは各自が作成しているプランを完成してもらった。



次にグループ内で話し合い、1つのプランにまとめ、発表してもらい、事例提供者に質問してもらった。



皆さんは、1人の事例から介護予防のプランニングをしたのだが、ひとつとして同じ内容はなかった。つまり、介護支援専門員の具体策の提案によって、プランはそれぞれ変わってくるのです。



事例発表者は、皆さんが作成してくれたプランを聞きながら、本人が聞いたら「やってみたくなる内容もあった」「事例の事を他者と一緒に考える事で、視野が広がった」と感想を述べていた。



最後は、KJ法を活用して、各グループで、今回の研修で学んだことや、気づいたことなどを、まとめた。そして、発表となった。



グループから出た内容で多かったことは「相談援助が一番大変だった」ということであった。



皆さんからはそんなことも出ていた、というより、グループ討議の時には、どのグループも活発な議論がされていたと思えたのだがいかがだろう?



これにて研修はおしまい。皆様それぞれの場所にて自愛されつつご活躍くださいまし。ではでは!




●KJ法を活用し情報をまとめた●.jpg

●KJ法を活用し情報をまとめた●



●気づきを発表し、団結力もついた●.jpg

●気づきを発表し、団結力もついた●



(自民党が都議選で大敗、そんで解散だって?林さん、麻生総理にどういうアドバイスをしてるんですか?To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 21:41| 島根 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | ケアマネ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月11日

奮闘記・第487回 読んでみた!/東京都

●本の分野● 小説



『 手 毬 』(瀬戸内寂徳・作) を読む

〜貞心尼の純愛小説を発見。女心を熱くさせるぜ!〜


(池袋西武・リブロにて購入)




さる2008年11月、新潟県長岡市島崎にあるわしま村良寛の里美術館に寄った(見聞録371)。



この美術館には、良寛さん と愛弟子・貞心尼の書や詩歌を中心に、ゆかりの文人墨客の作品も含めて展示されている。



この中に、晩年の良寛さんと貞心尼の問答歌があった。佐藤はそれらを読み進めるうちに、貞心尼と、良寛さんの間に恋愛感情のようなものを感じていた。



失礼ながら、その時点では、「ほうほう老いらくの恋であろう。それもいいかもしれない」ぐらいにしか思わなかった。



その直後、この美術館のロビーに、良寛さんと貞心尼が問答をしている銅像があったのだ。結構写真などにも載っている有名な物だ。その像は、囲炉裏を挟み2人が座っていた。まさに「いい雰囲気」で見つめ合う、良寛さんと貞心尼の姿があった。



佐藤は、良寛さんから感じる優しさもさることながら、貞心尼の美しさについて、心惹かれるものを感じたのだ。



なにしろ、良寛さんの前にいる貞心尼は、尼さんであるが、まだ若い後家さんであり、美人であったと言われる(笑)。



ここで、貞心尼の生涯について少し紹介したい。



貞心尼は長岡藩士・奥村五兵衛の娘として生まれ、幼名はマスという。幼くして母親と別れ、義母に仕えて暮らしていた。



マスは毎日、義母に言いつけられた分の賃糸をとり、それを母親にわたし、余ったお金で筆墨紙を買ったという。また、囲炉裏の灰に文字を書きながら色々学んでゆく。



マスは17歳で小出島の医師と結婚する。だが、5年後に色々あって離別。長岡の生家に戻り、人生の無常を感じ出家の道を選ぶのだ。そして、浄土宗西光寺の末寺閻王寺に行き、沙彌尼となり、剃髪してのち、貞心尼となる。



ここで、貞心尼は、かなり厳しい修行を積む。やがて、托鉢に出られるようになって(これは最上の修行である)から、良寛さんの歌や漢詩に関する情報に接する機会があったのだろう。



当時、日本は識字率が高く、文字が読める人はそれなりにいた。でも、精通している人となると限られてくる。だからこそ、よけい、活字中毒者は文字や、発信できる人(たとえば良寛さん)を求めるのだろう。良寛さんとは違う宗派なのに、である。



そして、独り立ちした貞心尼は、一人で閻魔堂に起居するようになるのだ。



すでに、前のブログでも頻繁に触れている、瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)先生は、『手毬』の中で、貞心尼を主人公に一人称の問わず語り語るスタイルで、話を展開してゆく。



先生については、数々の文学賞をとられ、各方面でも活躍されている方で、いまも現役の作家なので佐藤がとやかく説明する必要はないだろう。これだけの大家ではページを食い過ぎるのだ(笑)。とにかく貞心尼同様、年を重ねられても、良い意味での“つや”を失わない方である。




さて、この閻魔堂で起居している貞心尼が、良寛さんの書をよみ、ひとり、良寛さんを思い描き、どうしても良寛さんに逢いたくなった、と言うところから物語は始まっている。



閻魔堂から遙か彼方に住まう良寛さんを思い描いて外を眺めているところへ、一人の旅商人、「佐吉」が登場する。



この人物は、先生が狂言まわし(物語展開上のキーマン)として想像された人物で実際には存在しない。モデルになるような人物はいたかもしれないが。



この佐吉は、良寛さんが出家するきっかけになった理由や、その後の修行のこと。また、現在の良寛さんの暮らしぶりを、旅すがら得た情報として貞心尼にそれとなく、伝えていくのだ。これはもちろん、我々読者に向けて発信されている情報なのだが。



貞心尼は、佐吉から、良寛さんの話を聞くごとに、良寛さんに逢いたいという想いが大きくふくらんでいくのだ。



そして、貞心尼は、良寛さんの情報を得たいがために、いつしか佐吉が現れるのを待つようになる。もちろん、やがて佐吉そのものへも飛び火する。



貞心尼は、良寛さんと子ども達が手毬をつく様を思い描きながら、佐吉が置いて行った絹糸で手毬をかがっていくのであった。そう、この手毬らしきものを、実際見たから、読んでいく佐藤にも気持ちが入ってくる。



そして、できあがった手毬をもち、いよいよ良寛さんに会いに行く決心をし、1人で出掛けていく。



貞心尼が良寛さんをたずねたのは、五合庵でも乙子神社の草庵でもない。長岡市の島崎にある木村家(能登屋)である。佐藤は、良寛さんの事蹟をまわりはじめたころ、ここやお墓も実は「通り過ぎて」しまったのだ。



まだこれほど、入れ込むことになるとは思わなかったし、第一車を止めるところがみつからない。多いんだよなぁまだまだそういう史跡類が。いつかリベンジしたいね。



さてさて、その木村家の当主・木村元右衛門は、良寛さんの御高徳に傾倒し国上山時代から良寛さんを訪ねていたのだ


そこで、良寛さんの弟子、遍澄(へんちょう)さんは、70歳を迎えていた良寛さんを、心配して、木村家に引っ越しをさせることにしたという。ここらへんが宗教家、坊さんというよりも、生臭い、人間・良寛の魅力や思想があったのだと思う。



だから、お墓は自分の流派(曹洞宗)ではないお墓に眠っているのだろう。



もし、生前から、良寛さんが「そんなの(宗派)どうでもかまわんよ」という人でなければ、坊さんを違う宗派で供養なんかできないだろう。なにしろ、「曹洞宗」の高僧なのだ。



木村家に引っ越しした良寛さんは、母屋に住むことは辞退し、木村家の裏にある木小屋に起居するようになる。良寛さんは留守に訪問した貞心尼は小屋に、「手毬」と、肌着などを置いて帰る。



その後、良寛さんとの手紙のやりとりや、訪問が始まっていくのである。さて、本文から手紙文を引用する。





「手毬と肌着有難く納受仕候。

折角御出之処、

留守に致しお目もじ適はず残念に候。
 
つきて見よひふミよいむなやこゝのとを

とをとをさめてまたはじまるを」





この手紙を受け取り、貞心尼は、良寛さんから「まぁ、また遊びにおいでや」と誘われたように思うのだ(笑)。



いいな〜、出家していてもこの前向き(というのかどうか)な考えかた。このあたりが、寂聴先生のお人柄がわき出ているように感じた。また、良寛さんの、若い頃遊び慣れた旦那衆のころの心意気が垣間見られるのもいい(笑)。



その後、貞心尼は、いよいよ良寛さんと逢い、囲炉裏を囲んで酒を気味交わし、やがて、問答を始める。この問答で2人の距離も縮まり、その後に手紙のやりとりが始まるのだ。



この物語では、良寛さんの詩や歌、漢文などが、所々にちりばめられているが、寂聴先生は、貞心尼が、それらをどのように読み、その時々にどのような感情を抱いたのかを女性の立場で、同じく出家した物の立場から、明晰に書き表していく。



だから、佐藤も、いつのまにか、貞心尼の心に入り込み(実は寂聴先生の中なのだが)、はらはら、ドキドキさせられたのである。



貞心尼の感情には、まだまだぶれている部分があったのだと思う。そう、まだ若いのだから。本の終末に、貞心尼が良寛さんの終焉の時間をそばで過ごし、献身的な介護をしている場面が描かれている。



もちろん、貞心尼は色々な感情を胸に秘めていたはずだ。ここでは、介護をされる良寛さんの恥じらいなどが見事に描かれていた。貞心尼は、これだけの高僧が、自分に対して「女性」を感じてくれたことが嬉しかったのかもしれない。それは精神的な、ほのかな愛であったとしても。



これを読んでみて、今度は貞心尼の足跡も辿りたくなりました。いいですねぇ、楽しみが増えるのは。皆さんも、読書の夏をお楽しみくだされ。ではでは!




【本のデータ】

『手毬(てまり)』

瀬戸内寂聴・作、新潮文庫1994年438円+税




●読みました!(島根県・松江の研修会場にて)●.jpg

●読みました!(島根県・松江の研修会場にて)●



(でも揺れる電車やバスの中で本を読み続けると、針に糸が通せなくなるのでご注意くだされ。結構つらいですじゃ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 16:41| 島根 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読んでみた! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奮闘記・第486回 見聞録/新潟県

●2009年● 新潟県燕市


良寛和尚ゆかりの地をたずねて

〜手毬片手に越後平野を巡る〜

(その3)





また、車でしばらく行くと、五合庵はあった。



五合庵は、国上山の中腹にある真言宗寺院、国上寺住職の隠居所として建てられたものという。



国上寺本堂を再建した客僧「萬元上人(ばんげんじょうにん)」が、毎日米五合を給わされていたことに由来しているのだそうだ。



この国上寺は、元明天皇の和銅2年(709年)に、越後国一の宮・弥彦大神の託宣(たくせん)により建設された越後、最古のお寺である。



開山当初、修験道であったが、時代の権力者の庇護により改宗。現在は、真言宗豊山派に属している。また、戦国時代には、上杉謙信公により、祈願所として、十万石の格式を得て、七堂迦藍を建立された。



一方、良寛さんは、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺(えんつうじ)で厳しい修行を終えて、各地の名僧を訪ねて研鑽を重ね越後に戻りました。



五合庵は、その良寛さんが寛政5年(1793年)ころから約20年過ごした庵なのだ。





【国上山・五合庵】

国上寺の駐車場に車を置き、境内の案内図を眺めてみる。五合庵へ行くには、お寺の境内をまっすぐにつっきり、西側の門を抜け道を通るようだ。


そこで、佐藤は、国上寺の境内を通過して、反対側の門(くぐり戸)から外へ出た。すると、修験道だけあって、こちらは、山道になっていた。




●案内板「天香児山命」●.jpg

●案内板「天香児山命」●



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●香児山を発見!!●




しばしいくと、香児山(かごやま)と書かれた立て札に遭遇。内容を引用する。



石を畳立てるような此の地は天香児山命伊夜比古神(あまのかごやまのみこと・いやひこのかみ)が鎮座された処であるという。




天香児山命は、只今の弥彦大明神で、古くは社が此の地にあり、初代・2代がこの地に鎮座されてありましたが、夏になると、山が浅く、水が枯れてしまうため現在の弥彦の地に三代目から鎮座された。世俗に天神・廻輪と申したとのこと。




でた、ここかい!! 




前回のブログで述べたことがここに裏付けられそうな気がするぅぅぅ。弥彦神社の神様は、こちらへ先に鎮座されていたのだ。



素晴らしい情報である。しかし、お寺さんのいうことは、結構大胆だが根拠が薄いことが多い。




神仏習合時代には、仏が神より「格上」だったせいもあってか、上から目線の逸話や、神々様との話は全部利用されている感があり、言いたい放題、買いたい放題だの感もある。



とりあえず、参考にしかできないが、行きつけの神様のゆかりが書いてあるのだ。そう無碍にもできない。とぼとぼと、山の上に登るとそこには小さな祠があった。




●山の上には祠がある●.jpg

●山の上には祠がある●



●五合庵に続く道は修験道なのだ●.jpg

●五合庵に続く道は修験道なのだ●





その後、また下の道に戻ったが、急角度の階段状になって下っていた。佐藤は転ばないように足に力をいれて踏ん張りながら慎重に降りていった。



しばし行くと、山かげに茅葺きの屋根を確認することができた。うん?あれが五合庵かな?もしかしたらセブン-イレブンかも知れない(笑)。




●五合庵の案内板●.jpg

●五合庵の案内板●



●五合庵で〜す●.jpg

●五合庵で〜す●




はやる気持ちを落ちつかせ、なおも慎重に階段を下って行った。



すると、五合庵は考えていたよりも広い空間中に存在していた。これはどこでもそうだろう。実際に行ってみないとその感じはわかりにくい。




当時の五合庵は、明治39年(1906年、良寛さんの没後75年)の大雪で、倒壊したという。




しかしすでに当時の五合庵は、修理されながらも、倒壊するまでに218年以上も建っていたのだ。それまでの保管状態の素晴らしさがわかるというもの。



今の日本は、姉歯(あねは)なんとか、という、史上最悪のインチキ建築士のおかげで、「住の安全」が全く奪われてしまった状態である。なんと現代の住居とは対照的な寿命だろう。



ああいうバカ男に、二度と太陽の光に当たる権利など与えたくはないが現在の法律では仕方あるまい。仕方ないから、奴には太陽までロケットで行ってもらうか……。



怒りはさておき、現在の五合庵は、大正3年7月に再建されたものである




木造萱葺きの、間口2間、奥行9尺に厠のついた建物である。昔の良寛さんの五合庵よりは少し広いらしい、最近のマンションサイズの畳じゃない(笑)。



といいながら、早速、前に回り込んでのぞいてみた。まぁ〜なんと狭いことでしょう。先ほどの乙子神社の草庵の方が広いのではないか?


(わからんやつだな、狭い方が落ちつくんだよ、坊さんは所有物も少ないんだから。)




ただ、お坊さんは不思議。本来は、世を捨て、悟りも開こうとするのだから、「定住する家(寺)」を持つのは本来、おかしい。それでは所有欲があり、悟りを開いたとはとても言えないのだ。




さて、そのせまい部屋の周りには濡れ縁があった。その濡れ縁と部屋の間には戸が見あたらない。良寛さんが住んでいたときには、竹すだれのような物を垂らしていたと聞きましたが。



まぁ、悟りを開いて、自分のプライベートを大事にする坊さんというのも変ではあるが……。日本国憲法などの、個人の人権や、その他の権利と、宗教的な戒めは本来別のもの。



だから、本来妻帯が、「公」には(私的にはいた)許されなかった坊さん達が、明治政府が「(僧籍の人間の結婚も)いいんじゃないの?」と許可したら、いっぺんに妻帯した(笑)。



これって、政府が許可する問題じゃないんだけどね。だから、日本の坊さんは、世界の宗教界では、キリスト教の別派くらいしか信用がないともいう。




佐藤は、しばしその場にたたずみ良寛さんのいた頃を思い描いていた。




寂聴先生は、小説の『手毬』の中で、貞心尼に、道先案内人の佐吉をつけ(いわゆる狂言回し)、佐吉の提案で、山道を登ってきている。




実は、この本。主人公の貞心尼が、良寛さんとのかかわりを、一人称で描いていて、問わず語りに語るスタイルで描いているのだ。



だから、この佐吉という人物は実際に存在しない。しかし、この佐吉の存在は、貞心尼という女性の「こころ」を解明し、理解するのに大きく役立っている。



もちろん、想像でしかないのだが、「彼女はその時、どんな気持ちだったのだろう?」



これは、一歩間違えば、「ゲスの勘ぐり」でしかなくなるが、これは彼女への鎮魂にもなるだろう。誰だって、自分の気持ちが理解されないのは淋しいに違いないからだ。




貞心尼がみた五合庵はかなり荒廃していた。

茅葺きの屋根は、かろうじて天井に乗っかっている程度。

濡れ縁も朽ちそうになっている。



(『手毬』より)




貞心尼は、それを見ながら、良寛さんの修行のすさまじさを想像していくのだ。まぁ、少し考え過ぎとも言えなくはないが、このあたりが俗人の佐藤とは違うところなのだろう(笑)。



良寛さんの詩


足びきの 国上の山の

山かげに 庵をしめつつ 

朝にけに 岩角のみち 

ふみならし
 
いゆきかへらむ ますかがみ 

仰ぎて見れば み林は 

神さびませり 

落ち滝津 水音さやけし 

そこをしも あやにともしみ 

春べには 花咲き立てり 

さ月には 山時鳥 

うち羽ふり 来鳴きとよもし 

長月の 時雨の雨に 

もみぢ葉を 折りてかざして 

あらたまの 年の十とせを

すごしつるかも




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●五合庵にある良寛さんの歌碑●





佐藤は、五合庵の周りを歩いていると筍と遭遇した。良寛さんには、竹にまつわる逸話も多いのだ。昔はあちこちに生えていたからね。




ある日、五合庵の床から筍(たけのこ)が生え、床板を破っても、良寛さんは剪るのはかわいそうだとそのままにしていた。




また、外にある厠の庵で、筍が伸びて厠の天井を貫きそうになった。
「ほほほ、これはいかん。このままでは筍が窮屈であわれじゃて」



筍が、庵の外に伸びられるようにと、庵の天井に、ろうそくの火で、小さい穴を空けてやろうとしたところ、厠の天井に火がついてしまい、厠を全焼させてしまったそうな(笑)。




●たけのこ?それとも竹?日本では竹藪での戦闘は避けるのが鉄則じゃ!(なんの話だ?)●.jpg

●たけのこ?それとも竹?日本では竹藪での戦闘は避けるのが鉄則じゃ!(なんの話だ?)●





全く良寛さんらしい話である。

(誰かにそっくり……。)




また、この頃の良寛さんは、托鉢の暮らしを続けながらも、友人たちと酒を酌み交わし、歌や詩を書いて過ごしていた。



この地域は、雪がたくさんふり、冬の五合庵での生活は想像を絶する物がある。佐藤は、良寛さんの気持ちに想いを馳せ、さらに、貞心尼や良寛さんを取り巻く人たちの心の温かさを感じました。




当時の良寛さんが感じた身体の寒さと心の温かさを想像してみた。佐藤は、心が少し温かくなって五合庵をあとにした。




あちこちで、大きいバッグを忘れて立ち去っては、「私の大きいバッグはどこ?」という「良寛さん流」の佐藤であった(笑)。ではでは!



(三浦さん、どこも本の補充がされてないよ。それで新雑誌を宣伝してほしいと言われてもねぇ……。なんの因果で。To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 14:41| 島根 | Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

奮闘記・第485回 見聞録/新潟県

●2009年● 新潟県燕市



良寛和尚ゆかりの地をたずねて

〜手毬片手に越後平野を巡る〜

(その2)





黄色のマーチ君(別名●●こ色)は、越後平野を爆走中!



一度、猛烈な横風で一回転して、元に戻ってそのまま走り続けた(そんなことあるかい)。でも、会津や高崎ならありうるんだよなぁ。



さて、冗談はそれまで。良寛さんは、18歳の時に尼瀬の光照禅寺・玄乗破了和尚(げんじょうはりょうおしょう)の仏弟子となり剃髪。22歳で国仙和尚に帰依し受戒され正式に得度している。



その後、備中玉島の円通寺へ赴き、以後13年にわたり厳しい修行をしたあと、国仙和尚が御遷化(=高僧がお亡くなりになること)されたあとは諸国行脚の旅に出たという。



40歳で越後に戻り、国上山五合庵に住む。60歳のころ山を下り、山麓の乙子神社の草庵で暮らしていくことになる。



佐藤は、今まさにその五合庵と乙子神社をめざしている。おお、途中で良寛さんを発見!! 



それは、道の駅・国上(ここでは「くがみ」)にあった。



まぁ、良寛さんはいるのだが、某大河ドラマ(「愛」の兜をかぶっている方が主人公)の宣伝に乗りすぎて、食傷気味。



確かに上杉謙信は大好きな武将であるが、どうもあの方はねぇ……。しかも、いかにものグッズをお土産に欲しいとは思わないねぇ…。




●道の駅・国上の良寛さん●.jpg

●道の駅・国上の良寛さん●





さて、そんな流行物の喧騒は他所に、良寛さんは座して、両手に手まりを抱いていた。



冬ごもり 春さりくれば 飯乞ふと

草のいほりを 立ち出でて

里にい行けば たまほこの 

道のちまたに 子どもらが 

今を春べと 手まりつく

ひふみよいむな 汝がつけば 

吾はうたひ あがつけば なはうたひ

つきてうたひて 霞立つ 

長き春日を 暮らしつるかも



この里に てまりつきつつ子供らと

遊ぶ春日はくれずともよし




作家・瀬戸内寂聴先生の『手毬』では、貞心尼は、この歌を旅人から見せて頂き、その場で写している。貞心尼は、写しながら、まだ、観ぬ良寛和尚に想いを馳せていくのだ。



書を写しながら、いつしか貞心尼は、良寛さんと共に手まりをついている自分を思い描いていくのであった。だが単純な良寛さんへの思いでは単純な敬愛物語(恋愛や純愛ともいいにくい)でしかなくなってしまう。



ふたりに恋愛感情は無きにしも非ずだが、やはり、想像しすぎると、ゲスの勘ぐりになるだろう。そこを狂言回しの人物を創作することによって、現実的に処理しているのが、この作品の凄いところかもしれない。





ひふみよいむな 

汝がつけば 

吾はうたひ 

あがつけば 

なはうたう




これを機会として、貞心尼は良寛さんに手毬を贈ろうと思い立ち、つくりはじめたと考えられている。





【乙子神社・草庵】

さて、草庵のあった乙子(おとご)神社のことにも触れる。この社は越後国一の宮・弥彦神社の末社である。



かつて、弥彦神がこの山を訪れたおり、山の庵に住む人に山の名前を尋ねたところ、「国上(くにかみ)峰」であると聞いた。



「国の上(神)の山」という名前を気に入って、伊奘諾尊(いざなきのみこと)伊奘冊尊(いざなみのみこと)天神廓兒山に祀り(「弥彦神社至褌牒」)、その洞窟でなくなったとある。



不思議なのは、たいがい神様自体が「名前をつける話」が神話や説話譚ではほとんど。以前から名前がついていても、新たに付け直すのが多い。



名前をつける権利は、神や支配者の特権なのだ。だから、そのまま以前のものを採用という話は珍しい。



「私は、この国での、自分以前の祭祀も継続し、体制も保持しますよ」と宣言しているようなものだ。かなり民主的な、神であり、支配者とも言える。



さらにその神から後、崇神帝の御世(紀元前97年ころ)、勅命で義兄の武諸隅命(たけもろずみのみこと、弥彦神社第七世)が祖先の天香語山命(あまのかごやまのみこと)を祀る社を建立し、以後代々続いているという神社だ。第○世・弥彦神というから、それ以後も「融和と継承」が、この地のテーマなのであろう。



しかし、ご祭神は、神社のご由緒では天香語山命の第五子とも書かれていたようだが、違ったかな? 



弥彦神社の境内にある乙子神社では、武諸隅命そのものがご祭神であり、いろいろ錯綜しているようだが、たぶん、詳しい名前がどうのこうのというよりも、すべて「おやひこさま」だけでいいのだろう(笑)。



良寛さんは、それらの伝承を知っていたと思われる。それらの遺構がある場所を詣でていることからもわかる。彼の場合、神仏習合というよりも、「神様も仏様も同じく尊い」という考えと思われる。



実際に、国上山の麓に入ると、目的物が近くにあるからかナビ様が迷い始めた。仕方がないので、道路標識を視覚的に頼りにしながら車を進めていた。すると、とあるカーブにて、か細い立て札を発見!!



乙子神社はこちら」と矢印がある。さっそく、駐車スペースに車を置く。道しるべの先には、森の中に続く段がひそかにあった。




●道しるべに従い林道を下るのじゃ●.jpg

●道しるべに従い林道を下るのじゃ●





ゆるゆると、湿った段を降りていくと、うっそうとした林のなかに、鳥居と狛犬と社がみえた。どうやら。あれが目指す乙子神社のようだ。



それにしても、このような林の中にあるとは想像もしていなかった。こちらでも良寛さんの碑を発見した。




●良寛さんの歌碑を発見!●.jpg

●良寛さんの歌碑を発見!●




立て札には、良寛さんの歌碑の説明があり、読み下し文が掲載されていた。誰か拓本を勝手に取っていくらしく、厳禁とされていた。へぇこんなところのものまで拓をとる人がいるんだ(笑)。本人の筆でもあるまいに。




身すぎ世すぎは面倒で

運天まかせの暢気者

袋に三升米があり 

炉辺に薪の一束あれば 

迷いも悟もなんのその名誉も金もみれんなし 

草の庵に夜の雨 

中で大の字この自由





瀬戸内寂聴先生が作品中で、良寛さんの何ものにも捕らわれない自由自在の玲瓏とした心境が羨ましいと書かれていた。



佐藤は、鳥居をくぐろうと、鳥居を仰ぎ見た。そこには、「天照皇宮・乙子神社」とあった。



おや? 本来、ここの祭神は、武諸隅命。だから、天照皇宮というのはピンとこない。




●乙子神社境内に突入●.jpg

●乙子神社境内に突入●




だが、神々の系図上では、武諸隅命の祖神・天香語山命は、天照皇大神の孫なので、その子孫が祀るのは許されるのかもしれない。だいたい、「第五世」までが直系とされて、名乗ることが許されている。



だから、●●天皇五世の孫(継承権がありますよ)という、名乗りが多くあるのだ。それはさておき、今では乙子神社に天照皇大神も合祀もされていると考えられる。



参拝後、境内を散策。良寛さんは、この神社の社務所を草庵とし、10年あまりをこちらで過ごし、自身を磨き上げていったという。




●復元された草庵前に立つ●.jpg

●復元された草庵前に立つ●




佐藤も、草庵のまわりを歩いてみた。乙子神社の社は、かなり老朽化しているが、境内は掃き清められ今でも守られていると感じることができる。



良寛さんがいた当時は、子ども達が集い、村人達も、良寛さんに盛んに書をせがんで来ていたというからさぞかし賑やかだったに違いない。今は、杉林のなかを穏やかな風が通りすぎていくだけだが。



くどくなるが、『手毬』で、貞心尼がこちらに訪れたときの様子を引用する。





草庵の戸を押し開き中にはいってみると、

埃臭い匂いがむっと鼻を打ってくる。

細長い土間があり壁際にかけた甕があり、

赤さびがわいて刀の曲がった鎌や、

使い古したまな板が 

土間にじかに捨てられてある………。



窓の雨戸を1枚開けると陽光がさしこみ、

埃のつもった座敷を浮かび上がらせた。

壁際に形ばかりの床の間があり、

その真中に手毬がひとつのっていた。



忘れていったものではなく、

良寛さまがここを出られる時、

十年住んだ部屋が淋しかろうと置いて行かれたものでは

ないだろうか。





貞心尼はそう考えたのだろう。佐藤は寂聴先生の文章を読んで、そう感じた。


その手毬には鳥の模様が描かれていたという。

なんという優しさ、このようなことが良寛さんらしい、

愛心(相手を思いやる心)の表れであろう。 



鳥が描かれた手毬は、分水町にある分水良寛資料館に保存されている。そこにある鳥の描かれた手毬は、貞心尼がつくり良寛さんに贈ったものだという。



もしかしたら、「そのもの」なのかもしれない。



今の乙子神社の草庵には、入り口には社札が貼られ、中に入ることはできない。



もしかしたら、耳なし芳一を「耳なし」にした「あの集団」が、夜になると、ここいらを取り巻くのかもしれない。それが源氏の集団であっても、気を抜いてはいけない。お化けは、お化けである。用心、用心。



佐藤は、草庵にいつしか手を合わせていた。まぁ、それはきっと日本人の習性であるだけであろう(笑)。




●今は風が通り過ぎていくだけじゃ〜●.jpg

●今は風が通り過ぎていくだけじゃ〜●




さて、次はいよいよ五合庵にいきますぜ。はたして辿りつくことができるであろうか(それより、ホテルに辿り着くのかどうか……)。ではでは!

(飛行機を使わない移動って素敵!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 17:37| 島根 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奮闘記・第484回 見聞録/新潟県

●2009年● 新潟県弥彦村



良寛和尚ゆかりの地をたずねて

〜手毬片手に越後平野を巡る〜

(その1)





新潟新幹線に乗り込み、燕三条駅で下車。燕三条駅のコンコースには、武者が描かれた六角凧が飾られていた。燕三条市は、この六角凧の発祥地なのだそうだ。



この日、駅レンタカーで借りた車は、研究所のポンちゃんファミリー、日産のマーチ君。なんと色は黄色(別名う○こ色)ですよ!! こりゃ目立つし、お金も貯まりそうだ(笑)。




駅前に出ると、良寛さんがこどもと戯れている像を発見。佐藤は良寛さんが大好きじゃ(笑)。だから、なんとなく駅から離れて行きにくいのだが、早速そばに行き、記念写真を撮らせて頂いた。




●義経と弁慶ではなく、良寛さん●.jpg

●義経と弁慶ではなく、良寛さん●





この像は、子ども達が良寛さんに、凧あげをせがんでいるところなのだ。これが最近のガ●なら、金でもせびっているところになるかもしれん。嫌な世の中だなぁ。でも「親のしつけ」のせいにできるうちになんとかしないといけんぞ。



40歳や50歳を過ぎて、なんかで捕まると、「親のしつけが悪かった」とか、「育った環境が悪かった」というのはどこか違和感がありゃせんかねぇ? もう、自分の人生、自分で責任を持つ年なんではないのかねぇ。



それはともかく、ここの良寛さん、しっかりと、子どもの方を向き、笑みをうかべていらっしゃる。ううん、優しいお顔ですわい。



旅のスタートで、このような良寛さんに出会えたことはうれしい。




佐藤がはじめて良寛さんと出会ったのは、小学生のころ(会ったことがあるとな?江戸時代のかたですぞ)、出雲崎で海水浴をしたときのことである。



良寛堂のある公園あたりで、家族と共に放……、いや花火をしたような思い出がある。



その後、この仕事を始めてから、新潟に出向くことがあり、再び良寛さんに出会った。



それからというもの良寛さんの存在に興味が湧き、書店である本を手に取った。それが、考古堂から出版されている新井 満さんの『良寛さんの愛語』であったのだ。



本に描かれた愛語のことばが、優しく、こころに響いた。佐藤は、この本との出会いを期に、良寛さんの大ファンになってしまった。



今は、新潮文庫の『手毬』(瀬戸内寂聴・作)を鞄に携えて、読み進めている。この本は、寂聴先生が、良寛さんを師と仰ぐ尼僧「貞心尼」の気持ちに寄り添い、物語を展開しているのだ。



そう、先生も尼僧。だから、貞心尼の気持ちもわかりやすい(わかるかどうかは別問題)のかも知れない。この本は、貞心尼の良寛さんを慕う仮想の純愛小説なのだ。



今回の旅は、良寛さんにゆかりのある場所「も」たずねていく。基本的には行きたいところの出たとこ勝負である(笑)。






【越後国一の宮・弥彦神社】

ここは越後平野の中央にそびえる弥彦山の麓にある。越後国一の宮の神社としての弥彦神社はこのブログには出まくり。だから、そのことを知りたい方は昔のやつをお手数ですが、チラとのぞいて下され。



そうは言っても、書き尽くしたようで、まだまだ知らなかったことはあるものだ。



ここのお弥彦の神様は何人かいらして、その三代目が天香山命(天香語山命とも)なのだそうだ。以後、そのご子孫が継いでゆくそうだ(ということは二代目までは他人である)。



しかも、その二代目は佐渡ヶ島からいらしたという。だから、たぶん祭神は「五十猛命」でしょうね。ううん、凄い!



まずは、祓戸社に赴き、俗世の汚れを取り除いて頂く(じゃ、何にも残らないのでは?)。そして、道を戻り、大鳥居をくぐって参道に出る。すると、御神木賛歌に「良寛」の2文字を見つけた。





伊夜比古の 神のみ前の

椎の木は  幾世経ぬらむ

神世より  斯くしあるらし

上つ枝は  照る日を隠し

中つ枝は  雲を遮ぎり

下つ枝は  甍にかかり

久方の   霜はおけども

永久に   風は吹けども

永久に   神の御世より

斯くしこそ ありにけらしも

伊夜比古の 神のみ前に

立てる椎の木




●良寛さんの歌を発見!●.jpg

●良寛さんの歌を発見!●




素晴らしい!



良寛さんにこんな風に、称えらた椎の木が羨ましい。参道をすすみ、神門をくぐると、ご神体である弥彦山を背に社殿が鎮座している広い境内では、陽光の中に新緑の緑がまぶしい。




●またまた弥彦神社に来た●.jpg

●またまた弥彦神社に来た●





境内にしばしたたずみご神気に浸ってみた。



くどくなるが、現在、弥彦神社のご祭神は、天香語山命(アメノカゴヤマノミコト)とされる。伊夜比古命とも書かれるが、同じかたをさす。



文字を使わない時期から名前はあり、文字を使う時期に、それぞれの地域で好きにあてても気にしなかったのが、当時の日本人である。



文字の善し悪しがまだわからないし、渡来人がいいように充ていたこともあるかもしれない。



しかし、「やひこ」と呼ばれる神様が天香語山命とされるのは、新潟のこの地域と富山県くらいとされる。北海道にも伊夜比古神社はある。たいがいは五十猛命と言われる。



たぶん、五十猛命は大屋比古(おおやひこ)命という呼び名もあり、先代の弥彦神だから、大弥彦と呼ばれた可能性もある。



またまたそれたから、話を戻す。



この神様は、神武天皇の命を受け、住民に海水から塩をつくる技術や、魚の捕り方や、稲作など農耕技術などの基礎を教えられたと伝わっている。


神社の社殿は、明治時代に大火で炎上。対象5年に再建され、平成13年に屋根の葺き替えがされている。



さらに、あまり書きたくないが、1956年、ご神廟のあたり(だろう)で元旦の福餅を神職がばらまいてしまい、何百人も将棋倒しになり、124人が亡くなったという事件がある。これはあくまでも人災であり、神様とは関係ない。



ある種の例外(人類そのものにかかわる問題など)を除いて、産土神以外は、その人の生き死に神様は関与しない。つまり、決定事項であったということだ(それはそれで変な話だが)。



人は、産土神に生まれるときに連れてきて頂き、死んだら連れて帰って頂く。だから、住所が変わったら報告しておかないと、そこらへんを彷徨うことになるかもしれない(笑)。




●これからロープーウェイに乗る●.jpg

●これからロープーウェイに乗る●




●越後平野を双眼鏡でのぞく●.jpg

●越後平野を双眼鏡でのぞく●




●やひこブラザーズを多数ゲット!●.jpg

●やひこブラザーズを多数ゲット!●




佐藤は、参拝後、恒例の弥彦山へ登った。弥彦山中腹まではロープーウェイで登ることができる。歩いて登ることはもちろんできるが、すぐに産土神に呼ばれに来てしまうと困るのでやめておく(笑)。



ロープーウェイは山麓駅から頂上駅までの標高差約500mを約5分で一気に登って行く。登って行くにつれ、眼下には、早苗を蓄えた越後平野がひろがっていく。でも、一気に下へ落ちたら怖いなぁ。



前回、貸し切りで困った「展望レストラン」にて、腹ごしらえを済ませた。




●日本海に佐渡ヶ島を発見!●.jpg

●日本海に佐渡ヶ島を発見!●



●となみちゃんも参加!弥彦そばを頂く●.jpg

●となみちゃんも参加!弥彦そばを頂く●





エネルギーが入った佐藤は、勢いよく弥彦山の頂上にある奥宮を目指した。



ここからは、徒歩で行くしか道がない。急斜面は階段状に施行されているが、これが結構きつい。




「ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ〜」しばし、自分の呼吸音が耳についた。山では行き交う人々が「こんにちは!」と声をかけあい励まし合う光景が繰り返される。




ようやく、目指す奥宮に到着。こちらはもちろん、里宮と同じ天香語山命(アメノカゴヤマノミコト)であり、ご神廟と言われる。




相変わらず、拝殿前、眼下には信濃川がうねりながら日本海へつながっていくのだ。ここからは360度の展望を見渡すことができる。




ふふふ、なんと、良寛さんはここにも訪れたことがあるのだ。




その時、こんな歌を詠んでいる。




弥彦(いやひこ)に詣でて



ももづたふ 弥彦山を いや登り 登りて見れば

高嶺には 八雲たなびき ふもとには 木立神さび

落ちたぎつ 水音さやけし 越路には

山はあれども 越路には 水はあれども ここをしも

うべし宮居と 定めけらしも




佐藤が登った。この日は、ご神廟の周りに小さな羽虫がなぜかとびまわり、人々にまとわりつく。ううん、感動したと言いたいところだがこれではねぇ……。




失礼だが、ご神廟に新たな「●体」でも放り込まれたんではないか?と疑いたくなるほどであった。




ほんとうに、たまに古墳に、新たな死体を放り込む輩がいる。藤原鎌足の墓(といわれる)に放りこんであったのをニュースで聞いた気がするなぁ。ただ、藤原氏は自分たちが、実際、そういうこともやってるんで、そうそう文句も言えまい。




●奥宮前、羽虫がうるさい●.jpg

●奥宮前、羽虫がうるさい●





さて、その羽虫をはらいながら参拝をすませた。参拝後、奥宮の社務所に行きおみくじをひく。




やったぜ、大吉!!下では違うけど、楽しては大吉はやれない、という教えなのだ(笑)。



ふふふ、佐藤はこれから、国上山を目指す。ここは、天香語山命の子どもさん達が祀られている山でもある。はたして、良寛さんや、天香語山命とどんな出会いがまっているのか?次回をお待ち下さい。ではでは!




●めざせ!国上山●.jpg

●めざせ!国上山●



(隣は何をする国ぞ。騒乱で100人以上が亡くなる国や、海に向かってミサイルをボンボン撃っている国がある。人を大事にしない国は気分が悪い。To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 15:23| 島根 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月07日

奮闘記・第483回 見聞録/群馬県

●2009年● 群馬県前橋市富士見町



リベンジなるか? 赤城神社参拝

〜春ゼミの声に励まされ大吉ゲットじゃい!〜




今年の1月、赤城山の大沼湖畔にある、上野国二の宮赤城神社に参拝した(奮闘記・第402回で掲載)。



あのときは、冬の最中。赤城神社の前にある大沼は凍結し、神社への参道は雪に埋もれており、社務所はもちろん開いていなかった。



もっとも、通常であれば、道路封鎖がされる時期なのでそこまで行けただけラッキーなのかもしれないが(へへんだ)。



ふふふ。だが、今回は新緑の季節。もうスピードで山に近づくとカーブが連続。冬場はこのカーブに、「中央線の凸凹に注意」ともある。でも凸凹になんか注意しようがないじゃん(笑)。



今回は、スピードを抑制する為に施されているウェーブが気になった(笑)。ナントか族対策かもしれんが、道路の本質を無視しているのだ。道路自体が波打つように施されているからどうしょうもない。



その箇所を走行すると、車が上下に波打つのだ。まさに、波乗り道路であった。波乗り道路から解放されると大沼の湖畔に着く。



車から出ると、蝉時雨が響いていた。西に傾いた陽光に照らされて、大沼の湖面が美しく輝いているのだ。大沼にかかった緋色の啄木島橋を渡っていくと、湖面を波立たせ大きな鯉が近寄ってくる。




●大沼にかかる啄木島橋じゃ●.jpg

●大沼にかかる啄木島橋じゃ●



●大沼にいる鯉は人を見つけてダッシュ!●.jpg

●大沼にいる鯉は人を見つけてダッシュ!●




どうやら、この橋から鯉にえさを与えることができるようである。佐藤は、鯉君たちに軽く手を振りながら橋を渡った。(えっ?えさはなし?)



そして、赤城神社の鳥居をくぐったのであった。参道は、左手に大沼を配し、正面に黒檜山を背後にした赤城神社の社へと続いている。



この神社の主祭神は、赤城大明神で、赤城山と、湖の神様をお祀りしているという。



また、こちらには、大和朝廷時代に、上毛野国を平定した豊城入彦之命(トヨキイリヒコノミコト)と豊城入彦之命(トヨキイリヒコノミコト)が、平和と安全を祈願してお祀りした大国主命(オオクニヌシノミコト)がお祭りされているのだ。




●大沼の畔にある参道もなかなか●.jpg

●大沼の畔にある参道もなかなか●




神道集』にある赤城大明神赤城姫の話。また、それ以前から、赤城山の神様であった、大沼に住むと言われる龍神(佐羅魔女、「おんさらまにょ」と読むらしい)、いろいろな伝説があるのだ。



戦場ヶ原で、赤城山日光男体山が、湖の覇権を争ったという(中禅寺湖か?)。それぞれ、赤城大神が大ムカデ二荒山大神が大蛇となり、それぞれの化身が激しいバトルを行ったという。



二荒山大神がピンチの際、鹿島大神(常陸国)のアドバイスで加勢をしたのが小野猿丸といい、彼が弓を目に放って加勢したので、勝ったという話。



だから、山が血に染まったので赤城山、沼が血に染まったので赤沼(今はもう水がないそうだ)というが、どうだろうねぇ。下野国は、香取大神のカテゴリー。国譲りの相方、鹿島大神がそのテリトリーを荒らすとは考えにくい。



赤城神社の主祭神は、赤城大明神磐筒男命磐筒女命(香取神宮・経津主大神のご両親)なのだ。もちろん相殿には経津主大神もいるが、後世の付会であろう。しかし、香取系のテリトリーを荒らしにくいはずだからな。



しかも卑怯なやりかただからね。まぁ、ヤマト政権は卑怯なことをやりまくりだが、この二柱は基本的にはやらない。それに、二荒山大神とは、大国主大神なのだし(笑)。なんかめちゃくちゃ(笑)。だから、この神社の場合、いま、目の前にある神様として、お参りしたい。



●今日は営業中!(笑) 赤く輝く赤城神社の拝殿●.jpg

●今日は営業中!(笑) 赤く輝く赤城神社の拝殿●



●念願のおみくじをひいた、ドカーン!●.jpg

●念願のおみくじをひいた、ドカーン!●




佐藤は、しずしずと拝殿にて手を合わせた。「赤城大明神様、今後も佐藤をお守り下さいませぃぃぃぃ〜!」



神々の前で、様々なお願いをしたあと、念願であったおみくじをひいた! なんとぉ〜? 小吉ですとおおおおお!(分相応じゃい)



これは何かのまちがいじゃて!!(うんにゃ、分相応じゃて)



すみやかに、拝殿横の社務所にかけこみ、猫みくじをげっとおおおお!
ひゃ〜い!見よ! 大吉であった!(へへん、無効じゃ) あっぱれ猫様!




●土産屋さんで、巨大クワガタに遭遇!!●.jpg

●土産屋さんで、巨大クワガタに遭遇!!●



●キャラメルソフトが美味い●.jpg

●キャラメルソフトが美味い●




終わりよければすべて吉(良し)!! さて、ここらで小休止。近くにあったお土産屋さんにて、キャラメルソフトを頂いた。えええええ!!! これは美味い。いいのかこれで!!!



ちまたでは生キャラメルがブームであるが、そんな半端なもんじゃない。ここのはキャラメルが濃厚なのだ、いや濃厚過ぎる。



ジェラートをイタリア人のようにほおばりながら、売店のかたに、先ほどから響いている蝉時雨について伺ってみた。



すると、春ゼミ(予備校の春期講習会ではない)という。それは、それは小さい蝉で、鼻炎のコンタック60のカプセルに入るぐらい小さいという(嘘)。かなり小さいセミではあるという。



春ゼミみな、たくさん集まって大きな音を奏でているの。宇宙へ帰りたいのかも知れない(誰が宇宙から来たといった)。




●大沼に怪しき船が進む(どっちが怪しいのやら)●.jpg

●大沼に怪しき船が進む(どっちが怪しいのやら)●



●背後に迫る黒檜山●.jpg

●背後に迫る黒檜山●




そこで、思い出したのが、岡山県の鬼ノ城でみた小さなセミであった。背中に人が乗れるくらいの大きさのセミで……、いや、大きさはやはり小さいセミであった。



あのときも、暑い陽光の下、元気にセミがないていた。佐藤はこのときに、松の枝に止まり鳴いている小さな蝉を見たのであった。あれと同じようなセミかもしれない。



そうかい、そうかい。あのセミ君たちのお仲間がきっと集まっているわけですね、宇宙へ帰りたいと(違う、違う)。



東京ではこのような声を聞くことはできない。金星なら……、住めないだろうな(笑)。これも、大自然からの恵みであろう。




●山間で春ぜみ達の合唱が鳴り響いていた●.jpg

●山間で春ぜみ達の合唱が鳴り響いていた●




佐藤はこうして、鳴き声の主のセミ君たちの姿を思い描きながら、赤城神社をあとにしたのであった。ちなみのこのアイスクリームのお店はお土産がかなり凄い。枕ぐらいの大きさのクワガタが柱に捕まっていたのが欲しいなぁ(笑)。



まだまだ、群馬も行きたいところがいっぱい。群馬の皆さん、その他の皆さん、ご自愛ください!!!



(某県の、とある橋を渡って夕陽を楽しんではしゃいでいた。橋の中程で、背中あたりに花が供えられていたのに気づき、そそくさともとへ戻った。皆さん、橋を渡るときはくれぐれも車にご注意くだされ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 22:41| 島根 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月06日

奮闘記・第482回 サ責/群馬県

●2009年● 群馬県前橋市



群馬県健康福祉部障害政策課

地域生活支援係

サービス提供責任者現任研修

1回目

〜介護報酬改定から取り組むべき課題〜




群馬県健康福祉部さんの、生涯施策課地域生活支援係では、毎年、訪問介護事業所のサービス提供責任者に向けた研修を2回1セットで開催しています。本日はその1回目


この研修を開催する目的は、

「居宅介護サービスのキーパーソンでもあるサービス提供責 任者等を対象に、居宅介護計画の作成及び事例検討の方法等について研修すること。適切な居宅介護サービスを提供するために必要な知識・技能等を有する、質の高いサービス提供責任者を育成すること」

にあります。




●研修が始まり始まり〜●.jpg

●研修が始まり始まり〜●



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●研修の目的を伝える●




多くの訪問介護事業所では、介護保険制度のサービスと、障害者自立支援制度のサービスを提供しています。



介護保険制度障害者自立支援制度のサービスの違いは、障害者自立支援制度には、ケアマネジメント行う介護支援専門員がいない、というところにあるでしょう。



利用者が訪問介護を利用する場合には、サービス提供責任者が居宅介護計画を作成してサービスを提供しているのです。




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●すぐにグループに滑り込むのじゃ●



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●ほほほ、お弁当を頂く●




居宅介護計画作成は、アセスメント・目標の設定サービス内容の確定訪問介護計画作成モニタリング再計画であり、その機能は介護保険制度の、まさしく介護支援専門員が行うケアマネジメントと同じなのです。つまり、サービス提供責任者もケアマネジメントの理論を実践する職務を担っているのは同じなのです。




■研修で行ったこと


1、現状把握

2、サービス提供責任者の責務と役割

3、介護報酬改定のポイントを解説

4、相談援助技術(ストローク分析)

5、ケア手順の考え方

6、事例検討(グループワーク)

7、発表




《現状把握》

佐藤は、研修の始まりには現状把握を常に意識しています。まずは、参加者1人ひとりに、現在自分がしている仕事内容を書き出して頂き、自己紹介を兼ねてグループで話し合うのです。



自己紹介を兼ねたグループ討議を早い時間に行うことで、参加者がお互いを知る事ができ、参加者の緊張がゆるんでゆきます。一方、佐藤も、この時間にグループ内にお邪魔をして、自分の緊張をほどいているのでした(笑)。




●相談援助技術の解説じゃ〜●.jpg

●相談援助技術の解説じゃ〜●



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●事例検討が始まる(ドキドキ!!!)●




次は、資料を活用して、ケアマネジメントの「PDCA」を解説しました。介護支援専門員の役割は「利用者と社会資源を結びつけること」であり、利用者の状態(生活機能)の具体的な改善は、サービス提供者側が担っていることを強調しました。



だから、介護保険制度と、障害者自立支援制度との違いはあるにしても、利用者の詳細な情報収集は、そこはそれ、介護の専門家であるサービス提供責任者が行う必要があることを伝えました。



すでに皆さんは、佐藤が伝えたかったことを理解されて、大きくうなずかれていました(笑)。




●事例のケア手順を考えた(だっちゅ〜の?)●.jpg

●事例のケア手順を考えた(だっちゅ〜の?)●




また、参加者の方からは、「介護保険制度」は、介護支援専門員がいて、情報を得ることができるけれども、「障害者自立支援制度」ではいません。



だから、自分が直接情報収集をしなければなりません。でも、利用者や家族等から、必要な情報を得る過程で、直接頼りにされることもあって、詳細なアセスメントができるということもある、という声もありました。



さらに介護報酬改定のポイントを解説。今回、新設のサービス提供責任者の労力に対する加算の「初回加算」と「緊急時訪問介護加算」の取り組み方と、必要な帳票類について解説を行いました。




●ケア手順を発表!!!●.jpg

●ケア手順を発表!!!●




《相談援助技術》

皆さんに、交流分析のひとつのツールである、ストローク分析にチャレンジして頂き、人とかかわる傾向性について解説しました。



相変わらず、ドキドキしながら行う心理テスト(笑)。その結果には、多くの皆さんが無理せず、他者とかかわっている傾向があらわれていました。さすが、常にサービス提供を実践されている方々、素晴らしいことですね。



ケア手順の考え方


ここでは、各自に「コーヒーの入れ方」を考えて頂きました。



すると、「テーブルの上を片付ける」「手を洗う」「本や新聞を用意する」「居間に行き、本や新聞を読みながら飲む」などと、本人しかわからない情報が出てきたので感心しました。



なぜなら、多くの場合、「お湯をわかす」「カップを出す」「コーヒーを入れる」「湯をそそぐ」「飲む」などというレシピ風の手順が出てくることが多くなります。



しかし、皆さんには、その人しかわからない、「見えない部分」が詳細に表現されていたのです。



この結果から、先輩達あるいは同僚が、佐藤の研修に参加されて、その時に得た詳細なケア手順の記載方法を実践されているということを確信したのです。素晴らしい!



ついで、件の動画「勝浦さん事例」を用いて、「見えない介護」(不可視的介護)を文字化する必要性を解説しました。この時点で、皆さんの思考回路には、アセスメントの仕方と、詳細なケア手順の書き方がインプットされたのでした。




《事例検討》

この研修をするにあたり、参加者の方から事例を提出していただいておりました。その事例は「統合失調症」を持つ精神障害者への援助事例でした。



事例は72歳と高齢なので、介護保険制度を併用しているので、担当の介護支援専門員がいる方でした。事例提供者に事例の概要を伝えて頂き、フロアから質問を収集。



皆さんからの質問はため込み、ある程度まとまったところで発表者から答えを伝えて頂きました。実は、発表者は、皆さんからの質問をため込んでいる間に、自分の援助を振り返る事ができるのです。



その後、グループで提供するサービスのケア手順を考え、模造紙にまとめ発表して頂きました。実際には、この方を事例提供者以外のかたは誰も知りません。にもかかわらず、皆さんは詳細なケア手順を書き出す事ができましたよね。



これが、介護の専門家だからなせる技すなわち「技術」だと思います。これにて、1回目の研修はすべて終了。皆さんは盛りだくさんのスケジュールにもかかわらず、最後まで熱心に語り合い学びを深めていました。


本当に素晴らしい!! 次回を楽しみにしています!!!



(群馬県庁のビルから浅間山が見えるとほっとする。今回は雲に覆われてみえなんだ。To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 20:20| 島根 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | サ責 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月03日

奮闘記・第481回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県小田原市



小田原文学の神髄に触れる

〜ちょっきん ちょっきん ちょっきんな〜





時間がないのに、佐藤は、小田原文学館をめざし車を走らせていた(笑)。




この小田原文学館は、小田原市南町の西海子通りというところにあった。気づけば、車は、閑静な住宅地に入り込んでいた。まぁ、だいたい文学館的なものは、誰かさんの「元住居」が多いですなぁ。



ナビ様は、1件の家の駐車場に佐藤を導いた。この家は、幕末の志士で、元・宮内大臣でもある田中光顕伯爵が別邸として建てたものだ。





●小田原文学館のひっそりとある入口(笑)●.jpg

●小田原文学館のひっそりとある入口(笑)●




昭和12年建築の洋館であり、古いような新しいような建物である。この文学館も、ご多分にもれず、普通の一軒家なのである。




玄関をあげると上がりかまちになっていた。靴を脱ぎ、ヌメヌメのスリッパを履き、受付にて入場券を購入した。



最近、このスリッパをどうしょうか、と考えるのだ。まぁ、こぢんまりとしたところなら、そのまま履かないで見学するのも良いが、広い屋敷ではそうはいかない。




某ホテル●-1あたりの使い捨てスリッパを頂いて使おうかとも考えている今日このごろである。まぁ壊れやすいのが難点だが。




今日のところは、有り難く、ヌメヌメのスリッパで見学した。




さて、階段を上ってみて驚いた。なるほど、普通の階段より奥行きが広い。また、手すりもヨーロッパ風なのだ。といってもヨーロッパに行ったことがないので、あくまでもイメージである(笑)。どうやらスペイン風らしい。




●さすが大臣の別荘、南欧調の洋館であった●.jpg

●さすが大臣の別荘、南欧調の洋館であった●




●庭には紫陽花が見事!●.jpg

●庭には紫陽花が見事!●




へへん。ここは2階が展示室になっている。ここには、小田原に在住して執筆活動を行ったという作家や学者の先生がた、たとえば、明治のはじめに、島崎藤村先生とともに、「文学界」を創刊した、日本近代文学の祖といわれる北村透谷先生。




文化勲章を受章した尾崎一雄先生、民衆派の代表的詩人・福田正夫先生や、川崎長太郎先生、そしてあの、谷崎潤一郎先生など、多くの先生達が、小田原にゆかりのある文学者として、この文学館で資料が展示されていた。




直筆の手紙や原稿、初版本など、文学好きやファンにはたまらない品物が展示されていた。




そして、小田原にゆかりのある作家・文学者等の活躍が、年譜として、いまに至るまで、現在進行形で記入され、新たに記入できるように壁にパネルが貼られていた。




谷崎潤一郎三好達治北村透谷尾崎一雄北原白秋、他にも多数。




確かに、文学界の巨匠や文豪、著名な詩人がたくさん、小田原に住んで活躍していたのがわかるが、いつのころからか、小田原で活動する作家たちは目に見えて減ってきているようだ。




原因はわからない。関東大震災の影響なのか、また小田原の現代化が進み、閑静ではなくなったせいなのか。交通網が発達したので、もっと遠く(例えば仙台)などでも、東京都の行き来が可能となったせいか。




確かに交通網の発達で、関西から関東圏へは日帰り出張が可能となり、千葉においてあった支社が減り、ビルが空いて影響受けているそうだからね。




もしかしたら、作家はいっぱいいても、売れてる作家が少ないのか。いずれにせよ、記録される小田原在住の作家の活躍は年表で尻すぼみの感は否めない。




むかしの文学者の墓碑銘を読むような気がしてしまうのだ。




失礼ないいかたになるかもしれないが、いまではあまり読まれなくなってしまった作家の展示物が多いせいかもしれない。文学好きなら知っていても今の子たちは知ってる作家ってどれくらいいるかな?




これは、価値を否定しているわけではない。これらの作家たちが読まれなくなった読者レベルの低下や、売れる物しか作らないといいながら、とても売れそうにない本を平気で溢れるほど出し、価値が確立している作品群の「出版文化」を簡単に廃刊にしてしまう出版社事情を残念に思っているのだ。




書店で観ず、手にも入らなければ、親しみも愛着も読書意欲も湧かなくて当然であろう。




確かに村上春樹氏は面白い。もしかしたらノーベル文学賞も夢ではない。これは冗談ではなく、村上春樹氏自身、きちんとそういう活動をしているからなのだ。だが、彼作品のピークは過ぎているのではないかな。




どんな作家でも、活きのいい作品が書けるのはせいぜい、10年である。彼の初期に売れ始めた時の襲撃は凄かった。ヒタヒタと、そして突然にしみ込んできたのだ。『ノルウェイの森』以降ではあまり感じなくなったが……。




夏目漱石先生もピークはやはり10年であろう。司馬遼太郎先生は、晩年はエッセイがほとんど。小説はそんなに書かれてはいない。ただ、後期作品の『空海の風景』(中公文庫で上下巻)は、すばらしかった。それまでの作品のファンの受けは悪いようだし。





さて、村上春樹氏である。





彼は、せっせと、自著の翻訳活動に協力し、他国での理解を深めてもらうための自己努力をしている。読まれなければ評価はされない。善し悪しではなく、日本語は世界ではマイナーな言語である。外国人で読める人の方がまれなのだ。




だから、よい物を書けば誰かが翻訳してくれるだろう、という姿勢よりも、自分で翻訳に協力したほうが世界で認められる確率は上がる。たぶん、だからこその「翻訳調」の文章なのかもしれない。




そうそう、うまくいくかはわからないが、成功例はある。そう、あのノーベル賞作家の大江健三郎先生もそうであろう。路線を決めて、次々に「重いテーマ」で書き続け、世界に発信し続けた。




科学者や医学者は、自分の論文が、英訳できるようにあらかじめ、日本語の文章構成をちゃんと考えているのだ。だから、彼らの文章は翻訳調の論文になってしまう。




その代わり、英文にするのが、たやすくなるし、訳し間違いも、誤訳も少なくなるだろう。これは、読んだり、翻訳したりする外国人の方々にとっても同じであり、親切なのだ。そ代わり日本語としての出来は必ずしもよくならない。





だから、「あの文体」を確立した村上春樹氏は凄いとしかいいようがない。評論家で悪口を言うのもいるみたいだが、あまり説得力はない。




まぁ、古き良き、文学の復権を祈りつつ、文学館を一巡りした。




●こちらには白秋童謡館があるのだ●.jpg

●こちらには白秋童謡館があるのだ●





そして、同じ敷地内(入場券は共通券)にある「北原白秋童謡館」に行ってみた。入場券は文学館と共通券であった。




北原白秋、まさに文学界の巨匠である。いまは手に入りにくいが、岩波書店の全集で、39冊。詩や歌を中心に言葉の魔術師とも言える多作であり、心に残る歌があるし、作曲家・山田耕筰先生とのコンビでも多数の名曲を作られている。




記念館も、白秋先生の生家にある、九州・柳川の記念館。神奈川の城ヶ島。そして、ここに童謡館があり、歌碑などは、それはもう、あちこちにある。




いうまでもなく、北原白秋先生は詩人である。しかも大詩人だ。佐藤もその昔は保育士であったから、童謡はそれなりにわかる(笑)。




白秋童謡館の建物は、先ほどの田中伯爵の建てた住居の別宅だった建物という。先ほどの西洋風建物と違い、こちらは、和風建築そのもの、ということ。佐藤には、畳があるこの建物のほうが居心地がいいなぁ〜、スリッパはいらないし(笑)。




さて、白秋先生が詩を書き出したのは、大正7年に、鈴木三重吉先生の児童雑誌「赤い鳥」に童謡の担当者として参加したことがはじまり。





その頃、白秋先生は小田原の天神山の伝肇寺に「木菟の家」を建てる。木菟の家はかやぶき屋根の家でその姿が木菟に似ていたため、そのような名前がついたとか。でもミニチュアを見ても似てないんだよな。





その白秋先生に、大正11年に長男隆太郎が誕生。すると、童謡に対する思いは一層ふくらんでいったという。愛する子どもに歌ってきかせるための作品作りの目的が、そのまま白秋先生の童謡創作の力の源になっていったのだ。





先生は、「赤い鳥」だけではなく、大隅重信候主催の「大観」や作曲家の山田耕筰先生とともに創刊した「詩と音楽」等、多くの作品を残している。




2階に上ると、畳の上に大きなテーブルがあり、その横に年代を感じさせるテレビが置いてある。そのテレビの画面からは、ビデオで白秋先生が作った歌が流れいた。




ひゃ〜い!!




まずは「あわて床屋」




♪春は〜はよから 川辺のあしに〜


♪かにがみせだし床屋でござる〜


♪チョッキン チョッキン チョッキンな〜




次に「赤い鳥」


♪あかいとり、ことり、なぜなぜ赤い あ〜かい実をたべた




さらに「この道」


♪このみちは〜いつか来た道〜 


ああそうだよう あかしやのはなが 咲いてる




次々に幼い日を思い出すような懐かしい歌が流れてきた。佐藤は、しばし、時の流れを忘れて一緒に口ずさんでいたのである。




1階に降りると、そこには、白秋先生の本等が収納されている展示室があった。その一角には「まざあ・ぐうす」のコーナーがあった。





北原白秋先生は、なんと英国童謡のマザーグースを訳していたのだ。佐藤はそこに展示してった一部を眺めましたが、文章には白秋先生ならではの優しさで溢れていた。





そこには、現代の名人・谷川俊太郎先生の生々しい訳詞も展示されていた。




ううん、でも白秋先生の格調ある文章が好きですねぇ……。善し悪しではなく、好き嫌いの問題でしょうが。




さて、これにて、長引いた小田原見聞録はおしまい。チョッキン、チョッキン、チョッキンなっ〜ですぜ!




●白秋童謡館で童謡を堪能した●.jpg

●白秋童謡館で童謡を堪能した●



(島根県松江市で研修中に、島根県初の新型インフルエンザが出た。しかも松江だったが、発生後の対策は、手洗いとマスクであった。うううん、さすがだ……。To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 16:16| 島根 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 首都圏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

奮闘記・第480回 首都圏/神奈川県

●2009年● 神奈川県小田原市



神奈川県立生命の星・地球博物館

おお、わが地球のダイナミックな誕生!

〜結局、箱根へ行っても、富士宮へ行っても、

 雨の日には富士山は見えないのだ〜




へへんだ。あんなでっかいものを雲で隠せるのだから、自然の力もバカにならんわい。てな、ことに感心しつつ、じゃ雨でも楽しめるとこへ行けばいいじゃん!



ということで、早朝からホテルを飛び出して、向かった先は「神奈川県立生命の星・地球博物館」である。



皆さん、ここ、知っていますか? だいたい、小田原というところは損をしているのかもしれない。近くに箱根という素晴らしい観光地や、横浜などがあるので、見所はあっても、あまり真剣に観光でまわる人が少ないかもしれない。



まぁ小田原は、観光地じゃないよ、普通に生活都市だよ、と言われてしまえば、実もフタもないのだが。でも、結構、見所があるし、食べ物もうまい。あの小田原城だけが見所ではないのだ。


しかし、この博物館、小田原といっても、難点は位置的にはほとんど箱根に近い。



小田原駅から、箱根登山鉄道線か、小田急線で、うだうだ行っても10分くらいで入生田(いりうだ)駅に着く。



そこから徒歩3分くらいで着く。なぁに駅から見えている。だから、箱根の観光ガイドで、「足をのばして」というようなコーナーに書かれ、小田原の観光案内では外れていたりして、あまり載らないようだ。



さて、佐藤は、ここの開館間際に車を駐車場に入れた。すると、もう、そこには小学生を乗せたバスが到着していたのだ。おいおいまたか……。



小学生が格段嫌いというわけではないが、きちんとした引率者がいない、小学生の集団の騒ぎは音の暴力に近い。そう、公害といってもいいぐらいだ。



課外実習といいつつ、彼らは遊びにきているのとなんら変わらない。引率者たちが、彼らに興味をもつような話が、でもできなければ、たたの「お遊びタイム」でしかなくなる。



とても「課外実習」になんかならない。だいたい、馬●なガ●に、学術的なものを見せたって、そうそうわかりゃしないのだ。



こういうものは、小さいころから親がいろいろ話して聞かせて、いくらかの知識や興味を育てておかなければ、面白くないだろう。



もう、日常的にクワガタや、カブトムシもいて、魚を網でとれた時代ではない。それはわれわれ大人の責任なのだ。そんな時代に子供だけ、「勉強して、頭が良くなれ」といってもだめなのだ。大人がまず勉強し、幸せにならなければ説得力がない。



今の大人は、生育地域で育った場所でしか、生きていけない特性を持っているホタルを、どこかで無理矢理捕まえてきて、自分たちの都合の良い場所に離して、ホタル観賞をするぐらいだ。「そして、ホタルには癒されるねぇ〜」っていう程度だからな。



あれって、ホタルが「威嚇」している光なんだとさ。ホタルが放つ光も、安らかな場所で放つ光とは違うらしい。でも、人間はそんなのおかまいなし。自分たちさえ、癒されればいいといういう大人が、子どもを育てるんだから、怖いよねぇ。これって、いろんな事件が起きる背景なのだろうな。




●いきなり巨大魚がお出迎え●.jpg

●いきなり巨大魚がお出迎え●



●金太郎(?)VS 熊さん●.jpg

●金太郎(?)VS 熊さん●




とりあえず、ブツブツいいながら、中に入ってみた。存外、子供たちは静かであった。



ほほう、神奈川の小学生はしっけがされているなと思っていると、大人のほうがいかん。



「いいかい、みんな! 他の人の迷惑にならないように静かに見るんだよ!!!」と注意している先生の声が響き渡っていたのだ。なんだかねぇ……。



もっと頭にきたのは、売店で、博物館の売店で店員同士が、自分の家族の年金や、その制度のしくみについて、大きい声でどなるように、ああでもない、こうでもない、とお客を無視して話していたことだ。バッカじゃなかろうか。



あんたたち、そんな話ばかり仕事中にしているとさ、年金もらうまでここに勤めらんないよ! ふう、子どもの手本にもなれない「バカな大人」は無視して、館内を見よう。


生命の星・地球博物館はまさしくその名のとおり、地球の生い立ちや生命の生い立ちがダイナミックに展示されているのだ。






■地球展示室

ここでは、地球誕生のなぞを、隕石やクレーターを手がかりにして探っていく。ここで、博物館のホームページを少し引用、参考にしながら、「水の惑星」の誕生の様子を紹介する。



およそ、46億年前、原始太陽の周りには高温の気体が渦をつくりながらまわっていた。この高温の気体が、冷えて小さい粒になり、その粒がまとまり固まり(微惑星)をつくっていく。



この微惑星は原始太陽の周囲をまわりながら、ぶつかり合いを繰り返し、大きな原始惑星へと成長していく。



実は、原始の地球も、とめどない、微惑星の衝突によってでき、それが次第に成長していったのだそうだ。月もそれらの衝突で地球から、分派した星だともいう。太陽もいまより70%の明るさだったという。




●でっかい地球儀です●.jpg

●でっかい地球儀です●




その後、原始地球は、大気をためておけるほど大きく成長。微惑星に含まれていた気体は衝突したときに飛び出して、原始の大気となって厚い雲をつくる。



このように、微惑星の衝突の時にできる熱は、厚い大気によって蓄えられていった。そこで、原始地球の表面はマグマの海に覆われ、そこに微惑星が衝突するというすさまじい状態だったと想像されている。



やがて、微惑星の衝突がおさまると、マグマの海に覆われていた原始地球は冷えていくのだ。地表が冷えると、雲ができ、雨が降り出した。



雨は何日も降り続いたろうし、地表はさらに冷やされていった。そうなると、地表では雨水は洪水となって流れ低いところへたまり、海を形成したという。



そして、厚かった雲はやがて薄くなり、太陽が顔を出す(こんにちは!)。このときに原始地球は「水の惑星」として生まれ変わったのだ!




●月球儀、クレーターがリアル●.jpg

●月球儀、クレーターがリアル●




おお!ようやく、わが地球の誕生じゃ。こうしてできた水の惑星であるが、実は地球の内部には熱エネルギーが溜っていたのだ。このエネルギーが地球の様々な活動の源になっていくのだ。火山活動や、地震なども、地球が生きている証拠なのだ。



中でも佐藤が興味を持ったのは、「プレートテクトニクス」というやつだ。このプレートとは、地球の表面からマントルの上部まで厚さ数10qの岩石の層をさしている。そう、よく地震でズレるやつだ(笑)。



地球の表面は、10数枚のプレートに分かれていて、1年間に数pほどの早さでそれぞれが決まった方向に動いているという。



海底の大山脈ではマントルからマグマがわき上がってきて、新しい海洋プレートが作られる。やがて、海洋プレートは大陸プレートの下に潜り込んでマントルに戻る。地震や火山活動の多くは、このプレートの境目付近でおきているわけだ。



書くと、このように長くなるが、博物館ではこの仕組みを大きなモニターをもちいて視覚的にわかりやすく、サクサクと教えてくれる。いやはや、このモニターを眺めているだけでもあきないのだ(笑)。




●映像で地球を知るのじゃ●.jpg

●映像で地球を知るのじゃ●





■生命の展示室

こちらでは生命の化石を見ることができる。マグマの海に覆われていた地球は、やがて冷えて海をつくった。この海の中で生命は誕生した。この生命が地球の環境を変えていったのだ。



地球に誕生した生命は、大気や海水の変化と共に進化していき、さらにオゾン層ができて、陸上にも生きものが進出できるようになると、まずは植物が上陸して大森林をつくっていき、ついで、動物も上陸し、恐竜のような巨大な生物も現れてくる。




●サメ君も佐藤も、地球の一員●.jpg

●サメ君も佐藤も、地球の一員●




こちらのコーナーでは、恐竜や古代動物の骨格模型、及び化石を見ることができる。また、地球が生んだ多様な生物種として、魚類や、恐竜。恐竜からほ乳類へ。鳥類の世界。ゾウの進化。やがて、森の開拓者として「霊長類」を展示。



●おお、恐竜さんかっこいい!●.jpg

●おお、恐竜さんかっこいい!●




●出た!ナウマンゾウ。長野が懐かしい!!●.jpg

●出た!ナウマンゾウ。長野が懐かしい!!●




さらに、被子植物や、昆虫の世界まで地球環境に広がるあらゆる生命が展示されているのだ、こりゃたまらない。佐藤は、1日眺めていても飽きないだろう。



しかし、佐藤は、午後から仕事が控えていたので、そそくさと見てまわった。2階に上ると、神奈川の博物館だけに、神奈川展示室が設けてあり、神奈川の大地の生い立ちから、相模湾に生きる生命や、人と自然のかかわりが紹介されていた。最後のコーナーへ向かった。





■自然との共生を考える

人類の現在と未来として、人類の誕生と人間の歴史などが紹介されていた。大スペクタルな地球の誕生から、生命の誕生をみてきて、地球は、自然は偉大であるなぁとつくづく思った。



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●巨大カブトムシが案内●




皆さんご存知のように、地球上に人類が誕生したのは、この地球の歴史からすれは、ほんの短い期間しか経っていないのだ。



生物をふくめた自然環境は、大気、水、地表などとのあいだに物質が循環することによって、つり合いが保たれているのじゃ。地球に生命が誕生してから現在まで、生物がまったく生存できなくなるような、環境の大きな変化はなかった。




●佐藤は、この種の生き物が苦手じゃ●.jpg

●佐藤は、この種の生き物が苦手じゃ●




しかし、ここに来て、地球上に存在しているわれわれは「地球の温暖化」や「オゾン層の破壊」「砂漠化」などの環境変化などをもたらし、この素晴らしい地球を破壊しまくっているのだ。おおっ。地球を守らねば!



といいつつ、気がつけば、1時間以上見てしまった。まずは自分の持ち時間がピンチじゃ。そろそろ移動じゃ。ではでは!



(いまのところ、自然科学系の博物館は、群馬県立自然史博物館・上野の国立科学博物館、そして、この神奈川県立生命の星・地球博物館がベスト3じゃ!To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 20:36| 島根 雨| Comment(0) | TrackBack(1) | 首都圏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

奮闘記・第479回 見聞録/長野県

●2009年● 長野県信濃町


野尻湖ナウマンゾウ博物館

一人の興味が、みんなの興味へ!

〜黄色のマーチ君と妙高高原から野尻湖畔へ〜





新潟県の妙高高原にほど近い、長野県に、この野尻湖ナウマンゾウ博物館はある。この博物館は長野県の北端、信濃町の野尻湖畔にあるのだ。てっきり群馬だと思っていたあなた! ここは長野ですぜ。



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●野尻湖ナウマンゾウ博物館を見つけた!●



●ナウマンゾウって小さいんだ(そんなわけあるかい)●.jpg

●ナウマンゾウって小さいんだ(そんなわけあるかい)●




近くには、「もみじ」「春の小川」など、尋常小学校唱歌の名曲を数々作られた高野辰之先生(こちらは旧・長野県下水内郡のご出身だそうで)の名曲、「故郷」の舞台とも言われている場所であるが、話がそれ過ぎるのでまたの機会に。



さて、ナウマンゾウの話。



1962年からはじまり、45年以上続けられている「野尻湖発掘」の成果を中心に、約5万年の昔から現在に至るまでの、野尻湖周辺の自然環境を研究・展示している博物館である。



しかし、なかなか、ナウマンゾウマンモスの区別はつかない。




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●化石を元に復元(デカッ!)●




日本ではナウマンゾウはいたが、マンモスはシベリアくらいしかいないそうだ。個人的には、漫画家の園山俊二先生の、『はじめ人間ギャートルズ』の影響が大きい、というかあのイメージに占められている(笑)。



かまやつひろしさんが唄う、テレビアニメのエンディングの名曲、あの『やつらの足音のバラード』が耳から離れないぜ。



(「なんにもない なんにもない まったくなんにもない 生まれた 生まれた〜」ってやつ)。ただ、あの方は島根県松江市出身であるので、やはりここまで。



ふう、1945年に野尻湖畔の旅館のご主人・加藤松之助氏が、ある拾い物をした。その人は「湯たんぽにしては変だな?」と思って、野尻湖小学校の日野武彦校長先生に見てもらったという(湯たんぽねぇ……)。



すると、「ん? ゾウの歯か、なんかじゃにのぉ?」とはないかと言われ(簡単に言いよるね)、保管しておいたのが、ことのはじまりだそうだ。



ん? もしかしてわらしべ長者?(別にだんだん大きくなってないだろ)



その後、1961年に化石の出た地層を検討していた研究グループが湖畔で議論を重ねていた。



すると、古生物学者の井尻正二氏が、「議論ばかりすな!(おお、薩摩隼人的怒り方) まずは実践だ!!(こんなに殺気だっては言わないだろうが)」



との提案を受け、ようやく発掘することになったとか。さすが、佐藤と同じ信濃人。議論が多いわい。




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●はじめに見つかった臼歯ですと●




そして、1962年に、信州大学の鈴木 誠氏を団長として野尻湖周辺の発掘調査がスタート。



この、発掘調査には、専門家だけではなく、日本全国、小学生から大人までの多くの方が集まり、この方々の協力でたくさんの遺物が発見されていくのであった。



そして、発掘された化石をもとに、実物大のナウマンゾウオオツノジカの復元像をつくった。この二つの復元物は、博物館の入り口に対峙する形で展示されている。



ちなみに、このナウマンゾウとオオツノジカのでかいこと、でかいこと。両者とも、草食のはずなのだが。でも草食動物は確かにでかいのが多いかな。



こんなのが、日常的にこの界隈を闊歩していたとは! なんと自然は昔は大らかであったのだろう。なんと、ナウマンゾウは、日本を代表する氷河時代のゾウで、いまからおよそ40万年前から生息していたと考えられている。そして、およそ2万年前に衰滅したのだそうだ。



と書いていたら、6月28日付の山陰中央新報の1面に遭遇した。



島根大や京都大などの研究グループが行った、いままでより制度の高い、歯の化石の年代測定で、ナウマンゾウの絶滅の時期が繰り上がり、通説から1万年ほど古い、3万年前ごろまでさかのぼる可能性があると報じられていたのである。



あとは、最寒冷期を前に絶滅したこちになり、なぜ、絶滅したかが今後の問題点となるようである。いろいろと進展がありますな。




さて、話は戻る。




現在まで、化石が発見されている場所は、日本と中国の一部で、約180箇所以上あるという。そのなかでも、最も多くの化石が見つかる場所のひとつが、この野尻湖なのだという。



当時のこのあたりの環境がナウマンゾウの生息に適していたということなのだろうか? でも、よほどの食料不足でもない限り、一度決めたテリトリーからの大移動は考えにくい気がするし、ナウマンゾウの生息に、最大限適していたかどうかもちょっとわからない。



館内には、この他にも豊富に化石類なども展示される。また、その時代に生きていた野尻湖近辺の「住人たち」が作ったであろう、骨器や石器の資料も豊富に展示されていた。




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●古代の人々の儀式なのか?●




また、「月と星」と題して、三日月のようなナウマンゾウの牙(切歯)と手のひらを広げたようなオオツノシカの掌状角(ショウジョウカク)が、寄り添った形で発見されている。



この二つが形よく、美しく並べられていることから、「月と星」と呼ばれるようになったという。ほほう、なんとロマンチックな。



そして、これらの並べかたこそは、野尻湖人が、「何かの」を込めたからではないかと考えられているという。



いやいや、また、これはロマンチックでありますな。この博物館には、他にも、実際に化石にふれることができるコーナーや、石器作りなどの体験ができる学習会もあるようだ。もしかしたら、エジプトのミイラも作れちゃうかもしれないぞ!(無理無理)




さてさて、夏休みを迎えるシーズン。野尻湖の自然のなかで、森林浴を楽しむのも良いかも。もしかしたら、わらしべ長者になれるかもね(笑)。




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●“真実の口”ナウマンゾウ篇●





ちなみに、ナウマンゾウの「ナウマン」は人の名前なのだそうだ。



ドイツ人の地質学者、ナウマン博士(Heinrich Edmund Naumann 、1854〜1927年)は、明治政府の招聘で東京開成学校鉱山学科の教授として、明治8年(1875年)に来日。20才だったという。



彼も、いわゆるお雇い外人という言い方は好きではないが、若くて、それぞれの本国で頭角を現す前の、若い優秀な人材が日本に集まってくれたのは、日本にとっては有り難いことであったろう。



さて、若きナウマン先生は、東京大学地質学教室の初代教授となった。以後10 年間、地質家を養成し、日本列島の地質調査に従事した。



ナウマン先生は、日本初の本格的な地質図を完成させ、わが国の近代地質学の基盤を作り、明治の殖産興業に大いに貢献した人物と言われている。



なにしろ、当時は、等高線のある地形図はなく、地図としては「伊能地図」の海岸線の輪郭図のみだった。この伊能忠敬さんは、海岸線と主要街道を測量して日本地図を作った人だから、当時の地図には、内陸の情報も、等高線も描かれていない。



だから地質調査は、測量もしながらやらねばならない。まことに困難を伴う仕事だったようだ。まして、当時はようやく、鉄道が新橋−横浜間、京都−神戸間にできたばかり。



当時の駅は技術的な問題や、用地買収の問題などばかりで、辺鄙なところばかりを選んで鉄道を作らざるをえなかった。



だから、当然、移動は1万キロ以上、徒歩や馬で移動。そう思っただけでも日本中を移動したナウマンさんは偉大な先生でしたろう。



このような彼の業績がから、ナウマンゾウには、日本でゾウの化石をはじめて研究した博士の名前がつけられた。 彼は「先史時代の日本の象」「日本群島の構造と起源について」などの論文を残し、明治18年(1885年)、30歳で、母国ドイツへと帰国した。



こちらにも、横浜開港後、活躍されてその名前を後世にまで残された外国人の先生がいたんですねぇ。素晴らしい! まぁ、日本での活躍中も、いろいろな厄難が彼らを取り巻いていただろうことは想像できるが。


野尻湖界隈の旅はまだまだ続くのだ!(ボチャン!)


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●野尻湖だけが知っている(知らんよ)●



(群馬県みどり市の岩宿博物館の近くにある「マンモス焼き」はうまいらしい。でもマンモスの肉の輪切りではなく、あんこが入ったたい焼きの親分である。To Be Continued!!)
posted by さとうはあまい at 21:38| 島根 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 見聞録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする